第35話

 朝からそんなことがあったので府庫の中に籠っている気になれず、莉美は庭さきの掃除に取り掛かっていた。


(そういえば、燕青様が顔をお出しにならないわね)


 派閥争いが始めるかもしれないと言い残し、燕青はそれっきりだ。


(数日見かけていない……おかしい)


 指を折って数えてみてから、莉美は首を傾げた。二日に一度は府庫内の書物を読まないと蕁麻疹が出るとでも言いそうな彼が、顔を見せないのは珍しい。


「来たらやかましいだけだけど、いないと静かすぎるのよね」


 本の虫である燕青が来ないとなると、本当に皇太后軍が来ていて、彼は密偵として忙しい身なのかもと心配になってくる。

 基本的に府庫の敷地から出ない莉美には、塀の外がどうなっているのか見当もつかない。


「誰か、色々なことを教えてくれる人はいないかしら?」


 考えてみたが、そんな都合のいい人物が急に現れることはないものだ。もちろん、凱泉には聞いても無視されるに決まっている。

 かといって、噂話が好きな下働きたちと話をするのも危険だ。


「物知りで噂話に敏い人で、私の秘密を誰にも言わない人……いるわけないか」


 ひとしきり考えこんでから、莉美はひらめいたとばかりに手を打った。


「いないなら、描いちゃえばいいわ!」


 小部屋に行くなり、莉美は天天が描かれていたのと同じ指南書を掴んで、とある頁を開いてから墨を磨り始める。


「物知りで人に害をなさず、なおかつ私の秘密を人に話さない神獣……」


 呟きながら磨り終えた墨に筆を浸す。さらさらと紙の上に描かれたのは、猿のような姿かたちの生き物だ。


「出てきて、『猩々』!」


 過去のことをすべて知ると言われる神獣が、紙から生まれ出たのは三枚目を描いた時のことだった。

 頭から徐々に抜け出してきた猩々は、ぎょろぎょろした目で辺りを見回した。


「成功ね! すみません、ちょっと教えてほしいことがあるのだけど」


 嬉々として声を掛けると、猩々は莉美をじーっと見つめてくる。紙の淵に両手を添えてから、さらに首まで抜け出してきた。


『なにが知りたい?』

「この楽芙の城郭内外で起こっていることを知りたいの」

『ふむ。皇太后軍はすぐそこまで来ておる。総勢二万。城内はいつも通りだ』


 おおかた、燕青が言っていた通りになっているようだ。


「璿環皇帝は、皇太后軍を止められないの?」

『璿環は力などない。』


 莉美は目をしばたたかせた。


「力がない? それは、どういうこと?」

『機嫌、損ね、た……だ、か』


 言いながら猩々は紙の中に戻っていってしまう。


「え、もう少し頑張ってお願い。私の力についても聞きたいの!」

『し、ら……な』


 プツンと声が途切れたかと思うと、猩々はただの絵に戻っていた。


「……どういうこと?」


 続きを聞こうとしたのだが、その日いくら莉美が描いても猩々はしゃべってくれなかった。

 重たいため息を吐きながら、手掛かりを探すために書物を読んでいると、誰かがやってくる気配がした。


「燕青様かな?」


 府庫の入り口を見に行くと、そこにいたのは楊梅だった。やけに落ち着かない様子で、莉美がいるのを確認するとほっとしたように肩から力が抜けていく。


「楊梅様、会議だったのでは?」

「もう終わった。それから莉美」


 楊梅はしょんぼりした様子で懐から紙を取り出す。


「これは?」

「天天が描かれていた台紙だ」


 莉美は受け取り、そして破れてしまっていることに気がついた。


「天天は!?」


 莉美が驚いていると、楊梅の後ろから天天が顔をのぞかせた。ぐるるると低い声が聞こえてくる。近寄って見てみると、特段変わった様子は見られない。


「……暴れていない? 紙が破かれているのに?」

「不注意で破けてしまった。申し訳ない」

「謝らないでください。誰にでも不注意くらいありますし、それに天天はなぜか元気そうです」


 通常、本体の眉間を潰すと絵は消滅する。しかし、何かあると困るので莉美はいつもそれらを破って、念のため燃やす。

 戻ってきた後に破けば、絵は紙から出てくることはない。


 しかし、絵が抜け出している時に台紙を破いてしまった時は大変で、彼らは手がつけられないくらい大暴れする。それは、住む家を無くしたのと同じことなのだろう。


 拠り所を探して暴れたあと、彼らは絵に戻ることもできずに消えて行ったのを莉美は今まで幾度か餓鬼で経験している。

 だから、抜け出てしまったら必ず紙に戻し、そしてから破くという順番が大事だ。


「ちなみに、いつ破けてしまったのでしょう?」

「おそらく、昨日だ」

「台紙を破けば、絵は消えます……なのに天天が消えないということは、血を混ぜて描いた絵には、台紙が必要なくなるということかもしれません」


 楊梅が頷いた。


「絵という立ち位置ではなくなり、この世のものと同化し、私たちと同じように生きている存在となるのか」


 そういえば、と楊梅は腕組みしながら思案し始める。


「顒を倒した時、墨だけではなく血のにおいもした。つまり、この世に肉体を持って生まれたことになるかもしれない」

「それは、すごいことになってしまいますね」

「であればなおさら、血を混ぜることは許さないからな」


 しませんよ、と莉美は肩をすくめた。

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