第2話 2日目
「――よう」
と、俺はつばめに声をかけた。天使が夢に現れてから二日目となる翌朝のことである。
俺はこの日いつもより早めに家を出ると、つばめの家の前で彼女を待った。初日にあれだけ苦労したのだから、今日こそは、すんなりと課題を終わらせておきたい。
待つほどもなく、つばめが玄関から出てきた。家の前にいた俺と目が合うと、まごついたように立ち止まった。
俺は軽く右手をあげると、おはようと挨拶をした。
「お、おはよう」
つばめはちょっとはにかんだような笑顔で答える。昨日のことがあっただけに、どことなく気恥ずかしさが漂う。
「……昨日は大丈夫だった?」
と、つばめが聞いてきた。
「ああ……」
俺はふと裏山の向こうに目を向けた。最近はニュースになる話題が少ないせいか、隕石の落下現場には、まだ報道陣が詰めかけているらしい。
「……まあ、なんとかな」
俺はどう答えるか迷った末に言った。
つばめが直前にハンドルを切ったおかげで、スピードがかなり減殺されていたのが幸いした。打ちどころもよかったのか、大きな怪我に繋がらなかったのは奇跡といっていいだろう。とはいえ、わざわざ言いはしなかったが、背中にはかなりひどい擦り傷ができていて、昨日風呂に入る時には随分と痛い思いをした。
「ごめんね」
と、つばめの顔が暗くなった。さすがに俺の強がりに気付いているのだろう。
「まあ、そんな気にするなよ」
俺は自転車を押して歩くつばめの隣に並んだ。いわば名誉の負傷というやつなのだ。なにより、つばめに怪我がないようでよかった。
つばめは軽くあごを引いたものの、やはりその顔は晴れない。
「つばめ。それよりさ……」
と、俺はつばめを呼び止めると、立ち止まった。
「なに?」
つばめも足を止め、小首を傾げる。
「わかってると思うけど、世界のためには、その……今日も……だから……」
俺は上半身を傾けると、つばめの前方を塞いだ。
「ヒンッ!」
は、鼻! また、鼻がやられた!
「いきなりなにするの!」
俺の鼻を押し潰した防御用の鞄を下げると、つばめの顔はさっきまでとは打って変わり、まるで変質者をみるような目になっていた。
「こっちのセリフだよ。これで何回目だと思ってるんだよ?」
「ナオヤが懲りないからでしょう!」
「だから俺だって悪いとは思っているよ。つうか、その話はもう納得したんじゃなかったのか?」
「納得とかそういうことじゃない」
「ああ、もうっ!」
これでは昨日の朝と同じことの繰り返しではないか。あれだけ苦労したのに、またしても最初からスタートでは、気が遠くなってくる。
それでも、俺はすぐにつばめがこうやって拒絶する理由に思い至った。
「ははぁ……。さては、つばめ。昨日のこと、まだ怒っているのか?」
幼馴染として断言していいが、つばめに今まで彼氏がいたことはない。おそらく、つばめも昨日がファーストキスだったはずなのだ。つばめだって、俺と同じか、それ以上に緊張していたのだろう。
「だから、それは昨日も説明したとおり、悔しがる必要はないんだからな」
「悔……しい――?」
つばめが、心の奥底から怪訝そうな顔をした。
「あれ、違うのか? 昨日、つばめは内心で気後れしていたんだろう。それなのに、俺がやけに冷静にみえたのが、精神的に負けた気がして悔しかったんじゃないのか?」
「はぁ?」
「だから、それは誤解なんだって。俺だって内心ではビビリまくっていたけど、それでも男として、せめてリードしなくちゃって必死だっただけなんだから。というか、確かに俺も悪かったよ。悪かったけどさ。さすがにそれくらいは最初から伝わっていると思うじゃん。幼馴染としての老婆心から言わせてもらうけど、つばめは男心に理解がなさ過ぎるよ。はっきり言って鈍感だね」
「ど、鈍感は、そっちだッ!」
つばめが声を張り上げた。どうやらまたしても神経を逆撫でることを言ってしまったらしい。いくら俺も鬱憤がたまっていたとはいえ言い過ぎたか。
「悪い。今のは謝るから、ちょっと待ってよ」
つばめが振り返る。
