第5話 5日目
薄暗い雨雲が空を覆い尽くす。
湿気を孕んだ春の風が吹くと、淡い桃色をした桜の花弁が宙を舞った。
俺たちが、中学二年生に進級してすぐの春のことだった。
当時、俺はひとりの女の子に想いを寄せていた。それは恋というには、あまりに幼く淡い感情だったが、それでも間違いなく俺にとっての初恋だった。その女の子の名前は、永嶺つばめといった。家が近所で、昔から知っている、いわゆる幼馴染だった。
その日、つばめは朝から学校を欠席していた。俺は妙な胸騒ぎを感じた。ここ最近、つばめはずっと塞ぎこみがちだった。彼女の母親が昨年の秋から体調を崩して、入院が長引いていたからだ。
直接、聞くのがはばかられたのもあり、詳しく病状を知っていたわけじゃない。ただ、親やつばめの様子から、かなり悪い病気であることは朧気に察していた。
つばめの母さんはいつも遊びに行くと、俺に優しく接してくれた。つばめに似た明るい性格で、いつも笑顔で、綺麗なお母さんだった。
その当時、俺は身近な人が死ぬということがどういうことか、まだ実感として上手く理解できなかった。つばめの母さんにしても、まだ若いのに、まさか末期の病気を抱えているとは知らず、そのうち退院するだろうと、楽観的にぼんやりと考えていた。
朝、担任の先生が、つばめが忌引きでしばらく学校を休むと告げた時、俺はそんな自分の思い込みが、甘い幻想であったことに気付いた。
――つばめの母さんが亡くなったのだ。
それから、俺はすぐにつばめのことを思った。母親を亡くして、つばめは大丈夫だろうか。俺は昔からの付き合いで、つばめのことなら、よく知っている。芯が強くて周囲からはしっかり者のイメージでみられているが、その実、感情豊かで愛情が深い。そんなつばめの悲しみを想うと、俺まで胸が張り裂けそうな気持ちになった。
その翌々日、家族でつばめの母さんのお葬式に参列した。
降り続く雨はさらに強くなっていた。
葬儀場にて、つばめは喪主である父さんの隣に座っていた。俺たちの姿を認めると、おじさんとつばめは立ち上がって、頭をさげた。
「本日は、ご足労頂きまして、大変ありがとうございます」
「いえ、このたびはお悔やみ申し上げます」
父さんと母さんが挨拶を交わす。俺と妹の奈々もそれにあわせて頭を下げる。顔をあげると、隣にいるつばめを盗み見た。
つばめはいつもの明るさこそ消え失せていたものの、思ったほど落ち込んでいる様子はない。ちょっと声を潜めて俺に言った。
「ナオちゃん来てくれたんだ」
ちょっとはにかんだような笑みをみせる。俺はなんて声をかけていいかわからず、顔を伏せた。雨の音が聞こえた。
「そんなに暗い顔しないで。お母さん、最後は苦しまずに逝けたの。お母さんに会って、ナオちゃんからもお別れしてあげて」
つばめは気丈にもそう言った。彼女の目は真直ぐに前を向いていて、俺は自分の心配が杞憂だったのだと感じた。つばめは俺なんかより、ずっと強い。きっと今回のことだって、乗り越えていけるだろう。
今でもこの日のことを思い出すと、一瞬でもそう思ってしまった自分を殴りたくなる。
両親の挨拶が終わったので、つばめとそれ以上の会話をすることはできなかった。俺たちは、お棺の前に行くと、窓からおばさんをのぞいた。
まるで眠っているかのような、綺麗な顔をしていた。俺はなんともいえない気持ちになって、顔を逸らした。
着席して三十分ほど過ぎた頃だろうか。
参列席もほぼ埋まり、葬儀が始まった。お坊さんが登壇し、読経がはじまる。俺はぼんやりとそれを聞いていたが、最前列にいたつばめが焼香をすませると、おもむろに立ち上がった。
