第7話 最終日

 週初めとなる月曜日。

 世界の命運がついに決させられるその日は、生憎の空模様で、今にも降り出しそうな雨雲が厚く垂れこめていた。


 自分の命の灯火が今日までと知っているはずなのに、それでもつばめは学校に行くつもりだったらしい。家の前で待っていると、いつもと変わらぬ時間に家を出てきた。


「――よう」


 そう声をかけた俺に、つばめは目を丸くした。


「ナオちゃん……」


 俺はぎこちないものの、どうにか笑顔を浮かべることができた。それはあれから一晩考え続けて、ようやく達した俺なりの結論だった。


「つばめのこと待ってたんだ」


「……どうしたの?」

 つばめは警戒したように言った。


「どうしたもこうしたもない。今日はこんなにいい天気だろ」

「雨……降りそうだけど?」

 つばめは空を見上げると、怪訝そうな顔で言った。


「いや、そうだけどさ! 降ったって構うものか。俺が言いたいのは、今日は出掛けるには絶好の日だってことだ」

「だから、これから学校に行くんだけど……」

 俺は苦笑してしまった。こんな時にも学校を優先しようとするのは、いかにも真面目なつばめらしい。


「学校なんかよせよ」


「どういうこと?」

「今日はつばめをデートに誘いにきたんだ」

 俺は言った。よほど俺の提案が予想外だったのだろう。つばめは最初意味がわからずポカンとしていた。が、ややしてから表情を明るくした。


「これから――?」


「そう。学校なんかサボってさ」

「悪い人だ」

 つばめはクスクス笑った。


「きてくれる?」

「どうしようかなぁ――」

「頼むよ。ちゃんとエスコートするからさ」

 俺が拝むように言うと、つばめは悩まし気な表情をしてみせた。そのくせ目は笑っているところをみると、どうやら反応は悪くなさそうだ。


「そこまで申すのであれば仕方ない。デートしてつかわすぞ。よきに計らえ」


「ははぁ。ありがたき幸せ」

 俺が頭を下げると、うむ苦しゅうないぞ、とつばめは胸を反らした。照れ隠しの冗談なのはわかっているが、幼馴染でもなければ、つばめのような美少女とデートする機会なんて俺の人生で訪れることはなかったのだ。

 なんだか、すごくリアリティがあるような気がしてくる。


「じゃあ、行こうか」

 俺は左手を差し出した。


「へ?」

 と、つばめは慌てた様子をみせた。でも構うものか。今日は好きな女の子とデートできる最初で最後の機会なのだ。とことん強気で行くと決めたのだ。


「デートなんだから、ちゃんと手を出して」

「そ、そういう作法なの――?」

 つばめは緊張のあまりか、よく意味のわからないことを言ったが、それでもおずおずと右手を出す。顔を真赤にして俯くと、俺の手の平の上にちょこんと重ねた。


 俺の手汗なのか、それともつばめも汗をかいているのか、その手はしっとりとしていて柔らかい。つばめの肌の感触がダイレクトに脳に伝わってくると、俺は自分が言い出したにも関わらず、途端に緊張してくるのを感じた。


 俺はなんとか平常心を装いながら、つばめの手を握る。すると、つばめが手を組み替えて、お互いの指を絡ませたいわゆる恋人繋ぎにする。


「こ、こっちの方がデートっぽいんじゃないかなぁ?」

「た、確かに」

 なんともない風を装って、そう答えたものの、俺の心臓はバクバクだった。先制攻撃を仕掛けたつもりなのに、手痛い反撃を食らった気分だ。とはいえ、つばめも顔をさらに真赤にしているので、相打ちといったところだろうか。


 しかし、俺たち、もう何度となくキスはしているのに、手を繋ぐだけでこんなに照れ合うなんて、つくづ奇妙な関係である。


「ちょっと待って。荷物置いてくる」

 つばめはしっかりと手を繋いだまま、器用に鍵を取り出すと玄関のドアを開けた。


「今日、おじさんは?」

「もう仕事に行ったよ」

 つばめは通学鞄を玄関の脇に置く。それから、俺が傘を持っているのをみて、ちょっと迷った末に邪魔になると判断したのだろう。雨傘も傘立てに入れた。


「どこ連れてってくれるの?」


「とりあえず駅だね」

「電車で行くの?」

「うん。昔、デートで行くとしたらイルカショーが見たいって言ってたことあっただろ?」

「そういえば、言ってたね」

「水族館に行こう――」


 〇


 水族館のある海辺の街までは、電車で三十分ほどで着く。海岸沿いにある水族館に到着して、俺は愕然とした。


 臨時休業のお知らせが入り口に張られていたからだ。


「……嘘だろ」


 俺はそう呟くしかなかった。こんな大事な日に限って、そんなことも確認しなかった自分の駄目さ加減が嫌になる。


「まあ仕方ないよ」

 つばめはそう言って俺を慰めてくれた。だけど、今はその優しさがつらかった。


「ごめん」

 俺は謝るしかなかった。

「気にしないで。ナオちゃんが、あたしがイルカショーをみたいって言ったのを覚えてくれてたの嬉しかったんだから」


「だけど今日が最後のチャンスだったのに――」


 と言ってから、俺はあっとなった。つばめの表情が途端に曇ったからだ。俺は馬鹿か。当たり前じゃないか。


 俺は謝ることすらできず奥歯を噛み締めた。すると、つばめはそんな俺の様子を察したのか穏やかに目を細めると、言った。


「せっかく、ここまで来たんだから海辺まで降りて一緒に歩こうよ」

「うん……」

 こんな時にまで、つばめに気を遣わせるなんて、俺は本当に最低だ。不幸中の幸いか、灰色の雲はまだ雨を落としていない。俺たちはどちらからともなく手を繋ぐと、防波堤沿いに歩いて階段をみつけた。そこから砂浜に降りる。