「ふえっ」
と、俺は思わず立ち止まる。つばめが凍るような冷たい目で俺のことを睨んでいたからだ。まるで氷系の魔法が直撃したかのように、身動きがとれなくなる。その威力は綺麗な顔立ちと合わさって必殺技と名付けたいくらいだ。嘘だと思うなら、是非食らってみて欲しい。
俺が言葉を失っている隙に、つばめは自転車に乗ると、さっさと走り去ってしまった。
〇
毎朝、家を出発するのはつばめの方が早いが、先に学校に到着するのはバス通勤の俺が早い。もちろん、いつものバスに乗り遅れなければという前提だが。
その日も、俺が教室に到着した時間には、まだつばめの姿はなかった。
俺が自分の席に鞄を置くと、高橋がやけに興味津々な表情で振り返って、俺の机に乗り出してきた。
「おっす」
「おはよう。どうかしたか?」
「いやぁ、それがさ。昨日、変な噂聞いちゃってさ」
「変な噂?」
「そう。ナオが放課後に自転車置き場で幼馴染ちゃんにキスさせろって叫んでたって」
「なっ……!」
俺はいきなりのことに動揺を隠せず、思わず咳き込んだ。
「だ、誰から聞いたんだ?」
「バスケ部のチームメートが目撃したんだって」
うわあ……。
俺は頭を抱えたくなった。そういえば、昨日熱くなるあまり、そんなことを口走った記憶が確かにある。あんなところをみられてしまうなんて、穴があったら入りたい。
「それは誤解だよ」
俺はなんとか誤魔化そうと試みる。
「そうなの?」
「う、うん。なんていうか、その……。そ、そう。あいつの家に親戚の漁師からとれたてのキスが大量に送られてきたらしくてさ。あんまり美味しいって自慢してくるもんだから『キス食わせろ!』って言ったのを、そのチームメートが勘違いしたんだよ」
「え? 白昼に、そんな意味不明なこと叫ぶ人類、この世にいる?」
「ここにいたんだよ」
「マジかよ。さすがに、それを信じる気にはなれないんだけど」
「そんなこと言ったら、同級生の女子に『キスさせろ』って言い寄る男子高校生だっていねーよ」
「いやあ、それはどうだろう……?」
高橋は腕組みをすると首を傾げた。事実は小説より奇なりというが、あまりに辻褄の合わない出来事に真相を量りかねているのだろう。だけど俺は自分の嘘の下手くそさに泣きたくなっていた。なんだよ、親戚の漁師って。あいつの田舎、確か山梨の山奥だよ。とれたてのキスなんて魚屋くらいにしかないし、それを大量に送ってきたなら、それはもはや納品だよ。
「とにかく、それは勘違いだから! そのチームメートにも、よく言っといてくれよ」
「まあ、ナオがそこまで言うなら、それでもいいんだけどさ。つか、俺が気になるのは、その後に永嶺さんがナオから逃げようとしてたって聞いたんだけど、実際のところ、二人の関係ってどうなってんの」
「どうなのって……」
「付き合っているわけじゃないんだよね?」
「そりゃそうだよ」
俺は自信をもって答える。つばめとは昔からの腐れ縁だが、そういう色恋沙汰に発展するような関係ではなくなっている。
「ちなみに、ナオはぶっちゃけ永嶺さんのこと好きだったりするわけ?」
「それはない」
「本当に?」
「もちろん」
「本当の本当に?」
やけにしつこく絡んでくるな。そう思って、高橋に目をやると、やけに真剣な表情をしている。
「だから本当だって……」
めったにみせない高橋の真面目ぶった雰囲気にあてられたわけではないが、俺はなんだか自信が揺らいでくる。いや、俺にとってつばめが大切であることは、確かに間違いない。でも、それは恋愛ではなく、家族とか、そういった意味での関係なのだ。
「じゃあ、いいんだね」
高橋が念押しするように言った。
「なにがだよ」
「お前の幼馴染ちゃんに彼氏ができてもだよ」
俺はドキリとした。つばめに彼氏? そんな馬鹿な。と、言いたいところだが、俺たちはもう高校二年生なのだ。しかも、つばめはあれだけ外見はいいのだから、恋人の一人や二人いたとしてもおかしくない。