トイレにでも行くのだろうか。俺はつばめを追いかけようと席を立つ。隣の母さんが嫌な顔をしたが、気になんかしていられない。さっきは咄嗟のことで、上手く言葉が出てこなかったが、なにか元気づけるような言葉をかけてやりたい。
しかし、つばめは会場を出ると、真直ぐに建物の玄関へと向かった。葬儀中にどこにいくのだろうか。慌てて追いかけると、つばめは走り抜けるようにして玄関の扉をくぐり、外に出た。
雨が降っているのにどうしのたか。心配になって俺も外に出たが、つばめの姿はない。
すると雨音に混じって、くぐもったような声が聞こえた。
俺はびっくりした。どうやら、その声は建物の角の向こうから聞こえてくるらしい。俺は雨に濡れないよう軒下を辿って建物の角に到達すると、そろそろとその向こう側をうかがった。
俺は目をみはった。
そこには声を押し殺して泣くつばめの姿があった。つばめは雨が降り続く空を見上げたまま、顔をくしゃくしゃにしており、その瞳からは大粒の涙が次々と零れ落ちた。
俺は反射的に身を隠した。見てはいけないものを見てしまったと思った。
おそらく、つばめは泣き顔を母親にみせたくなかったのだろう。娘を残して天国に旅立った母親が心配しないよう、ずっと我慢していたのだ。
俺はその瞬間、つばめの強さと弱さを知った。
もう声をかける気にはなれなかった。つばめの、あの静かで、かつ激しい感情の奔流は、俺なんかが気軽に触れてはいけない神聖さに満ちていた。つばめは俺にとって特別な女の子だった。だからこそ、そっと手の中に握り締めた卵のように、傷つかないよう大事に守ってあげたかった。
でも同時に俺はあまりに無力な子供だった。俺は、それを思い知らされたのだ。
それは恐怖に近い感情だった。俺の掌は、いくら精一杯広げてみても、大事な女の子を抱えることすらできないのだ。もしつばめが今この瞬間に、俺の存在に気付いたら、どうすればいいだろうか。俺はきっと慰めの言葉をかけることはおろか、その場を取り繕うこともできず、剥き出しになったちっぽけな自分の姿のまま、ただ立ち尽くすことになるに違いない。
俺は逃げ出した。なにも見なかったことにして、そっとその場を離れたのだ。俺は卑怯者だった。つばめのことが好きだからこそ、つばめにだけはみっともない自分の本性を知られたくはなかった。本当の俺を知って、嫌われることが怖かった。
歩くほどに雨に濡れた泥が跳ねて、靴先が汚れていく。この感情はずっと忘れてはいけないものだ。俺は痛みと共に、その警告を胸に刻み込んだ。
もしも今以上を求めてしまえば、いつかは俺の本当の姿をつばめに露呈してしまう時がくるだろう。そうなったら、つばめは俺に幻滅して、去っていってしまう。それだけは避けたかった。
だって、そうではないか。今一番つらいのはつばめだというのに、俺の頭のなかは自分のことで一杯なのだ。俺は身勝手といえば、あまりに身勝手過ぎる人間だ。こんな浅ましい人間を誰が愛してくれるというのか。
でも――。
俺は祈るように思った。友達なら――。つばめと幼馴染の関係であり続けることができたなら、ずっと一緒にいられる。腐れ縁だな、なんて軽口を叩き合いながら、俺の薄汚い本性を隠して、ずっとそばにいられる。
それは最低な俺の、あまりにも最低な取引だった。
――どうか神様お願いです。
俺のこの気持ちをなかったことにしてください。俺はつばめに相応しい人間じゃないんです。だったら最初から求めさせないでください。
結局、傷付くくらいなら、諦めている方がよっぽど楽なんです。だからお願いです。俺のこの気持ちと引き換えに、たったひとつの願いを――。ずっとつばめのそばにいさせて欲しいという願いを叶えてくれませんか――?
