第四章 戦いの始まり
第34話
二日後、莉美の元にやってきた楊梅とともに、小屋の入り口付近に粟をぱらぱら撒いて短い祈りを捧げる。
楊梅と毎朝ここで顔を合わせるのが日課になってから、多くの時間が過ぎていた。そしてそれはつまり、制御の期限が迫っているということに他ならない。
燕青に言われた皇太后軍が迫っているという言葉がちらついており、そのせいか心なしか城内の空気が張り詰めているようにも感じていた。
「莉美、あの狻猊に名前を付けた」
狻猊は普通の猫よりもはるかに大きく、さらに毛量が多い。加えて両目の上には特徴的なくるんとした巻き毛があって、それが
その愛嬌のある見た目を名前に取り入れたいのか、楊梅が眉毛をトントンと長い指先で叩いた。
「
「可愛らしいし、ぴったりな名前ですね」
室内に入り火鉢を楊梅の側に寄せる。莉美が引きさがろうとすると、楊梅に腕を掴まれた。
「今日は特に冷える。側に来い。身体を冷やしたら良くない」
「大丈夫ですよ。墨で汚れるので毎日冷水で身体を清めていたら、風邪に強くなりました」
「いうことを聞いてくれ」
楊梅と押し問答する気になれず、観念して横に座った。
「今もこんなに薄着で大丈夫なのか? 莉美は怪我をしたばかりだというのに」
「慣れっこですから、御心配には及びません」
「それでも心配だ。わたしの使っていないもので良ければ持ってこよう」
神妙な面持ちでとんでもないことを言われて、莉美は文字通り飛び上がりそうになった。
「駄目に決まっています。そういうのは、妃にする人に送ってください」
むげに断ってしまってから、失礼だったかなとふと不安になる。しかし、仮にも城主の私物を一介の居候ごときが下賜されるなど、一歩間違えればとんでもないことになりかねない。
「では、着古したものなら構わないか?」
「あの、そうじゃなくて……それより楊梅様、天天はお部屋にいるのですか?」
無理矢理話題を替えると、楊梅はふむと頷く。
「とても優秀でしっかり宿衛の代わりを勤めてくれている。あの様子なら凱泉を護衛から外してもいい」
「それは凱泉様が頷かないと思います」
「だろうな。でもおかしいんだ。たしか、莉美の絵は八刻(約四時間)、長くて半日だったと記憶している。印を押してもそれ以上は、普通の絵に戻るはずだが……」
莉美はギクッとした。
「半日も過ぎるのに天天はそのままだ。なにか特別な工夫を凝らしたのか?」
眩しい笑顔に罪悪感が増し、莉美は正直に話すことにした。
「申し訳ございません……墨に私の血を混ぜました」
告白すると、楊梅は驚いたあとみるみる険しい顔つきになった。
「ご、ごめんなさい。どうしても試す必要があって。罰はしっかり受け――」
伸びてきた楊梅の手に、叩かれるのかと目をつぶった。
しかし予想に反し、楊梅は莉美の手から手袋を外すと、傷口がないかをつぶさに確かめ始める。
「莉美、どこを切ったんだ?」
前のめりになるくらいに手を引っ張られて、莉美は慌てた。
「……指先に針を刺して、一滴入れただけです。傷という傷はありません」
掴まれている手を引っ込めた拍子に、後ろに倒れそうになる。瞬時に楊梅の腕が伸びてきて莉美の背を支えた。
態勢を整えようとしたのだが、それよりも早く壁に手をつかれて、腕の中に囲い込まれてしまった。
「あの、本当に申し訳――」
「……わたしの許可なしに、自分に傷をつけてはならぬ」
金緑石を嵌めこんだような澄んだ瞳にじいっと覗き込まれて、莉美は小刻みに首を縦に振った。
今まで楊梅の雰囲気に呑まれて気がつかなかったが、身体は大きく、こうして少しでも凄まれると妙に迫力がある。
「血で絵が消えなくなると知られたら、お前は血を抜かれるかもしれない」
「そ、それはあまりにも大袈裟……」
「あり得る。それに、お前の命はわたしのものだったはずだ……その血さえもわたしのものだ」
顔をさらに近づけられてしまい、莉美は呼吸を止めた。
少しでも動けば触れてしまう距離にまで追い詰められたかと思うと、壊れ物を扱うような手つきで莉美の右手の指先を見つめた。
「次に同じことをしたら許さない。罰は……そうだな、わたしが莉美に気があると噂でも流そうか」
「二度としないと肝に銘じます」
そんな恐ろしい噂、考えたくもない。楊梅は血の気が引いてしまった莉美を見ると、息を一つ吐いて身体を元の位置に戻していく。
「楊梅様の隣には、美しい人がお似合いです」
「美しさの基準は人それぞれ、と言ったのはお前だったはずだが?」
自分が言ったことをそのまま返されて、莉美は二の句が継げなくなった。
「お前は美しい」
莉美の頭の中が真っ白になった。
「心も、描く絵も、生み出す能力も……莉美のすべてを美しいとわたしは思う」
楊梅の横顔を直視できず、真っ赤になってしまった顔を両手で覆った。
「楊梅様、もうそろそろお戻りください。凱泉様に見つかります」
「ああ、もうそんな時間か。もう少し一緒にいたかったのに」
それは莉美も一緒だ。なぜなら、未だに楊梅の右手の鱗のことを聞けずにいる。
楊梅が仙星なのかどうかも、結局は訊く機会を逃してしまっている。だが、聞いてはいけないような気もしており、なかなか話しづらいのだ。
「またお前と二人きりで話をしたい。今日は会議だ。終わったら向かう」
結わいていない莉美の髪の毛に手を滑らせると、爽やかに微笑んだ。一瞬頭が真っ白になりかけるくらいの破壊力だ。
「ではまた」
莉美はなにが起きたのか理解できないまま、しばらく口をあんぐり開けて呆けた。
「なんの悪夢かな、これ……?」
頬を思いっきりつねってみたが、ものすごく痛いだけだった。
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