番外編1 ランチボックス➀

 それは、俺がつばめと付き合い出してから、しばらく経ってからのことだった。


「――今日はお昼、一緒に食べよう」


 きっかけは、そんなつばめの一言だった。

 高校生で、まだ初々しい彼女として、なんの変哲もない、むしろ健全過ぎるくらいのお誘いだ。


 だから、俺も完全に油断していた。

 そうでなければ、神聖なる学び舎で、そんな浮ついた真似をすべきでなかったのだ。

 そう。後悔はいつでも遅れてやってくる。


 まだか、その一言が、あのような仁義なき弁当戦争の呼び水になろうとは、俺はまだ知る由もなかったのだから……


 〇


 つばめは毎日、学校に弁当を持ってくる。

 母親を早くに亡くし父子家庭の彼女は、甲斐甲斐しくも、毎朝、父親と自分の分を作っているのだ。


 昼休みになると、友人で、同じく弁当派にまひると机を囲んでそれを食べる。それが、いつものつばめのルーティンだ。


 一方で、俺の昼飯スタイルは特に決まりがない。


 クラスで仲の良いグループと連れだって学食に行くこともあれば、コンビニや売店でパンを買って高橋と教室で食べることもある。


 俺とつばめが付き合っていることは、話せば長くなる事情から、クラスでも公認の事実となっているが、かといって昼を一緒に食べるといった、いかにもな恋人らしい行動をしたことはない。

 その理由のひとつは、そういった生活パターンの違いにある。

 もうひとつの――こっちの方が本命の理由としては――俺が照れ臭いからである。


 だが、この日はまひるが生徒会のランチミーティングを予定しているらしく、そのうえ、俺は朝方にコンビニへ寄ってパンを買ってきており、つばめにそれを目ざとく気付かれていた。

 

 だから、昼休みになって、お弁当包みを手に持ったつばめが「今日は一緒に食べよう」と言ってきたのは、ある意味で、ごく自然な流れだった。


 俺は正直躊躇した。


 つばめは俺の幼馴染で初恋の相手でもある。

 ずっと恋慕してきた相手だけに、こうして付き合えている現状は奇跡といっていい。


 それだけに、つばめと一緒にいる時の自分の表情筋に自信がない。ただでさえ、顔のいいつばめは目立つ存在なのだ。

 衆人環視のなか、つばめの隣で、アホなニヤケ面を浮かべていようものなら、それだけで死ねる。クラスの男子に「死ね」と心の中で毒づかれる前に、自ずから死ねる。

 

