第3話 3日目

 俺は再び白い空間にいた。


「はいはい、お待たせしてすみませんねぇ」


 やけに卑屈な態度で現れたのは、あの天使のお姉さんだった。

 その夜、俺は眠りにつく時に、再び天使のお姉さんに会うことを望んだのだが、どうやらその願いは叶えられたしい。


「なんで、そんなやる気ないんだよ」

 

 とはいえ俺は不満だった。こっちは世界を救おうと、必死なのだ。そんな嫌そうな態度を露わにされるのは気分のいいものじゃない。


「だってさ、こっちは寝てる時間に呼び出されたんだよ」

「え、お姉さん、寝るの?」

「寝るのって、なんだよ。天使だって睡眠くらいとるよ。当たり前でしょう」


 天使のお姉さんは形のいい眉を吊り上げると、怖い顔で言った。

 そんなこと言われても、天使の当たり前がわからない。てっきり俺たちのような地上の生き物とは理が違うから、生命維持のための食や睡眠のような活動は必要ないものとばかり思っていた。


「こっちは日中、通常業務でさ。ようやく仕事が終わって家に帰ってベッドで、うとうとしてたら、呼び出されるわけよ。そりゃあ、ちょっとくらい態度に出たって仕方ないでしょう」


 どうも俺に怒っているというよりも、今の労働環境に愚痴を言っているような口ぶりである。

 とはいえ、俺に言われたところでどうしようもない。

 お姉さんは、なおも文句が言い足りないらしく、俺に質問を投げかける。


「さて、ここで問題です。天界には労働基準法があるでしょうか。それともないでしょうか?」

「え、ある?」

「はい残念。正解は、そんなもの、あ・り・ま・せ・ん!」


 そう言って、ドス黒い笑みを浮かべたお姉さんに、俺はどう反応していいかわからず黙り込んだ。


「だから、今のこの時間だって残業代は出ないの。信じられる? こんな夜中に呼び出されて、深夜労働させられて、それが全部サービス残業扱いなわけ。君たち人間は天界を、なんかユートピアみたいに理想化しているようだけど、その実態はすっごいブラックだから。ほら地上にもあるでしょう。一見、華やかなようでいて、その実は超絶劣悪な環境の業界って。天界ってのは、つまりあれなわけ」

「わかった。わかったから!」

 俺は音をあげるように言った。このままでは、話がよくない方向に向かいそうだし、なによりそんな実態を知りたくはなかった。


「もう十分に理解したから。俺の呼び出しに応えてくれただけで感謝してるよ」

「それなら、いんだけど……」


 天使のお姉さんは、なおも愚痴を言いたそうだったが、さすがにそれは我慢したらしい。


「それで、どういう理由で呼び出したの?」

 と、単刀直入に聞いてきた。


「そう、それなんだけど。ひとつ確認し忘れていたんだけど、俺たちが世界を救うために毎日キスしなきゃいけないって、誰かに話してもいいのかな?」

「どういうこと……?」

「それがさ。昨日、ちょっと迂闊なことをしたというか、結構な人に俺たちがキスしてるのをみられてさ。かなり誤解を受けたと思うんだ。だから、せめて事情を説明して、あらぬ疑いを晴らしておきたいっていうか……」


「ダメ」

 と、天使のお姉さんはそこまで聞いてから、言下に否定した。


「なんでだよ――?」

「だって、そっちの方がおもしr――ゲフンゲフン。……ルールだから」

「おい、ちょっと待て! 今、面白いからって言おうとしただろう!」

「言ってない」

「嘘吐くなよ」

「嘘じゃないよ」


 天使のお姉さんは頑として言い張る。しかし、俺としては信じる気にはなれない。お姉さんは、あくまで強気の態度を崩さずに言う。


「本当だよ。っていうか、そうやって話をしたとして、たとえばそれで周囲の協力を得られたとしたら、試練の意味がなくなるでしょう」


 俺はちょっと考えて、それもそうかと納得してしまう。

 世界が滅びるとなれば、それこそ国家規模で達成するべきプロジェクトになってくる。もし仮に日本政府の全面的なバックアップを受けるような事態になれば、俺とつばめが一日一回キスをするための障害となる要因は万難を排して取り除かれるだろう。


「それに話したところで誰にも信じてもらえないと思うよ。だって、それを証明するためには試練に失敗してみるくらいしか方法はないでしょう。でも、それじゃあ本末転倒じゃん」

「うーん」

 俺は唸った。


 確かに、天使のお姉さんの言う通りかもしれない。俺が逆の立場なら、世界を救うためにキスをしているのだと言われても頭がおかしくなったとしか思えないだろう。


「じゃあ、俺はこのまま誤解されて生きるしかないってこと」

「まあそうなるかな。でもひとつだけ誤解を解く方法がないわけではないよ」

「え、なになに?」

 俺は前のめりになって尋ねた。


「付き合っちゃえばいいじゃん」

 と、天使のお姉さんが言った。

「つばめちゃんと本当の恋人になれば誤解もなにもないでしょう。いいじゃん。つばめちゃん、いい娘なんだから」


 期待した俺が馬鹿だった。

 こっちにはこっちの事情がある。天使のお姉さんは軽く考えているようだが、そうそう都合よくいかないのだ。


 「わかった。俺たちが世界を救うかもしれないことは秘密にしなきゃいけないってことだね」


 ある意味で、ヒーローもののドラマでいえば常道といえる。それで人知れず傷つくのが、身体ではなく俺の社会的立場というのがドラマとは違うところだ。


「そういうこと。それじゃあ、今日も頑張ってね」

「はあ……」


 天使のお姉さんの励ましに、俺は思わず盛大な溜息を吐いた。そうすることが精一杯の抵抗だった。


 〇


 三日目の朝がやってきた。


 俺は憂鬱な気分でベッドから起き上がった。目が覚めると、天使のお姉さんとの会話が思い出されてくる。それから昨日の出来事が、改めて脳裏に再現された。


 昨日は最悪だった。よりによって、公衆の面前であんな真似をしたのだ。もはや、言い訳しようのない状況である。しかも、事情を知らない者からすれば、かなり情熱的な独占欲の持ち主として俺のことは認識されただろう。