 湿っぽい潮風が吹きつける。つばめの髪が風に乗って流れた。


「――ちょっと寒いね」


「晴れていればよかったんだけどな」

 俺は空を見上げる。


「海水浴は難しいね」

「もう遅いだろ」

「来年は暑くなるかなぁ――?」

 つばめが海の向こうに目をやった。水平線に白い漁船が揺られていた。波の音がつばめの口から溢れた未来を泡と共にどこかに連れ去っていく。


「……そういえば、昔はよく一緒に海に遊びに来てたよな」

 俺はそんな静寂が悲しくて、あえて思い出話を持ち出す。


「あったね。うちとナオちゃん家の毎年の恒例行事。あの頃はナオちゃんも無邪気でさ。楽しかったな……」

 それから、つばめは何かを口にしたが、あまりに小さくて、それは聞き取れなかった。あるいは、まだお母さんも元気でと言ったような気がしたが、俺の聞き間違いだったかもしれない。


「小学三年生までだっけ?」

 俺はできるだけ明るい話題を探して尋ねた。


「違うよ。五年生」

「あれ、そうだっけ?」

 俺は自分の記憶を辿って、それが想像以上に曖昧なものだったことに驚く。


「そうだよ。あたしがナオちゃんに水着をみられるのが恥ずかしくなって、それで行かなくなったからよく覚えている」


「そうなの?」


 毎年楽しみにしていた海水浴が、ある年からなくなってがっかりしたのはよく覚えているが、そんな理由だったとは知らなかった。小学五年生といえば、俺はまだ子供で、男女の差なんて意識したこともなかったから、やはりつばめの方が大人びていたのだろう。


「でも今から思えば、行っておけばよかったな」

 それはそれで俺の方がどこかのタイミングで気恥ずかしさを感じるようになって拒否していたかもしれない。


「――ねえ、ナオちゃん。ナオちゃんは、あたしの水着姿ってみたいものなの?」

 俺はいきなりそんなことを聞かれて狼狽しそうになった。でも、今さら誤魔化したって仕方がないだろう。ちょっと躊躇した後に答えた。


「みたいよ」


「あら、素直――」


「なんだよ、それ」

「だって、ナオちゃんって基本むっつりでしょう?」

「そ、そんなことないぞ!」

 俺は慌てて否定した。いや、本心から否定できるほど自信はないが、それよりもつばめはどこをみて俺をそうだと判断したのか。自覚がなかっただけに怖い。


 つばめはそんな俺をみて、からかうように笑った。


「でもなぁ、そんなナオちゃんにみせられるほど胸の大きさに自信ないかも」

 そんなこと言われて、つい胸を盗み見しないでいられる男がいたら教えて欲しい。俺はどうしても気になって尋ねる。


「大きさって?」

「ほら、むっつりだ」

 つばめがしてやったりと、くすくす笑う。


「あんな言い方されたら、誰だって気になるだろう」

「ちなみに何カップだと思う?」

 つばめが俺の顔を下からのぞきこんできた。こうなりゃ自棄だ。


「Eかな……」


「へえ」


「正解は?」

「秘密」

 つばめは人差し指を口元にあてて言った。


「ええっ!」

 俺はあからさまにがっかりしてしまう。


「本当に大事なことは簡単には教えてもらえないんだって、『星の王子様』でキツネも言ってたでしょう?」

「ひどい改変だ」

 俺は顔をしかめた。


 もちろん、かの有名なキツネのセリフの原文は「本当に大切なことは、目に見えない」である。こんな状況に当てはめるのは、名作への冒涜という気もするが。


「この後って、どうするか考えてるの?」

「もちろん」

 俺は自信満々に答えた。


「この近くに美味しいイタリアンの店があるんだ。まずはそこで昼ご飯だね。その後は、電車で街中までいって表通りで買い物して、疲れたら雰囲気のいいカフェも調べているから、そこでお茶しよう。それから駅前のビルの展望台にフォトジェニックで人気のスポットがあって……。って、なんで笑ってるんだよ?」

