第8話 最終日 その夜
最後のキスと同時に、相手の身体から力が抜けていくのがわかった。それは虚脱ともいうべき決定的な生命力の喪失だった。
崩れていく身体を支えようとしたものの、それでも重さに抗えず、大事な人の四肢が地面に崩れ落ちていくのを目の当たりにした。あまりにも耐え難い理不尽に、それでもどうすることもできなかった。
あたしは理解が追いつかなかった。
足元には直也の身体が横たわっている。ぴくりとも動く様子をみせない。
――死んでいるのだ。
「なんで……」
どうして七日目のキスを終えたというのに、直也が倒れていて、あたしはまだ生きているのだろうか。それとも、今あたしがいるのが死後の世界で、眼の前の直也は現世の残骸なのだろうか。しかし、あたしの実感としては、これが「死」だとは、どうしても思えなかった。
つい腰が抜けて、その場にへたり込む。固くて冷たい地面の感触がざらりと伝わる。やはり夢ではなさそうだ。
天使のお姉さんと交わした契約は、直也の運命をあたしが肩代わりするというものだったはずではないか。それなのに、この結果はどうしたことか。
その時、ふっと暗がりが消え、あたりが白い空間に包まれた。不思議な現象だったが、あたしは、それが何なのかを知っていた。
「お疲れー」
と、あたしの心情を逆撫でるような明るい声が聞こえた。白い虚無が広がる空を見上げると、羽根の生えた女性がふわふわと降りてきた。あたしにこの試練を持ち掛けた天使のお姉さんだ。
「いやぁ、ずっとみてたよ。直也君もなんだかんだいって男の子だなぁ。やる時はやるね」
そう言って、お姉さんはしゃがみこむと、倒れ込んだ直也の髪の毛を撫でて目を細めた。直也の表情は笑顔を浮かべているようにさえみえる。
あたしは胸のあたりから込みあげてくる憤りを懸命に堪えた。なにがなんだかわけがわからなかった。
お姉さんは立ち上がると言った。
「どうやら納得いかないみたいだね」
「……どういうことか説明してもらえるんですよね?」
「もちろん。といっても、そんなに難しい話でもないんだけどね」
難しいも簡単もあるものか。死ぬべき人間が生き残り、生きるべき人間が死んだ。お姉さんがあたしに約束したことを思えば、これほど手ひどい裏切りはないだろう。
「結局、君たちは似た者同士だったってことだよ」
お姉さんは言った。
「え?」
「それというのも、昨日、直也君にお願いされたんだ。つばめちゃんのかわりに自分の命を差し出したいって。そう。君が私と取引したようにね」
「で、でも、それは無理なはずじゃ――!」
私は矢継ぎ早に反論を試みる。もちろん直也がそういう決断に行き着くことは、あたしだって想像していなかったわけじゃない。だからこそ事前にそれが不可能であることは確認していたのだ。
あたしたちは世界を救うための試練を受ける契約を神様と交わしたが、その契約内容の一部には、あたしが直也の死の運命を肩代わりしたことが組み込まれている。だから、その運命を変更することは、もうできないはずなのだ。
「私もそのつもりだったんだけどね。でも、昨日、直也君が言うんだよね。試練の途中に変更することができなくても、試練が終わった後なら話は違うんじゃないかって」
お姉さんは首を振ると、なんていうか盲点だったよね、と感心したように息を吐いた。
「君たちは世界を救うために七日間キスをすることになったわけでしょう。じゃあ、その判定はいつ行われるんだって話。普通に考えれば、お互いの唇が触れ合った瞬間にオッケーってなる。最終日もそれは変わらない。でもさ、試練の完了時点が何時かってなると、ちょっと事情が変わってくる。七日間キスすることが試練の内容だったんだから、試練の終わりは、最後のキスが終わる瞬間――つまりはお互いの唇が離れた瞬間だと考えるのが自然なんじゃないかって。直也君の主張はまあ簡単にいうとそういうことだったんだけど、確かに言われてみればそうなんだよね」
「――ッ」
あたしは息を飲んだ。そんなことは、話に聞くまで、まさか思いつきもしなかったからだ。
「つばめちゃんが死ぬのは試練が終わったと同時って話だったでしょう。つまり君たちの唇が触れてから離れるまでのわずかな間隙において、試練の内実が完了するのに、つばめちゃんがまだ生きている契約の空白時間が生じるの。直也君は、そこに自分の命のかわりにつばめちゃんの死の運命を回避する新しい契約を無理やりねじ込んだんだ」
「そんな――」