 それもこれも、全ては神様の無茶ぶりのせいなのだ。

 窓の外の裏山には、シミのような黒い点が隕石が墜落した跡として刻まれている。ここ数日、あの黒い点を目にする度に気が滅入ってきてしまう。明日には、さらに巨大な隕石が世界全体を破壊しつくしてもおかしくないのだ。


 ちなみに隕石は大学の研究室に回収されたらしい。さすがにマスコミも少なくなっているようだが、俺たちにとっての終わりは、まだ先の話で、気を抜くわけにはいかない。


 俺は朝の準備をすませると、昨日と同じくらいの時間に家を出た。


 そこで俺は驚いた。玄関を開けると、つばめが家の前で待っていたからだ。


「おはよう」

 つばめが言った。


「お、おはよう」

 俺は警戒しながら答えた。待ち伏せとは、どういうつもりだろうか。俺はそんなにつばめの恨みを買ってしまったのだろうか。


「ナオヤのこと、持ってたんだ」

 と、つばめは言った。

「バス停まで一緒に行こう」

「お、おう」


 俺は内心で恐怖を覚えながら、それを表に出さないように言った。

 玄関から出ると、つばめがえへへと笑いながら、俺の隣に並んだ。どうやら機嫌が悪いわけではないらしい。よくわからないが、昨日のこと怒っていないのだろうか。


「なあ、つばめ……」

 俺は意を決して口を開いた。


「なに?」

「昨日は、悪かったな」

 俺はとりあえず素直に謝ることにした。つばめの機嫌が良そうなうちなら、許してもらえるかもしれない。

「告白の途中に割り込んだりして」


「そーだよ!」


 すると、つばめがわざとらしく俺を睨んでみせた。


「しかも相手はあの黒沢先輩だったんだよ。それがナオヤのせいで台無しだよ。もう、こうなったら、ナ、ナオヤには……せ、責任とってもらわないと――」

「わかってるよ」

 俺はうんざりしながら言った。


「ほ、本当に?」

「ああ。それにさ。昨日、黒沢先輩に呼び出された時、わざわざ俺に止めなくていいのかって聞いてくれただろう。あれもさ。つい俺も変な強がり言っちゃって悪かったな」


「いいよ、そんなの! ナオヤ、結局、来てくれたんだし。全然気にしなくて……」

 俺はそれを聞いて安堵する。よし、どうやら本当に怒っていないらしい。


「それなら良かった。俺、昨日はさすがに自分で自分が嫌になったよ。あまりの鈍感さ加減に、我ながら、ほとほと愛想が尽きそうになるっていうかさ……」

「よ、ようやく!」

 つばめが感動した面持ちで、何度もうなずく。なんとなく、いい雰囲気というか、これなら今日はすんなりといけるかもしれない。


「――だって、あのままつばめが黒沢先輩と付き合っていたら危なかったもんな。いくら世界のためだとはいえ、恋人が自分以外の男とキスしているなんて、黒沢先輩からすれば裏切りだもん。つばめはそれに気付いていたから、ああやって俺に警告してくれていたんだろう?」


「――は?」


 それまでご機嫌だったつばめの雰囲気が一変する。俺は、あれ、と思った。まずい。なにかまた自分でも気が付かないうちに失言してしまったのだろうか。俺は慌ててフォローする。


「ま、まあ、今日を含めて、あと五日間だけだから、その期間は我慢してくれよ。それが終わってからなら、誰と付き合おうが、つばめの好きにすればいいんだから。そうだ。黒沢先輩なら高橋にいえば連絡先教えてもらえると思うから、場合によっては、俺が会って誤解を解いておいてもいいし。だから、まあそれまでは、とにかくこっちに全力投球ということで……。とりあえず今日の分をすませて――」


 俺がそう言って唇を寄せようとすると、つばめの手が素早く動いて、自転車のカゴの通学鞄を二人の間に割り込ませた。


「あっ、危なッ!」


 さすがに三日目だけあって、鼻をぶつける寸前で留まることができた。俺も少しは学習しているのだ。と、弾みでつばめの自転車が倒れて、俺のスネをハンドルがかすめた。ぐっ、と声にならない悲鳴をあげると、俺は痛みのあまり、涙目になった。


「おい、またかよ!」

「それはこっちのセリフだぁッ!」


 さっきまでの春風が一瞬にして吹き飛び、酷暑の太陽光線のようなカロリーの高い怒りが俺に向けられている。なにがどうしたというのか、相変わらず理解できない。


 俺は呆れの入り交じった嘆きの声をあげた。


「いい加減にしてくれよ。つい先刻、責任とって世界を救わなくちゃなってことで話がまとまったばかりじゃないか。というか、もうはっきり言わせてもらうがな、キスくらい、そんなに嫌がらなくてもいいだろ。すでに二回してしまってるんだから、今さら減るもんじゃないし、三回だろうが、四回だろうが、もう一緒じゃん」


