第20話
「莉美、魚たちを紙に戻す方法はないのか?」
「今までできたためしがありません。生まれてきたら、眉間ごと潰すしか方法はないです。そのあと、絵は燃やすか水に浸けるかです」
莉美の返事に、楊梅は柳眉を寄せた。
「わたしが観たいと望んだのに、潰してしまうのは忍びない」
「また描きます」
莉美も手を伸ばして一匹捕まえようとしてみたのだが、潰されると勘違いしたのか、さっと身体の向きを変えて逃げ去ってしまう。
今は革の手袋をしていない右手をぎゅっと握った。
「せっかく生まれたのに、潰されるなんて嫌だよね」
莉美が呟いた声は、小さかったのにもかかわらず楊梅の耳に届いた。
「今までそうやって一人で、悩みを抱え込んでいたのか?」
「作品を破り捨てることができるのは作者だけ。飛び出した絵の責任を取るのも描いた者の役割です」
楊梅はなにを思ったのか、腕組みをして考えこむ。しばらくしてから魚たちに向かって声を掛けた。
「お前たち、紙の中に戻ってくれないか? じゅうぶん楽しませてもらった」
「……楊梅様、いったいなにを?」
「失敗作として、墨に戻したくない」
楊梅は紙に手を伸ばし、指先でとんとんと叩いて示す。
「さあ、戻ってくれ空飛ぶ魚たちよ」
そんなことをして戻るわけがない、と楊梅を止めようとした莉美は息を呑む。魚たちが一斉に机に向かってくると、次々と紙の中に勢いよく戻り始めた。
「えっ……――!!」
目が落ちるくらい驚いているうちに、最後の一匹は楊梅の指先をつついてからくるりと回って紙に戻っていった。
すべての魚が紙に吸い込まれ、素晴らしい絵としてそこに置かれる。
「……見たか、莉美!」
「み、み、み……見ました! この目ではっきりと!」
莉美は嬉しさのあまり、楊梅の手をがっちり握りしめた。
「すごい楊梅様! どうやったのですか!!」
「戻れと言っただけで、なにもしていな――」
「こんなこと、今まで一度もなかったんです!」
どんなに莉美が懇願しても、絵が言うことを聞いてくれたことはない。だから今しがた絵が指示に従って動いたのは、楊梅に起因するものだと考えるのが妥当だ。
「解明できれば、力を制御することができます!」
「これはたまたまで、わたしの――」
「なぜかわかりませんが、楊梅様だから絵たちも言うことを聞いてくれたんです!」
莉美は嬉しすぎて楊梅の手をさらにぎゅっと握りしめる。楊梅はといえば、逆にかちこちに固まっていた。
「約束の期限までにはきっと制御してみせます!」
はしゃいでいると、楊梅が複雑な顔をしながら莉美の手を強く握り返してきた。
そうされてやっと、莉美は勢いにまかせて彼の手を思い切り握っていたことに気がついた。慌てて彼の手を放し、後ろに下がって揖礼する。
「申し訳ございません。あまりにも嬉しくて失礼なことをしてしまいました」
「いや、いい。右手を見せてくれ」
言うなり楊梅は莉美の手首を掴んだ。
「なにかが違うというわけではなさそうだな。あの妙な脈はどうだ?」
「いえ、今は大丈夫なようです」
「そうか」
楊梅は息を吐くと、顎を撫でる。莉美は自身の右手を目の高さまですっと持ち上げた。
「本当は、もうこの右手で絵を描くのは無理だと、ずっと思っていました」
「だとしても、お前はあきらめなかったじゃないか」
「はい。出来ないを決めるのは、自分自身でありたいと思えました」
下げようとした右手を、楊梅が握りしめた。途端、ぶるぶると振動するような脈が、右手に湧き上がってくる。
横を見ると、楊梅の黄味の強い緑の瞳と目が合った。彼も同じように振動を感じたらしい。
なんとなく恐ろしくなって、莉美の方から手を離そうとしたが、阻止される。
右手を握ってくる楊梅の力が強まった。
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