しかし、それをリアルに想像すると、何故だか胸の奥が締め付けられるような気分になる。いや、これは多分あれだ。仲のいい友達が先に大人の階段を先に登ってしまう寂しさってやつだ。断じて、つばめに恋人ができて欲しくないなんて望んでいるわけじゃない。
「そんなのつばめの自由だよ。俺が口出しするような話じゃない」
「つまり、いいんだね?」
「だから、いいって言ってるだろう!」
「そこまで言うなら、信じるからな」
「なんだよ。さっきから何がいいたいんだ?」
「うちの部のキャプテンだよ。永嶺さんのことが好きなんだって」
「え?」
俺は固まってしまった。バスケ部のキャプテンである黒沢先輩なら、俺も知っている。イケメンでスポーツ万能。しかも成績優秀で、性格もよく人望も厚いという完全無欠っぷりで、うちの学校きっての有名人だからだ。
「黒沢さんが、つばめのこと?」
「そうだよ。そう言っているじゃん」
「つばめには、もったいないんじゃないか?」
俺は首を捻った。あの黒沢さんなら、もっと相応しい女性はいくらでもいるだろう。
「ナオはそんなこと言っているけど、俺はお似合いだと思うよ。二人が付き合えば、うちの学校一の美男美女カップルだもん」
いや、そんなことはない。
と、言いかけたものの、俺には関係ないと宣言した手前、「まあ、そうかもな」と曖昧に答えた。
「それでさ。黒沢先輩、ついに決心らしい」
「決心?」
「決意を固めたんだよ。永嶺さんに告白するんだって。いや、よかったよ。もしナオが幼馴染ちゃんのこと好きだっていうなら、俺、あやうく先輩への義理と友情とで板挟みになるとこだったんだもん」
「相手は部活のキャプテンなんだろう。最初から俺の肩を持つ気なんかなかったくせに、よく言うよ」
俺は動揺を隠しながら、あえておどけて言った。
「んなことないけどね」
高橋は、口調とは裏腹に真剣な表情で言った。
「確かに、俺にとっては、誰と誰が付き合おうが関係ないよ。でも、どうせなら学校生活、楽しくやりたいってのはあるわけじゃん。恋愛なんてのは駆け引きかもしれんけど、それで決定的に傷つく誰かがいるなら、自分の手持ちのカードをオープンにしたまま勝負する奴がいたっていいって思うわけ」
「なんだ、それ」
「まあ、俺の人生哲学みたいなもんだよ」
「ってか、おい。もしかして傷つく誰かって、俺のことか?」
うん、と高橋はうなずいた。
「もしナオが永嶺さんのことを好きだとしたら、そうなるだろうなと思っていた。バスケの試合だって、そうなんだけどさ。勝負して力及ばず負けるなら納得できる。でも油断していて、思いもよらないうちに負けるような負け方は、ずっと後悔が残るもんだろう」
「後悔なんかしないよ」
俺は笑い飛ばそうとしたが、思うように笑えなかった。高橋は続ける。
「それならいいんだけどね。でも、永嶺さんとは小さい頃からの付き合いなんだろう。ナオが彼女のことが好きだったとしたら、まず勝負すべきは、先輩とか部活のキャプテンとか関係なしに、ナオであるべきだと、俺は思う。だから、もしそうなら俺はナオの味方になろうと思っていた。それが筋だからね」
「ずいぶんと有難いね」
「友達だから」
高橋はさらりと言った。
「でも、それなら心配しなくても大丈夫だよ。俺はつばめに恋愛的な感情を抱いているわけじゃない。どちらかというと、子供のころからずっと一緒に育ってきたからね。家族みたいなもんだよ」
「わかった。それならいいよ」
そう言ってから、高橋は最後にこうも付け加えた。
「でもさ。でも、もし本当は好きだっていうならさ――」
「だから、しつこいって」
「いいから聞けって。もし本当は好きだっていうなら、俺のことは気にしくなくていいから、永嶺さんに告白しておけよ。それが一番、自然な形なんだからさ」
「絶対にそれはない」
俺が強めに反論すると、高橋もさすがにくどいと思ったのだろう。お手上げとでもいいたげに、万歳したまま、わかったわかった、といった。
しかし、俺はなんだかひどく取り返しのつかないことをしてしまったような後悔に襲われた。
俺はつばめを好きなのだろうか?