「うわー」


 と、つばめは手にした通学鞄を頭巾のように頭頂部に置いて、まるで頭を抱えるような姿勢をとった。


「もう、やだよー。この人どうかしてるよー。ホントに頭おかしいよー」


「な、なんだよ、それ?」

「もういい。ばいばい!」

 つばめは自転車を素早く引き起こすと、颯爽と走り出した。せっかく上機嫌だと思っていたのに、結局はこうなってしまう運命なのか。俺は絶望のあまり声を荒げた。


「おい、つばめ!」

「もう話したくないの!」

 そう言って、つばめは走り去ってしまった。


 俺は全身から力が抜けていくのを感じた。またしても、このパターンである。つばめが成長しないのか、俺が女心を理解できていないだけなのか。


 うーん。やはり俺が女慣れしていないことを差し引いても、つばめの思考内容は難解過ぎる気がする。どちらにしろ、勝負は、またしても学校に到着してからとなりそうなので、じっくりと作戦を練るしかない。


 俺は歩いてバス停まで行くと、ちょうどやって来たバスに乗り込んだ。


 しかし、バスに揺られながら考えてはみたものの、特に思わしいアイデアも出てこない。やはり対策を立てるにしても、原因が意味不明では手の打ちようがないのだ。


 学校近くのバス停に到着し、バスを降りてすぐのことだった。

 なにかが猛スピードで俺に突っ込んできた。


「わっ!」

 俺はびっくりして身をかわしたが、それよりも早く、その物体は急停止したので、どちらにしろぶつかることはなかっただろう。


「おい、ナオ!」


 と、声がかかった。俺に突っ込んできたのは自転車で、運転していたのは高橋だった。


「なんだ高橋かよ。危ないだろう!」

「危ないじゃねぇよ。お前、昨日のこと聞いたぞ!」

 高橋は珍しく怒っていた。


「げっ!」

「げっ、ってなんだよ。自分のしたことわかっているのかよ」

 俺はようやく思い出した。昨日は、高橋にも黒沢先輩の告白の件で、散々念を押されていたのだ。


「すまん」

「謝って欲しくなんかねーし。そもそも好きにしろって言ったのは俺なんだからな。でも、あんなやり方は違うだろう。わざわざ黒沢先輩に恥をかかせてさ。永嶺さんと付き合っていたなら、せめてそれとなく言ってくれたっていいだろ」


「いや、あれは付き合っているとかじゃないんだ」

「なんで付き合ってもないのにキスするんだよ。そんな言い訳聞きたくねーよ」

「本当だよ。色々と言えないけど、ややこしい事情があって……。とにかく嘘を吐いたわけじゃなかったんだ」


「へえ……?」


 高橋は露骨に信じられないという顔をした。そりゃそうだ。俺だって、自分で言っていて、なにを言っているかよくわからないのだ。


「だから、高橋もあんまり変な誤解しないでくれよ」

 俺は内心で、できれば高橋に周囲の誤解を解く手伝いをして欲しいと都合のいいことを考えていたのだが、この反応ではそれも難しいだろう。


 予想通り、高橋は、もういいよ、と吐き捨てて顔を背けてしまった。


「正直、俺はこれが一番いい形だったと思っているから、いいんだけどさ。ナオは最低限の筋は通す奴だと思っていたから、なんか残念だわ……」

「だから――」


 と言いかけたところで、後ろから激しいクラクションが聞こえた。振り向くと、白い乗用車が反対車線にはみ出して、あやうく対向車にぶつかりかけたらしい。


 危ないなぁ。そう思って、もう一度視線を戻すと、すでに高橋は自転車で走り去ってしまっていた。


 しょうがない。タイミングを見計らって、学校で誤解を解くしかないか。


 ただでさえ、つばめのことで大変なのに、次々と難題が降りかかってくる。俺は叶うことなら、神様を一発ぶん殴ってやりたいと思った。


 〇


  メッセージは、ずっと未読のままだった。


 俺は苛立ちながら、電話をかけてみる。ところが圏外か、もしくは電源が入っていないとのメッセージが流れる。


 俺は急激な不安に襲われる。何時まで経っても、つばめが学校に来ないのである。


 いくら自転車とはいえ、学校に到着する時間は十分も変わらないはずなのである。それに、つばめは遅刻したり、サボったりするような性格ではない。

 そうこうするうちに、朝のチャイムが鳴った。ところが、担任の南原先生も来ないのである。


 教室も異変に気付いてざわめきはじめた。俺は机の下で、再度つばめに再び電話をかけてみるものの、不通に変化はない。


 やがて教室に梅野先生がやってきた。海野先生は俺たちのクラスの副担任ではあるが、当然のことながら、ホームルームは担任の所轄事項である。


 今朝、南原先生の車はあったので学校に来ているはずなのだが、なにかあったのだろうか。


「おはよー。待たせちゃって、ごめんね」


「どしたんすか?」

 と、教室から声があがる。


「ちょっと担任の南原先生が忙しいみたいだから、ピンチヒッター。とりあえず、出席とるね」


 そう言って、海野先生は出席簿を確認すると、朝のホームルームをはじめた。なにかあったことは察せられたものの、誰もそれを指摘しない。重苦しい空気である。


 その後、授業が始まったのだが、やはりつばめは姿をみせない。俺は気が気でない。


 一時間目が終わって、休憩時間になると、俺はすぐに職員室に向かった。南原先生なら事情を知っているかと考えたからだ。俺は廊下から職員室をのぞいた。南原先生は席にいない。俺はしばらく待つことにしたが、南原先生が戻って来る気配は一向にない。もうすぐ二時間目が始まる時間になる。どこに行ってしまったのだろうか。いや、それか誰か他に事情を知っている人はいないだろうか。