「ごめん、ごめん。我慢できなくて」

 俺の計画を聞きながら、ぷるぷると身体を震わせていたつばめが、ついに吹き出すと言った。


「かなり気合入れて調べてくれたんだなと思って」

「仕方ないだろう。デートなんて初めてなんだから」

 俺は笑われたことが恥ずかしくなって、顔を逸らす。するとつばめが俺の頬を指でつついた。


「そんなに、チミはあたしとのデートが楽しみだったのかな?」


「五月蠅いなぁ」


「そう怒らないで。あたしが言いたいのは、その気持ちだけで嬉しいから、そんなにお金をかける必要ないよってこと」


「そんなこと気にするなよ。どうせ俺が持っていたって仕方ないんだ」

 俺は自嘲気味に言った。すでに覚悟はできている。残された時間は短いのだから、やれるだけのことをしておきたい。


「駄目だよ。お金は大事にしないと。あたしの分は払うって言ってるのに受け取ってくれないしさ」

「それくらいは格好つけさせてくれたっていいだろ?」

「だからさ。いつも通りでいいよ。イタリアンなんかじゃなくて、いつものファーストフードチェーンのハンバーガーで充分だよ」


「でも……」


「いつも通りがいいんだ……」

 そう言って、つばめは遠い目をした。


「わかったよ」と俺は言った。

「あ、でも――」

 つばめは思いついたように、俺の手を振りほどくと、いきなり靴と靴下を脱ぎ捨てた。何がしたいのかわからず、俺が驚いていていると、つばめは波打ち際に向かって一目散に駆け出した。


「お、おい!」

 波の白い飛沫が舞って、海に膝まで足を踏み入れたつばめが、こちらを振り返ると、きゃっと楽しそうに悲鳴をあげた。


「ダメだ。冷たいよ!」


「当たり前だろ! 何、考えてんだよ?」


「今生の思い出にね。季節外れの海で泳いでみようかと思ったの」

 つばめは打ち寄せる波に足をとられないようバランスをとりながら、岸まで戻ってきた。足は砂まみれで、スカートの裾の紺色が濃くなって、滴が垂れている。俺は呆れ返って言った。


「びっくりさせるなよ。心配しただろ!」

「いやあ死ぬ気で挑戦してみれば泳げるかと思ったけど、やっぱり無理なものは無理だね」

「当たり前だろう……」

 今生の思い出とか言うなだとか、泳げたとしてそんな服でどうするつもりだったんだとか、色々ツッコミたいポイントはあったが、そんなところもつばめらしいといえば、つばめらしい。


「これ、ちゃんと乾くかなぁ?」


「知らねえよ」


 つい、いつものように冷たく突き放してから、そんな自分の態度をすぐに反省して顔をあげると、ちょうどつばめと目が合った。つばめは俺の言葉を気にした風もなく、きょとんとした表情をしている。


 しばらく見つめ合った後、俺たちは堪えきれずに吹き出すと、お互いに笑い合った。なにが面白いというわけではなかったが、笑っているうちに、ますますおかしくなって笑いが止まらなくなる。


 俺たちは腹が痛くなるまで笑いあうと、どちらともなく砂浜にへたりこんだ。

「ああ、おかしい……。お腹痛くなっちゃった」

「いっとくけど、つばめのせいだからな」

 俺はもう遠慮しなかった。


 そうだよな。俺たち、こんな感じの関係でいいんだ。つばめがいつも通りがいいってのは、きっとそういうことなのだ。


 それから俺たちは防波堤に上って隣り合って腰掛けると、つばめの足が乾くのを待った。


「雨、降りそうで降らないね」


「降らなくていいよ」

 今しがた雨雲レーダーで確認すると、現在位置は赤色でずっとプロットされている。それでも、ぎりぎりで雨が降らないのは、神様のせめてもの温情だろうか。


「……ねえ、ナオちゃん。お昼を食べた後、地元に戻らない?」

「それはいいけど……。どうして?」

 今さら計画してきたデートプランにこだわる気にもなれない。つばめにリクエストがあるなら、それに従うのはやぶさかでない。


「――行きたいところがあるんだ」

 そう言って、つばめは立ち上がった。


 〇


「――あじさいマートじゃん!」


 俺はそうツッコまずにいられなかった。


 「あじさいマート」は俺たちの地元にある超ローカルなスーパーマーケットチェーンである。品揃えも値段もそこそこという特徴のない古ぼけたスーパーで、家から近いという利便性だけが唯一の取柄である。


 あれから俺たちは駅近くのワックで昼食をとると、電車で家の最寄り駅まで戻ってきていた。つばめはワックでも電車でもよく喋った。まるでそうすることで恐怖を振り払おうとするかのようだったが、あるいはそれはつばめにとって理由の半分でしかなかっただろう。

 その他愛もない時間を俺は事実として楽しんでいたし、それはつばめも同様だっただろう。


 地元の駅に到着し改札を出ると、つばめは迷いのない足取りで目的地へと向かった。そして到着したのが、あじさいマートだった。


「こんなところが、つばめの行きたいところなのか?」

「そうだよ」

 つばめは入口の自動ドアから店内へと入ると、買い物かごを手に取った。一目散に向かったのはお菓子売り場である。


 ああ、と俺はようやく納得できた。


 子供の頃、俺たちは小遣いを握りしめて、あじさいマートに来ては、駄菓子を買っていた。つばめがやりたかったのは、その思い出をなぞりたいのだろう。


 ならば、俺もそれに付き合えばいい。俺たちはどちらともなく暗黙に上限金額を百円に想定したうえで、駄菓子を選びはじめた。


 早々に購入する駄菓子を決めた俺に対して、つばめは真剣な表情であーでもない、こーでもないとじっくり時間をかけて考え込んでいる。贅沢な時間だな、と俺は思う。


 どの駄菓子を組み合わせれば最大の満足を得られるか。幼い頃に頭を悩ませた難問も、年をとると、かえって単純に感じられてくる。きっと、それは成長するにつれて妥協することをを覚えたからだろう。

