第45話

 翌朝。


「……寝過ごした!?」


 飛び起きようとすると、いつもの硬い卧榻卧榻ではなくふわふわした柔らかい布団に驚く。それに温かい。きょろきょろと辺りを見回す。明らかに豪勢な調度品に、天蓋付き。脇に置いてある水差しも彫金が施されている。


「不味い……」


 布団をはねのけて起き上がると、さほど寝過ごしたわけではなさそうだ。

 花窓から外を確認し、炭を熾そうと思ったところで、足元に広がる地毯しきものに足元が狂って転げた。ゆっくり起き上がって辺りを見渡してため息をついた。


「まさか、楊梅さまの部屋で寝てしまうなんて」


 昨晩遅くまで、楊梅、凱泉、燕青とともに、莉美は必死になって絵を描いていた。休憩を言い渡されていたものの、集中しきっていてそれどころではなかったのだ。

 夜も更けこんだところで、筆の調子がいい莉美は止めなかった。燕青が墨を摺り、凱泉が紙を並べ、題名を楊梅が考えては莉美がそれを書き入れてから絵を描く。


 そうやって作業をして気づいたら、空が白み始めていたはずだ。

 自分がその後、どうしてここで寝たのか覚えていない。大量の絵を描き、一心不乱に右手を使っているうちに、気づいたら朝になっていたらしい。


「気絶しちゃったかな、疲れて」


 部屋にはすでに誰もいない。散らかっている様子もないので、凱泉が片付けたのだろう。莉美は扉を開けると外に出た。


「すごく冷えるのね……上衣うわぎを持ってきたらよかったわ」


 取りに戻るのもなんだか億劫だ。それくらい莉美は疲弊していた。おそらく、今まで絵を描く欲求を抑圧していた分、集中しすぎたのだ。

 だが、生きている実感がする。


 楊梅が、莉美の力を求めてくれた。それが、がちっときれいに嵌ったような気がする。理由もなく力が滾々と湧き出てくるのだ。

 絵を描けることが、それが誰かに必要とされることが、こんなにも嬉しいとは。今、莉美はとてつもない幸福の中にいる。


 それに、目論見通り題名をつけてから描いた絵は、出て来るなという命令を聞き紙の中に留まっている。やはり、『題名』が言うことを聞かせる鍵だったのだ。

 今考えてみれば、莉美の絵の力を制御する方法を、いつだって楊梅が示してくれていたように思う。まるで、導かれたみたいに。


「疲れているのに、平気な気がするの。不思議ね」


 集中すると周りが見えなくなりがちだが、しかし昨夜はそれで皆に迷惑をかけたかもしれないと少々反省する。

 寒さに身体が痛くなってきてしまい、両手で自分を抱え込みながら石畳の上を歩いた。

 空は青く澄み渡っており、朝日が出てまだいくばくかしか時間が経っていないのが見て取れる。

 キュキュキュンと高い声が聞こえて、莉美は頭上を見上げた。


「……え、燕?」


 寒い時期にいるはずのない鳥が、莉美の頭上に伸びた松の枝で鳴いている。驚いていると、鳥は音もなく飛び立った。


「待ってあなた、冷えてしまう――!」


 暖かい風に乗って迷ってしまったのかもしれない。赤龍国は、温かいと聞く。そちらから飛んできたのだろうか。ともあれば、この寒さは燕にとって身体の毒だ。

 部屋で暖めてあげようと、飛んでいった青みがかった黒色の翼を追いかける。


「待って、待ってってば。食べたりしないし私は怖くないから!」


 風を受ける翼は、切られるような痛みに違いない。

 低く飛行しながら飛んでいく姿だけを見ていたので、突然視界に飛び込んできた墙壁しょうへきに驚いて両手を伸ばした。


「あっぶない……あの子、大丈夫かしら?」


 残念ながら、人の脚ではこれ以上前方に進めない。乗り越えて行くわけにもいかずその場で立ち止まって空を見上げていると、透き通った水のような声が聞こえた。


「莉美?」


 ハッとして花窓に近寄ると、透かし彫りの向こうからよく知る人物が見えた。


「楊梅様」

「起きたのか? 良く寝ていたようだから、起こさずにいた」


 莉美の声を聞くなり、楊梅は近づいてくると花窓の隙間から手を伸ばしてきた。その指先に触れるなり、莉美の右手がぶるぶると震えるような脈を打ち始める。

 今思えば、これは前兆だったのだろう。お互いを必要とする者同士の共鳴のような。


「疲労にしては、可笑しな震え方をする。寒いか? 上衣はどうした?」


 楊梅は目を円くしたまま、さらにもう一方の手も莉美に向けて差し伸べてくる。瞬間、指と指が交差して握られた。楊梅の手はびっくりするほど温かい。


「慌てて出てきて、そのまま」

「慌てすぎだ。早く戻れ。わたしの部屋で作業していて良い」


 莉美が頷くと、ぎゅっと手を強く握られる。じっと視線が莉美を射貫いてくる。


「五枚ほど絵をもらうぞ。城内の避難誘導に使う」

「かしこまりました。またすぐ、描きます」

「世話になるな」

「いえ。それは私の方です」


 莉美はほんの少しだけ楊梅の手を握り返した。すると、楊梅が莉美の両手を力強く引っ張った。すると、頬に彼の手が触れる。

 今頃気付いたが、その手にはいつも嵌められていた長手甲が付いていない。袖の下からは、輝くように美しい金色の鱗が見えた。


「もう隠すのは止めることにした」


 鱗に触れると、堅そうな見た目とは反対に絹のように滑らかで心地よい肌触りだ。そして、温い。


「冷える。早く戻れ」

「すぐに作業に取り掛かります」


 自身の右手の脈がどくどくと強まるのを感じ、なんだか頑張れるような気がして自然と口元に笑みがこぼれ落ちた。

 さらに楊梅は大袖の上衣を脱ぐと、ぽんと上空に向けて放る。壁を越えてそれは莉美の両手に乗った。


「寒いから、それを着て戻れ」

「ありがとうございます」


 楊梅はにこっと微笑むと、踵を返した。莉美は急に寒くなってきて、もらったそれをありがたく羽織る。


「あったかい……けど、大きすぎる」


 もう一人自分が入っても余るくらいの大きさの上着は、まだ楊梅の温もりが残っていて莉美を包み込んでくれた。

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