「おい山本!」

 と、声をかけられて振り返ると、そこにはまひるが深刻そうな顔をして立っていた。


「ごめん。ちょっと時間ないんだ」

「つばめのことだろう? さっき海ちゃん先生に聞いてきたぞ」

「え!」

 俺は自分の声が上ずるのがわかった。脳裏に浮かんだ最悪の想像を必死で振り払う。


「何があったって?」

 俺は尋ねた。


「事故だ。信号待ち中に車が突っ込んできたらしい」


 まひるは言った。俺は頭の中が真白になった。


「いや、落ち着け。怪我は大したことないそうだ」

「……そうなの?」


 どうにか自分を取り戻すと、俺は言った。


「というかな。正確には事故に遭ったというより、つばめのすぐ脇のガードレールに衝突したらしい。まあ、衝撃で自転車ごと転んだみたいだがな。ちょっとした打撲程度ということだ」

「それじゃあ命に別状はないんだ」

 俺は胸を撫でおろす。


「もちろんだ。ただ、自動車の運転手が、ショックで心停止状態に陥ったらしくてな。その場には、幸いにも救急医療の知識がある人間もいたんだが、緊急にAEDが必要ということで、つばめが近隣の公民館まで借りに行ったらしい。こう、自転車で急いでな」


「はあ……」

 俺は曖昧に相槌を打った。なんだか嫌な予感がする。


「そしたら朝から激しい運動をしたせいだろう。事故現場に着いてすぐに貧血で倒れたという話だ」


「はあ?」

「うん。……だから、貧血で救急車に運ばれていって、今は病院にいるということだ」


「ば、馬鹿じゃないのか!」

 

 俺は声をあげた。呆れて、何といえばいいのかわからない。


「一応、検査もするということだが、異常がなければ午後からでも学校に来れるみたいだ」

「なんだよ、それ」


 心配して損した。てっきり、もっと最悪の事態を想像していたのだ。

 俺は心底からホッとした。安心するあまり、思わず全身から力が抜けそうになった。


「それで、運転手の方も無事だったのか?」

「ああ、なんとかな。どうやら命は助かりそうとのことだ。つばめのお手柄というやつだよ」

「だけど、それで自分が救急車に運ばれちゃ駄目だろう」

「私も話を聞いて呆れたよ。人助けはいいが、自己管理がおろそかではかえって迷惑をかけるからな。学校に来たら、気をつけるように説教しないとな」

「生徒会長の説教か。つばめに同情しちゃうな」


 俺は笑って言った。

 無事だとわかると、その程度の軽口を叩く気持ちの余裕もできてきた。しかし事故現場に居合わせておいて、しかも人助けをしようとしたせいで怒られるのだ。つばめにすれば、とんだ災難であること間違いない。これだけ心配させたのだから当然だともいえるが。


「そういうわけで私は教室に戻るが、君も授業開始までに席に着いていないと、つばめより先に私から叱責されることになるから覚悟しておいてくれ」

「いや! 戻ります。すぐ戻りますよ!」

 そう言うと、俺たちは連れだって教室に戻った。


 一安心すると、ようやく授業に身を入れて集中できる――わけでもなく、俺はつばめのことばかり考えていた。

 今回は大事にならずにすんだようだが、もしも重傷でも負うようなら世界はどうなっていたのだろうか。さすがに継続不可能ということで中止になってもよさそうなものだが、あのいい加減な天使の話しぶりだと、そんな配慮はしてもらえないのではないか。

 

 だとすれば、これから五日間は事故にも気をつけなければならない。不慮の出来事であっても、ミッションに失敗すれば、おそらく世界はお終いなのだ。


 〇


 そうしているうちに午前の授業が終わり、昼休みとなった。何事もなければ、もうすぐつばめが来るはずである。売店にパンでも買いに行こうかと廊下に出ると、まひるが血相を変えて海野先生と話し込んでいた。


「……それじゃあ意識が戻らないんですか?」


「うん。多分、倒れた時に脳震盪を起したんじゃないかって話なんだけど、それで急遽、今日は入院することになったらしいの」

「それは心配ですね……」

 そう呟いたまひるが俺をみつけると、あっと目を見開いた。


「山本……」


「どうしたんですか。つばめに何かあったんですか?」

 海野先生は戸惑ったように目を逸らした。そのかわりに、まひるが答える。


「どうやら意識がまだ戻らないらしい」

「え?」


 俺は絶句した。


「なんで。ただの貧血だったんだろう?」

「そのはずなんだが、もしかしたら事故の時か、貧血で倒れた時かに頭を打ったのかもしれないという話だ」


 まひるの口ぶりは、いたって冷静だったが、俺は顔から血の気が引いていくのがわかった。

 もう事故から四時間近く経っている。それなのに、まだ意識が戻らないとなると、それがただごとではないのは、俺にだってわかる。俺は嫌な想像を振り払おうと、頭を振った。それが本当に頭へのダメージが原因なのだとすれば、最悪の場合、命の危険だってあるのではないか。


 そうなると午前中の嫌な想像が現実になってしまう可能性すらあるのだ。


「そ、それで、つばめは大丈夫なんですか?」

「だから、それがまだわからないの……」

 海野先生が困ったような顔をした。


「つばめはどこの病院にいるんですか?」


「あー……」と、梅野先生は言葉を濁した。


「心配なのはわかるけど、今はまだ永嶺さんも大変みたいだから――。お見舞いに行くなら落ち着いてからの方がいいと思うの。だから、ね?」


 それは教師としては真っ当な意見だったかもしれない。だけど、俺からすればそれどころではない。つばめが心配なのはもちろんのこと、このまま夜七時を過ぎてしまえば、世界は滅んでしまうのだ。


 それに――


 と、俺は思った。他のクラスメートならいざしらず、俺にはそれを知る権利があるはずだ。なんといっても、つばめとは子供の頃からの付き合いなのである。


 しかし、一方で、自分を俯瞰する妙に冷静な俺がいて、それを口にするのを妨げた。


――だから、なんなのだ?


