第3話 勇者ヘイゼルの転生2

 高所からの夜景に目眩を感じ、室内へと視線を移した。

 床に脱ぎ散らかされたバスローブを羽織ると、寝そべるほど沈み込むソファーに腰掛ける。

 テーブルの上には、飲みかけの白葡萄酒と食べかけのチーズ。

 三分の一ほど残っているボトルに鼻を近付けると、驚くほど芳醇な香りが漂う。

 堪らずグラスに葡萄酒を注ぎ、一口飲んでみる。繊細かつ優雅、それでいてどこか懐かしい味がした。

 葡萄酒の製造法に、前の世界とこの世界ではさほど違いはないのだろう。だが、品質という面では、この世界の方が一歩も二歩も進んでいるのは間違いない。

 あまりの美味さに二口、三口と味わっていると、グラス半分ほどでクラッときた。

 空酒は良くないと、皿の上のチーズを少しかじってみる。これがまた、干からび始めているにも関わらず、大変な美味さだ。

 スモーキーな香りとクリーミーな味わい、五感の全てを味覚に集中するだけの価値があるチーズだ。

 この世界において、食べ物は単に腹を膨らますだけの物ではないのだろう。味を、そして人生を楽しむ為の物なのだ。

 そしてそれは、食べ物だけの話ではない筈だ。

 外は夜なのに室内は昼間の様に明るく、しかも清潔で暑くも寒くもない。虫の一匹も飛んでいなければ、床にも天井にも煤や灰の一粒すら無かった。

 バスローブは肌触りが良く、ソファーは立ち上がる気力を失わせるほど柔らかい。

 この世界において、人生とは謳歌する為にあるのだ。

 では、この壁に映し出されている像は何だ?

 前の世界にも、遠くの出来事を水晶玉に映し出す魔法はあった。恐らくそれに近いものだと思われるが、理解できないのは、殺し合っているのが人間同士だという事だ。

 それを第三者が冷静に説明している。

「……空爆は難民キャンプや病院に対しても容赦無く行われており、国連は停戦を求める決議案を賛成多数で採択したものの……」

 意味がわからない。ウンチクを垂れる暇があれば、止めに入るべきではないか?

 それとも、止めに行けないほど遠い場所での出来事なのか?

 突然、目の前がグルグルと回り始める。

 いつの間にか、ボトルも皿も空になっていた。

――しまった、この身体は酒に弱いのか……。

 そう思った時には既に遅く、ソファーの上で心地良い眠りに落ちていた。



 どれくらい眠ったのだろう。

 眩しくて目が覚めた。

 壁一面の巨大なガラス窓から、容赦なく朝日が差し込んでいる。

 一晩で、かなりヘイゼルの意識と姫くんの記憶は融合したらしい。

 もう空を飛ぶ鉄の鳥を見ても飛行機と認識できるし、眼下を走る鉄の大蛇が電車で、それらが集まる巣が駅だという事もわかった。

 ここが高級ホテルの高層階の部屋で、間もなくチェックアウトの時間になる事もだ。

 男がテーブルの上に置いていった紙幣は、この国の最高額紙幣で十枚あった。

 シャワーの使い方もわかったし、エレベーターの乗り方も迷わなかった。

 フロントへ真っ直ぐに向かい、カードキーを差し出す。

 会計は、昨日の男が済ませている筈だった。内科医で都内にクリニックを構えている男だ。

 洗練された外見と理知的な話し方から、感染症が流行りだすとテレビ番組に呼ばれた。姫くんとも、その時に知り合った。

 実は診療はさっぱりで、アルバイトの医者に任せっきりなのだが、それで文句が出ないのは、それなりのアルバイト料を支払っているからだろう。

 クリニック経営も家庭も、美容外科を専門とする妻に仕切られており、傍目ほど満ち足りた生活を送っている訳ではない。

 ゲイであることを隠して生きているので尚更だ。

 姫くんと割り切った関係を持つ事が支えといえたが、それも昨日までだった事を、本人はまだ知らない。

 残念ながら、姫くんは勇者ヘイゼルの人格を宿し、ゲイではなくなってしまった……。

 フロントの若い女が、ちらっと上目で姫くんを見た。

「お支払いは済んでおります」

 いつもの通りだ。その場を立ち去ろうとする。

 ところが、フロントの女は言葉を続けた。

「あの……大丈夫ですか?」

 足を止めて聞き返す。

「何がです?」

「えっと、サングラスもマスクも無しで、また週刊誌とかが……」

 姫くんは考えた。

――なるほど、この身体の元の主は、前の世界における勇者ほどではないが、それなりに名の知れた人物だったな。確か、偶像(アイドル)とかいう職業の……。

「配慮、ありがとうございます。ですが、落ちた偶像にそれだけの商品価値はありません」

「そんな……でも、みんな待っています。姫くんがステージに戻ってくるの!」

 女は慌てて自分の口を押さえた。こんな大声を出すつもりはなかった。

 姫くんも驚いた。だが、大声とは別の意味でだ。

「男娼ですよ。身体を売るのは、この世界では認められていない、卑しい職業の筈。そこまで身を落とした者を、なぜ待っているのですか?」

 女は俯き、小声になった。

「だって……今も推してるから……」

 姫くんには心当たりがあった。

 前の世界における、魔獣トリステアーナとその手下どもとの戦い。ある意味、魔王より強敵だった。

 最初の戦いでは早々に破れ、這々の体で逃げた。二度目は手下の一角は崩したが、やはりトリステアーナには敵わなかった。

 何とか勝利するのが三度目である。

 しかし、一度目と二度目、破れて逃げ帰った勇者一行に冷たく当たる村人などいなかった。

 勇者は再び立ち上がると、誰もが信じてくれていたからだ。

「ありがとうございます。ご期待に添えるよう努力します」

 今度こそ立ち去ろうと背を向ける。

 だが、女は更に言葉を続けた。

「もうここに、男の人とは来ませんよね?」

 姫くんは振り返って微笑む。

「もちろん。次に来る時はあなたに会いに、かな」

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