第1話 初日

「――おい、つばめ!」

 

 俺は学校に到着するなり、席に座って友達と談笑していた永嶺つばめに声をかけた。


「ま、また来た!」


 つばめは顔をあげて、俺を見ると「げっ」と声を上げた。形のいい眉をつり上げ、はっきりした二重の瞳はどこか怯えがある。そのくせ唇をとがらして、いかにも怒ったような表情をつくってみせる。後ろでひとつくくりに束ねた、ちょっと癖っ気のある栗色の髪の毛が、頭の動きにつられて、ふわりと揺れた。


 幼馴染としていうのもなんだが、かなりの美少女で、学校でも彼女のことを狙っている男子生徒は多い。性格も優しいと評判なのだが、俺にだけは昔から知っている気安さか、結構口さがない。


「また来たじゃねーから」

「だって、しつこいよ」

「そういう話じゃないだろう。ちょっと来い」


 そう言って、俺はつばめの腕をとる。こっちだって怒っているのだ。

 それというのも、今朝のことだった。


    〇


 隕石落下のニュースに朝から街は大騒ぎだった。

 地元の消防団と警察が駆け付け、一早く現場を封鎖したほか、マスコミのヘリコプターが裏山周辺を飛び回っているのがみえる。どこから仕入れたのかは不明だが、妹によると、午後からは、地元大学からも研究チームがやってくる予定だとの情報も教えてくれた。


 とはいえ、建物や人への被害はなく、延焼による山火事もなし。まるで意思があるなら狙ってやったかのような隕石のおかげで、学校が臨時休校になる様子もなく、俺たちのような平凡な高校生にとってはいつもと変わらぬ一日の始まりになるはずだった。


 しかし残念ながら、俺にとっては「いつもと変わらぬ」というわけにはいかなかった。


 この隕石墜落が、あの胡散臭い天使のお姉さんが言っていた”証拠”であることは間違いないからだ。これをただの偶然と考えられるほど、俺は気楽な性格ではない。

 だとすれば、俺はこれから一週間、人類が神様に滅ぼされないように、幼馴染のつばめと一日一回キスをするというミッションをこなさなければならない。


 俺はしばらく頭を抱えて、うわああぁああぁ、と声をあげながらベッドでじたばたしていたが、こうしていても仕方がない。いい加減に諦めて、枕元のスマホを手に取った。


――今日の朝、話できる?


 俺はつばめにメッセージを送った。


 天使のお姉さんは、つばめも了承していると言っていたから、これだけで何のことか察しはつくだろう。


 予想通り、メッセージはすぐに既読になり、返信が返ってきた。


――あと十五分後に家を出るから、その時ならいいよ。


 十五分後か。早いな。


 俺は独りごちた。

 学校は俺たちの地区から四キロの地点にあるのだが、バス通学の俺と違ってつばめは自転車で通っている。帰宅途中に買い物に行くのに便利というのが理由らしいのだが、そのために、いつも俺より早い時間に家を出るのだ。


――わかった。家の前で待ってる。


 俺はそう返信すると、手早く朝の用意をすませ、それから残り時間、念入りに歯を磨いた。今日のタイムリミットまでは、まだ時間があるとはいえ、何が起こるかわからないのだから、早目に終わらせておいた方がいいだろう。ファーストキスなどという意識があったわけではないが、それが最低限のエチケットである。

