第4話 4日目

 週末となる金曜日。


 俺は教室に入ると、すぐにまひると目が合った。


 今日で世界を救う試練を与えられてから四日目となる。昨日は危ないところだったが、なんとかクリアすることができた。それもこれも、まひるの助けがあったからだ。


「――久保さん、昨日は本当にありがとう!」


 俺はまひるに走り寄ると、財布を差し出し、拝むように言った。


「おはよう。なに、かまわないさ。それより、つばめの様子は見に行けたのか?」

「うん。昨日、あれから意識も戻って、かなり元気になっていた」

「そうか。それならよかった」

 そう言って、まひるは笑顔をみせた。


「それで、ごめん! 使ったお金なんだけど、今日の昼、銀行で預金を下ろして返すから、もうちょっと待ってもらっていいかな?」

「ああ、いつでもいい。なんならカードも好きだけ使ってくれてよかったのに」

 まひるはこともなげに言う。やはり、俺とは感覚が違う。


「それより高橋と昨日から口も聞いていないみたいだが、喧嘩しているのか? 私のことよりも、そっちをどうにかした方がいいぞ」


 俺は図星を指されて、うっと言葉に詰まった。さすがに生徒会長だけあって、普段からよくみている。

「……まあ善処するよ」


 昨日、高橋とはゆっくりと話をするタイミングがなかったが、どうやって誤解を解けばいいのか、まだ妙案が浮かんでこないのだ。俺は笑って誤魔化した。


「――ちなみに、今日はつばめは?」

 と、まひるが話題を切り替えた。


「休むって。念のために精密検査をしてから退院するみたい」


「そうだな。その方がいいだろう」

 まひるはうなずいた。とはいえ、俺は学校が終わってから、つばめの家に行く予定である。つばめの父さんに話を聞きたいからという理由で夕食に呼ばれたのだ。


 俺にしてみれば針の筵である。正直、気が重い。


「どうした。随分と暗い顔をしているぞ?」


「まあね。一難去ってまた一難ってところだよ」


 それどころか、あの天使が夢に出てきてからというもの、毎日のように難題が増えていっている。今日だって、夕食会だけでなく、つばめとまたキスをするというミッションをこなさなくてはならないのだ。


 世界を救うとは、かくも険しい道のりだったのか。最初に言っておいてくれよ……。


 〇


 俺は学校から帰ると、私服に着替え、五時過ぎにつばめの家のチャイムを鳴らした。昼過ぎにはスマホで退院の報告を受けている。


 待つほどもなく、玄関が開いて、つばめの父さんが顔を出した。


「やあ、よくきたね」


 俺は頭を下げると、ケーキの箱を渡した。


「母さんが持っていけって」

「そんな気を遣わなくていいのに」

 そう言いながらも、おじさんはケーキを受け取った。


「ありがとう。せっかくだし後でみんなで頂こうか。まあ、どうぞどうぞ」


「お邪魔します」

 俺は靴を脱ぐと、玄関にあがった。つばめの家にあがるのは何年ぶりだろうか。俺は何気なく周囲を見渡したが、内装の雰囲気は記憶のまま変化していない。


「懐かしいね。子供の頃は、直哉君もよく家に来て遊んでいたもんな」

「そうですね」

「はは。……あの時なら、まだ間に合ったのにな。タイムマシンがあればなぁ……。子供相手だからと油断していた、あの頃の自分に教えてやりたいよ」


 おじさんが聞こえるかどうかの声でぽつりと呟いた。俺は一瞬にして硬直する。本当にこのまま家にあがって大丈夫なのか? 俺は生きて帰れるのか?


