第29話

「どうしよう、絶対に墨に戻らないで!」

「なにを騒いでいる?」


 突然話しかけられて莉美は悲鳴を上げた。あれほどの調練の後だというのに、息一つ乱していない凱泉が立っている。

 彼を視界に入れるなり、莉美は飛びつく勢いで楊梅が消えていった方向を指さした。


「大変です。私の描いた墨の馬に乗って、楊梅様がどこかに行ってしまいました!」

「はぁっ!?」


 凱泉は素っ頓狂な声を上げたが、莉美が指さした先をじっと見つめたのち、がっくしと肩を落とす。


「莉美殿。楊梅様は遠駆けが好きと知っていましたか?」

「そんなこと知っていたら、馬を描いていませんって!」

「でしょうね。ああなった楊梅様は、気の済むまで戻って来ません」


 またしても、ぼんくらなどという噂を増やすつもりだ、と凱泉は鬱々としている。

 莉美は心配すぎて生きた心地がしなかったのだが、ずいぶん経ってから爽やかな笑顔をして楊梅が戻ってくる。


「莉美、この絵はわたしが買い取ろう」


 楊梅は上機嫌で墨馬をよしよしと撫でている。走った心地が良かったのか、馬も調子よさそうにして、楊梅に鼻先をこすりつけていた。


「駄目です。抜け出して悪さをされたら困るのは私です!」

「気に入ったのだ」

「いけません、売り物ではございません」


 よっぽど良い乗り心地だったのか、楊梅は珍しく興奮した様子を隠していない。

 それどころか、莉美が止める声さえも耳に入っていない様子だ。墨馬を一通り撫でてから戻るように指示すると、彼はおとなしく楊梅のそれに従って紙に戻っていく。


「言うことを聞く、良い絵ではないか」

「しかし、抜け出したとあれば失敗は失敗です。また描きますから燃やさせてください」


 莉美が絵を掴もうとしたのを楊梅が遮った。


「また描くだと? 本気で言ってるのか?」


 なぜ怒ったように言われたのかわからず莉美は戸惑った。楊梅は莉美の表情を見るなり眉を寄せる。


「お前が今描いた絵は、世界でたった一枚しかない。たとえ同じものを描いたとしても、それは同じような絵であって別物だ」

「それは、そうですが」

「絵を、大事に思う気持ちがないのか?」


 莉美は雷に打たれたような気持ちになった。

 ずっと向き合い続けてきたと思っていたのだが、実際には抜け出されてしまう恐怖から、本当の意味で絵のことを理解していなかったかもしれない。


「破り捨てる絵を描かせるために、調練に連れて来たわけではない」


 楊梅に肩を掴まれて、莉美はいつの間にかうつむいていた首を持ち上げた。


「あの馬には名前を付ける。『新月』だ。乗っている時にふとその名前が下りてきた。莉美は、わたしから騎馬を奪うつもりか?」

「そんなつもりはありません。しかし、一度抜け出た絵は遅かれ早かれ消えてしまいます」

「なんとかせよ」


 首を横に振るしかなかった。莉美はいつの間にか眼のふちに涙が溜まってきてしまい、慌てて袖で擦った。

 複雑な感情が押し寄せてきていて、自分ではどうにもできない。

 本当は絵を描きたい。でも破かなくてはならない。そんなことの繰り返しで、絶望しかけていた心を見透かされて揺さぶられた。


 もったいないと、破るなと、燃やすな。


 絵と向き合えと楊梅は言ってくれる。抜け出て来たら、責任をともに負うと。

 毎朝彼は麦や粟まで撒きに来てくれる。そうやって、ちょっとずつ莉美の心を溶かしてくれているようだ。


「楊梅様、私……」


 絵を燃やすなと言われたのも、大事にしろと言われたことも久しくなかった莉美にとって、楊梅の言葉は炎よりも熱く、岩よりも重たかった。


「しかし決めた。あの絵は私のだ。帰ったら所有印を押す。いいな?」

「わかりました」


 頷いてから莉美はそういえば、と目を瞬かせた。自身の作品を残しておいたことがないのですっかり忘れていたが、落款印というのは封じ手にならないだろうか。

 絵も書も、描き終われば雅号を記した印を押す。それは、つまり、絵の完成を意味する。


「そうだ、落款……それ、もしかしたら絵が消えないための有効な手段かもしれません!」

「では試してみようではないか」


 自分の雅号も落款印も持っていない。適当なものを押すよりも、楊梅の所有印を押してもらえば一番いいだろう。それで、絵が画面に残留できるなら万々歳だ。


 いつの間にか調練もひと段落し、兵たちは帰る支度を始めている。

 莉美は深々と礼をした。心がぽかぽかして温かく、今度こそ頑張れるとそんな気持ちになっていた。


「楊梅様が落馬せず墨まみれにならず、安心しました」


 帰り際に楊梅の側に寄りながら、莉美は呟いた。


「消えてしまう気配はなかった。やはり莉美の力が安定してきているのかもしれないな」

「そのことですが」


 莉美は楊梅が駆けて行ってしまった後、ずっと考えていた。


「外で描いたからよく描けたというわけではないように思います。やっぱり、楊梅様のお側だからかと」


 莉美の報告に、楊梅はほんの少しだけ眉毛を動かした。


「貴族の方の近くにいれば、力が安定するのかもしれません」


 筆の男も、宮廷に行ってから安定したと聞いた。そして丞相と友盃を交わしてからはますます良くなった……つまり、貴族の近くに身を置いたからではないだろうか。


「そんなわけない。それであれば城下で泊ったのも貴族の屋敷だ。それにわたしは、元々拾われ子だ」


 鄧将軍のことを養父と呼んでいたが、拾われ子だったのは初耳だ。莉美が驚いていると、ひょいと持ち上げられて馬上に乗せられていた。


「ですが、今のご身分は貴族です」

「形式上のことにすぎない」


 だとしても、と莉美は楊梅にしがみついた。馬が駈け始める前にどうにか言い終えなくてはならない。


「検証したいので、府庫にいらしてください。そうでなければ、新月は差し上げません」


 莉美の必死の頼みに、楊梅は「脅すのか」と苦笑いした。


 帰宅後すぐに所有印を押し、そして一歩前進したことをみんなが知ることになる。『新月』も『白宝』も、半日以上経っても消滅しなかった。


 きちんとした絵として紙上に留まってくれた。ただし、半日を過ぎたらもう紙から出てくることはなく、それらはただの絵になった。


 望んでいたこととはいえ、生きていたものたちともう触れ合えないのかと思うと、胸がキリキリと痛むような切なさだった。

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