 幼馴染といっても、それは長い付き合いの友人に過ぎない。それなりに家族付き合いがあるといっても、ただの他人ではないかといわれれば、その通りなのだ。だとすれば、俺にとって、つばめとはどういう存在なのか?


 俺は言葉を継げないまま、その場に立ち尽くしていた。

 つばめが俺にとって大切な存在なのは間違いない。だけど、その関係性を自分の気持ちに沿って言い表すそうとすれば、どんな言葉も収まりが悪い気がしてくる。

 少なくとも、俺はこの場で海野先生を納得させられるだけの、説得力のある一言さえ持ち合わせていないのだ。


「海野先生――!」


 と、廊下の向こうから誰かが呼ぶ声が聞こえた。声のした方に目を向けると、学年主任の竹原先生が呼んでいる。


「ああ、海野先生、よかった。こちらにいらしたんですね。ちょっと話があるんで、お時間いいですか?」


 海野先生は俺にちらりと視線を送ると、今行きます、と返事をした。


「ごめんね。そういうことだから」


「あっ……」


 止めようとするより早く、海野先生は足早に去って行ってしまった。つばめの病院を聞き出そうにも、まるで取り付く島もなかった。


 俺はまひると顔を見合わせる。彼女も、心配なのだろう。その表情には、いつもの精彩がない。まひるは、むしろ自分自身に言い聞かせるように言った。


「まあ、そう心配しなくても大丈夫だろう。最近、どうも疲れ気味だったみたいだから、きっとそのせいだ。どうせ、もうすぐ目を覚ますさ」


 俺はうなずいた。


 きっとそうだ。

 いや、そうだと信じたい。こうやって俺たちを心配させておきながら、本人は呑気に寝ているだけなのだ。もしかしたら、今頃はちょうど目覚めたところで、寝ぼけまなこで病室を不思議そうに見回している頃かもしれない。


 神様からの試練のこともあるので、つばめだって意識を取り戻せば、すぐ俺に連絡してくるはずだ。


 でも、もしそうじゃなかったとしたら?


 本当にどこか悪くしていて、昏睡しているのだとしたら?

 

 それに、たとえ無事だったとしても、こんな気持ちのまま、俺はつばめと顔を合わせたくなかった。


「久保さん――!」


 と、俺は言った。


――世界を救うため。

 

 もちろん、それもある。でも、多分、そんなものは表向きの理由でしかない。

 つばめが大変な状況なのに、手をこまねいて待っているなんて、耐えられない。俺は今すぐにつばめのところに行かなくちゃいけない。きっと、そうしなくてはならないのだ。

 

 それは誰よりも俺自身のために、だ。


「――俺、頭痛い。悪いけど、早退するから先生にそう言っておいて!」


 そう言い残して走り出そうとすると、「ちょっと待てっ!」と声がかかった。俺は瞠目する。生徒会長相手に、こんな明らかな詐病は、やはり通用しないか。

 すると、まひるがこんなことを言った。


「――君、持ち合わせはあるのか?」


「え?」

「つばめのところに行くつもりなんだろう? 先立つものがなくては、いざという時に随分と違う。必要なら、これを好きに使うといい」


 そう言って、まひるは彼女の財布ごと投げて寄こした。キャッチすると、俺の薄っぺらい財布と違って、確かな重みがあった。


「あ、ありがとう! 恩に着るよ!」

 俺は有難く受け取ると、一目散に学校を飛び出した。


 〇


 まず最初に俺がしたのはスマホで、市内の救急指定病院を検索することだった。検索結果は、四件でいずれも学校からは数キロの距離がある。おそらく、つばめはこのどれかにいるだろう。


 俺はまひるから預かった財布の中身を確認する。すると驚いたことに現金だけでなく、クレジットカードも入っていた。


 当然のことながら、まだ高校生の俺は、クレジットカードなど使ったこともない。しかも、まひるのカードは黒い。真っ黒い。つまり、あの伝説のブラックカードである。

 かつて噂で、まひるの父親は相当の名家で素封家として名高いと聞いたことがあったが、途端にそれが信憑性を帯びてくる。少なくとも、ただの女子高生でないことは間違いない。


 それでも財布には一万円札も入っていたので、助かった。俺は駅前に行くと、一日千円のレンタサイクルを借りた。これで機動力がはるかに高くなる。


 俺は検索結果の病院のうち、つばめが搬送された可能性が最も高いと思われる通学路に位置する総合病院へと向かった。


 自転車を漕いで病院に着く頃には、すでに昼過ぎとなっていた。


 俺は自転車を正面ロビー前に停めると、もどかしいくらいに反応の悪い自動ドアを通り抜けた。屋内に入ると、広々とした待合室の向こうに総合受付がみえる。俺は足早にロビーを横断すると、受付にいた若い女性に声をかけた。