「どうしたんだい。遠慮しないで」

「え、ええ」

 これは遠慮ではなく、もっと生物本能的な反応だったのだが、後悔したところで遅い。俺は覚悟を決めて歩みを進める。


 廊下を抜けて一階のリビングに入ると、キッチンでつばめが料理をしていた。


「おい、つばめ。直哉君来てくれたぞ」

「聞こえてたよ、もう!」

「挨拶くらいしなさい」

 するとつばめは反抗期のような拗ねた表情で俺のことをみると、膝をわずかに屈め、わざとらしくお嬢様風の挨拶をしてみせた。


「あら、ナオヤさん、ごきげんよう」

「お、おう……」


「こら、つばめ。また、そんなわけのわからんことを!」


 おじさんが呆れたように叱ると、つばめは、「うへー」と茶目っ気たっぷりに悲鳴をあげた。だが、今のは俺からみてもつばめが悪い。


「退院できたみたいでよかったよ。今日の精密検査はどうだったんだ?」

 それでも、俺は助け船を出す意味合いもあって、話題を変えた。


「まったく異常なし。どこからみても健康体だって。あたし、MRIって初めて入った。おお、未来! って感じだったよ」

「よかったじゃん」

 俺は面倒くさくなって、返答をひとつにまとめて言った。


「直哉君にも心配かけたね」

「いや、なんともないならよかったです」

 おじさんはうなずく。


「ごめんね。まだ準備に時間がかかるから、あっちのソファで待っていて」


「なんだか直哉君が来るっていうので、ご馳走を作るって張り切っているらしい。大丈夫。これでも昔に比べれば、かなり料理の腕はあがっているから」

「お父さん! ハードル上げないで!」

 つばめが大声をあげた。しかし、おじさんは、なおもニヤニヤしながらつばめをからかって言った。


「でも出前をとろうっていったのに、作るって言って聞かなかったのはお前じゃないか」

「そんなのお金がもったいないでしょう!」


 おじさんは、おお怖っ、と肩をすくめる。


「それじゃあ、あっちに行っておこうか?」

 俺はおじさんにそう促されて、キッチンから離れたソファに腰を落ち着けた。おじさんも応接机をはさんで向かい合うソファに座る。


「やっぱり女の子だな。段々と妻に似てきたよ」

 おじさんは苦笑した。さっき怒られたことを言っているのだろう。言葉とは裏腹に目尻を下げたおじさんに、俺は何と言葉をかけていいかわからず黙り込んだ。


「ああ……そんな気を遣わなくて大丈夫だよ。もう三年以上になるんだから」

 おじさんは少し寂しそうな微笑みを浮かべた。


「僕たちが中学二年生の時でしたからね」


 三年。


 言葉にすれば長いように思えるが、つい昨日のことのようにも思える。つばめの母さんが闘病生活の末、亡くなったのは、ちょうど俺たちが中学二年生になったばかりのことだった。


「煙草は大丈夫かな?」

「もちろんです」

 おじさんに聞かれて、俺はうなずく。おじさんは電子タバコを取り出すと、カートリッジを押し込み、吸い口を咥えた。昔からヘビースモーカーで、子供の頃は換気扇の下で紙煙草を吸っていた背中をよく覚えている。


 おじさんは深く吸い込むと、まるで香りを楽しむように、ゆっくりと吐き出した。


「僕はね、正直、相手が直哉君でよかったと思っているんだよ。君の事なら子供の頃から、よく知っているからね」

「はあ……」


 俺は曖昧に相槌を打った。おじさんは結局、俺とつばめが付き合っていると誤解したままである。真相は全く違うのだが、こうなってくると否定する気にもなれない。


「どこの馬の骨ともしらぬ男よりかは、まだ諦めもつく」


 いや、というかおじさんに真相を説明するなんて無理だ。実は付き合っていないなどと言おうものなら、どんな目に遭うかわかったもんじゃない。


「つばめは母親を亡くした時、まだ中学生だっただろう。やはり僕とは違うつらさがあったと思うんだ。ところが、子供ってのは聡いもんでね。僕の前では決してそんな顔をみせない。心配をかけたくなかったんだろう。もちろん僕もそれがわかっているから、余計なことは言わなかったんだが、たとえそれがお互いを想いあっての行動だとしても、年月とともに少しずつ積り重なると、どうにもならない溝のようなものができてくる。特に、僕が男親だけに、あの子からすれば、気持ちのすれ違いを感じることも多かったんじゃないかと思うんだ。こういう話、わかるかい?」


 俺は黙ったままうなずいた。


「しかも、あの子は母親のいない分、自分がそのかわりになろうと、家のことを引き受けてくれた。こういっちゃなんだが健気なもんだった」


「ええ、知ってます」

 昔のように一緒に遊ぶような関係ではなくなっても、家族である父親を支えようと奮闘するつばめの姿はずっとみてきたのだ。料理だって昔は包丁すら握ったことがなかったはずなのに、今では学校帰りに買い出しをして、毎日のように夕食を作って、父親の帰りを待っている。


