第6話 6日目

 その夜、俺の夢には、あの白い空間が現れた。


「――呼んだ?」


 空から天使のお姉さんがふよふよと降りてきた。相変わらず神の使徒とは思えない緩い雰囲気だ。


「よかったよ。ちゃんと出てきてくれて」

「社畜ならぬ神畜ですからね。お客様に呼ばれたら、なにを差し置いても馳せ参じますデスよ」

 神畜って、なんだよ。全知全能の神様なら、この発言だって聞いてるかもしれないのに。天使のお姉さんも、かなり溜まってるものがあるのだろうと、ちょっと哀れに思えてくる。


「なんか申し訳ないけど、相談したいことがあったんだ」

「あらあら……。お姉さんに相談したい? うふふ、いいわよ」


「いや、そういうのはいいから」

 俺がバッサリ切り捨てると、「チッ」という音が聞こえた。天使に舌打ちされるなんて、人類史上俺が初めてではないだろうか。


「それで、なんなの?」

 打って変わって、ぶっきらぼうに尋ねてくる。

「救世主に選ばれた日にさ。もし拒否すれば死ぬっていってただろう? あれって、どうにかできないかな?」


「どうにかって?」


「死ぬ以外のペナルティで回避する方法はないのかってことだよ」

「ない」

 天使のお姉さんは即答した。


「俺だって、ここまで五日間に渡って頑張ってきたわけだろう。少しは温情とか、情状酌量の余地はないのかよ」

「だから無理だって。それというのも、世界の命運を賭けた試練に組み込まれた時点で、すでに私の一存でどうこうできる話じゃなくなっているの。申し訳ないけど、一度引き受けた時点で、それは契約だから、決着がつくまで途中で降りることはできないよ」


「やっぱりそうなんだな……」

 予想していたこととはいえ、こうもはっきり断言されると少なからずショックである。俺は、がっくりとうなだれた。


「相談ってのはそれだけ?」


「もうひとつある」

 俺は言った。むしろ本命はこちらの方だ。


「――あと二日。あと二日間頑張れば、世界は滅びずにすむんだろう。そうなれば俺は世界に多大な貢献をしたことになる」

「まあ、そういえなくもないね」


「だったら、ちょっとしたご褒美くらいあってもいいだろう?」

「ご褒美――?」

 天使のお姉さんは眉根を寄せた。


「つばめに対する俺のこの気持ちを消し去って欲しいんだ。そもそも俺が自分の気持ちを自覚したのは、あんたたちのせいなんだ。それくらいは責任とってくれたっていいだろう?」

「それは、確かにできなくはないけど……」


「だったら頼むよ。もう限界なんだ。こんな気持ちを抱えたまま、これからも生きていく自信がないんだ」


「でも意味ないよ――」

 と、天使のお姉さんは言った。もちろん、俺だってすぐに承諾してもらえると思っていたわけじゃない。そもそも、これは愛を証明するテストなのだ。だったら、試練を通じて俺がつばめへの気持ちを自覚した今の状況は、天界サイドからすればしてやったりだろう。それでも、俺としてもここを譲るわけにはいかない。もう一押しだと自分を励ます。


「意味なくなんかな……」

 と、言いかけた時だった。天使のお姉さんはそれを遮って言った。


「だって、つばめちゃん。あと二日で死ぬから」

「――は?」

 俺はお姉さんの顔をうかがった。その表情に茶化すような色はない。


「いやいや。今は、そういう冗談に付き合う気分じゃないから」

「本当だよ。天使は嘘がつけないんだから」

「だから、冗談だろう」

「冗談じゃない。つばめちゃんは明後日死ぬんだ」


「……どういうこと――?」


 あまりに衝撃的な発言に脳が追いつかなかった。呆然とする俺の耳に、天使のお姉さんの声が流れ込んでくる。


「つい先日、つばめちゃん、交通事故に遭って倒れたでしょう? 実はあの時、現代医療では発見できないくらいの小さな傷が脳の血管にできたんだよね。それが世界が滅ぶかどうかには関係なく、試練が終わると同時に破裂して、大出血を起こすことになる。一瞬のことだから、どんなに手を尽くしても助かりようがない。これは運命なの」


「そんなのおかしいだろう!」


 俺は天使のお姉さんがいう運命とやらを振り払うように大声をあげた。そんなのおかしい。絶対に間違っている。つばめが……。つばめが、死ぬ――?


