第28話
*
兵たちの訓練に使う調練場は、城から馬で一刻(約三十分)とかからずすぐのところにある。
下っ端の下っ端なのだから歩いていくと伝えたのだが、楊梅に駄目だと一蹴された。そういうわけで、莉美は楊梅の部下の乗る馬に乗せてもらい調練場に到着した。
(ううっ、お尻が痛い……)
馬に乗ることなどないので、少し駈けただけで脚も腰も痛くなる。莉美が隅のほうでへたり込んでいると、上等な具足が目に入った。見上げると、楊梅が莉美に手を差し伸べている。
城主の手を煩わせるわけにはいかないと辞退しようとしたのを見透かされ、腕を掴まれてあっという間に立たされてしまった。
「楊梅様……すみません、馬に慣れておらず」
「気にするな。今日は凱泉が調練する。兵たちの気合いもいつも以上だから、見ごたえがあるはずだ」
凱泉の調練は厳しいと有名だという。気合いではなく、恐怖心ではないだろうかと内心思っていた。
「私も兵士で上官が凱泉様だったら、死ぬほど気合いを入れると思います。というか、むしろ死ぬかも」
「あははは、そうだな」
見ているうちに、兵たちが二手に分かれていく。
「左が凱泉、右が小隊長で騎馬も歩兵も凱泉の倍数だ。さて、どちらが優位に立つと思う?」
数だけで言えば、圧倒的に凱泉の分が悪いのはたしかだ。普通に考えれば、小隊長に軍配が上がる。
「まあ、見ててみるといい」
始まりの太鼓の合図とともに、莉美は目をみはった。
数で押していたかと思われた小隊長の陣営が、あっという間に崩されていく。激突した先頭で、凱泉は騎馬兵たちを次々に馬上から振り落としていってしまったのだ。
「凱泉は体術の名手だ。戦場では凱泉に敵として会いたくない」
「すごいです……!」
初めて間近で見る兵たちの動きに、莉美は感銘を受けた。その間にも凱泉は全員を馬上から打ち落としてしまっている。
次は槍を持ってかかってくるようにしたが、誰一人として凱泉を止められない。
そのうちに体術の稽古になったが、複数人で武器を持って立ち向かっていったというのに、凱泉に傷一つつけられずにみなへばっていく。
「凱泉様はすごすぎませんか?」
「あれも、仙の類だからな」
初めて聞くことに莉美は驚く。楊梅は肩をすくめただけだ。おそらく、凱泉のいないところで本人が隠しているようなことを言うのをはばかったのだろう。
(本当にすごい。凱泉様も、兵たちも……)
いつか、こういった様子も絵に描き留めることができたらと、意図せず右手が疼いてしまう。それに気がついた楊梅が、莉美の腕をつついた。
「莉美、向こうなら人に見られない。絵を描いてみてはどうだ?」
楊梅に提案されて、莉美は顔を輝かせた。
「はい、今だったら素晴らしい絵が描けそうな気がします!」
莉美は持ってきた行李から画材道具を取り出して準備を始めた。大きな木の板の上に紙と重石を乗せ、正座をして墨を磨りはじめる。
「なにを描くつもりだ?」
「馬です」
縦横無尽に草原を駆けまわる馬たちの姿が、莉美の脳内に思い浮かぶ。その中でもひときわ美しく人目を引く、早くて強靭な脚力を持つ馬。
(楊梅様がお乗りになるような、素晴らしい馬を描いてみたい!)
豪華な馬具をつけなくとも、遠くから見ても誰もがため息を吐くような馬を想像し、莉美は紙に向かって集中すると筆を走らせた。
楊梅はその様子を見ながら、莉美の空気が変わったのを肌で感じていた。集中したときの莉美は、普段の彼女とはかけ離れた驚異的な力を発揮する。
凄まじい集中力と、生き生きと描き出される美しい線の芸術。楊梅は紡ぎ出された絵が完成に近づくにつれて、いつの間にか笑顔になっていた。
「できました、楊梅様」
仕上がったばかりの莉美の作品に、楊梅は唸ってしまった。
「楊梅様に乗っていただきたくて描いたのですが、お気に召さなかったでしょうか?」
「素晴らしすぎて、少々言葉を失っていた。まさか、先ほどの様子を見ただけで、どれがいい馬であるかわかったのか?」
「敵に怯えず、主の言うことが聞き分けられる馬が良い馬だと判断しました」
描かれた漆黒の毛並みの馬には、生命力と同時に知力が宿っているのが見て取れる。知能の高さと品格が備わり、さらにたくましさの中に柔軟な筋力を秘めているのが伝わる手足。鬣の艶も雄々しく、蹄は美しい。
「よく、あの一瞬で……」
楊梅が褒めようとした時、紙から墨が盛り上がり始めた。そして、あっという間にそこから抜け出してくると、風に鬣を揺らしながら着地した。
驚いている楊梅に馬は近づき、撫でてくれといわんばかりに鼻面を下げてすり寄ってくる。
「なんて素晴らしい生き物なんだ」
「ぜひ乗っていただきたいですが……途中で墨になってしまったら困ります」
「それでも良い。落馬は兵につきものだ」
莉美が止めるより早く、楊梅は部下を呼んで
墨馬は暴れるかと思いきや、大人しく楊梅を乗せている。機嫌がいい様子で耳をゆったりさせ口元を緩ませていた。
楊梅が乗りながら墨馬の頬に触れ様子をうかがう。
「お前、少し乗せてもらえるか?」
楊梅が馬に話しかけつつ足元で合図を送ると、調教したわけでもないのに墨馬は言うことを聞いて軽快に歩き始めた。
「よっ、楊梅様……駄目ですってば!」
楊梅は跨ったまま草原に行ってしまい、それからあっという間に駆け出して見えなくなってしまった。
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