第33話

(なんて、美しい――――)


 莉美は楊梅の右腕に釘づけになった。


「……莉美?」


 見間違いかと思ったが、楊梅の爽やかな声が聞こえてきて、そこに立っているのが本物の楊梅だと気がつく。


「莉美殿、無礼です!」


 凱泉は信じられない距離を跳躍して、莉美に飛び掛かってくる。押さえつけられそうになった莉美を救ったのは、楊梅の「よせ」という一言だ。

 莉美は大慌てでその場で揖礼した。


「も……申し訳ございません。お召替えの最中とは知らず」

「謝って済む問題ではありません!」


 楊梅の制止で莉美を捕らえることはしなかった凱泉だが、いつでも瞬時に莉美を放り出せるように緊張した空気を纏っている。憤怒が立ち上っているのが、目にも見える勢いだ。


「凱泉、いいから」

「しかしっ!」


 いいんだとさらに声が降ってきて、凱泉は言葉を呑み込む。


「凱泉、その殺気をしまってくれ。それから莉美、顔を上げて」

「……」


 言われて莉美がゆっくり頭を持ち上げると、着替えの途中だった楊梅は鍛え抜かれた上半身をさらけ出していた。いつもならば肘まで覆う長手甲をつけているのも、今は解かれて横に置かれている。


 張りつめた空気が漂う中で、緊張を破ったのは『ぐるるる』という鳴き声だ。楊梅は音のした足元に視線を向け、少し驚いた顔をする。

 喉を鳴らしながら甘えてすり寄ってきていたのは、莉美が取り逃がしたあの赤銅色の神獣だ。


「猫……にしては見たことのない姿だな」


 楊梅が手を伸ばすと、神獣は彼の胸の中に飛び込んでおとなしく抱かれる。大柄な楊梅が抱き上げても、両腕いっぱいになって溢れ出してしまう大きさだった。


「莉美が描いた生き物か?」

「是。いきなり逃げ出してしまって、お騒がせをしております」

「なにを描いたのだ? 猫にしては大きすぎるし、狛犬というわけでもない。それに感触が不思議だ」

「……『狻猊さんげい』です」

「では、龍の子か。素晴らしいな」


 凱泉がなんだそれはという顔をしたので、莉美は恐る恐る口を開いた。


「香炉などによく意匠として扱われている、煙と火を好む瑞獣です」

「そんな危ない生き物を描くなんて!」

「し、しかしほかは虎であったり巨大な亀や魚だったので……この神獣は猫のようですし、もっと小柄かと思ったのです」

「猫だと!? よく見なさい、あんなに大きいじゃないですか!」


 怒りながら小言を言い始めた凱泉にたじたじになっていると、楊梅は苦笑いをこぼしながら着座した。


「凱泉も撫でるか? とても利口で大人しい」

「わたしは結構です!」


 楊梅は凱泉に狻猊を無理やり押しやる。狻猊は楊梅の意図を察したのか、凱泉を値踏みするように見つめると、ざらついた舌で顔中を舐め始めた。


「うっ、痛い……それにちょっと熱い!」

「あははは、気に入られたようだな」


 恨みがましい目で見られて、莉美は死に物狂いで凱泉から視線を外した。


「莉美、わたしが側におらずとも、力を制御できたのではないか?」

「これは……その……」


 血を混ぜたのだと言おうとしたところで、楊梅の右腕が視界に入ってしまい莉美は思わず魅入ってしまった。手の甲にほんの少し、そして手首から肘までにかけて、見事な金色の鱗が生えている。


 視線に気がついた楊梅が、はっとしてすぐに上着を纏う。


「気持ち悪いものを見せてしまったな」

「なにをおっしゃいますか! 美しくて見とれてしまったのです!」


 楊梅は驚いたような顔をして莉美を見つめた。


「楊梅さまも、仙星だったんですか? なんて綺麗な鱗なんでしょう」

「お前はこれが気持ち悪くないのか?」


 莉美は言われていることの意味がわからず、「ちっとも」と答えた。


「なぜお隠しになるのですか? とても美しいのに。私だったらみんなにひけらかしますけれど」


 黄金色に輝く鱗は、莉美が今まで見てきたどの生き物の鱗よりも美しい。

 硬化した皮膚のようだが、なめらかで光沢があり、さらにほんのりと輝いているようにさえ思えた。


「……これを美しいと言ったのは、お前が初めてだ」

「美しさの基準は人それぞれです。少なくとも、そのように美しいものは、私は見たことがありません」


 少なくとも、莉美は自分の右手のほうが気持ち悪いとさえ感じる。見た目にはなんの変哲もないが、人々を襲う妖魔を生み出してしまうのだから。


「そうか」


 楊梅はおかしくなったのか、笑いながら背もたれにゆったりと背を預けた。


「ところで、そこの神獣はどうする?」


 話題を替えるように、楊梅が狻猊を見つめた。視線を集めている神獣はというと、凱泉のとなりに凛々しく座り指示を待っているような顔をしていた。


「ええと、どうしましょう?」


 困ってしまっていると、むすっとしていた凱泉が口を開いた。


「香炉を守る神獣なのでしたら、『守り』を司っているのでしょう。楊梅様の護衛をしたらいいのでは?」


 凱泉の提案に、楊梅は名案だととびっきりの笑顔になる。


「ではわたしの所有印を押そう。それから凱泉はわたしの守備から外れてもらう」

「えっ、いや……そういう話ではなくてですね!」


 しどろもどろになった凱泉に「もう決めた」としれっと楊梅が言い渡したところで、凱泉は恨み節を呟き始める。


「そもそも、楊梅様は護衛の数を減らし過ぎなのです。だからこうして、珍客まで入ってきてしまうわけで」

「たしかに。私くらいどんくさい人間に、簡単に突破されてしまうお部屋の守備はよろしくないですよね」


 莉美が真面目に頷くのと、凱泉の額に青筋が浮かび上がるのが同時だった。


「誰のせいでこんなことになっているのか、莉美殿はわかっていらっしゃらないようですね!」

「わかっています、申し訳ないです! 狻猊に楊梅様を守っていただきましょうっ!」


 いい? と莉美が大慌てで狻猊に訊ねると、神獣はぐるぐる喉を鳴らした。


「――決定です! では狻猊さん、楊梅様をお守りしてね」


 ぐるるると鳴いた神獣は、言葉を理解しているのか頷く。

 おもむろに楊梅の側に近寄って腰を下ろし、どんと来いと言わんばかりに横たわり欠伸を一つした。

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