「子供に苦労をかけるなんて、親として恥ずかしい話だろう。つばめは母親が死んでから気の休まる時がなかったんじゃないかと、今でも後悔することがある。それでも僕だって、あの子の支えがなければ今の仕事を続けられたかわからない。結局のところ、それは別の人生でしかないからね。僕はあの子がいたから生きてこられたといっても過言じゃない。だからというわけじゃないが、僕はあの子には絶対に幸せになって欲しいんだ」


「それは……」と、俺は自分自身に言い聞かせるように答えた。「――僕もです」

 おじさんはうなずくと、また一口たばこを吸った。


「今回のことだって、僕はどれだけ心配したかわからない。親バカかもしれないけど、あれは責任感の強い子だ。決して弱音を吐こうとはしないし、人前では自分の弱さも隠そうとする。でも本当は優しくて繊細で、誰よりも傷つきやすい子なんだ」

 おじさんは僕に向かって背中が見えるくらいに深々と頭を下げると続けた。


「どうかお願いだ。あの子を泣かせないでやって欲しい。もし君が半端な気持ちでつばめと付き合っているなら、あの子のためにどうすべきかを考えて行動して欲しいんだ」


 お、おお……。


 俺は何も言えずに、唾を飲み込んだ。おじさんは真剣そのものだった。俺たちの周囲だけ気圧が高くなったのではないかと思うほどに、重たい空気がぴんと張り詰める。


 これはあれか。あれだ。人生の岐路ってやつじゃないのか。ここで「Yes」と答えようものなら、そのまま人生の超特急エクスプレスに乗せられて、結婚からマイホーム、さらには沢山の孫に囲まれた病室での大往生まで、俺の意思とは無関係に敷かれたレールに沿って、問答無用で運送されていくんじゃないのだ。


 かといって、この空気で「いえ、僕たち付き合っているわけじゃなく、ただのキッスフレンズ。略してキスフレです」などと正直に答えられる男がこの世にいるのなら教えて欲しい。


 俺は一瞬の逡巡の末、ひとつの覚悟を固めた。


 おじさんは、男として俺を信頼したうえで、このような話を打ち明けてくれているのだろう。だとすれば、俺も一人の男として、その想いに答えるしかない。


 それは俺が選択した自分の決断に対する覚悟だった。


「――つばめのことは任せてください!」

 俺は我ながら、そこそこいい顔で言った。


 それは、このような判断の難しい状況下で最も頻用される選択――いわゆる先送りだった。


 いや、無理無理。男だからとか、女だからとか、今はそんな時代じゃない。とにかく、俺には無理。

 もうこうなったら、機をみて、つばめから上手く言っておいてもらうしかない。


 それに、つばめを泣かせたくないということに関しては、一切嘘ではないのだ。ただ、その気持ちが恋人としてのものかどうかを明言しなかっただけだ。だから俺の言葉をおじさんが誤解したとしても、それは俺の責任ではない。……よね?


 おじさんは頭をあげると、まっすぐな視線で俺を正面からとらえた。


「直哉君。信じているからね。言っておくけど、僕はヤる時は、ヤる男だからね」


 ヤ、ヤる……って、せめて漢字を……! その「ヤる」とは、どういう漢字をあてるかだけでも教えてください!