「おかしくないよ」


 天使のお姉さんは首を振った。俺は思わず頭にかっと血が上り、お姉さんに掴みかかろうとする。わわっと言いながら、お姉さんは上空に退避した。


「やめてよ。私が悪いんじゃないんだから」


「じゃあ誰の仕業だよ――!」

 俺は吠えた。


「――神様か? だったら、ここに連れてこい!」


 そうしたら、なにがなんでもつばめが死ぬ未来を撤回させてやる。なにが現代医療では発見できない傷だ。そんなことが許されてなるものか。


 すると天使のお姉さんは、さらに衝撃的なことを言った。


「言っておくけど、これを望んだのは、つばめちゃん自身なんだからね」


「え――?」


「だって、本当はあの事故で死ぬのは、君だったはずなんだ」


「……どういう……こと……?」

 俺はそれだけ吐き出すのが精一杯だった。俺の気勢が削がれたのをみて、天使のお姉さんは当面の危険性は去ったとみたのか、再び俺と同じ目線の高さまで降りてきた。


「つばめちゃんを事故に遭わせたあの車は、本当なら、歩道にいた君を巻き込む予定だったんだ」


 俺の衝撃のあまり言葉を失った。一体、どういうことなのか。


「最初に言ったでしょう。君は指名されたって。私たちが世界を救うために選んだのは君じゃなくて永嶺つばめ。つばめちゃんに試練の内容を伝えたところ、彼女がその相手として選んだのが君だったんだ」


 そういえば、確かに彼女は「選ばれた」ではなく「指名された」という言い方をしていたような気がする。


「でも、最初は駄目だって言ったんだよ。他の人にした方がいい、って。だって、君は三日目に交通事故で死ぬ運命だったからね。七日間とか無理じゃん。でも、つばめちゃんは、あくまで君じゃなきゃ嫌だっていうんだ。最後には、すごい剣幕で怒りだしてね。どうにか助ける方法はないかって聞いてきたんだ。だから禁じ手なんだけど、ひとつだけ方法があるって教えてあげたの」


「もしかして……」


「そう。命の交換。つばめちゃんは君のかわりに、自分の命を差し出したの。だから、君が今生きているのは、つばめちゃんのお陰なんだよ。感謝しないと」


「俺の……せいだっていうのかよ……」

「いっておくけど、これでも特別な配慮はしてるんだよ。つばめちゃんは君をかばって死ぬわけだから、本当なら、あの日に死んでなきゃおかしいんだ。でも世界を救う使命があるから、それを完了するまでは先延ばしにしてあげてるんだ」


「嘘だろ……」


 俺は頭を抱えた。そんなこと、つばめは一言も口にしなかった。それどころか、ずっといつもと変わらぬ調子で不安そうな表情さえみせなかった。もうすぐ死ぬ素振りなんて、一時もみせなかった。


 いや、その理由はわかりきっている。俺に心配をかけたくなかったからだ。


「だから言ったでしょう。断れば死ぬことになるって」

 天使のお姉さんは、無機質なトーンで言った。まるで死刑執行を宣告する処刑人のような冷酷さだった。


「なんで最初から、それを教えてくれなかったんだよ……」


「私はちゃんと説明しようとしたよ。デメリットだけじゃなくてメリットもあるって。でも、君がそんなの聞いても仕方ないって言ったんでしょう?」

「そんな――」

 それじゃあ全て俺が悪いっていうのかよ。あの時、俺が話を聞いて断らなかったから、そのせいで俺の代わりにつばめが死ぬことになったっていうのかよ。そんなの信じられるものか。


「なんで……。なんでなんだよ……」


「まあ、そういうことだから。つばめちゃんとの残された短い時間を大事にしなよ。もしかしたら、それが人類の残り時間になるかもだけど……」

 そう言い残すと、天使のお姉さんは空に還っていく。


「おい、待って! 待ってくれよ! まだ話は終わっていない!」

「もう話すことはないよ……」


 行くな。行かないでくれ。


 あんた、天使なんだろう。神様の使いなんだろう。このままつばめが死ぬなんてことが、あっていいものか。俺の命なら、差し出してもいい。だから、つばめを助けてくれよ――。