俺はつばめがそうしたように、降りそぼつ雨空を見上げた。だけど、当然のように、空から神様の返事が戻ってくることはなかった。
――あの日、聞こえたつばめの慟哭は、雨にかき消されることなく、今でも耳の奥に残っている。
〇
チャイムが鳴った。
俺はベッドの中でそれを聞いていた。時刻はもう朝の十時過ぎになっていた。休日とはいえ遅い時間だが、今、起きたわけじゃない。目が覚めてからは、もう一時間以上経っている。どうも起きる気になれず、ずっとベッドの上でうつらうつらしていたのだ。
一瞬、出るべきかと迷ったが、結局は無視することにした。
今日、両親は朝から出掛けているが、妹の奈々は家にいるはずである。おそらく放っておけば、奈々が応対するだろう。
しばらく耳を澄ませていたが、再びチャイムが鳴る気配はない。どうやら予想通り奈々が対応してくれたのだろう。うつらうつらしているうちに、本格的な眠気が襲ってきたらしい
俺は思考を放棄し、夢の世界へと旅立とうとした。
と、奈々が階段を登ってくる音が聞こえた。静かにして欲しいな。寝入りばなを邪魔されて、俺がそんなことを考えていると、部屋のドアが開いた。
「へえ、ナオキの部屋って、今はこんな感じなんだ」
声が聞こえて、俺は飛び起きた。
「つ、つばめ!」
「おそよう。あんまり寝てばかりだと、頭が馬鹿になっちゃうよ」
つばめは上機嫌で言った。その背中から、ひょいと奈々が顔を出して言った。
「兄貴。久しぶりにつばめちゃんが訪ねてきたから、家にあげておいてあげたよ」
「お、お前か――!」
そんな余計なことをしたのは。
「邪魔者は退散するから、ごゆっくりねー」
「こら、奈々!」
奈々は「うぷぷ」と明らかに面白がった笑い方をすると、怒る俺を無視して、さっさと一階へ行ってしまった。
「ったく、あいつ……」
「まあ、そう怒らなくていいでしょう」
と、つばめがいかにも俺をなだめるような口調で言った。
「つばめもつばめだ。勝手にあがってくるなよ」
「だってスマホにメッセージ送ったのに、十時を過ぎても全然返ってこないんだもん」
「え?」
俺はその言葉でようやくスマホを確認してみる。どうやら気付かないうちにサイレントモードにしていたらしく、メッセージの着信が数件入っていた。
「マジかぁ……」
確かにこれは俺に非がある。もっとも、だからといって部屋にあがっていいかどうかは別の話だが。
「仕方がないから、わざわざ家まで来たらさ。奈々ちゃんが部屋にあがって起こしてあげてくれって言うもんだから……」
「わかった、わかった。こんな時間まで寝ていた俺が悪いんだろう」
俺は諦めて半身を起こすとベッドに腰掛けた。つばめはじろじろと俺をみつめる。
「なんだよ。そこにクッションあるだろう。いいから座れよ」
「ありがとう」
つばめはそう言って、フローリングにクッションを敷いて座った。つばめが俺の部屋にいるなんて、なんだか変な感じだ。
「ナオキ……」
「なんだよ?」
「ナオキって、パジャマ派なんだね」
「なっ! いいだろ、別に!」
「悪いなんて言ってないでしょう。ただギャップがあるなって思っただけ」
「ギャップってなんだよ」
「あっ、言っておくけど、ナオキにギャップ萌えまでは感じてないからね。せいぜい発芽だね、発芽。ギャップ発芽」
つばめはそう言ってケラケラと笑う。俺はからかわれているのに、怒る気にもなれない。つばめが俺の部屋にいるだけで、さっきから緊張しっぱなしなのである。
こんな状況でキスなんかできるだろうか?
