第44話

「――一つ、気になっていたことがあるんです」


 莉美は口を開いた。


「私の絵が言うことを聞く条件……『名前』です」

「名前?」

「そうです。『新月』も『天天』も『白宝』も、名前を得て落ち着きました。気づきませんでしたが、よく考えたらあの魚の群れの時も……」


 楊梅は『空飛ぶ魚たち』と名前を呼んだ。そして、室内を泳いでいた魚たちは紙に戻って行ったのだ。


「楊梅様が名づけると、制御できるのかもしれません。ただ単に『題名』をつけるだけで言うことを聞いてくれるなら、私の力はもっと役に立ちます」


 摺り終わった墨に、筆を浸す。


「私が『題名』をつけても制御不可の場合は、楊梅様に命名してもらわなくてはならず……試してみてもいいですよね?」

「駄目とは言わせないつもりで寝所におしかけておいて、いまさら何を言う」


 楊梅は笑いながら、莉美に描くように催促した。半信半疑な様子の凱泉と、不可能だろうと思っている燕青もそばで見守る。


「では、僭越ながら」


 莉美は一呼吸置くと、筆を紙に走らせる。繊細かつ、力強い巧みな線がどんどん画面を埋めていく。一刻(約三十分)もすぎると、げきを手に持った雄々しい兵士の姿が現れる。


「できた……!」


 莉美が筆を画面から離した瞬間、兵はぬっと紙から出てくる。


「えっと、題名題名……なにがいいかな」


 兵士が出てきていることにも気づかず、莉美は題名を考えるのに夢中になった。


「あ、おい、莉美!」


 燕青に襟首をつかまれて引かれたところで、莉美が今さっきまでいた空中を、兵の檄が横に凪いで行く。


「…………ひっ!」


 兵は身軽な様子で紙から飛び出すと、構えを取って突撃してきた。横から凱泉が飛び出してきて、軽々と墨の兵を放り投げる。次の瞬間には、首を絞めていつでも眉間を潰せるような体勢になっていた。


「莉美殿、早く題名を!」

「兵壱!」


 叫んだが、兵は一向に言うことを聞かない。凱泉の太い腕が墨兵の首をギリギリと締め上げている。


「画面に書いたらどうだ?」


 楊梅に言われて、莉美は筆を持つとすぐに紙に『兵壱』と書く。すると、兵の動きが収まった。


「そこで姿勢を正せ」


 楊梅の声に兵はピシッと背筋を伸ばした。やっと落ち着いた室内で、莉美はへなへなとくず折れた。

 入り口付近まで避難していた燕青が、ムッとしたように口を開く。


「おい莉美。本当にやる気あんのかよ?」

「あります。ですが、想定外すぎて殺されかけました」


 その一連の様子を微動だにせず見ていた楊梅は、ひとまず、と息を吐いた。


「題名を入れれば、絵に言うことを聞かせることができそうだ」

「今までのことを思えば、描かれた絵の性格や役職に関係しているかと」


 新月は騎馬としての役割ならば言うことを聞いたし、天天も得意な守りを任されて従った。

 墨兵は兵だからこそ、上官の言うことを聞くのだ。作者である莉美の言うことは、おそらく半々。

 そして絵は、無意識のうちに楊梅の言うことを聞いた。つまり、兵は楊梅のことを上官だと認めているのだ。


「これなら、避難誘導の兵たちを増やせます。それに、戦闘要員としても」

「なるほど」


 みんなの視線が楊梅に集まる。しばらくして、うん、と彼は頷いた。


「どれくらい描ける?」

「丁寧に一体を描くのなら早くて二刻(約一時間)です」


 そうなると、寝ずに描いたとしても二十人弱しか描けない。非常に現実的ではなかった。


「ですが、まとまった人数を一度に描けば短縮できます。この一枚の紙であれば百人を一時いっとき(約二時間)で描けます」

「……三刻(約一時間半)で描いてくれ。必ず、八刻ごとに休憩を取ること」


 燕青が「それなら二日後までに一万四千近い兵ができる」とぶつぶつ言っている。


「人数が多ければ多いほど、相手は恐怖するからな」

「でしたら、精度は落ちますが群像を描けばその倍数は描けます」


 そうなれば、皇太后軍の数を抜ける。

 兵士がこの城にいるなどという情報を持っていない彼らとしたら、数多くの甲冑をつけた人間が現れただけで恐怖するに違いなかった。


 莉美は楊梅を見つめる。これで却下されれば、退くほかない。しかしなにもできないまま終わるのだけはどうしても嫌だった。その想いをくみ取ったのか、楊梅はうんと頷いた。


「わたしも腹を括ろう――先頭に立つ」


 それは、静かな宣戦布告だ。


「この戦でも、次の戦でも。国がこれから戦の波に呑まれるのなら、先陣を切って混乱を治めよう」


 凱泉がその場にひざを折る。


「お供いたします」

「遅いぞ、ぼんくら」


 言葉遣いこそ悪いものの、燕青も膝をついた。莉美もあわてて膝を正して揖拝する。


「盃どころか酒もないが、友として支えてほしい」


 もちろんだ、とみんなの答えが揃った。楊梅はぽんと手を打つと、いたずらっぽく笑う。


「では今から寝れなくなるが、いいな?」


 莉美は大きな声で「はい!」と答えていた。

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