 磨き過ぎて、歯茎からは血が出た。


 きっかり十五分後、俺は家を出ると、つばめの家に向かった。


 ちょうど、つばめは家から出てくるところだったらしい。自転車をひいて、玄関から現れた。


「――つばめ!」


「わっ、びっくりした。なんだ、ナオヤか」

「直哉かって、ちゃんと行くって連絡してただろ」

「そうだけど、いきなり声かけるんだもん」


 そう言って、つばめはプイと視線を逸らす。

 機嫌が悪いのだろうか。

 だとしても無理はない。突然、あんな風に人類の救世主とやらに選ばれて、幼馴染みとはいえ、好きでもない男と唇を交わすことになったのである。心中察するに余りある。


 俺は自転車を押して歩き出したつばめの隣に並んだ。

「それより、つばめも夢をみたか?」

 こくり、とつばめはアゴをひいた。

「天使の?」

「うん……」


「それで、やっぱり人類の救世主になれって言われた?」

「まあ……そうだね」

「はあ、やっぱり夢じゃなかったんだな」


 俺はがっくりと項垂れる。隕石墜落の時点で、すでに覚悟はできていたが、つばめも同じ啓示を受けいたとすると、いよいよ決定的である。


「えっ。そ、そんなに!?」


 つばめは愕然とした表情を浮かべると、俺を睨んできた。視線が痛いほどに突き刺さる。


「そんなにって、なんだよ」

「いいよ。もう知らない」


 つばめはそう言ったきり黙り込んだ。俺は会話の接ぎ穂を失い、言葉を探す。バラバラと小石を撒き散らしたような音がして見上げると、俺たちの真上を報道のヘリコプターが過ぎ去っていく。マスコミは目の前の事件を追いかけるのに忙しくて、世界存亡の危機が足元に転がっているなんて、きっと気付きもしないのだろう。世の中というのは、案外そういうものかもしれない。


 俺はヘリコプターが小さな点になるまで視線で追いかけた後、つばめに目を戻した。


 まあ結局のところ、言葉で取り繕ったって仕方がないのだ。

 俺は素早く周囲に人目がないことを確かめる。


「――じゃあ、悪いけど」


 そう言って、つばめの前に立ちはだかると、彼女の指もろともに自転車のハンドルを手にかけた。こういうのは躊躇すると余計に気まずくなるものだ。できるだけ平常心で事務的に済ませるのがお互いのためだ。


 俺がつばめに唇を接近させようとした、その時だった。


「わっ! バカ!」


 つばめは俺の手を振りほどくと、自転車のカゴから素早く通学鞄を取り出し、俺の顔をガードした。俺は勢い余って、顔をぶつけると、ヒンッとなり、その場にうずくまる。鼻が……鼻が潰れた。


「だ、大丈夫?」

「大丈夫じゃない! なにか俺の鼻に恨みでもあるのか!」

「だ、だって、いきなりナオヤが変なことしようとするんだもん」


 つばめは申し訳なさそうな表情を浮かべながらも、あたかも俺が悪いかのように言った。


「だもん、じゃねえよ! 変なことって、ちゃんと天使から聞いてるんだろう。俺たちがキスしないと世界が滅ぶって」

「うん。まあ……?」


 つばめは不承不承にうなずいた。よかった。どうやら、そこの認識はちゃんと共有できているらしい。


「じゃあ……」

 そう言って、俺は再びつばめに顔を近づける。すると彼女の手が一早く動いて、通学鞄のガードで再び俺を押し止めた。


 ヒンッ!


「お、俺の鼻を殺す気かぁ?」

「信じられない。なんで、そういうことできるの!?」


「なんでって、俺の話聞いてた? だったら俺の行動の理由もわかるだろう。そりゃあ、つばめは嫌かもしれないよ。確かに、その気持ちは俺だって理解できるよ。それでも、こんなことになったんだから、つばめも、ちゃんと覚悟もって受け入れてくれないと駄目じゃないか」

「そういう問題じゃないでしょ!」

「だから、そうしないと世界が滅ぶんだって」

「そういう問題じゃない!」

「そういう問題だろ!」


 一体全体どうしろというのか。つばめが何を考えているのか、俺にはさっぱりわからない。


 いや、こうなったら俺なりの誠意を示して訴えるしかない。俺はつばめの肩をがっしりと掴むと、その顔を正面から見据えた。


「へっ? え……ええ?」


 つばめは明らかに狼狽すると、顔を赤くした。緊張しているのか、唾をごくりと飲み込むのがわかる。頼むから、そんな表情しないでくれよ。俺だって意識しないように必死で努力しているのに、平常心が揺らいでくる。


 俺はお腹の下あたりに力を込めると、重々しく口を開いた。


「いいか、つばめ。よく聞いてくれ。これから俺がするのは、恋人がするような愛情表現としてのキスじゃない。世界を滅亡の危機から救うための、いわば人類の責務としての行動だ。だから、つばめも不可抗力だと諦めて我慢して欲しい。これは人助けの一環という意味では医療行為のようなものだから、人工呼吸の一種だと考えればいいんだ。あくまでも、ただのマウストゥマウスだと思えば、つばめだって不必要な感情を抱く必要はない。そうだろう?」