 でも、つばめは違う。彼女が今もこうやって、たかが駄菓子を選ぶのに一所懸命になれるのは、今日という日の特別さだけが理由ではないに違いない。飴玉の味をソーダ味にするかぶどう味にするかを決めるのに、こんなにも美しい横顔をする女の子がいるなんてこと、誰が信じるだろうか。それはきっと俺だけが知る秘密なのだ。


「決めた!」

 つばめはそう言って立ち上がった。どうやら最強の布陣が出揃ったらしい。とはいえ消費税をいれても二人合わせて三百円にも満たない。


「ついでだから飲み物も買っていこうよ」

 俺は駄菓子をいれた買い物かごを手に持つと、ドリンクコーナーへと足を向けた。つばめも黙ってついてくる。俺は缶コーヒーを、つばめはペットボトルのレモンティーを選んだ。


「あれレモンティー飲めるようになったの?」

 つばめはレモンティーに含まれるレモンの渋味を苦手にしていて、ミルクティーしか飲めなかったはずだ。


「いつの話をしてるの?」


 つばめは不満そうな顔をした。


「そんなの知らないよ」

「はあ……」

 と、つばめは溜息を吐いた。


「ナオちゃんはそんなだからモテないんだよ」


「関係ないだろ」

「あるよ。大ありだよ。観察力っていうかさ。そういうこまめさがナオちゃんには足りないんだよ」


 俺はレジで二人分の会計を済ませる。商品を袋詰めして店を出てからも、つばめはまだ怒っていた


「わかるかなぁ。あたしがミルクティーしか飲めなかったの、もう何年前の話だよって。いっておくけど、あたし教室でレモンティー飲んでたことだってあったんだからね」

「そんなの見てないよ」


「見てなくても、それくらいわかるでしょ!」

 そんな無茶な。俺はそう思ったものの反論はせずにおいた。


「嘘じゃない証拠に、ナオちゃんだって昔はコーヒー飲めなかったのに、中学三年生の秋から飲むようになったでしょう。しかも格好つけてブラック」

「格好つけては余計だろ」

 図星であるだけに、反論も弱々しいものとなる。しかし、よく覚えているなと感心してしまう。そんなこと、当の本人である俺だって記憶が曖昧なのだ。


 俺たちはお互いに何も示し合わせないまま、家の近所にある公園へと足を向けていた。あじさいマートで駄菓子を買った後は、それが定番コースだったからだ。


「もっと挙げてみせようか。高校に入学してから、親のことを親父とお袋って呼ぶようになったよね。それまでは、お父さんとお母さんだったのに」

「い、いいだろ、別に……それは……」

 俺が苦い顔をしたことで、調子に乗ったのか、つばめは指を折って数え始める。


「まだあるよ。ナオちゃんって、天気のいい夜は、窓からしょっちゅう空を見ている」

「なんで知っているんだよ!」

 そんなところをみられていたとは、正直なところ驚いた。まだ誰にも言ったことがないが、俺には将来天文学を勉強したいという夢がある。星が好きなのだ。


「だからわかるって言ったでしょう。他にも、あたしが去年文化祭のクラス委員になった時だって、出し物を決めるクラス会で、あたしが孤立しないよう積極的に発言して、議論を促してくれたでしょう」

「それは……」

 俺とすれば気付かれないように配慮したつもりだったのだが、ちゃんとわかっていたらしい。かえって格好がつかない。


「それから中学校三年生の時には、ナオちゃんの男友達があたしのことでやらしいこと言っていたら、やめろって怒ってくれた」

「ッ――」 

 ちゃんとした言葉にならず、俺は自然と早足になった。段々と恥ずかしくなってきたからだ。


 その時のことなら、よく覚えている。ある日、放課後の教室で男友達のグループ数人で喋っていたら、クラスの女子で誰が可愛いかという話題になった。話が盛り上がるうち、よくあることながら話題はかなりきわどい内容へと移行し、つばめを対象に卑猥な言葉が向けられた。


 俺はそれに腹を立てて、やめろと怒った。結果、友達とはかなり険悪な雰囲気になった。今から考えると、俺が怒りを覚えた理由は、どう考えてもつばめを好きだったからである。自分でも呆れるくらいの鈍さである。


 俺に合わせて、つばめの歩調も速くなる。つばめは、指を小指まで数え終わると、手の平を広げて「あとは……」と空にかざした。


「――お母さんが死んだ後、ずっとそばにいてくれた」

 俺は黙り込んだ。それが正しくないことは、誰よりも俺が知っていたからだ。確かに、あの日以来、俺はしばらくつばめのことを気にかけていた。だけど、それも罪悪感に裏付けられたもので、決して褒められたものじゃない。


 公園に着いた。


 広場の中央にジャングルジムと、奥のフェンス際に滑り台と錆びたブランコがあるだけの小さな公園だ。


 つばめは木製のベンチに歩み寄ると腰を下ろした。俺もその隣に腰掛けると、ぼんやりと空を見上げた。厚く垂れこめた灰色の雲が、渦を巻くようにして流れていく。もしかしたら神様は、ああやってコーヒーにミルクを混ぜるように、世界をぐちゃぐちゃに壊してしまうつもりなのかもしれない。