いや、絶対無理だ。俺は心の中で白旗をあげると、つばめに言った。
「わかったよ。外に出よう」
「え? あたしはナオキの部屋でもいいけど」
「俺だって、男だぞ! そんな不用意なこと言うな!」
俺が怒鳴ると、つばめはぎょっとした。ああ、やってしまった。俺は言ったそばから後悔する。
「……ごめん。とにかく外に出たいんだ。今から着替えるから下で待っててくれよ」
「わかった……」
つばめは不承不承に頷くと、部屋を出て行った。階段を降りていく足音が聞こえると、俺はのろのろと立ち上がった。部屋であろうが、外であろうが行く気はしない。できれば世界のことなんて忘れて、このまま眠っていたい。
私服に着替えると、階下へと向かう。
もし、あの日、神様が世界の命運にキスを賭けるような存在だと知っていれば、あんな願い事はしなかった。あの日の結果がこれなら、とんだしっぺ返しじゃないか。
つばめは奈々とリビングにいてお喋りに花を咲かせていた。俺がそうであるように、奈々もつばめとは長い付き合いである。
つばめちゃんがお姉ちゃんならよかったのに。
とは、奈々の弁である。その言葉の裏の含みには、もちろん俺への当てつけがある。もう何回聞かされたかわからない。
奈々はつばめと仲良さげに笑い合うと言った。
「あーあ。つばめちゃんがお姉ちゃんならよかったのに」
今日、一回増えた。
「俺が兄貴で悪かったな」
「げっ、兄貴。いたの?」
「つい今しがたな」
「うっわ。機嫌悪い」
誰のせいだ、と言いかけて、俺はそれを口にするのを諦めた。そんな元気もなかったからだ。
「つばめ、じゃあ行こうか」
「えー、もう行っちゃうのぉ?」
奈々が名残惜しそうに、つばめを引き止める。
「ごめんね。また来るから」
「絶対だよ。約束だからね」
つばめの腕を掴むと、奈々が甘えた声を出した。我が妹ながら、どうしてこいつは、つばめの前だと、ここまで豹変できるのだろう。そう思ったものの、一方でそれも当然かと思い返す。つばめは整った容姿をしていて、しかも面倒見がいい。そんな彼女は、同性の年下にとっては憧れの対象に違いない。それを頑なに認めようとしない俺の方がどうかしているのだ。
俺とつばめは連れだって外に出た。
「どこに行くの――?」
つばめに尋ねられたが、計画なんてあるわけがない。
「ん。とりあえず、ぶらぶらしよう。あんまり人目がある場所ってのもなんだし」
我ながら要領を得ない回答だったが、つばめは文句も言わずについてきた。
町内の神社にでも行こうか。あそこなら自由に出入りできるうえ、ちょっとした登り坂の上に位置しているので、日中でも、あまり人影はない。
「そういえば昨日は大丈夫だった?」
隣を歩きながら、つばめが俺の顔をのぞきこんだ。
「なにが?」
「ほら、ちょっと様子が変だったでしょう」
「ああ……」と、俺は了解した。「大丈夫。ちょっと疲れていただけだよ」
「お父さんも心配してたよ」
「え、ごめん。それは悪かったな」
それくらい昨日の俺の様子はおかしかったのだろう。そう言われなければ気付けないなんて、我ながら冷静さを欠いている。
神社にはすぐに着いた。
小さな祠があるだけで、神主も常駐していない神社である。遥かな昔にはこの地を治めた豪族の古墳があったらしいが、詳しいことはよく知らない。朝は犬の散歩ルートとして、それなりに人通りがあるようだが、昼前のこの時間には、予想通り誰もいなかった。
「――ちなみに、おじさん、他に何か言ってた?」
「何かって?」
「ほら。おじさん、俺たちのこと誤解しているだろう」
「ああ、うん。あたしとナオヤの関係について、これからどうするつもりか考えているかって聞かれたよ」
ああ、やっぱりか。俺としては、つばめが上手く誤魔化してくれたことに期待するしかない。
「それで、つばめはなんて答えたんだ」
「ちゃんと結婚するつもりって言っておいたから大丈夫だよ」