「そっかぁ……」


 つばめはそう言ったきり、顔を伏せた。


「ようやくわかってくれたか?」

 俺は安堵した。一時はどうなることかと思ったが、これで世界は滅びずにすむのだ。


 と、つばめが顔を勢いよく顔をあげた。その弾みで頭頂部が俺の鼻を直撃する。俺は「ぐひぃ」とバトルマンガに出てくる雑魚キャラのような間抜けな声をあげる。


 なにするんだよ、と言いかけて俺は口をつぐんだ。つばめが顔を真赤にして、ほとんど泣き出さんばかりの表情をしていたからだ。つばめは握り締めた拳を突き下ろしたまま、今にも噛みついてきそうな勢いで、俺に罵詈雑言を浴びせた。


「バカッ。そんなのわかるもんかっ! この鈍感男! うすらトンカチ!」


「なんだよそれ」

「もう知らない! 自分で考えればいいでしょ、このバカ! バカナオヤ!」


 どれだけバカと言えば気が済むのだろうか。いや、そんな反論もこの際どうでもいいや。とにかく人類のためにも、今はつばめを説得することに全力を尽くさねば。


「って、ちょっとおい!」


 俺は思わず声をあげた。つばめが俺を無視して、自転車に跨って走り出したからだ。


「おいっ、て!」

 俺は慌てて追いかけたが、つばめは全力の立ちこぎで俺から逃げていく。そこまで嫌がられているとなると、さすがの俺もショックが大きい。


 しばらく走って捕まえようとしたものの、結局振り切られてしまった。その結果、俺はいつものバスにも乗り遅れる羽目になったのだから、泣きっ面に蜂とは、このことだろう。


  〇


 それが今朝のことである。

 そして、現在。朝のホームルームが始まるまでの時間で、なんとか話をつけようと、俺はつばめを教室から連れそうとしていた。


「おいおい。どうしたんだ、山本。つばめが嫌がってるじゃないか」


 俺がつばめの腕をとると、よほど血相でも変わっていたのだろうか。つい今しがたまでつばめと談笑していた久保茉日が驚いたように立ち上がって、それを止めようとした。


 まひるは二年生にして生徒会会長に選出されたほどの優等生である。ややきつい印象を受ける切れ長の目をした和風美人だが、普段は眼鏡をかけているため外見的には地味にみえる。とはいえ、どちらかといえば可愛いタイプのつばめと並ぶと、いい具合にコントラストができて、男子の隠れファンはつばめと双璧をなすといわれる。


「ごめん。大事な話があるんだ。ちょっとつばめを借りてもいいかな」


 俺は片手拝みに、まひるに謝った。


「それは本人の意思次第であって、私に許可を取ることじゃない」


「いいよ」と、つばめが立ち上がった。「話があるんでしょう?」

 俺は思わず、「おお……」っと後ずさってしまった。つばめが凍るように冷たい目をしていたからだ。


 とはいえ、そんなことを気にしているような余裕はない。俺はつばめを廊下に連れ出した。もうすぐホームルームとあってか、廊下に出ている生徒はあまりいない。俺はそのなかでも特に、人に話を聞かれずにすむであろう場所を選ぶと、つばめに問い詰めた。


「おい、どういうつもりだよ?」

「なにがさ」

「さっきのことだよ。もしかして、あの夢のこと、疑っているのか? それなら言っておくけど、今朝、裏山に隕石が墜落したのだって、偶然のはずないぞ。あれは世界滅亡が嘘じゃないって証拠らしいからな」