「この公園も変わっちゃったね」


「ええ、そうか? 俺は変わんないなと思ったけど」


「三年前にそこの生垣の椿が病気で枯れちゃったんだよ」

「よく覚えているなぁ」

 俺は感心した。自慢じゃないが、この公園は毎日目にしているのに、そんな変化には全然気が付かなかった。確かに思い出してみると、昔は冬になると、真赤な椿が花を咲かせていたような記憶がある。


「でも、もしかしたらそんなものなのかもしれないな」

 俺はポツリと呟いた。


「なにが?」

「公園の椿の木が消えても、俺は気付けなかったように、人類が滅亡するのだって、宇宙全体からみれば、そんな些細な出来事なんじゃないかって思ったんだ」

 と、つばめが頭を俺の肩に寄せた。陽の光のように淡い髪の匂いが俺の鼻をくすぐった。俺は思いがけない事態に、背筋を伸ばした。


「――じゃあ、これも些細な出来事?」


 つばめの悪戯っぽい声が聞こえた。俺の位置からは顔がみえないから、どういう表情でいているのかはわからない。からかわれているのだろうか。そうだといいな。湿っぽいよりも、よっぽど救われる。


 たとえ明日世界が終わっても、今日私はりんごの木を植える。俺はふと昔に聞いた、そんな言葉を思い出した。こうしていると、明日にはこの温もりが永遠に失われてしまうなんて信じられない。


「些細じゃないなぁ」


 俺は姿勢を正したまま答えた。

「――超、ドキドキしてる」


「今日はやっぱりナオちゃん素直だ」

 そう言って、つばめは声を押し殺して笑った。


 もしかしたら俺の心臓の音が聞かれてしまうんじゃないだろうか。そんなことを考えていると、背後から足音が聞こえた。


「うわっ、きも!」


 振り返ると、そこには小学校低学年と思しき男の子たちがいた。同じような背格好で、どちらかというとやんちゃな顔をした、いかにも仲良しといった感じの三人組だ。


 俺はあまりのことに、ちょっと理解がついていかなかった。いきなり失礼なことを言われたものの、相手が子どもだけに本気で腹が立ったわけではない。でも、子供が相手だからこそ、教育上注意した方がいいような気もする。


「何がきもいの?」

 しかし、つばめは怒るでもなく、にこにこしながら嬉しそうに聞いた。根っからの子供好きなのだ。


「だって、お姉さんたちカップルでしょう?」

 三人組のうち野球帽をかぶった少年が言った。


「俺、知ってる。マンガでみたもん。カップルって、こうやってキスするんだぜ。『ああん、あなたのことが好きなの』『僕もだよ、ハニー』」

 坊主頭の少年が後を引き取ってくねくねと身をよじらせると、三人は口々に「うえー」「きもー」と嘔吐するフリをしてみせ、ゲラゲラと笑った。


「……ふうん?」


 つばめが鼻で笑った。その言い方が凍るような冷たさだったから、少年たちも、ぴたりと笑うのをやめた。どうやらこの年頃でも美人の冷笑にはこたえるものがあるらしい。なにしろ俺も隣で聞いていて、背筋が寒くなったくらいだ。


「君たちは女の子とキスしたことあるの?」


「え――!」

 と、少年たちは戸惑ったように顔を見合わせた。


「あ、あるわけないだろう!」


 眼鏡をかけた少年が勇を鼓したように、鋭く叫んだ。すると、つばめは人差し指を立てて、唇にあてる。まるで「静かに」とでも優しくなだめるように。少年たちの目が自然と、つばめの口元に引き寄せられる。


「じゃあ……」と、つばめは右目を器用にウィンクしてみせた。「――大人になってからが楽しみだね」


 少年たちの顔がみるみるうちに真赤になった。うわぁ、と俺は彼らに同情した。この年で年上のお姉さんに手玉に取られる経験をするなんて哀れな少年たちだ。俺が単純に怒鳴るよりも、よほど教育効果があるに違いない。


 野球帽の少年が俺を睨むと、「エロじじい!」と吐き捨てた。どうやら、つばめに敵わないとみて、俺にターゲットを移したらしい。


「逃げろ!」


 誰ともなく声をあげると、少年たちは走り出した。


「エロ菌が移るぞ!」


 エロ菌って、なんだよ。子供の考えることは意味が分からない。すると、つばめがベンチから飛び上がって、少年たちを追いかけ始めた。


「こらー、移しやるから待てー!」


 思いがけない行動に少年たちは恐慌をきたしたらしい。悲鳴にも似た奇声をあげながら逃げ始めた。しかし、いくら男女の差があるとはいえ、高校生と小学生では勝負はみえている。すぐに眼鏡の少年を捕まえると、今度はつばめが逃げ始めた。よくわからないが、あの少年にエロ菌が移ったのだろう。


 俺が呆気にとられていると、今度は野球帽が眼鏡の少年に捕まった。逃げる役と追いかける役が交代する。野球帽の少年は、何故かベンチに走り寄ってくると、顔中を笑いで一杯にして俺の肩にタッチした。