俺は思わずむせてしまった。生唾が変なところに入ってしまって、ゲホゲホと激しく咳き込む。
「大丈夫?」
「おい、馬鹿か!」
「そんなに怒らないでよ」
「怒るに決まっているだろう!」
ただでさえ、周囲から外堀を埋められつつある状況なのだ。こっちは意識して距離を置かないと、どうにかなってしまいそうなのに、肝心のつばめがこれでは困る。
「だから冗談だって」
「そんな冗談は好きじゃない」
俺はそっぽを向いた。いくらつばめでも言っていい冗談と悪い冗談があるだろう。
「ごめんね。でも、せめてこれくらいは許してよ。どうせ結婚なんて無理なんだから」
え、と声に出したきり、俺は固まってしまった。
結婚なんて無理、とつばめは言った。いや、もちろん、そんなことは俺だってわかっていたさ。だけど、つばめに面と向かってはっきりと無理と宣告されたこと、さらにはそれにちゃんとショックを受けている自分がいたことにショックを受けていた。
俺はショックを吹き飛ばそうと大声で笑った。ただの強がりであっても、そうしないと、やってられなかった。
「あはは。そうだよな。どうせ無理だよな」
「どうしたの、ナオヤ?」
「――帰る」
俺はやさぐれたようにポケットに手を突っ込むと、元来た道を逆に歩き始めた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。どうしたの。ナオちゃん、今日はおかしいよ」
「おかしくない。いいから、放っておいてくれよ!」
つばめは俺を押し止めようとしたが、それを振りほどいて、なおも前進しようとする。
「世界はどうするの?」
「もう知るもんか。勝手にしてくれよ」
「そんな無責任なことやめてよ。ジンルイのセキムだったんじゃないの!」
俺は悲痛な思いで立ち止まる。そうだ。俺がどうなろうと、それは自業自得だから構わない。だけど、世界が滅んでしまえば、そのせいでつばめまで死んでしまうのだ。それに、ここで諦めてしまえば、つばめがこれまで俺のような男とキスしてきた決死の努力が無駄になるのだ。
「……わかったよ」
俺は振り向くと、ポケットに手を入れたまま、上から覆いかぶさるようにつばめに顔を寄せた。しかし、つばめは今日に限って、何も抵抗しようとしなかった。俺の態度はやさぐれて、我ながら最低なものだったにもかかわらず、つばめは軽く瞳を閉じ、受け入れる態勢を整えてくれた。
軽く唇を触れ合わせる。ただ皮膚の表面同士が接触しただけの、鳥が餌をついばむような味気のないキスだ。ともかく、これで今日のミッションはクリアできたはずだ。
俺はじゃあなと言って、家に帰ろうと足を踏み出したその時だった。一陣の風が吹いて、砂埃が舞った。
「痛ッ――!」
つばめが小さな悲鳴をあげた。
「どうした? 大丈夫か?」
「今ので目にゴミが入ったみたい」
「あっ、こするな!」
もし眼球に傷が入ってしまえば大変だ。俺は目をこすろうとしたつばめの腕をとった。そのままの姿勢で、つばめの瞳をのぞきこむと星のように輝いた。薄っすらと涙で潤っているのだ。つばめは目が痛むのか、しきりに瞼をしぱしぱさせる。
「ん。大丈夫。とれた」
よかった、と俺は胸を撫でおろす。ふと俺はつばめの顔との距離が近寄り過ぎていたことに気付いた。つばめと真正面から見つめ合う。
すると、つばめが瞼をそっと閉じたのだ。
そこからの動きは、俺の意思に反していたはずなのに、まるで最初からそう運命づけられていたかのように自然なものだった。
気が付けば、俺はつばめにキスをしていた。それも、今さっきしたようなおざなりのキスじゃない。お互いの唇の感触と体温を確かめ合う。俺がしたのはそういうキスだった。
唇が離れた。俺は自分で自分のしたことが信じられなかった。頭は真白になって何も考えられないのに、激情の渦が波となって、俺の全身に何度も押し寄せてくるのを感じた。