いや、違う。そんなはずはない。
じゃあ、何が問題なのだろうか。
黒沢先輩は俺も知っているが、内面も含めて、本当に格好いい人である。あの人に告白されたら、普通の女子なら、まずオーケーするに決まっている。きっと、つばめもそうするだろう。
俺としても、あの人なら、つばめを安心して任せられる。そう考えれば、黒沢先輩がつばめと恋人同士になるというなら祝福こそすれど悲しむ必要などない。
なのに、この息苦しさは、どうしたというのだろうか。いや。これはきっとあれだ。世界が滅ぶ前兆で、教室の酸素濃度が急激に低下しているのだ。
「あっ」
と、高橋が声をあげた。振り向くと、つばめが教室に入ってくるのがみえた。今、着いたらしい。
「……まあ、ナオの考えはわかったよ。そういうことだから」
高橋はそう言って、前を向いてしまった。
俺はなんだかもやもやを抱えたまま、胸のつっかえごと、言いたかったことを飲みこんだ。
〇
その日、最後の授業のチャイムが鳴った。
「えっ、もうこんな時間!」
そう言って、梅野先生は板書の手を止めた。
「仕方ないので、これを写し終わったら、もう終わりにしようか」
海野先生は、今年の春に名門女子大学を卒業したばかりの新任の社会科教師である。生徒と年が近いだけに、一部の女子からは「海ちゃん先生」と親しみを込めて呼ばれている。
まだ経験が浅いだけに授業も不慣れな点が多いのだが、それ以上に問題なのは、日本史の特定の一分野――具体的にいえば戦国武将に造詣が深いあまり、授業の内容がそれを連想させる話題に差し掛かると、しばしば授業が脱線してしまうことにある。そのせいで、俺たちの日本史の授業はいつも進捗が遅れがちなのだ。
とはいえ、今日ばかりは「もうこんな時間」という海野先生の感慨は、俺にとっても他人事ではなかった。
今日は朝からつばめと話す機会が作れないでいたのだ。
それというのも、意識してか、それとも偶然なのか、つばめはずっと女子グループで行動していたからだ。
俺としては、無理にその輪を乱してまで、つばめに話しかけるとなると、タイミングを見計らうのが難しい。
なにしろ昨日のことを誰に目撃されていたかわからないし、これ以上、変な噂を立てられても困るのだ。
「もう大丈夫かな。じゃあ今日の授業終わります。日直、号令」
海野先生の指示で、日直が「起立」「礼」と号令をかけ、その日の授業は終わった。海野先生が教室を出ると、入れ替わるようにして、担任の南原先生が教室に来て、ホームルームがはじまる。
部活に入っていない俺とつばめは、この後はもう家に帰るだけである。
とはいえ俺には、どこか楽観があった。昨日も結局は切羽詰まった放課後になってから課題をクリアできたのだ。
つばめにしたって、きっと追い込まれないとやる気が起きないのだろう。自慢するわけではないが、俺は夏休みの宿題をいつも8月31日に泣きながらやっていた。きっと、つばめも俺と同じタイプなのだろう。その気持ちはよくわかる。
俺はホームルームが終わると、すぐに机に座って帰り支度をするつばめの元に向かった。
「つばめ。ちょっといいか?」
「ダメ」
つばめは機嫌こそ直っているようだったが、やはり態度がそっけない。
「おい!」
「今から用事があるの」
と、つばめは顔をあげると、俺を正面から見据えた。
「用事?」
「そう。お昼休みに手紙をもらって呼び出されているの」
俺は内心で「あっ」と声をあげた。きっと黒沢先輩だ。ついに告白する気なのだ。しかし高橋に話を聞かされた今日のうちに、もうそんな勝負に出るとは。さすが速攻オフェンスで名を馳せるバスケ部を率いるだけある。早いのはドリブルだけじゃない。
「誰から?」
俺は思わず聞いていた。