「ほら、今度はナオちゃんが鬼だよ」


 つばめが向こうの滑り台の後ろに体を半分隠しながら、声をかけてきた。どうやら、いつの間にか鬼ごっこが始まったらしい。もう時間がないのに、こんなことをしていていいのかと迷ったものの、すぐに頭を切り替える。なにより、つばめが楽しそうにしているのだ。この状況に乗っかるしかない。


 こうして小学生三人組との鬼ごっこが始まった。俺たちは汗だくになりながら、捕まったり、捕まえられたりを繰り返した。


 それが一段落着くと、今度は缶蹴りになった。それから手押し相撲や、だるまさんがころんだをした。俺たちが買った駄菓子はゲームの景品として、結局、子供たちに全てあげてしまった。


 やがて日が暮れかける頃、子供たちが家に帰る時間となった。


「またね」


 手を振って少年たちが帰るのを見送ると、つばめはベンチに座り込んだ。


「はあ、疲れた……」


 これだけは残っていたレモンティーのペットボトルの蓋を開けると、つばめは喉を鳴らして半分ほど飲み干した。


「なんだかんだで、もうこんな時間か」


 俺はスマホで時間を確認する。もう五時を過ぎていて、七時までは二時間もない。


「ごめんね。せっかくのデートなのに」


「いいよ。つばめが楽しんでくれたなら」

 それになんだかんだいって、俺も楽しくなかったといえば嘘になる。最後の日がこれで終わるのも悪くはない。


「ねえ、ナオちゃん」

「なに?」


「最後にもう一か所だけ行きたい場所があるんだ」

 もとより、つばめの願いは全部聞き入れるつもりだったのだ。俺はうなずいた。つばめは山の方向を指差した。その先には、あの隕石の墜落現場があった。


「――あそこを見ておきたい」


 〇


  どうして、つばめがそんなことを言い出したのかはわからない。ただ、つばめの気持ちはなんとなくわかるような気がした。もしも今日、俺たちが最後のキスをしないで明日を迎えてしまえば、世界は巨大隕石が衝突するようなカタストロフィを迎えるかもしれないのだ。きっと、つばめは自分の生きた証として、その始まりとなった場所を確認したかったのではないか。たとえ、全てが神様の気まぐれによるものだったとしても。


 俺たちは坂を登って山道に入る。やがて現場へ向かう道は途切れたが、調査団のものと思われる獣道ができていて、そこに分け入る。背の高いすすき野原をくぐりぬけると、目的地となる雑木林に着いた。公園を出発してから一時間ほどが経っていた。


「へえ」

 つばめが声をあげた。周囲は申し訳程度にトラテープで封鎖されているものの、人はいなかった。俺は正直なところ拍子抜けしてしまった。上空をみると木の枝が折り重なるように折れて、確かな傷跡が残されている。しかし地面が黒っぽく焦げているものの、とりたてて周辺の土が激しく吹き飛んだような様子もない。隕石墜落とはこんな地味なものなのだろうか。それとも天使のお姉さんが言っていたように、できるだけ被害を抑えた配慮の結果だろうか。


 つばめはテープを持ち上げると頭を下げてくぐる。俺もその後をついていく。隕石が墜落したと思われる中心地点に着くと、俺たちは隣り合って地面に座った。


 いつの間にか、雲は晴れあがって、今にも落ちてきそうな満点の星がのぞいている。


「結局、雨降らなかったね」


 俺はうなずいた。結局、持ってきた傘は無駄になったが、こんな日に雨に降られることは、どうにか避けられてよかった。


「折角だからさ、傘、差してみてよ」


 と、つばめが俺の手にある傘を指差して言った。なんでだよ――。またふざけているのかと思って、俺は邪険に答えを返す。しかし、つばめは存外に真剣だったらしい。


「相合傘って人生でしたことないからさ」

「しておかなきゃいけないもんでもないだろう」

「ダメかな?」

 つばめに懇願するように言われて、俺は黙って傘の紐を外した。そこまで言われて断るいわれもない。それに、どうせ誰もみていないのだから、傍目にどれだけ変てこだろうと構うことはないのだ。


 ボタンを押すとポンと軽やかな音を立てて傘が開く。俺は降り注ぐ星の粒子からつばめを守るように、そっと頭上に掲げる。夜の大気が切り取られ、その庇護のもとに肩を寄せ合う俺たちは、まるで世界から二人だけ取り残されたかのようだった。


 雨雲が連れ去っていった湿った空気が肌を撫でる。どこかの草の陰で虫の鳴く声がした。


「そういえば、大学の調査チームが昨日発表していたけど、ここに落ちた隕石って月が起源らしいよ」

 俺は言った。


「月――?」


「そう。月隕石っていってね、クレーターができた時に吹き飛ばされた石が宇宙空間を旅してきて地球に落下したものなんだって。組成が月の石によく似ているみたいで、そうなんじゃないかって」


「しまったなぁ」


「なにが――?」


「だったら、あたしが権利を主張できたかも。……しておけばよかったかな?」

 しばらく考えてから、つばめの言いたいことが理解できた。あの「月の権利書」のことを言っているのだ。もし、ここに降り立った石が月からのものだとしたら、その元々の所有権は、なるほど確かにつばめにあるかもしれないのだ。