つばめは熱っぽい目をしていた。小首を傾げると、血色のいい唇が開き、そこから言葉が転がり出てきた。
「今のも……」
じっと俺を見つめながら、言った。
「――ジンルイのセキム?」
俺は急いで顔を伏せると、そこから内心を悟られないように右腕で隠した。
もう無理だ。
俺はそれを認めざるを得なかった。
つばめを置き去りにして、俺は一目散に走り出す。これ以上、どんな顔をしてつばめと接すればいいかわからなかった。
俺は一気に坂を下りると、後を振り向いて、つばめがいないことを確認してから立ち止まった。心臓の動悸が止まらない。頬が濡れたような感触に、手を当ててみると、何故だか涙が流れていた。
もはや自分の気持ちを抑えることはできなかった。隠すことなんてできるはずがない。
――俺はつばめが好きだ。
あの日から、今も変わらず、ずっとつばめを好きだったのだ……。
〇
つばめを神社に残して逃げ出した俺は、激しい自己嫌悪で一杯だった。今さら、自分の気持ちに気付いたところでなんになるというのか。突然、あんな真似をして、さぞやつばめも困惑しただろう。
――帰ろう。
俺は家へと足をむけた。なにも考える気になれなかった。
「――ナオ!」
すると誰かが俺の名前を呼んだ。声がした方に顔を向けると、そこにいたのは高橋だった。その隣には、同年代くらいの男友達もいる。
「どうしたんだよ、ナオ。泣いてんの?」
高橋は目を白黒させて言った。俺はその言葉で、頬が濡れたままだったことに気付き、慌てて拭う。こんなところを同級生にみられるなんて最悪だ。しかも高橋とは、黒沢先輩との一件以来、気まずくなったままなのだ。
「大丈夫か――?」
高橋は駆けよってくると、俺の腕をとった。
「大丈夫。なんでもないから、放っておいてくれよ」
「そんな青い顔してんのに大丈夫なわけないじゃん!」
高橋は真剣な表情で言った。自分ではわからなかったが、そんなひどい有様なのだろうか。だが、高橋と一緒にいた友達も心配そうな顔をしているところをみると、あながち誇張でもないのだろう。
「千葉――」と、高橋は連れに声をかけた。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
「悪いけどさ。こいつのこと心配だから、ちょっと先に行っといて」
「そ、そんなのいいよ!」
「高橋先輩のお友達ですか?」
「うん。同じ高校だから、お前の先輩でもあるのかな」
「そうなんですね……」
千葉君はうなずいた。俺はその時、千葉君の顔を初めて間近にしたのだが、目をみはるほどに可愛らしい顔つきをしていた。高橋と並んでいる時から、かなり背が低いのは気付いていたが、これで髪の毛がもうちょっと長ければ、女子と見間違っていただろう。
「僕のことなら気にしないでください。体調が悪いなら、そっちを優先した方がいいですから」
「でも……」
「どうせご飯に行くだけだから、僕たちはいつでも大丈夫なんです。高橋先輩、どうします。ご飯はまたの機会にしますか?」
「いや、後で合流するから目的地に着いたら位置情報送っておいて」
「わかりました」
千葉君はそう言うと、スマホでなにやら確認すると、俺に会釈した。
「それじゃあ。お大事にしてください」
「ちょっと……」
俺は呼び止めようとしたが、千葉君は気にせず歩いて行った。俺は申し訳ない気持ちになった。
「で、これからどっか行く予定だったん?」
「どこって、家に帰るつもりだったけど……」
俺はそう言いかけて、ちょっと迷った。このまま帰っても、家には奈々がいるのだ。初対面の千葉君にも心配されるくらいひどい状態なら、何を言われるか分かったもんじゃない。
「ちょっと、どこかで休憩していこうかな」
「このあたり土地勘ないけど、休んでけるような場所あんの?」
「あっちに公園ならあるわ」
「じゃあ、とりあえずそこ行こっか。ちゃんと歩ける? 肩貸そっか?」