「知ってるよ。天使のお姉さんが、あたしにもそう言ってたもん」

「じゃあ、なんで――?」


 すると、つばめの人差し指がすっと伸びてきて、俺の鼻の頭を押し潰した。


「……豚鼻」

「な、なんだよ。それ」


 俺はそう言いつつも、つばめがいきなり接近してきたことに、どぎまぎしてしまう。子供の頃から、つばめは時々こんな悪ふざけをする。俺だけが知っている彼女の表情。


  つばめは俺の顔を下から上目遣いにのぞきこんだ。


「鼻。……大丈夫だった? 鼻血とか出なかった?」

「いや、大丈夫だったし、それはもういいんだけど……」

 俺はそっぽを向いて言った。


「――ナオヤはずるいよ」

 と、つばめが言った。


「ずるい?」

「だって、そんな問い詰められ方されたら、あたしが悪者みたいじゃん」


 みたいって、そのせいで人類が滅ぶかもしれないのだから悪者そのものだよ。俺は心の中でそう思ったが口には出さなかった。


「いっておくけど、ナオヤだって悪いんだからね」

「どこが?」

「そういうところが」


 つばめは肩をすくめると、窓の外に目をやった。まったくわけがわからない。

 俺は混乱した頭で、つばめの視線の先を追いかけた。空には雲一つない快晴が拡がっている。とてもじゃないが、世界が滅亡する明日が来るなんて思えない。


「とにかく、まだ時間はあるんだから、どうすればいいか、ちゃんと考えてよ」

 彼女はそう言ってから視線を戻すと、俺の不満に気付いたのだろう。まるで挑発するように悪戯っぽく笑った。


「――それがジンルイのセキムなんでしょ?」


 ちょうどチャイムが鳴った。

 結局、朝の時間はこれでタイムアップだ。俺はつばめと連れだって教室に戻りながら、早くも白旗をあげたい気持ちで一杯だった。


 〇


 それからは時間だけが無情に過ぎて行った。


 授業が終わって、休憩時間になるたびに、俺はつばめに話しかけに行くのだが、今度は頑として俺の話に耳を貸そうとしない。


「何があったか知らないが、君、謝った方がいいんじゃないか?」

 まひるが呆れたように言ったが、つばめが怒っている原因がなんなのか、俺にもわからないのだから仕方がない。


 それでも昼休みには、ようやくひとつの仮説に突き当たった。

 俺は学校を抜け出すと、コンビニであるものを購入した。教室に戻ると、俺はつばめの机にそっとそれを置いた。


「なにこれ?」


 あまり目にしないタイプの商品だったのか、つばめが怪訝そうな顔をする。


「口臭ケアタブレット」


 俺だって、朝には念入りに歯磨きしてきたくらいなのだ。つばめは女子なのだから、なおさら気になるのだろう。もちろん、俺はそんなことは気にしない。見くびってもらっては困るが、そんな器の小さな人間ではない。しかし、つばめが気になるようなら、男として、これくらいの配慮は当然あるべきだ。


「ナオヤ……」


 つばめはようやく俺を受け入れる気になったのか、おもむろに立ち上がった。俺は苦労が報われたのを感じて、つばめに手を伸ばす。


「つばめ……」


 わっ、危ね!

 あやうく、グーパンで殴られそうになった。

 俺が理不尽な暴力に戦慄しながら自分の席に戻ると、前の席の高橋慎平に話しかけられた。


「朝からどしたん?」

 心配している、というよりも興味本位らしい。口調とは裏腹に目元が笑っている。とはいえ、普段から軽口を叩きあう仲だけに、嫌な気になったわけではない。


「ナオの幼馴染ちゃん、随分と不機嫌みたいだね」

「うるせーよ」


 そう強がってみせたものの、俺は盛大に息を吐いた。もう完全に手詰まりで、どうしていいかわからない。


「つばめも、なんだって、俺のことあんなに嫌うかね?」

「え? それ本気で言ってるの?」


 高橋がびっくりしたように瞬きを繰り返した。


「どういうこと?」


「……まあ俺が口出すようことじゃないから、いいんだけどさ」


 なんなんだ、それ。つばめといい、高橋といい何が言いたいんだ。俺はつばめに突き返された口臭ケアタブレットの包みを開くと、ひとつ口にいれる。まだ時間は残されているのだから、せめていざという時につばめが不愉快な思いをしないですむように準備だけはしておこう。


「なあ、俺の口って臭う?」


 俺はふと思いついて、高橋に尋ねてみた。


「はぁ。知らんし。ナオとキスする予定もないし、そんなことどうでもいいわ」

「そうだよなぁ……」


 高橋はぶはっと吹き出すと陽気に笑った。


    〇


 しかし、それからも思わしい進展はなかった。今日のノルマをこなすチャンスも訪れないまま最後の授業も終わり、ついに放課後になってしまった。


 それにも関わらず、つばめは俺を一顧だにすることなく帰り支度を始めた。このまま家に帰られてしまっては、もう顔を合わす機会すらないかもしれない。そうなるとキスするどころの騒ぎではない。