「なんでナオヤに、そんなこと教えなきゃいけないのよ」
つばめは不満そうに唇をとがらしたが、それでもすぐにこう付け加えた。
「……一年先輩だから、あまり話したことはないかな。でも悪い人ではないと思う」
「そ、そうか――」
俺は確信した。やはり相手は黒沢先輩だ。
「……いいの?」
と、つばめが言った。
「いいのって、なにがさ?」
「――このまま行ってきても」
俺はごくりと唾を飲み込んだ。つばめが訴えかけるような目で、俺のことを見ていたからだ。でも、どうして俺にそれを止める権利があるのだ。
「いいに決まっているだろう」
それから俺は語調を強めた。そうしないと、つばめの視線を振り切れないような気がしたからだ。
「せっかくのチャンスなんだから、俺のことは気にするなよ。相手は先輩だって言ってたけど、悪い人じゃないなら、自分の感覚を信じればいいんだよ。俺ならここで待ってるからさ。ああ、でも例のことがあるから、ちゃんと七時までには忘れずに戻ってくれよ。……大丈夫だとは思うけど」
「ナオちゃんは……本当にそれでいいの?」
「だから、いいって! そもそも、つばめって外面はいいけど、俺なんて昨日今日だけで、何度となく鼻を壊されかけているんだぞ。その粗暴な本性を知っている人間からすれば、こうやって呼び出しを受けるなんて、相手の男が気の毒になるとはいえ、喜ばしいことだよ。はっきりいって、嬉しくて感動するレベルだね。つばめもこの幸運に感謝して、少しはしおらくしなった方がいいんじゃないか」
俺は言ってしまってから、はっとした。つばめの怒気が、何も言わないでも伝わってきたからだ。明らかに言い過ぎたと思った。今度こそ大事な鼻を完全破壊されるかもしれない。
でも、つばめは手を出してこようとはしなかった。ただ悲しそうに顔を伏せると言った。
「……そっか」
「お、おお……」
「わかった。……それじゃあ行ってくるね」
つばめはゆっくりと立ち上がった。俺はもう何も言えなかった。いや、そのための資格を自らドブに捨てたものだ。
でも、もし行くなと言えば、つばめはどういう反応をしたのだろうか。俺のために黒沢先輩の呼び出しを反故にしていいとでも思っていたのだろうか。俺はそんなありえない想像に、自分を殴りたくなった。つばめが黒沢先輩と付き合うことは喜ばしいことのはずなのに、それを祝福できない矛盾した自分が嫌でたまらなかった。
「……後悔しても、もう遅いんだからね」
つばめが消え入りそうな声でそう呟いた。
俺は顔をあげた。もしかして、つばめを傷つけたのではないかと、ふと思ったのだ。しかし、つばめは振り返ることもなく教室を出て行ったので、それを確かめることはできなかった。
俺はよろよろと自分の席に戻ると、崩れ落ちるように椅子に腰かけた。なんだか、とても疲れた。
今日はバスケ部の活動がある日だと高橋が言っていたので、告白は部活前の時間に終わらせるつもりなのだろう。そうなると、つばめの返事がどうあれ三十分くらいものか。
そこまで考えてから、俺は自嘲する。返事がどうあれって、そんなもの決まっている。付き合うに決まっている。あの黒沢先輩に告白されて断る理由はないだろう。
そうなると、いよいよつばめも彼氏持ちである。これまでは幼馴染の気安さから、家族のような距離感で接してきたが、これからは少し遠慮した方がいいだろう。黒沢先輩はそんなことを気にするような人間ではないだろうが、それが最低限のマナーである。
と、俺はあることに気が付いて、背筋が寒くなった。
ちょっと待て。つばめに恋人ができたとする。そうなった場合、世界を救う使命はどうなるのだ。
付き合ったばかりで、恋人でもない男と一日一回キスをするのである。
そんなの最低最悪の浮気じゃないか。
――ヤバい!