「なに話しているの?」


 すると、つばめの声が頭上から降ってきた。

 見上げると、つばめがお盆にコップに注がれたお茶と缶ビールを運んできた。


「はい、お父さん、ビール飲むんでしょう。おつまみに小皿を先に出しておくけど、ご飯もうすぐだから飲み過ぎないでね。ナオヤは麦茶でよかったよね?」

「あ、ああ。ありがとう」

 俺はお茶を受け取る。


「おい、つばめ。直哉君にもビール出してやったらどうだ?」


「お父さん!」


 つばめは怒った顔をした。おじさんは、あるいは本気で言ったのか、まるで怒られた犬のように、しょんぼりと肩を落とした。


 とはいえ、つばめのおかげで重苦しい雰囲気が一変したのも確かだった。おじさんはビールをコップに注ぐと、半分ほど飲み干した。


「でも今回は本当にびっくりしましたよ」


 俺がそう水を向けると、おじさんはうんとうなずいた。


「どうやら相手の運転手は過労で居眠り運転をしていたみたいだね。もし車が突っ込んだのが、もう数十センチ、ズレていたと思うとぞっとするよ」


 俺はふと昨日の朝に目にした白い乗用車を思い出した。

 注目して追いかけていたわけではないが、かなり危ない運転をしていた。なんとなく直感的に、つばめに突っ込んだのは、あの車だったのではないかと思った。


 もし、そうだとすると人の運命というのは、つくづくわからない。

 わずか数十センチの差がつばめの生死を分けたように、事故を起こしたのがもっと早いタイミングであれば、そもそもつばめは巻き込まれていなかったに違いない。


 とはいえ、これは神様の試練なのだから、責任を持って、それくらいの運命の調整は、予めしておいてくれてないものかと不満に思ってしまう。


 あるいは、こういったトラブルもまた神様に課せられた試練なのだろうか。


 どちらにしろ俺たちの人生が玩具にされているようで気分の悪い話である。


 おじさんはビールを苦い顔でコップのビールを飲み干すと、缶の残りを注ぎ足した。俺も麦茶を口にすると、それでなんとなく話に区切りがついてしまい、それからは他愛もない話へと、話題は切り替わった。


 〇


 夕食を食べ終わる頃には、時刻は六時半になっていた。

 つばめの料理はお世辞抜きに美味しかった。おじさんによると、今日の夕食はいつもより「かなり」気合が入っていたらしいのだが、それでもつばめの料理の腕が相当の水準であることは間違いないだろう。


「そろそろ、直哉君の持ってきたお菓子を出したらどうだ?」


 おじさんはすでにビールも空にし、食後の電子タバコを堪能している。


「待って。その前にナオヤに渡して置きたいものがあるの」


 つばめの目をみれば、それが何かはすぐにわかった。まだ今日のキスをしていないのだ。俺もさっきから時間から気になっていたところだったのだ。


「直也君に?」


「うん。ナオヤ、ちょっと部屋に来て」


 おじさんの殺気に帯びた視線が俺に突き刺さった。俺は「ひぃ」と悲鳴をあげかけたものの、どうにか堪える。だとしても、こんな言い方はないだろう。


「なに? ……君たち、これから部屋に行くの?」

「心配しなくても、すぐ戻ってくるから」


「じゃあ、お父さんも、折角だから一緒に行ってみようかなぁ、なんて……」


「お父さんは来ないで!」

 つばめにぴしゃりとはねつけられて、おじさんは何故か俺を睨んだ。そ、その怒りの矛先は間違っています!


 つばめが立ち上がると、おじさんは「直也君」とドスの利いた声で言った。


「少しだけ話をしていいかな? つばめも先に行っていなさい。すぐにすむから」


 つばめはその言葉にやや不服そうな態度を示したが、おじさんの有無を言わせぬ口調に、結局は大人しく従った。い、嫌だ。俺を見捨てて部屋を出ていくつばめを虚しく見送る。


「直也くぅーん? どういうことか説明してもらえるかなぁ?」


 おじさんは、さっきより落ち着き払っていたが、それだけに別種の怖さがある。


「な、何がですか?」

「何が、ってことないだろー。さっきは交際を認めるとは言ったけどね。でも、君たち、まだ高校生だろう。ん? 昨日、うちの娘とキスをしていたことだって、僕にはわだかまりが残っているんだよ? ん? んん? そんな関係はちょぉっと早いんじゃないか?」


「ちょ、ちょっとおじさん! 顔が、ち、近いです」


「おかしいんじゃないかぁ? 渡すものがあるなら、父親のいる、ここで渡せばいいだろう? 自分の部屋じゃなきゃ渡せないものって、どういうことなのかなぁ? ま、まさか君たち、すでに――」