 正直なところ、諦めの境地すら漂ってくる。もしかしたら、つばめは世界が滅んでもいいと思っているのだろうか。むしろ、それこそが彼女の望みだったのかもしれない。


 だとすれば、俺は最初から無駄な努力をしていたということになる。


「おい、つばめ。いい加減にしろよ。何がしたいんだよ」


 俺は自転車置き場までつばめを追いかけると、その背中に声をかけた。それでも最後までやるべきことをやるしかないのだ。


「もう、ついてこないで」


 ふざけるなと言いたいところだが、ここでキレてしまっては全ては水の泡だ。俺は怒りをぐっと抑えると懇願する。


「俺に悪いところがあったのなら謝る。だから頼むから、協力してくれよ。このままだと俺たちのせいで大変なことになっちゃうよ」


「わかってるよ。でも、あたしだってどうすればいいかわからないの!」

「なんだよ、それ……」

 いくらなんでも理解不能過ぎる。世界の命運を左右する課題とはいえ、これほど難易度が高いとは。


 つばめはむっつり黙り込んだまま、自転車を駐車の列から引き出すと、俺から逃げるように飛び乗って走り出す。それをみて、ついに俺も堪忍袋の緒が切れた。


「このっ!」


 俺は鞄をその場に置き捨てると、全力疾走でつばめを追いかける。朝はあえなく振り切られたが、こうなったらもう俺も本気だ。なんとしてでも捕まえてやる。

 つばめも俺の剣幕にびっくりしたらしい。一瞬だけ振り返った後、全力で自転車を漕ぎ出した。


「待て、つばめ! さっさとキスさせろ!」

「ひっ! 絶対させるもんか!」


 つばめは正門を抜けると、ハンドルを左に切って曲がった。俺はそれを追いかけずに、あえて直進する。

 つばめの帰宅ルートなら、家が近所だけに、よく知っている。ここから緩やかな登り坂が続いた後、右曲りの下り坂という、進行方向に対し迂回するようなルートだ。しかし、あまり知られていないことながら、徒歩だと直進して公園を突っ切れば、ショートカットができる。


 俺は息も絶え絶えに走り続けると、公園を抜け、石造りの階段を駆け下りる。


 つばめの帰宅ルートに合流すると、坂の上にまだつばめの姿があるのがみえた。間に合ったのだ。つばめもすぐに俺に気付いたらしい。最初は驚いた表情をみせたが、引き返そうとはしなかった。すぐに決意を固めたらしく、前を向くと、逆にスピードをあげた。俺を直前でかわして走り抜けるつもりらしい。


 そうはさせるものか。


 俺も両手を広げて待ち構える。つばめの足がペダルを踏むたび、自転車は加速度を増して、二人の距離を縮める。


 俺は息を止める。かつてないほど集中力が高まったためか、つばめの動きがスローモーションのようにゆっくりとみえる。


 まさに世界の命運を賭けた乾坤一擲の瞬間だ。


 その瞬間だった。


 俺たちの間を、何か黒い影のようなものが、さっと横切ったのだ。


 理解はそのすぐ後にきた。猫だ。野良猫が飛び出してきたのだ。

 つばめがそれを避けようと急激にハンドルを切る。バランスが崩れ、前輪が地面に突っかかるようにして、自転車の後輪が浮いた。


――危ない!


 それからのことは無我夢中でよく覚えていない。

 自転車から勢いよく宙に投げ出されたつばめをみて、俺の体は考えるより先に反応していた。走り出すと、つばめの落下地点に飛び込み、両手を広げた。衝撃が背中にきた。つばめを受け止めた反動で、背中から地面に倒れ込んでしまったのだ。


 俺は痛みのあまり息もできない。と、急に体が軽くなったように感じた。俺を下敷きにしていたつばめが、体をどかしたのだ。


「ナオちゃんッ!」


 つばめが叫ぶように声をあげた。


「ナオちゃん、大丈夫!?」


 ああ、つばめにそんな呼ばれ方をするなんて、なんだか久しぶりだな。俺はぼんやりとそんなことを考えていた。


「痛つッ……」


 俺は顔をしかめた。どうやら致命的な怪我は避けられたらしいが、まだ起きあがる気にはなれない。


「……それより、つばめは怪我はなかったか?」


 つばめが首を縦に振るのが、なんとなく雰囲気で分かった。俺は薄目をあけると、猫がいた方向に目をやる。猫は不思議そうにこちらをみていたが、俺と目が合うと、すぐに逃げていった。