あたしはなおも信じられなかった。こうやって聞かされてみれば事情は理解できなくない。しかし、自分からそこに至るまで、彼はどれだけ考え、頭を悩ませたことだろう。それもこれも全てはあたしのためなのだ。
「私も感心しちゃったよ。実はさ、直也君の新しい契約のせいで、世界を救う試練も誰か別の人でやり直しになるんだよ。だって、これで直也君が死ぬことになるっていうなら、四日目以降は、本来存在しなかったはずの時間なんだからね。でもそれを聞いても彼は揺るがなかったよ。『もし世界が明日滅ぶとしても、つばめがいないことが決定している世界よりずっとマシだ』ってさ。私、なにも言えなくなっちゃったな。彼にとっては、世界の重さでさえも、つばめちゃんの天秤に釣り合うものじゃなかったんだ」
「馬鹿だ……」あたしは呟く。すると吐き出した言葉とともに、ようやく悲しみがじわじわと胸を浸しはじめた。「――馬鹿だよ、ナオちゃんは」
あたしは両手で顔を覆った。しかし、彼を責める気にはなれなかった。なぜなら自分の命と引き換えに大事な人を生かそうとした行為は、あたしがしようとしたことの裏返しでしかなかったからだ。その気持ちは痛いほどわかった。
天使のお姉さんがそっと腕を伸ばして、あたしを抱きしめた。柔らかく温かい羽根に全身が包まれる。お姉さんは母親が赤ん坊に語りかけるような優しい声で言った。
「そんなに泣かないで。だって、結局のところ、君たちのおかげで世界は救われたんだ。いくら融通の利かない天界でも、これだけのものをみせられたら、人類は人を愛することができるってことを認めざるを得なかったんだ」
あたしはお姉さんの羽根のなかで、うなずいた。それは確かに一縷の救いだったが、それでも直也を失った悲しみを癒すものではなかった。
「それと、もうひとつ。お姉さん、つばめちゃんのために神様におねだりしてきたんだよ。世界を救った、あの二人の頑張りになにかご褒美をあげて貰えませんかって。神様って、なんだかんだいって根っからの人間好きなわけ。本質的には甘いわけよ。すぐに了承してくれて、それなら、なんでも願い事をひとつ叶えてあげなさいってさ」
「え――?」
それを聞いて、あたしは思わず顔をあげた。
「まあ、でもこれは聞くまでもないと思うけどね。つばめちゃんは、願いがひとつ叶うなら……なにがいい?」
「お願いします――!」
あたしは声をあげた。そんなの決まっている。ひとつしかない。あたしは地面に横たわる直也に視線を落とした。
「ナオヤを――ナオヤを生き返らせてください!」
天使のお姉さんは、あたしを包んでいた翼を一気に広げると、口角をあげて、満足そうにうなずいた。
「きっと、そう言うと思っていたよ」
まるで重力を失ったような軽やかさで翼を羽ばたかせると、お姉さんは飛翔を始めた。それと同時に、白い空間が薄らぎ、夜の暗がりが戻って来る。見上げると、星の光が、あたしの瞳を痛いくらいに刺した。お姉さんは空高く昇った満月を背にして宙に留まったまま、言った。
「――ありがとう。私、二人に会えて、この仕事していてよかったなって思えたよ」
その表情は陰になって、よくみえなかった。
と、足元から「ううん」と寝返りを打つ声が聞こえて、あたしは直也に目をやった。
すると、そこには瞼を開いて寝ぼけたような表情をする直也の姿があった。
「ナオちゃん――!」
あたしは直也を抱きしめた。直也は息を吹き返したばかりで、なにが起きたのか理解できないらしく、目を白黒させている。
「つ、つばめ。え? ってか、どういうこと。……なに? え? どうしたの?」
話したいことは一杯あった。天使のお姉さんのおかげで、直也が死んだ後に生き返ったこと。結局、世界は救われたこと。なにより、あたしを残して死んでしまおうとしたこと。思う存分、文句をぶつけてやりたかった。
だけど、今は言葉にならなかった。あたしは泣き続けながら、直也を強く抱きしめた。
最初は戸惑う様子をみせていた直也だったが、やがてなにかを察したのだろう。ただ黙って、あたしの髪の毛を優しく撫でた。
もう天使のお姉さんは、どこにもいなかった。風にそよぐ木の葉だけが、あたしたちを祝福するようにさやさや鳴った。
――また、会う時まで、二人で幸せにね。
どこからか、おどけたような声が聞こえたような気がした。
ええ、ずっと未来に――。
あたしは心の中で、そう答えた。
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