 しかし、無情にもその答えが返ってくることはなかった。


 天使のお姉さんの姿がみえなくなると、いつものようにあたりは光に包まれ、白い夢は終わりを告げたのだった。


 〇


 どこからかトロイメライが聞こえた。


 薄暗くなった部屋の窓からは赤い夕陽が差し込んだ。俺はベッドに腰掛けたまま、ずっとうなだれていた。もう時刻は夕方になっていた。


 母さんと奈々が昼飯時と四時過ぎに、俺を心配して交互に呼びにきたが、どちらも無視した。間歇的にひどい頭痛と吐き気に襲われてなにかを食べる気にはなれなかった。


 つばめがもうすぐ死ぬ。


 俺の頭のなかでは、そのことがぐるぐると回り続けていた。そうなったら精神的に耐えられる自信がない。

 太陽はさらに傾き、もうすぐ夜を迎えようとしていた。階段を上がってくる足音が聞こえた。また奈々が、今度は晩飯に呼びに来たのだろうか。


 誰かがドアをノックした。


 俺は何も答えなかった。すると扉の向こうから「ナオちゃん……」と呼ぶ声が聞こえた。動悸が激しくなるのを感じた。つばめの声だった。


「ナオちゃん、どうしたの。具合悪いって聞いたけど大丈夫? 開けるよ?」

「やめろ!」

 俺は声を張り上げた。


「――会いたくないんだ。……頼むから帰ってくれ」


 俺がそう言い終わるや否や、ドアが開いた。廊下の明かりが漏れ、陰の差したつばめが立っていた。


「帰れって言っただろ!」


「……ごめん」


 つばめは素直に謝った。俺は自己嫌悪で泣きたくなった。違う。本当はこんなことが言いたいんじゃない。つばめが悪いわけじゃないんだ。


 でも、それをどう言葉にすればいいのか、今の俺にはまったくわからなかった。


「おかしいな……。なんだか最近ナオちゃんのこと怒らせてばかりだね……」


 逆光になっていて表情はわからない。でも、つばめの悲痛な気持ちは、嫌になるほど伝わってきた。そのおかげで、俺は少しだけ我に返ることができた。


「つばめが悪いわけじゃない。でも、今は誰とも会いたくないんだ」

「そういうわけにもいかないでしょ?」

 つばめが足を一歩前に踏み出した。俺は肩をびくりと震わせる。


「――なんで?」

 と、俺は言った。


「どうしたの……?」


「なんで俺なんかを選んだんだよ……」

 つばめは足を止めた。彼女を包む暗闇がまるで質量をもったように重くなる。俺は言ってしまってから、それを後悔しつつも、結局は尋ねずにいられなかったであろうことも理解していた。


「そっか。……聞いたんだ?」

 その反応で、俺は天使のお姉さんが言っていたことが冗談ではなかったことを思い知った。つばめは、世界の運命に関わりなく明日には自分が死ぬことを知っていて、それを受け入れているのだ。


「なんでだよ。なんで俺なんかのために、つばめが死ななきゃいけないんだ。俺のことなんて見殺しにすればよかっただろう」

「やめてよ……」


「俺はつばめの命と引き換えになるような価値のある人間じゃない。死ぬべきは俺のほうだったんだ」


「だから、やめてよ……」


「それなのに、なんで! なんで、俺のこと助けようとしたんだよッ!」

「生きていて欲しいからに決まってるでしょう――ッ!」

 それまで感情を抑制していたつばめが、ついに耐え切れなくなったように、声を張り上げた。つばめはつかつかと歩み寄ると、仁王立ちになって俺を見下ろした。


「あたしはナオちゃんに死んで欲しくなかった。たとえ自分が死んでも、ナオちゃんには幸せになって欲しかった。なんでって、そんなの、それが理由に決まってるじゃないか!」


 俺もつばめに対抗するためにベッドから立ち上がる。


「俺は嫌だ。つばめを身代わりにしてまで生きようなんて思えない」


「そんなこと言わないで!」

「つばめがいない世界なんて、もうどうだっていい。世界が滅びようと知るもんか!」


 一瞬の静寂の後、窓の向こうからバイクが走り去っていくエンジンの音が聞こえた。暗がりのなかから、つばめの腕が伸び、俺の胸倉を掴んだ。今にも泣き出しそうなくらいに荒い息をしている。俺は全身に力が入らず、抵抗する術もない


 つばめは腕に力を込めて、俺の顔を引き寄せるとキスをした。窓から差し込む残照が、つばめの顔を照らし出す。俺はあまりに真直ぐな瞳から逃れることができなかった。


「――意気地なし」

 つばめは呟くように言った。


 それは俺を殴りつける言葉ではあったものの、一方で優しく背中を押されたようにも思えた。

 ただひとつ確かなことは、つばめは俺が世界を滅ぼそうとするのを許さなかったということだ。


 つばめの腕の力が緩んだ。俺は糸の切れた人形のようにベッドに腰を落とした。


「……帰るね」


 短くそれだけを言い残して、つばめは部屋を出て行った。俺はベッドにそのまま仰向けに倒れ込むと、これまでわざと考えないようにしていたひとつの可能性に想いを馳せていた。


 つばめが俺のことをどう思っているかだ。


 俺がつばめを意識しないまま、いつのまにか意識していたように、つばめだって成長するに従って、俺のことをただの幼馴染として意識のうちで定着させるべきかを問われるタイミングがあったはずだ。


 だとしたら自分の命を捨ててまで俺を救おうとしたつばめの行動は、すでに幼馴染の範疇を超えているのではないだろうか。


「……なんだよ」


 俺はそう独りごちた。もし、つばめも俺のことを好きなのだとしたら、あまりの愚かさに自嘲する気にもなれない。今頃になって気付いたところで、それは遅過ぎた。


 こんなことなら、もっと早く俺の本性をつばめに知ってもらっていればよかった。


 そうすれば、つばめも俺なんかのために死のうなんて気は起さなかったはずだ。

 俺はすっかり暗くなった部屋の中で、すでに零れてしまったものを取り戻せるような気がして右手を伸ばした。しかし、それを試みたところで、願いは虚しく、右手は暗闇を掴むばかりであった。

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