 よかった。どうやら猫も無事だったらしい。


「ごめん、ナオちゃん……」

「いいよ。つばめが無事だったなら」

「バカ! よくない!」

 と、つばめが声を張り上げた。俺は思わずびくっとする。


「なんで、あたしなんか助けようとしたの!」

「なんでって……」


 体が勝手に動いたからだ。と、俺は言いかけて、ふと自分の行動の根底にあるものに想いを馳せてみた。確かに、つばめを助けたのは反射的なものだった。でも、それって相手が誰だったとしても同じ行動がとれただろうか。


 いや、きっと違う。危ない目にあったのがつばめだったからこそ、躊躇なく自分の身を犠牲にできたのだ。


「そんなの助けるに決まってるだろう」

「なんで、そんないい加減なこと言うの。ナオちゃんは、あたしのことなんてどうだっていいくせに!」

「……どうでもいいわけないだろう」


 俺は困惑したまま答えた。


「嘘!」

「こんな時に嘘なんて言うわけないだろう。いいか。俺なんて、ただの平凡な男子高校生だよ。正直なところ、世界を救うなんていわれても、ピンとこない。そんなのスケールが大き過ぎて、よくわからないから勝手にしてくれってのが本音だ。でも、自分の身近にある大切なものくらいなら俺にだってわかる。俺が世界が滅んで欲しくないのは、そうなると大切な人たちが悲しいことになるからだ。俺が世界を救おうとする理由なんて、せいぜい、その程度のもんだよ」


「え……?」

 つばめが目を白黒させた。

「も、もしかして、その大切な人たちって……」と、つばめが恐るおそる聞き返してきた。「――あたしも?」


「当たり前だろう。俺たち、何年の付き合いだと思っているんだよ。まあ、つばめにとっては迷惑かもしれないけどな……」


「それなら……」

 と、つばめが言いにくそうにもじもじとしだした。


「……なんだよ?」

「それなら、なんでそう言ってくれなかったの!」

「はあ?」

「ジンルイのセキムだとか、フカコーリョクだとか、そんなことばっかりで。今みたいなこと一言もなかった!」

「あのな……」


 俺は呆れ返ったあまり、大きく息を吐いた。


「いいか。俺だって健全な男子高校生だぞ。しかも、だ。もうこうなったら白状するが、恋人なんてできたことない。もちろん、ファーストキスだってまだだ」

「え? え、え……?」

「それが、いきなり同級生の女の子とキスすることになったんだぞ。それも幼馴染とはいえ、学年で一番可愛い相手とだ!」

「か、かわ……! ええ……一番って……。ええっ!」

「ぶっちゃけ、めっちゃドキドキだったわ。心臓がバクバクで死ぬかと思ったわ。こっちが必死で平常心を保とうとしてたんだから、それくらい察し――」


 と、言いかけて、俺はそれを最後まで口にできなかった。俺の唇に柔らかいものが重なってきて、口を塞がれたからだ。俺が驚いて目を見開くと、そこには瞼をぎゅっと瞑ったつばめの顔があった。


 まるで数秒にも感じられたが、もしかしたら一秒にも満たない時間だったかもしれない。気が付けば、唇の感触は失われ、つばめは立ち上がっていたからだ。


「助けてくれたお礼……」

 と、つばめが言った。ぷいと横を向いてしまったため表情はうかがえなかったが、耳元からうなじにかけてが茹でられたように真赤になっていた。


「いちおー、言っておくけど、これはジンルイのセキムってやつだからね」


 つばめは俺に顔を向けないまま、転がった自転車に歩み寄ると、反動をつけて引き起こした。


「お、おい……!」


 俺は立ち上がった。まだ全身は痛むが、どうやら歩くのに支障はなさそうだ。


「怪我大丈夫だったんだよね? ちゃんと帰れるよね? ご、ごめん。あたし夕食の買い出しもあるから、先に帰るね」


 そう言うと、つばめは自転車に跨った。俺が言葉をかける間もなく、慌てたように、そっぽを向いたまま、走り去ってしまった。


「どういうことだよ……」


 取り残された俺は呆然としたまま、その後ろ姿を見送った。

 それでも、どうにか初日の課題はクリアできたことになる。とりあえず今日に関しては世界が救われたのだ。俺は力が抜けたように、その場に座りこんだ。

 ふと俺の目の前を、先程の野良猫が横切っていく。


「なあ、どう思う?」

 俺は一部始終を目撃していたはずの猫に尋ねてみた。猫は俺を一瞥すると、にゃあと鳴いたきり、そのまま悠々と歩いていく。


 なんだか、俺は猫にまで馬鹿にされたような気分だった。

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