第30話
*
能力の制御の期限まではあと三週間を切っている。
落款印によって、『新月』と『白宝』が消滅しないことは大いに意味を持つ収穫だった。
今までならば、一度画面から抜け出た絵は、紙にもどったとしても時間が経てば消失してしまっていた。つまり、真っ白い紙だけが残るというわけだった。
しかし、楊梅の印を押された『新月』も『白宝』も、調練の後も消えずにいる。ただの絵になってしまったとはいえ、絵師としては作品が残るということなのだから満足ではあった。
いままでは、描いたら逃げられ、そして消えてしまって白紙の紙しか残らなかったのだから。
新月を気に入っていた楊梅は落ち込んでいるらしく、厩舎の馬をとっかえひっかえしながら、遠駈けで気を紛らわしているらしい。出歩いてばかりだと凱泉から愚痴を言われてしまった。
絵が紙に留まる条件は『所有印』という形で見事に達成できた。残るは、絵に言うことを聞かせることだ。その条件が、今のところ見つかっていない。
勝手に生まれてきてしまうのも制御したいところだが、言うことを聞いてもらえれば問題の半分は減る。
今は、絵に命令を聞いてもらうことに集中する方が良い。そうこうしているうちに、気になることが出てきた。
「――つまり莉美は、絵に言うことを聞かせるのには、貴族の立場が鍵かもしれないと言いたいわけだな」
「私の力の場合は、そうかもしれないと思いまして」
雨だったので日干しができず、莉美は掃除をしながら燕青と話をしていた。
いくつも試した結果、現時点で導き出されたのは、楊梅の近くであれば言うことを聞くということだ。
むしろ、それ以外は見当たらない。
「どれ、今までの成果を見せてみろ」
燕青は莉美がまとめた紙の束に目を通しながら、ふむふむと頷く。
「この、凱泉の場合というのはどういうことだ?」
「近くにいるのが凱泉様だったら、絵の反応はどうなるか比べてみました」
楊梅の側で描くから言うことを聞くのか、それとも貴族の側近でも同じようにできるかを確かめたのだ。
「結果は御覧の通りです」
「……まあ、そうだろうな」
凱泉とともに外で描いたのだが、数回とも失敗に終わっている。
また顔中を舐められても困るという理由で仔犬を描くのは禁じられた。代わりに、外では池の近くで鯉を、室内では餓鬼を描くようにしている。
幾度も試してみたが、凱泉の近くだと絵は素早く紙から抜け出す時もあれば、四刻(約二時間)後だったり、夜中にとつぜん出現してしまったりと、変化は尽きない。
「凱泉様は呆れかえっていらっしゃいます」
「凱泉など放っておけ。それよりも、顒を生み出した時はどうだったんだ? いつもと何が違っていた?」
「あの時は、転んで擦りむいた拍子に、絵に血が付いてしまったんです」
「……血、か」
墨に血を入れて試すことは禁じられていると伝えると、当たり前だと燕青は眉をひそめた。
それを混ぜれば確実に絵を瞬時に生み出し、かつ留まらせておけるなら、莉美でなくても化け物を生産できる。それは、極めて秘密にしておいた方がいい事実だ。
文字が跳ねてしまう仙星のことを思い出し、莉美は燕青にその話をした。
「力の安定のためには、自分に合った場所か人の元に身を置く……だとすれば、絵に言うことを聞いてもらうには、私だけでは対処のしようがないかもしれないです」
「なるほどな。だがまだ頑張りようはいくらでもある。試していないことがいくつも残っているだろう?」
「そうなんですけどね」
「誰しも初めから上手くいくわけではない。それに、費やした物事を無駄にするかしないかは、自分次第だ」
どういうことかわからず首をかしげると、燕青はビシッと紙を指さした。
「多くの検証によって、得たものがあるはずだ。外で描くために必要な道具を整えたから、屋外でも難なく描けるように上達しただろう?」
「たしかにそうです」
「これで、外で写生するのが容易になった。さらに、何度も描いたから実物を見なくとも見事な鯉だって描けるようになった」
莉美は頷く。
「それを無駄だと言って斬り捨てる思考が無駄だ。人生に、無駄な時間なんて一つもない」
燕青の言いかたは、まるで自分に言い聞かせるかのようだ。
「必ず自分の糧にしてやるという気概を持って取り組め」
「そうですよね! ありがとうございます」
握りこぶしを作った莉美を見て、燕青は得意げに片眉を上げた。
「いいことを教えてやる。あの楊梅公も、元々弓の腕は普通だったそうだ」
「そうなんですか?」
「しかしある時、たまたま飛んでいる鳥を討ち取ることができた。それがきっかけとなり、武術に打ち込んであの腕前になった」
それは莉美の知らない楊梅の姿だった。
「天賦の才はあっただろう。しかし、それを伸ばし続けられたことによって、本物の才能に繋がったのだ」
「初めから上手くいくわけじゃない……努力は誰しも必要ということですね」
「ああ。天才は、努力し続けた先でしか天才であり続けられない」
「では、府庫にまで忍び込んで勉学を続けている燕青様も、素晴らしい天才ですね」
莉美が半分冗談交じりにはしゃぐと、燕青はムッとした。
「当たり前だ。俺は偉くなりたいからな」
「じゅうぶん、偉そうですよ」
「莫迦か。自分で偉いと評価するのではなく、正当に偉いと認められることを言ってるのだ。だから勉学をするし、この城に出入りもする。ただ、現行の法ではまず俺が官吏になるのは無理だ。俺は農民の出だから」
「燕青様に夢があるのは知りませんでした」
「言ってないからな」
燕青が官吏になりたいのであれば、家柄が良くなくてはならない。それかよっぽどのお金持ちであるか、強力な後ろ盾があるか。
ここに出入りし、楊梅の側近をしているとなれば、明らかに後者を狙ってのことだろう。
「俺は後々必ず、皇帝の側近になって法を変える。現状はその足掛かりにすぎない」
「燕青様が宮廷に行かれたら、もう気軽に会えなくなりますね」
「問題ないだろう。元々莉美と仲が良いわけではない。馴れ合いは不要だ」
にべもなく切り捨てられて、莉美は口を尖らせた。
「だがまあ、手助けしてやらなくもない。もしそうなったら、お前の絵は素晴らしいと皇帝に伝えてやるさ」
「それはありがたいです」
燕青は神経質そうに眉根を寄せた。
「しかし、いつまでたってもここのぼんくらは愚図のままだな。そろそろ、動き始めているというのに」
「まさか、皇太后様が……!?」
「ここより北にある城郭、
そんな大きな動きになっているとは知らず、莉美は驚きを隠せない。
「皇太后は、必ず楽芙をつぶしに来るぞ。鄧将軍が居ないうちに。
恐ろしいことを言われて莉美は身震いした。
「それともう一つ、いいことを教えてやろう」
「これ以上怖い話は聞きたくないんですが……」
燕青はニヤリと笑った。
「――莉美。拾われた子が、必ずしも貧しい身分の子だとは限らない」
はっとして燕青を見た。
「楊梅公が貴族じゃないと、誰がどうやって証明できる?」
莉美は楊梅が貴族である可能性を示唆されて、言葉を失った。
「そ、それまさか。でもだったら、なぜ隠す必要が……?」
「本人に訊ねてみろ」
「意地悪言わないで教えてくださいよ!」
「嫌だね」
「ちょっとだけでいいから!」
手をひらひらさせて、燕青は広い庭園の奥に消えていってしまう。すぐさま、その背中は見えなくなってしまった。
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