「――すみません」

「はい、どうされましたか?」

 俺の剣幕に、受付の女性は目をぱちくりさせた。無理もない。俺は自転車を走ってきたせいで、かなり汗ばんでおり、息もあがっている。しかし、俺にそれだけの余裕がないのも確かなのだ。


「あの……聞きたいことがあるんですけど。こちらの病院に永嶺つばめって患者がいるか教えてもらっていいですか?」

「ええっと……」

 すると受付女性の表情が明らかに曇った。どこか困惑しているようにもみえる。


「今朝、交通事故に遭って救急で運ばれてきたと思うんですけど……」


 俺はそう言いつつも、質問の仕方を間違ったことに気が付いた。病院のマニュアルでは個人情報の観点から、こんな聞き方では教えられないのだろう。しかも、俺は日中の真昼間にもかかわらず高校の制服なのである。あまりにも怪しすぎる。


「――あの、恐れ入りますが、患者さんとはどのようなご関係ですか?」

「弟です」

 息を吐くように嘘が出た。


 しかし、俺はこんな状況にもかかわらず、ちょっと後悔した。とっさのこととはいえ、どうして兄ではなく、弟と言ってしまったのだろうか。つばめとは同級生とはいえ、誕生月でいえば、俺の方が二月ほど早いのである。


「そうなんですね。わかりました。少々、お待ちいただけますか?」

 そう言って、彼女は受付の奥へ引っ込むと、中にいた年配の女性になにやら相談をはじめた。気のせいだろうか。ちらちらと不審気な視線がこちらに送られてきて、落ち着かない。しばらく待っていると、ようやく戻ってきた。


「大変お待たせして申し訳ありません。患者様について、当院から他の病院にも問い合わせてみたいので、なにか身分を証明するもののご提示はお願いできますか?」


「身分証……ですか」


 俺は言葉に詰まった。学生証ならある。ただ、もちろんそこに記載された名前は山本姓のものだ。そんなもの提示したら、嘘を証明するようなものだ。


「すみません。……ないです」

 俺はとぼけるように答えた。

 とはいえ収穫がなかったわけではない。他の病院に聞いてみるということは、ここにつばめはいないということだろう。それさえわかれば充分である。


「そうですか。そうなると申し訳ありませんが、身分証をお持ちいただくか、それか親御様にご連絡をとって頂くのがよろしいかと思いますが……」

 ああ、そうか。すっかり気が動転していたが、その方法もあったか。


「わかりました。そうします」

 俺はそう言って、病院を出ると、スマホを取り出した。電話帳からつばめの父さんの番号を呼び出し、通話ボタンを押す。しかし、すぐに圏外もしくは電源が入っていないというメッセージが返ってきた。


「くそっ!」


 俺は吐き捨てる。おそらく、つばめの事故の報せを聞いて病院にいるため、携帯電話の電源を切っているのだろう。仕方がないので、メールでメッセージだけいれておいてから、念のため家電にもかけてみる。やはり呼び出し音がなるだけで、いつまで経っても繋がらない。


 こうなったら仕方がない。当初の予定通り、自力で探すしかない。


 俺は自転車に飛び乗ると、次に近隣となる病院へと向かう。俺は段々と不安が大きくなる。このままつばめの搬送された病院がみつからなければ、世界は滅んでしまうのである。時計を確認すると、すでに二時を過ぎている。

 こうなってみると、あの時点で学校を飛び出してきて、つくづく正解だったと思う。


 次の病院に着いた。


 俺は真直ぐ受付に向かうと尋ねた。

「すみません。こちらに入院している永嶺つばめの見舞いにきたんですけど、病室を教えてもらえますか?」

「ながみね……」

「――つばめです。今朝、交通事故でこちらに搬送されたはずなんですけど」

「ナガミネツバメ様ですね。少々、お待ちください」


 そう言うと、受付はパソコンのキーボードを叩き始めた。どうやら今度は、聞き方を間違えずにすんだらしい。


「申し訳ありません。当院では、ナガミネツバメ様という患者様の受け入れ記録はないようなのですが……」


 しかし結果は空振りに終わった。俺は落胆したものの、すぐに気持ちを切り替える。


「わかりました。もしかしたら病院を間違えたのかもしれないので、もう一度確認してみます。ありがとうございます」


 そうお礼を言って、病院を出た。これで残りは二か所。時刻は三時前。他の病院はここから結構な距離があるが、それでも、いくらかの余裕はありそうである。


 ところが、そう思っていたものの、道に迷ってしまい、三か所目となる病院に着いた時には四時半を過ぎていた。こうなると、いよいよ焦りが出てくる。祈るような気持ちで、受付に問い合わせたが、パソコンで確認した結果、やはりそんな患者はいないという。それを聞いて、俺は気が遠くなりそうだった。


 のどがカラカラだったので、病院の自販機で缶ジュースを買うと、一気に飲み干した。そういえば、昼飯も結局食べていないのだ。


 休憩もそこそこに、俺は最後となる病院へと向かった。このままみつからなかったら、どうしようか。脳裏にそんな考えがよぎる。体が疲れ切っているせいか、思うように自転車も前に進まない。


 それでもどうにか目的地に辿り着いた時には、六時過ぎになっていた。もう猶予は一時間もない。とはいえ、市内に運び込まれたとすれば、もうここしかないはずなのだ。


「すみません。こちらに入院している永嶺つばめの病室を教えて欲しいんですが」

 俺がそう頼むと、受付の中年男性はすぐにパソコンから情報を呼び出してくれた。そして、言った。


「――こちらにはいませんね」


 そんな馬鹿な。


「本当ですか。もう一度、調べてみてください」


「そんなこといっても、いないもんはいないよ」

 男は不愛想に言った。

 その態度が、俺の神経を逆撫でする。しかし、目の前の男に怒りをまき散らしても仕方がないと思い、ぐっと堪える。

 俺は呆然とするあまり、頭がくらくらするのを感じた。


――どうして?