 俺は高橋に悪いからと、婉曲に断ろうとした。

 ところが、この高橋という男が気の利くうえに、空気が読めるナイスガイである。


「あっ、ナオ。俺、今日は部室でバスケ部の皆と食べるから」


 機先を制するように、そう言ったのだ。


「えっ、高橋君も一緒に食べようよ」

「永嶺さん、ごめん。今日は元々、その予定だったんだ」


 それはつばめに気を回させないための明らかな嘘だったが、そこまではっきり言われれば、つばめとしても引き下がらざるをえない。


「なんかごめんね」

「なんで謝るの。ナオには、ぼっち飯にしちゃって悪いと思ってたから、ちょうどよかったよ」


 高橋は実にあっけらかんと言う。屈託がないものだから、それが気遣いだとわかっていても、相手に後ろめたさを感じさせない。


「おい、高橋」

 俺は高橋の袖を引いた。

「なんだよ。冗談だよ。本気でぼっち飯だなんて思っちゃいないよ」

「そうじゃなく、部室で食べるつもりだったなんて嘘だろう?」


 俺は声を潜めて聞いた。つばめと昼を食べるのが避けられないとしても、せめて二人きりにならないよう、高橋には一緒にいて欲しい。


「ナオ……」

 と、高橋は急に真面目な顔になって、俺の肩に手を置いた。

「ど、どうした?」

「ごめん……。俺、まだ馬に蹴られて死にたくないんだ」


 それから自分の弁当を手に取ると、「永嶺さん、俺の机使っていいから」と言って、あっという間に教室を出て行ってしまった。

 くそ。友達甲斐があり過ぎて友達甲斐がない奴だ。古代ギリシャに生誕していたら、『タカハシヌスのパラドックス』として語り継がれていたに違いない。

 俺は仕方なく顔をあげて、つばめに視線を向ける。


「なんだか高橋君に悪いことしちゃったね」

 つばめは申し訳ないというより、むしろ残念そうな表情を浮かべた。

 さすがの俺も、この状況で誘いを拒絶できるほど非情な人間ではない。立ち上がると、高橋の机を動かして向かい合わせにした。


「――まあ、ああ言っているんだからいいんじゃない?」

 元々、部室で食べる予定だったというのが嘘だとしても、昼休みになるとバスケ部の誰かはたむろしているはずなのである。

 あいつの性格なら、昼飯を誰と食おうが気兼ねすることもないのだ。


「うん……」

 俺にそう促されて、つばめもようやく踏ん切りがついたらしい。

 椅子に腰かけると、高橋の机で可愛らしい弁当包みを広げた。


 俺はつばめが箸を取り出すのを待ってから、パンの袋を開ける。つばめがきちんと指を揃えるのに合わせて、いただきますと声に出してから、パンを齧った。


「甘いの好きだね」

 つばめが俺の昼飯に視線を落として言った。

 今日のパンは、チョココロネと一袋に四個入ったミニあんパン、それからカレーパンである。

 菓子パンふたつに、総菜パンがひとつの割合で、パンを買う日は種類こそ気分次第で選ぶものの、この比率はほぼ固定となっている。


「菓子パンの方が満足感があるんだよ」

 食べ盛りの男子高校生としては、できるだけ安く腹を満たしたい。その無意識のニーズが、俺にこのような選択をさせるのである。


「糖尿病になるよ」

「大丈夫だよ」

「若いうちから気をつけないと。ナオちゃん脂っこいものも好きなんだから」


 五月蠅いな、と思いつつも、俺の身体を思いやってのことだけに、嬉しさ半分である。恋人の期間より、幼馴染だった期間の方が長いだけに、俺たちの関係性には、どこか家族のような慣れと遠慮のなさがある。


「ちゃんと栄養バランス考えて食べないと。そうだ。明日から、ナオちゃんの分のお弁と……」

「――断る!」


 俺は被せ気味に拒否した。

 ただでさえ教室で昼飯を一緒に食べているだけでも精神的にくるものがあるのに、このうえお揃いのお弁当なんて、想像するだに恐ろしい。


 とはいえ、ここまできっぱりと拒絶されるのは想定外だったらしく、つばめはショックな様子がありありと、みてとれた。


「なんでデスか……。どうせ二つ作るのも、三つ作るのも手間は変わらないデスよ?」

「そういうことじゃない」

「じゃあ、どういうことさ?」


 いかにも納得できないとでも言いたげに、つばめが俺を睨みつける。


「恥ずかしいんだよ。教室で彼女に作ってもらった弁当食べるなんてバカップルみたいじゃん」

「へー、ナオちゃんはあたしのことが恥ずかしいんだ」

「そんなこと言ってないだろう!」


 まずい。これはつばめが機嫌を損ねてしまう流れだ。長い付き合いだけに、それくらいはわかる。俺はいかにも正当な主張をしているだけなのに、まことに女心というものは複雑怪奇なものなのである。


 俺は危険の察知に応じて、脳味噌をフル作動させる。

 いくらなんでも教室で同じおかずの弁当を並べて食べるのは、俺の自意識が許さない。でも、つばめの弁当が食べたくないかといえば、そんなことはない。せっかくの手料理なのだから、彼氏としてはもちろん食べたいに決まっている。