「貴重な石だから売れば煙草屋くらいは開けるかもな」

 俺がからかうように言うと、つばめはべっと舌を出した。


「もう興味ないよぉっだ!」


 俺は目を細めた。そうなのだ。俺は本当はわかっていた。

 つばめの想像力は、現実と切り離されたフィクションの世界になく、まるで子供がそうであるように、いつだって日常の延長線上にあった。だから、もしつばめが月に住むのであれば、煙草屋は必要不可欠なものなのだ。なぜって、その時、つばめがそばにいて欲しいと願うであろう彼女の父親は、煙草なしでは生きられないような重度のヘビースモーカーなのだ。古い映画に憧れたなんてのは照れ隠しに決まっている。空想科学じみた未来の与太話でさえ、自分の身近に引き寄せて、大切な人の気持ちを考えずにいられない。つばめは、そういう女の子なのだ。


 そんな彼女が、母親を亡くした時、本当はどんな気持ちでいたのか。


「――ごめん」

 と、俺は口にした。つばめの視線がゆっくりと動いて、その無垢な眼差しが突き刺さる。俺は途端に怖気づきそうになる。それでも、覚悟は揺るがない。ここを有耶無耶にしたままでは、きっと後悔を残してしまう。


「こんな時に言い出すなんて卑怯かもしれない。でも謝らせて欲しい」


「どうしたの?」

「つばめ言っていただろう。つばめの母さんが死んだ時、俺がずっとそばにいたって。でも、違うんだ。俺がしたのは、そんな感謝されるようなことじゃない。あれは俺にとっての罪滅ぼしだったんだ」


 俺はそこまで一気に言い切ってから、息を吐いた。体の奥から震えが湧いてきて、つばめの顔が直視できなかった。


「俺、みたんだ。お葬式の日。つばめが会場の外に出て、泣いていたところ」


 つばめが息を呑むのが聞こえた。俺は有罪宣告を待つ被告人のような気持ちで続ける。


「そんなつばめをみて、俺はどうすればいいのかわからなかった。かける言葉もなにひとつ出てこなくて、つばめに気付かれないよう、その場からこそこそと逃げ出した。そうやって目をふさいで、なにも気付かなかったフリをしていれば、見たくなかった現実に向き合わないですむと思ったんだ。つばめがどんな心境でいたか、痛いくらいにわかっていたはずなのに。……最低だよ、俺」


 あの日、俺はつばめの悲しみの深さに釣り合うだけのものを自分の内面に探して、ついにそれを見出すことができなかった。それはぼんやりとした幸せな日々を生きてきた俺にとって当然の帰結だっただろう。もし彼女の隣にいるのに、それに相応しい資格が必要なのだとすれば、俺にはそれがないことをあの瞬間に自分で証明したようなものなのだ。


 つばめは俺の顔をみつめたまま、何も言葉を発さなかった。俺は、その沈黙に胸が締め付けられた。おそらく、つばめは俺のことを軽蔑しているのだろう。それどころか、今まで騙されていたことを知って幻滅しているかもしれない。つばめの人差し指がすっと俺の顔に向けられた。俺は思わず目をつむる。


「――豚鼻」


 つばめは俺の鼻の頭を人差し指で押し潰すと言った。俺が呆然としていると、つばめはあのいつもの悪戯っぽい笑みを浮かべた。喉の奥からは「くっくっく」と声を押し殺したような笑い声が聞こえた。


「な、なんで笑ってるんだよ!」


「知ってたよ――」


「え?」

 俺は思わず聞き間違いかと思って、問い直した。


「お葬式の日でしょう。ナオちゃんがいたこと、ちゃんと気付いてたよ」

「じゃ……じゃあ、なんで――?」

 あまりに予想外の反応だったので、つばめの告白にうまく言葉が出てこなかった。


「なんでって……、泣き顔みられたのが恥ずかしかったから?」

 つばめはそう言って、ちょっと気弱な表情になった。だって顔もぐしゃぐしゃだったし――? そう付け加えた後、さらに小声になって、鼻水も出てたし、と呟いた。


「そ、そんなことで……」

「そんなことじゃないよ。あたしにすれば大事なことだよ」

 俺は空いた口がふさがらなかった。それなら、これまで俺が苦悩してきたことはなんだったのだろうか。あれだけひた隠しにしてきた俺の卑小さなど、つばめはとっくに知っていたということになる。


「だからナオちゃんが見て見ないふりをしてくれたのは優しさだと思ってた」

 違う、と言うかわりに、俺は首を左右にする。


「そんないいもんじゃない」

「でも、それであたしが救われたのも事実だから、そんなに気にしないでよ」

 つばめはかえって申し訳ないという顔をした。俺は気持ちが理解に追いついていかなかった。そうなると、とんだ俺の独り相撲だったということではないか。少なくとも、俺が思い悩んでいたことは無意味だったということになる。


 俺は声をあげた。


「あー……。ちょっと待って……」

 こうなってみると、かえって気恥ずかしくなってきた。俺は赤面した顔を隠すように、つばめから顔を背けた。


「あれ、どうしたの?」

 すると、それをからかうつもりなのか、つばめがしきりと俺の顔をのぞきこんでくる。俺はそれを腕でガードする。


「なんで、こっちみないの。ほらほら、どうしたのぉ? 顔をみせてごらんよ」

 つばめはさらに増長して迫ってくる。クソ。こいつは、こういうところ意地が悪いのだ。俺はなおも押し止めようとして、バランスを崩した。


「痛ッ!」


 視界が激しく揺れ動いて、背中からつばめもろとも地面に倒れ込む。つばめは俺を押し倒した姿勢のまま、俺のうえに覆いかぶさった。視線が自然とつばめとぶつかり、俺たちは見つめ合う。投げ捨てられた傘が、勢いを失って転がった独楽みたいにころころと回った。