「いや、そこまでは大丈夫」
それはさすがに恥ずかしすぎる。それに高橋と話すうちに大分落ち着きを取り戻してきていた。
俺が道を先導して、二人で公園へと向かう。
「さっきの友達、本当に大丈夫だったのか?」
「そんなの気にするような奴じゃないから」
「いや、お前がだよ」
「ん? なにが――?」
高橋は心から不思議そうに、俺に聞き返した。敵わないな、と俺は思う。こいつはこういう奴なのだ。
「それにしても、こんなところで高橋に会うなんてな」
どこに住んでいるか詳しく知っているわけじゃないが、確か高校の向こう側の方角だったはずだ。
「千葉がこっちに住んでんだ」と、高橋は言った。「昔、地区のバスケチームで一緒だったんだけど、数年前に親の都合でこっちに引越したんだ。それから疎遠だったんだけど、高校にあいつが入学してから、またちょいちょい遊ぶようになってさ。年下だけど、仲良かったんだよね」
「へえ」
「あいつ顔可愛いだろ?」
「ま、まあ……」
俺はちょっとぎょっとした。いきなり、どういう意図の発言がわからないことを言われたからだ。
「いや、男でも可愛いって得だわ。なんか、飯行きましょうって誘われたら、つい俺がそっち行くよって言っちゃうんだよな……」
そう言って、高橋は遠い目をした。俺は思わず笑ってしまった。なんとなく気持ちはわからなくもなかったからだ。
「そうすると彼もバスケ部?」
「いや」
高橋は首を横にした。
「――吹奏楽部。バスケは中学卒業を機にやめたらしい」
「そらまた正反対の道にいったね」
「背がね。伸びんかったらしい」
「ああー……」
俺は本人には悪いが納得してしまった。スポーツの大半はそうだが、特にバスケは身長の高さが有利になる競技だ。たとえセンスがあっても、あの背丈では厳しいものがあるだろう。
「あっ、ちょっと待って」
公園を目前にすると、高橋はそう言って、入口脇の自動販売機に駆け寄った。なにか飲み物を買うらしい。取り出し口に商品が落ちる音が続けて聞こえた。
神社ほどではないが、公園もあまり人はいない。向こうの滑り台で一組の親子が遊んでいるだけである。俺たちは藤棚の下の木製のベンチに腰掛けた。
「ナオはどっちがいい?」
高橋は水のペットボトルと、缶コーヒーを差し出した。ついさっき自販機で買ったものだろう。自分のついでに俺の分も買ってくれたというより、最初から俺のために用意してくれたのだろう。精神的に弱っている時だけに、その気持ちが胸に染みた。
「水、もらうよ」
俺はペットボトルを受け取った。俺はキャップを開けて一気に半分ほど飲み干すと、ようやく一息ついた気分になった。
「――ありがとう」
「気にすんなよ」
高橋は笑うと缶コーヒーを一口啜った。
「あと、ごめんな」
「ん、なんの話?」
「つばめのことだよ」
俺がそう言うと、高橋は曖昧に、「ああ……」とだけ答えた。許すとも言わないところをみると、まだわだかまりが解けたわけではないのだろう。俺は高橋だけには正直に話すべきだと思った。
「俺――つばめのことが好きだ」
「ナ、ナンダッテー!」
申し訳程度に口をあんぐり開けると、高橋は言った。
「なんだよ、その棒読みは!」
「だって、今さらじゃん」
呆れたように言った。そりゃそうかもしれんけど、俺の悲壮な決意をどうしてくれる。
「いや、信じてもらえないだろうけど、あの時は本当に、そういう気持ちはなくて……。ようやく自分で自分の気持ちがわかってなかったっていうか……」
俺は口の中でもごもごと言い訳をする。すると高橋があっと思い至ったように口を開いた。
「――もしかして、さっき泣いてたのって、幼馴染ちゃんと喧嘩でもしたん?」
「な、なんでわかったんだ?」
俺が驚いてみせると、高橋は苦笑を浮かべた。
「はあ……。なんでそんなわかりやすいのに。本人は無自覚なんかね。永嶺さんも苦労するわ」