 俺は病院を退散すると、絶望に打ちひしがれた。もう残り時間は三十分を切った。


 気が張り詰めていたせいか、それまで意識していなかった疲労が一気に全身に襲い掛かる。俺はその場にへたり込んだ。


 もう駄目だ。このまま奇跡でも起こらない限り、時間までにつばめと会える気がしない。

 そしていつだって現実は非情なもので、そうそう都合よく奇跡なんて起きっこないのだ。


 果たして、俺はどこでなにを間違ったのだろうか。

 

 やはり連絡がくるのを待つべきだったのか。だけど、つばめも意識を取り戻したなら、まず俺に連絡してきただろう。

 それがまだないということは、やはり今も昏睡状態にあるのではないか。


 いずれにせよ、ひとつだけはっきしていることがある。

 世界は、俺のせいで滅びるのである。


 俺は一縷の望みに縋るようにスマホを取り出すと、メールをチェックする。つばめからも、つばめの父さんからの連絡もまだない。もしかしたら市内の病院で受け入れできなくて、市外の病院に搬送されたのだろうか。そういう話は、かつてニュースで聞いたことがある。


 今からでも、市外の病院にも捜索範囲を広げるべきだろうか。俺はスマホで近隣市町村の救急病院を検索しようとして、ふとある違和感に気付いた。


 つい今しがた――いや、二件目、三件目の病院でも、つばめの名前を告げた時、まず最初に受付がしたことは、パソコンで患者の情報を呼び出すことだった。


 しかし最初の総合病院だけは、パソコンで照会することなく、他の病院に問い合わせてみると言った。

 

 まさか、あれだけ大きい病院の全ての患者の名前を把握していたとは思えない。だとすれば、あれはつばめがいなかったからではなく、むしろ搬送されてきたことを知っていたからこその対応ではなかったのか。たとえば、俺より先に、つばめの父さんに病室の案内をしていたようなケースである。


 そうなると、あの受付女性が奥で先輩らしき人に相談していた理由も察せられる。病院の規則として患者の個人情報を教えるわけにはいかないが、実弟を名乗る相手を無碍にもできない。そこで穏当に身分証明書を提示させるための方便として、あのような言い方をしたのではなかった。

 

 もし俺が本当に弟であることが証明できたのであれば、今しがたパソコンで確認した体で、つばめの居場所を案内すればいいというわけである。


 どちらにしろ、もう時間はない。それに市外の病院まで足を伸ばしたところで、つばめがいるとは保証はないのだ。ならば、自分の推測に全ての運命を委ねるしかない。


 俺は時計をチェックする。間に合うか。最早残された体力はわずかで、時間的にも厳しいが、最後まで諦めるわけにはいかない。


 と、病院の前にタクシーが停まっているのがみえた。


 そうだ。車なら、自転車で行くよりも、早く着くはずだ。俺はタクシーに乗り込むと、病院の名前を告げた。


「申し訳ないんですが、七時までに着きたいんです。急いでください!」

「うーん。混んでなければ、間に合うと思うけどね。まあ出来る限りは頑張ってみるよ」

 運転手は自分がとんでもない責任を背負わされたこともしらず、暢気に答えた。それでも俺の要望に応えるためか、力強くアクセルを踏み込むと、車が走り出す。


 まひる、悪い――。

 今日使ったお金は、世界が滅びずにいられたら、きっと返そう。ここにきて、まひるの機転には、非常に助けられた。


 タクシーが病院正面玄関前のロータリーに滑り込む。


 時刻は午後六時五十二分。もう、あと八分しかない。もし受付が昼間と同じ人だったらどうしようか。こればっかりは、運に任せる他ない。

 俺の顔を覚えられていたら、つばめの病室を聞く術がなくなるのだ。


 するとタクシーを降りたところで、見知った顔をみかけた。

「――おじさん!」

 つばめの父さんだった。手には電子煙草とカートリッジの箱を持っている。どうやら煙草を吸いに外に出てきたところだったらしい。


「ああ、直哉君じゃないか。どうしたんだ?」

「おじさん、ずっと連絡してたんですよ。つばめは! つばめは大丈夫なんですか?」

 すると、おじさんの顔が曇った。


「そうか……。お見舞いに来てくれたんだね……。いや、すまない。ずっと病院内にいたから携帯の電源をいれるを忘れていたよ。……実は、つばめは、まだ意識が戻らないんだ。さっきCTも撮って貰って異常は見当たらないみたいなんだけどね……」


「そうなんですね……」


 俺はなんともいえない気持ちに襲われた。でも、つばめが目を覚めた時に、世界が存続しているためにも、今は心配するより先にすべきことがある。


「つばめは今どこにいるんですか?」


「僕も戻るところだったから、一緒に行こう」


 おじさんとつばめは父子家庭の二人暮らしである。それだけに大事な一人娘の異変で不安だったのだろう。少なからず俺が見舞いに来たことを喜んでくれているようで、病室へ向かう途中も、ずっと喋り通しだった。明日にはさらに精密な検査をするためMRIの予約も入っているらしい。