「ごっ、ごめん」


 ようやく我に返ったように、つばめが身体を起こした。


「大丈夫。痛くなかった?」

「痛いに決まっているだろう」

 俺は言った。でも本当は、よくわからない。痛いだとか感じるような余裕はなかった。


「ったく。いい加減にしてくれよ」

「ごめん」

 つばめがわかりやすくしょげかえったものだから、俺は苦笑した。その横顔はすでに大人のようでいて、子供っぽさも多く残している。つまり、それは俺と同じまだ未成熟な高校生の顔だった。


 俺はなんとなく自分の認識を思い直していた。俺があの日逃げたことを、つばめは気にしていないと言った。でも、それは時間が経った今だからこそ、そう思える側面もあるのだろう。どちらにしろ、当時の俺はありのままのつばめを受け入れるにはガキ過ぎた。


 樹木がその根を広げるための土壌を必要とするように、俺はようやくつばめへの淡い恋心を、ちゃんと育めるようになったのだ。


 今さらになってそれに気付くのは、皮肉以外のなにものでもなかったが。


 俺は手を伸ばすと、つばめの髪をなでた。つばめは一瞬戸惑った反応をみせたものの、すぐにそれに身を委ねる。


 別れの時が近づいていた。たとえ今日が終わっても、明日の世界は続いていかなくてはいけない。


 今にも泣き出しそうな星空の下で、つばめは静かに俺に顔を向ける。彼女は無理に笑顔を作ろうとして、しかしそれは笑顔になりきらなかった。


 表情が歪みそうになるその前に、つばめは黙ったまま、すくっと立ち上がる。地面に落ちた傘を拾うと、俺に背中をみせたまま、それを肩に差した。


「つばめ……」


 俺は立ち上がろうとして、傘がゆっくりと波打つように揺れていることに気付いた。


「ナオちゃんはさ――」


 つばめは震える声で言った。


「ナオちゃんは、鈍感でデリカシーがなくて不器用で優柔不断で、そのくせ変なところで頑固でさ……」


「……否定はしないよ」


「でも、誰にでも優しくて、嘘がつけなくて、自分に厳しくて、ちゃんと自分のなかで大切なものがある人だって、あたし知ってるから……」


 つばめはそこまで言うと声を詰まらせた。俺はゆっくりと立ち上がる。つばめはもう涙声を隠すことすらできず、それでもなおも続けた。


「だから……あたし以外にも……きっとナオちゃんのよさを……わかってくれる女の子に、いつか……会えるからさ。その時は……その子……のこと……大事にしてあげてね。……あたしのこと忘れて……幸せに……。幸せになってね――」


「つばめ……」


 俺もいつしか泣き声になっていた。つばめが隠れている薄い膜のような傘を手で払いのける。


「ナオ……ちゃん」

 つばめは振り返る。その顔は涙で濡れていた。


「ごめんね……。泣かないって……決めてたのに」

「泣いたっていいよ」俺はつばめを引き寄せると言った。「かまうもんか。誰にだって邪魔なんかさせるもんか」


「ナオちゃんッ――!」

 つばめはそう短く叫ぶと、わっと泣き出して、俺の胸に顔を埋めた。俺も、もう涙が止まらなかった。


「本当は――本当は、ずっと一緒にいたかった! もっと沢山、デートがしたかった! 行ってみたい場所や、してみたいことが一杯あった!」


 俺は言葉にならず、つばめを強く抱きしめる。こうしていると、まるでつばめの感情が皮膚を通じて、直に伝わってくるようだった。そうだ。背伸びする必要なんてなかった。きっと、あの日も、こうしてそばにいて、一緒に泣くだけで。それだけでよかったんだ。


「やだよ……。死にたくないよ……。まだ……まだ生きていたい!」


 胸から、じんわりと温もりが伝わってくる。俺はつばめの泣き叫ぶ悲痛な言葉に耳を澄ましていた。そのまま、どれくらいの時間が過ぎただろうか。


 俺はゆっくりと口を開いた。


「つばめ……」

 ようやく落ち着いたらしく、つばめが顔をあげる。


「……こんな時に、なんだけど、聞いて欲しい」


 俺の覚悟が伝わったのか、つばめは小さなあごを縦にした。


「俺、つばめのことが好きだ」


「うん……」


「どうか俺の恋人になって欲しい」

 それは今さらだったかもしれない。でも幼馴染として始まった俺たちの関係に、最後に決着をつけておきたかった。


 俺の言葉に、つばめはえへへと相好を崩すと、遅いよ、と呟いた。


「……ようやく、言ってくれた」


 それから目をつぶって、俺を受け入れる態勢をつくる。俺はつばめの髪を手で耳の後に寄せると、上体を屈め、彼女の唇に、俺のそれを重ねる。それは俺たちにとって、最初で最後の恋人としてのキスだった。


「――ごめん」

 俺はその間際、短く言葉を吐いた。

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