第32話
手本よりも格段に美しく華やかな生き物が、白い紙に堂々とした姿で描かれている。
「我ながら素敵に描けた。この艶めいた毛並みとか、ふわふわっとした体毛の感じとか」
言いながら莉美がうっとり眺めていると、神獣が絵の中で身震いした。
「すぐに動いた……血を混ぜれば時間差なく確実に絵が生まれるのね」
画面を見つめると、神獣は寝起きのようにまばたきをし、大きな口を開けて欠伸を始める。
神獣は莉美に気がつくと、ぬっ、とこちらに一歩踏み出してきた。ぼやけた輪郭の鼻づらが紙から出てきた途端、もわんとした空気を感じる。
「ちょっと待って……少し熱いんだけど、まさか燃えていたりしないわよね?」
万が一そんな熱い生き物に出てこられたら困る。炎を纏っていたら府庫が焼けてしまうとかもしれないと、莉美は神獣の出てきたばかりの鼻面を紙に押し戻した。
すると、ペロンと手のひらを舐められる。
「ザラッとしてる。ということは、猫?」
紙から顔まで出てきていて、杏仁形をした黄金色の大きな瞳と目が合った。
「……か、可愛い……」
莉美が逡巡した隙に神獣はするんと抜け出していてしまい、立派な前足で地面に音もなく降り立つ。シャンと背筋を伸ばしながら鎮座した姿は、小柄な獅子と呼べた。
「なんて綺麗な神獣なの」
暴れ出さずに出てきてくれた驚きと同時に、美しい見た目に心を奪われそうになっていた。
赤味を帯びたような黄金色の毛並みは、首周りが特に長く鬣のように豊かに生えている。しなやかな身体つきに、力強さが体現された太い前脚。知的な瞳には莉美の困惑した顔が映り込んでいた。
縦長の瞳孔の瞳が見つめてきたかと思うと、莉美にすり寄ってくる。そしておもむろに莉美の左手を――特に針を刺した指先を丹念に舐め始めた。
ぐるるると喉が鳴ったのを考えると、まるで大きめの猫だ。
見た目は猫に似ているが、聡明さを宿した瞳は明らかに人の心を理解しているように思える。
磨き上げた銅板のように艶やかな毛並みは、ただの獣ではないことは一目瞭然だった。
血が止まってくると、撫でてもよろしいというように指先を甘噛みされ、莉美は手を伸ばした。
「失礼します。やわらかい!」
首周りにそっと触れると、まるで絹のような触り心地に驚く。
「なんだろう、触れているのに、触れていないような不思議な感じ」
手を離してみると、赤銅色の毛が煙となって指先にまとわりついて消えていく。さらに、ほんのりと温かい空気と心地良い香りが神獣自体から発せられているようだ。
「不思議な生き物ね」
莉美が首を傾げると同時に、神獣は耳をぴくりと動かした。誰かがにやってきたのかもしれないと思い、莉美は立ち上がる。
「燕青様かしら? 神獣さん、ここで待っていてもらえる?」
しかし莉美が扉を開けた瞬間、彼はあっという間に隙間から素早く去っていってしまった。
「うそ!? 大変!」
莉美が追いかけてくるのを待つように、府庫の外に出てしまった神獣が振り返ってぐるぐる喉を鳴らす。
「戻って! お願いだから」
しかし莉美の願いは届かず、長い尾をはためかせながら神獣は去ってしまう。その後ろ姿を追って莉美も府庫の敷地を飛び出した。
何度も待ってと呼びかけるのだが、一向に獅子の神獣は止まってくれない。莉美は追いかけながら、神獣が楊梅の寝室に向かっていることに気がついた。
(どうしよう、このまま楊梅様を襲ったりしたら)
青ざめている莉美のことなど気にせず、神獣はすたすたと素早く走ってしまう。莉美が息を切らす頃になると、楊梅の居室に近づいていた。
(まずいまずいまずい! 楊梅様を傷つけることはないと思いたいけれどっ)
人払いがされているようで、護衛の一人も見当たらない。つまり、神獣を止めてくれる兵は誰もいない状況だった。
「こんな時にどうして誰もいないのよ!」
悪態をついたところで、兵たちがやって来てくれることはない。神獣は楊梅の部屋の前まで一目散に向かうと、扉の前に立ち止まった。
「もう、動かないでってば!」
伸ばした莉美の手を、神獣はあざ笑うかのように華麗な動きですり抜けてしまう。勢いよく飛びつこうとしていたため、莉美は入り口の扉に額を思い切りゴツンと音が鳴るほどぶつけた。
「うるさい、誰だ!」
恐ろしい怒声とともに中から扉が開けられ、その拍子に神獣は室内に入り込んでしまう。
「――ん、なんだ莉美殿か?」
「申し訳ありません!」
怪訝な顔をした凱泉に謝ってから、莉美は神獣を捕まえるために室内に入った。後ろから、凱泉の声がすぐさま追いかけてくる。
「こら、莉美殿! 勝手に入ってはなりません!」
「侵入者を捕まえてください、凱泉様」
侵入者という単語を耳に入れるなり、凱泉は腰のものを抜き去った。
そして、室内の奥に天井から張られていた綾絹に飛びつく神獣めがけて、刃を横に薙ぐ。
その瞬間。
「えっ――……」
斬られた幕の間から、楊梅の姿が見えた。
「莉美殿、見てはなりません!」
凱泉の声も虚しく、莉美はしっかりと目に焼き付けてしまった。
こちらを向いた楊梅が、肘までつけている長手甲を外した姿を。
そして、そこに生えていた、黄金色の鱗を――。
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