 六時五十七分。ようやく今朝ぶりに、つばめの顔をみることができた。


 つばめは病室のベッドで目を閉じて眠っていた。特に苦痛を感じている様子もなく、安らかな表情である。


「おい、つばめ。直哉君がお見舞いに来てくれたぞ」


 おじさんがつばめに話しかける。しかし反応はない。


「どうしたもんかなぁ。医者もこんなこと初めてだっていうんだが……」

 俺は相槌をうったものの、内心では困り果てていた。


 もう時間がない。だから、今すぐにでもつばめにキスしなくてならない。


 それなのに、おじさんがいてはできない。世界の命運と天秤にかけてでも、できる気がしない。父親の目の前で、いきなり意識のない娘にキスをするなんて、あまりにも人間の道を外れた所業だ。


「あ、ああー……なんだかのどが渇いたなぁ……」

 俺は自分でも不自然になるくらい、わざとらしい声をあげた。おじさんが「ん?」と不思議そうな顔をする。


「――おじさん、俺、のどが渇いた。のどが渇いて、死んじゃいそうだよ」

「あ、ああ……」


「そ、そういえば、さっきエレベーター前に自動販売機があったなー。なにか飲み物欲しいなぁー」

「……なにかジュースでもいる?」


「え! ええー! いいんですか?」


「いいよ」


「じゃあ、ちょっと買ってきてもらってもいいですか?」


 いいわけがない。

 幼馴染のお見舞いに訪れておきながら、その親にジュースを買いに行かせるなんて、どんな社会不適合者だよ。でも、世界を守るためには仕方がないのだ。俺はおじさんに心の中で「ごめんなさい」と謝る。


 おじさんはさすがに嫌な顔をした。


「その……膝が。実はさっきエレベーターに乗った時、気圧の変化で膝を痛めて、上手く歩けないんです」

「……あ、ああ、そうなの? それなら行ってくるけど」


 おじさんは要領を得ない表情ではあったものの、優しくそう言ってくれた。色んな意味で感謝しかない。


「くっ、早く。一刻も早く行ってきてください。さもないと、僕ののどが……のどが渇いて死にそうです!」

 それにもかかわらず、なおも邪気眼まがいの頭のおかしい発言を続ける俺。自己嫌悪で泣きたくなる。しかし時刻は六時五十九分なのだ。もう一分を切っている。


 俺はおじさんが病室を出てドアが閉まると同時にベッドに屈みこむ。俺は躊躇う時間も惜しいとばかりに、つばめに唇を重ねた。


――間に合った。


 つばめの唇は意識がなくても温かかった。


 俺は顔をあげる。その瞬間、俺はあっと声をあげた。なんと、つばめが目を覚ましていたのだ。


「つばめ――!」

「ナオちゃん……」

 つばめは、意識がまだはっきりしないのか、寝惚けた声で言った。


「……なんだか、ずっと夢見てたみたい」

「みたいじゃなくて、ずっと寝てたんだよ」

「そっかぁ……。まるで白雪姫になった気分だな」

「王子様じゃなくて悪かったな――」

 俺は苦虫を噛み潰したような気分で言った。


 すると、病室のドアの向こうから声が聞こえた。

「――つばめ、意識が戻ったのか!」


 おじさんだった。


「よかった。体はなんともないのか――?」

「わわっ、どうしたの。お父さん」


 おじさんはつばめに走り寄ると、つばめの手をとり、愛おしそうに撫でた。


「よかった。本当によかった」

 おじさんがどれだけつばめを大事にしているかがよくわかる光景である。俺は涙ぐむおじさんをみて、思わずもらい泣きしてしまいそうになりかけて、ふと、あることに気付いた。


――ジュースを買いに行ったはずなのに、おじさんは手ぶらだった。


 背中に冷や汗が流れるのがわかった。おじさんはつばめが元気なことに安心したのか、ゆっくりと立ち上がった。


「さて、と――」おじさんが俺に目線を向けた。その目は視線だけで人を刺し殺すことができそうなほど鋭かった。


「――さっきのは、どういうことか説明してくれるよね。直哉君?」

「な、な、な、なにがですか?」

 俺は動揺を隠せない。


「ジュースは何がいいかを聞き忘れたから部屋に引き返そうとしたら、まさかあんなところを目撃するなんてね」


「あ、あ、あ、あんなところですかぁ?」


「誤魔化すんじゃない! 意識のないうちの娘に、いかがわしいことをしていただろう!」


「ひ、ひぃっ!」

――しっかり、見られていた。


 おじさんは腕を伸ばすと、俺の肩に回して顔を引き寄せた。


「いつからだい? おい、君はいつからうちの娘とそういう関係だったんだい?」

「い、いつからですか……?」


 これで、実は付き合っていないとでも言おうものなら、殺されてもおかしくない。俺はつばめに目で助けを求めるが、なにがおかしいのか、そんな俺たちをみて、ニコニコと笑っている。


「さあ、直哉君。怒らないから、早く答えなさい。おじさん、ちぃっっとも怒ってないから、正直に答えるんだ」


 絶対、怒っているやつじゃないか。


 それにしても学校でのことといい、今日おじさんに現場を目撃されたことといい、俺の意思に反して、どんどんと既成事実が固まっていくように思えるのは、気のせいか?


「早くッ! 早く言いなさいッ、直哉――!」


 おじさんは肩に回した腕で、俺の頭をがんがんに揺り動かしながら声を荒げる。俺はどうしたらいいかわからず、あまりに不幸過ぎる境遇に泣きそうになりながら、ただひたすらおじさんのされるがままになっていた。

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