俺は慌てて立ち上がった。
今すぐ告白を止めなくては。とにかく今日黒沢先輩とつばめが付き合うことになるのはまずい。少なくとも、あと六日は待ってもらわなくては。
俺は教室を飛び出した。
とはいえ、つばめがどこに呼び出されたのか知らない。告白というとベタなところでは屋上だろうか。
俺は階段を駆け上がると、屋上へ通じるドアへ手をかける。
しかし、鍵がかかっていて開かない。それもそうか。どうも慌てているためか、上手く頭が働かない。
ここは冷静に考えてみよう。
黒沢先輩はこの後、部活のはずだ。だとすれば、部活をする体育館から利便性の高く、かつ大事な話を邪魔されない人気のない場所を選ぶだろう。
部室。は、さすがに密室性が高過ぎて、女子を呼び出すにはハードルが高い。そうなると考えられるのは――
「体育館裏か!」
今度は階段を駆け下りていく。事は急を争うため、全速力である。あまりに急いだため、足がもつれそうになる。それでも段差をまとめて飛び降りて、必死に目的地へと向かう。
つばめが告白されるのを阻止し、世界を救わなくてはならない。
渡り廊下を抜け、上靴のまま体育館の外を回り込んでいく。角を曲がると、俺の目に、なにやら話をする黒沢先輩とつばめの姿が飛び込んだ。
「ちょっと待ったッ――!」
俺は声を張り上げた。
黒沢先輩とつばめがぎょっとした様子で、俺の方に振り返った。
「ま、待った。待ってくれ」
俺は膝に手を掛けると、息も絶え絶えに言った。
告白に間に合ったのだろうか。それとも、すでに事後なのだろうか。それでも、つばめが返事をしていなければ、まだ希望はあるはずだ。
「な、ナオちゃん!」
つばめが驚いたように声をあげた。
「彼って、永嶺さんの知り合い?」
黒沢先輩がその反応をみて、つばめに尋ねる。つばめはどう答えていいものか、明らかに困惑している。
俺は全身から汗が噴き出してくるのを感じた。その汗は運動後のものと、冷たいものが混じり合っていた。ここまで危機感に突き動かされて闇雲に行動してきたものの、俺はこの状況で何をしようとしていたのだろうか。
「あの……君って永嶺さんの友達? でいいんだよね……? 用事があるところ悪いんだけど、大事な話をしているから、ちょっとだけ外れてもらえないかな?」
俺は顔が赤くなるのを感じた。そうだ。今の俺は、告白の状況に空気も読まずに割り込んだ珍入者でしかない。しかし、俺だって引き下がるわけにはいかなかった。なぜなら世界が滅びるかどうかが、今、この瞬間にかかっているからだ。
でも、その俺の立場を、どうすれば黒沢先輩に理解して貰えるだろうか。俺は必死で頭を回転させようとするが、考えれば考えるほど意識が朦朧となってくる。さっきから息切れがひどくて、脳まで酸素が回らない。
「つばめ!」
俺はつばめに歩み寄ると、その手をとって引き寄せた。
もうこうなったら俺の置かれている事情をわかりやす事実で示して、黒沢先輩には納得してもらうしかない。
俺は空いている方の手をつばめの腰に回すと、彼女の顔にかかる髪の毛を、指先で耳の横へと流した。
「な、ナオちゃ――」
そう言いかけたつばめの目が見開かれた。俺はそれを誰よりも間近で目撃していた。俺たちの顔は距離がなくなるまで重なり合い、唇同士はしっかりと触れあっていたからだ。
――二日目のキスだった。
俺はつばめから唇を離すと、黒沢先輩に向き直った。
「じ、実は、こういうことなんです」
俺はそう宣言した。
黒沢先輩は言葉を失ったのか、呆気にとられたように口をパクパクしている。つばめはさすがに恥ずかしいのか、黙ったままである。繋いだ手にぎゅっと力が込められると、俺の背中にそっと隠れるように、わずかに身を引いた。
その時だった。
わっ、押すな――!