「そ、そんなわけないですよ!」

 俺は全力で否定する。


「本当だね、直哉くぅん? 信じているからね?」

「本当です。なんなら神様に誓ってもいいです」

 キスをしないと世界を滅ぼすなんて言い出す神様に誓ったところで意味があるのかはわからないが、ともかく俺はそう断言する。


「わかった。それなら信じているからね」

「え、ええ。とりあえず行ってきます」

 俺は立ち上がると、廊下へ向かった。


「直哉君――」

 と、おじさんの声が背中から追いかけてきたので振り返る。


「どうしました?」


「僕はこの年でおじいちゃんになる気はないからね」


「だから、そんなんじゃないですって!」


 俺はほうほうのていで、リビングから抜け出すと、廊下にいたつばめと落ち合った。つばめは、疲れ切った俺をみてとぼけたように尋ねた。


「何の話だったの?」


 その目には悪戯っぽい笑みがある。どうやら、どういう話かちゃんと知っていて聞いてきてるらしい。


「大変だったんだぞ……」

「あはは。ごめん、ごめん。お父さんには後で言っておくから。行こ、あたしの部屋は二階にあるの。知ってるでしょう?」

 つばめを先頭にして、俺たちは階段をあがった。二階にあがってすぐがつばめの部屋になる。つばめは明かりをつけると、俺を部屋に招いた。子供の頃以来となるつばめの部屋に足を踏み入れる。


「……おじゃまします」


「どーぞ。女の子の部屋なんて緊張するでしょう?」

「ば、バカ。誰がつばめなんかに――」

 だけど、それが強がりであることは明らかだった。まだ幼かったころとは違って、つばめの部屋は物こそ多くないものの、女子高生らしい部屋に変貌していた。なんだか普段のつばめとは違うような、いい匂いがした。


「そこ座る?」


「いいよ。どうせすぐに下に降りるから」

 俺がそう言うと、つばめはそれに反応を示すでもなく、自分だけベッドに腰かけた。さっきのおじさんの忠告を思い出したわけでもないのだが、俺はどうしていいかわからず立ち尽くす。部屋に静かな沈黙が流れた。


 なんとなく気まずいものを感じて、俺は口を開く。


「そういえば、昨日のあれって貧血だったらしいな」


「え?」


「おじさんから聞いたぞ。医者の説明では、朝ごはんを抜いたせいで貧血で倒れたんだって。なんで朝飯くらい、ちゃんと食べてこないかね」


「だ、だって。お父さんが朝ごはん用に残しておいた昨日のお米を、全部ニンニク味噌おにぎりにしちゃってたんだもん」


「それがどうしたんだよ」


「その……ニンニク食べちゃうと……ナオヤに悪いでしょう?」

 つばめは恥ずかしそうに、俺を見上げた。


「なんだよ、それ……」

 俺は思わず呆れる。


「あたしにとっては大事なことなの!」

「俺は気にしないよ」


「ナオヤが気にしなくても、あたしが気にするの!」

 つばめは頑なになって言った。まあ、その気持ちは俺にだってわからないでもないが、そのために体調を崩すような真似だけは、もう勘弁してほしい。


「じゃあ、今日は大丈夫だな?」

「え?」

「今日は同じ夕食を食べただろう。だから万が一、夕食の臭いが残っていてもお互い様だ」

 そう言って、俺はベッドに腰掛けるつばめに歩み寄ろうとした。


「ちょ、ちょっと待って! まだ心の準備ができてないの!」


「まだそんなこと言うのかよ?」

「ごめん。今日は大丈夫だから。だから、もうちょっとだけ待って」


 俺は時計に目をやる。まだ六時四十分を回ったところで、もう少しだけなら時間の余裕はある。

 もっとも昨日のことがあるだけに、油断していると、なにが起こるかわからない。本音では今すぐ終わらせておきたかったが。


「まあ、そこまで言うなら……」


 だけど、まさか無理やりというわけにもいかず、俺は渋々と承諾する。ちょっと手持ち無沙汰になって、何の気なしにつばめの部屋を久しぶりに見回すと、ふと壁のコルクボードにピン止めされた一枚の紙が視界に入った。月の写真がプリントされた用紙に、英文が並んでいる。


「あれって、まだ持っていたんだ?」


 それは中学の二年生の時に、俺がつばめにあげた誕生日プレゼントだった。いわゆる「月の土地の権利書」である。どうやら法的拘束力の伴わないジョークグッズらしいが、価格は三千円程度と子供のお小遣い価格で購入できる。当時母親が亡くなってふさぎ込みがちだったつばめを元気づけたくて、俺なりに奮発してプレゼントしたものだった。