 だとすれば、この場を切り抜けるための答えは、ひとつしかない。


「だったらさ、俺の弁当を作ってきてくれるかわりに、俺はつばめの弁当作ってきてやるよ」

 

 つばめの頭に「?」が浮かんだ。


「だから俺も次は弁当を持ってくるから、お互いの弁当を交換するんだよ」


 それなら、弁当の中身は違うものになるし、俺もつばめの手料理を堪能できる。しかも、つばめも自分の提案を拒否されずに済むわけだから、まさしく両者ウィンウィンの最適解である。


「え? なんでそんな手間のかかることするの?」

 ところが、つばめは怪訝そうに言った。その相貌にはなおも不機嫌な様子が崩れずに残されている。


「なんでって、いいじゃん別に。手間なのは俺だし」

「ってか、ナオちゃんが作るの?」

「そりゃそうだろう」

 俺はうなずいた。山本家は共働きということもあって、どちらかというと放任主義なのだ。まさかこんな理由で母さんに弁当を作ってくれと頼むわけにもいかない。


 すると、つばめはさっきの意趣返しというわけでもないだろうが、こんなことを言った。


「――食べれるの?」


 これにはさすがの俺もカチンときた。

 俺はこうみえて料理は嫌いじゃない。それどころか台所に立った経験年数だけなら、つばめより長いくらいである。

 だから、こんな舐めた口を利かれる筋合いはない。


「……まあ、つばめよりはマシじゃないかな」


 俺は言った。こうなったら売り言葉に買い言葉である。


「なっ!」


 そう絶句するなり、つばめのメートルがみるみるうちにあがっていくのがわかった。


「そこまで言うなら作ってきてみてよ!」

「いいよ。けど美味しかったのに、口では不味いなんて言うなよ」

「そこまで心配するなら、あたしも作ってくるから食べ比べてみればいいじゃない」

「ほーう。いいのか。そんなこと言って。恥かいても知らないぞ」

「その言葉、そっくりお返ししますぅ」

「それなら明日弁当作ってきてやるから、どっちが美味いか勝負だ!」


 俺は宣言した。

 自分でも大人げないと思ったが、つばめ相手に、外面を取り繕ったところで意味はない。たとえ器が小さいと言われようと、俺にだってプライドがあるのだ。


「負けたら、どうするの?」

 

 すでに勝利は揺るぎないと考えているのか、つばめがそんなことを言ってきた。


「頭を下げて、つばめの言うこと、なんでも聞いてやるよ」

「それなら、あたしが勝ったら、ナオちゃんのお昼は、あたしがお弁当を作って来るからね」

「よし。そのかわり、俺が勝ったら、つばめには俺の作った弁当を、来週一週間、食べてもらうからな」


 よく考えたら、そんなものは罰ゲームでもなんでもない。それなのに、つい対抗意識から、口を滑らせてしまった。言葉の勢いってやつである。


「えっ、そんなの、来週、お腹壊して午後の授業受けられなくなるじゃん。明日は頑張らないとなぁ――」

「それは、こっちのセリフだよ!」


 こうなったら、どんな手段を使っても勝つしかない。

 俺は心の中で、そう固く決心した。


 なお、後日、聞いた話だが、この時の俺たちの発言は、両者ヒートアップしていたことから、そこそこの音量だったらしく、教室中の耳目を集めていたそうだ。

 その結果、俺たちは自分の手料理を恋人に食べて欲しい気持ちが暴走するあまり喧嘩に発展した挙句、わざわざ人目のある場所で、茶番のような弁当対決をはじめた伝説のバカップルとして認識されるようになったらしい。


 くわえて、この勝負は、俺たちの知らないところで『え~ん!! ピッピに自慢のラブラブ手作り弁当を食べて欲しいよぉ~権争奪杯』と命名されて、クラスメート注目の一戦となっていたとのこと。


 なんだ、そりゃ……。

 顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。

 つばめに普通に弁当作って来てもらう方がずっとマシだったわ……

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