「なんだよ、それ」
さすがに俺だって悪口を言われているのはわかる。俺は口をとがらせた。
「つーか、お前ら付き合ってるんだろう?」
「付き合ってない」
「わざわざ黒沢先輩の告白を邪魔してキスしたのに?」
「だからそれは前も説明したけど、詳しくは話せないだけで、ちゃんと事情があるんだって」
「それが本気で意味わかんないんだけどさ。だとしても、付き合っちゃえばいいじゃん」
「絶対にそれはない」
俺は即答した。ようやく自分の気持ちに気付いたのに、今さら付き合ったりするわけにはいかないからこそ苦しんでいるのだ。そんな単純な話なら最初から苦労はない。
高橋は目を細めると、視線をコーヒー缶に落とした。それから、ゆっくりとコーヒーに口をつけると、ふうと息を吐いた。
「……ずっと不思議だったんだけど、ナオのその頑なさはなんなの?」
「俺はつばめが好きだって言ったけど、それだけじゃない。ずっと子供の時から知っている友達でもあり、恋愛感情抜きにしても大事な人なんだ。だから、あいつには幸せになって欲しい」
俺はぐっと言葉を詰まらせた。自分で言っていて、つらくなってきたからだ。それでも俺は前を向いた。
「――だけど、俺じゃあ、つばめを幸せにできない」
「わっかんないな。好きだったら、普通は自分が幸せにしてやりたいって思うもんじゃないいの?」
「それが無理だって、俺にはわかっているんだよ!」
「それなら頑張ればいいじゃん」
高橋はそれがさも当然のことのように、さらりと言った。
「え?」
「無理だと思うんならさ、頑張ればいいだけじゃん。俺たち、まだ高校生なんだから未熟なところがあったとしても当たり前だろ。でも、どんなにつらいことでも好きな人のためなら頑張れることだってあったりするじゃん。どっちにしろ、つらいなら、頑張ってつらい方が絶対いいでしょ」
俺は新鮮な目で、この同い年の友人をみていた。俺はそんな風に考えたことは、一度もなかったからだ。俺も高橋みたいな発想ができていたら、もしかしたら今頃は違う景色がみられたかもしれない。
ただ、それはあまりにも遅きに失した。
この期に及んで、このつばめへの気持ちが報われて欲しいなんて思えない。
「今日、高橋に会えてよかったよ」
それでも、高橋と話せたことで、いくぶんか気持ちを整理することができた。俺は、どうあっても、この気持ちにちゃんと決着をつけなくてはならないのだ。
「俺には、なんかよくわからんけど元気出せよ!」
高橋は激励をくれた。
「もう落ち着いたから大丈夫。千葉君待たせてるんだろう」
「そだね。顔色も良くなったみたいだし、そろそろ行くわ」
高橋はベンチから立ち上がるとポケットからスマホを取り出した。
「うわ、星4.3のパスタが美味しいインスタ映えするカフェだって。あいつ、これ天然でやってるんかな?」
「パスタ美味しいじゃん」
「笑止。男子高校生的にとって、スパゲッチーなど麺類四天王において最弱よ」
「誰だよ」
「背脂こそ真理! カロリーなきものが食事を名乗る資格などないわ!」
高橋はマンガの悪役よろしくガハハと高笑いした。
「じゃあ千葉君にそういえば?」
「いやぁ……」すると、高橋は笑うのをやめ、ぽりぽりと頭を掻いた。「――ナオ。やっぱり顔がいいって得だぞ?」
「どういうことだよ」
今度は、俺が笑ってしまった。高橋は歯を剥き出しにして、しかめっ面をしてみせた。
「人のこと、そんだけ笑えるなら大丈夫だろ。じゃ、またな」
高橋は公園の出口に向かった。俺は腰を浮かせると、その背中に声をかけた。
「あっ、ジュース代払うよ」
すると高橋は顔だけ振り返ると、次は――、と顔の横で右手をひらひらさせた。
「ナオの奢りな」
そのまま足早に公園を出て行くと、すぐにその姿はみえなくなってしまった。
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