「そりゃあ持ってるよ。嬉しかったもん」

「人類が月面で暮らすようになったら、ここで煙草屋を開くんだって言ってたもんな」

 俺は思い出して吹き出しそうになった。どうやら古い映画で、街角の煙草屋の出てくるシーンがレトロでやけに憧れてみえたらしい。俺が月の土地の権利書をプレゼントした当時、つばめはそんなことを口走ったのだ。


 俺は爆笑してしまったのを覚えている。土地の権利書を元に月で商売をするというアイデアはいい。でも、それにしたって煙草屋はないだろう。つばめはなおも、月では煙草屋をやる人なんてそうそういないだろうから寡占商売だ、と食い下がった。しかしそれに対しても、月のような宇宙空間では酸素が貴重になるから、副流煙を発生させる煙草は禁止されるに違いないと、俺は切り捨てた。


 どう考えても俺が正論だと思うのだが、しつこくからかったのがまずかったのだろう。つばめが怒ってしまい、誕生日のお祝いはうやむやになってしまった。


「心配しなくても、煙草屋は諦めましたよぉ、だ」

 つばめはそう言って、べっと舌を出した。


「そうなんだ。今度はケーキ屋でも目指すのか?」

「ううん。電子煙草屋」

「変わらないだろう……」

 つばめはくすくす笑うと、ベッドから足を投げ出すようにして立ち上がった。淡い栗色をした髪の毛が揺れて、雪のように白い首筋がのぞいた。


 幼馴染としてずっと意識しないようにしていたものの、こうやって二人だけで向かい合うつばめは、一人の女の子として魅力に満ち溢れていた。


「そ、そろそろいいか――?」


 俺はできるだけつばめをみないようにして言った。


「まだ七時まで時間あるよ」


「早く戻らないと、おじさんに誤解されちゃうだろう?」

「誤解されちゃ駄目なの――?」

「駄目なのって、つばめが困るだろう。ただでさえ学校でも変な噂立っているんだぞ」


「あたしは構わないよ」

「え?」

「あたしは、ナオちゃんならいいよ」

「そ、それってどういう……」


 俺がそう言いかけると、つばめが俺に急接近した。俺は思わず口ごもる。つばめの両手が伸びて、俺の頬に触れた。つばめが薄く瞳を閉じる。風もないのに、長い睫毛が揺れたような気がした。


「つばめ……」

「――ブルドッグ」

 つばめは俺の頬を指でつまむと、地面に向けて引っ張った。


「な、なんだよ、それ!」

「く……、くっふっふ。どうだ。絶対、ちゅうされると思ったでしょう?」

「思ったっていうか……。もう時間もないんだからさ、子供みたいなことやめろよ」


 俺が呆れ返っていうと、つばめは俺の両肩に手をかけた。それから軽く背伸びをすると、素早く俺の唇に自分の唇を触れさせた。


「……え?」


「昨日のお返し――」

 と、つばめは言った。俺は不意をつかれたがために、何も反応することができなかった。ただ驚きのあまり、馬鹿みたいに口をぽかんと開いていた。


「やだなぁ。ちょっと慣れてきちゃったかも……」

 俺は顔から火が出るような熱を感じた。この瞬間、心の準備ができていなかったのは、俺の方だった。


「さあ、下に降りよう。お父さんが心配しちゃう」


 つばめはまるで何事もなかったかのように振る舞った。でも、俺は自分の変化に戸惑うあまり、なにも喋る気になれなかった。


 つばめとキスをするのは、世界を救うためだ。だから、あと三日経てば、俺たちはただの幼馴染の関係に戻る。


――そのはずだった。


 胸が締め付けられるような息苦しさを感じた。頭の奥が痛んだ。このやり場のない感情をどこに持っていけばいいのか、わからなかった。


 その日、リビングに戻ってからも、俺はほとんど何も喋ることができなかった。ケーキも無理やり口に押し込み、コーヒーで流し込んだ。味なんかわからなかった。


 俺がつばめの家を辞したのは、午後八時を過ぎてからのことだった。

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