そんな声が聞こえると同時に、体育館の向こう側の角から、バスケ部のユニフォームを着た数人が地面に倒れ込んできたのだ。
「お、お前ら!」
黒沢先輩がようやく我を取り戻したように声をあげた。
「キャプテン、すみません!」
どうやら、バスケ部のメンバーが告白の様子を隠れて見ていたらしい。とはいえ、高橋がいない。おそらくバスケ部全員ではなく有志だけが集まったのだろう。
「そんなところで、のぞき見していたのかよ」
「違うんです。俺たち、まさかキャプテンがフラれるなんて思っていなくて……。折角だから、告白成功をサプライズでお祝いするつもりだったんです」
黒沢先輩は、はあと溜息を吐くと、首を左右に振った。
「それをのぞき見っていうんだよ――」
それから黒沢先輩はバスケ部メンバーのところまで歩み寄ると、地面に転がった何かを拾い上げた。
「こんなものまで用意していたのか……」
それはクラッカーだった。なるほど、彼らの予定では告白が成功したタイミングで、みんなで出ていって、クラッカーで祝福するつもりだったのだろう。用意周到なことである。
もしそれが予定通りにいけば、サプライズに相応しいお祭り騒ぎとなっていたはずだ。
「あーあ。とんだ恥かいちゃったな……」
黒沢先輩は振り返ると、俺たちのところまで戻ってきて言った。
「悪かったね。君たちがそんな関係だって知らなかったんだ」
「え? ええッ?」
俺は黒沢先輩の言葉で、自分がどうやらとんでもない誤解を招くような行動をしてしまったことに、ようやく気が付いた。
黒沢先輩はがっくりとうなだれると言った。
「あんな風に見せつけられたんだ。もう君の彼女にちょっかいかけたりしないから安心してよ」
それから俺たちに向かってクラッカーを鳴らした。
「わっ、わわ!」
それが黒沢先輩なりの餞だったのか、あるいは気持ちを吹っ切るための儀式だったのかはわからない。ただその意図が、黒沢先輩なりに、俺とつばめを祝福するものであったことだけは明らかだった。
その男気を察したのだろう。それをみてバスケ部員達も俺たちの周りに集まってくると、手に持ったクラッカーを一斉に鳴らした。
「ちょ、ちょっと……」
「おめでとう!」
「幸せになれよ!」
半ばノリであろうが、かといって冗談だけとはいえない真剣さで、祝福の言葉が、口々に浴びせられる。
「待ってくれよ!」
俺は声をあげた。
でも、こんな衆目の面前でつばめにキスをしておいて、なんて言い訳すればいいのだ。
俺は違うという言葉を口にできないまま、思ってもいなかった事態に真っ青になっていた。
どこか夢でも見ているような現実離れした気分のなか、強く握りしめたつばめの手の温度だけがやけにリアルだった。
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