第19話
「なに、あの人?」
狐に化かされたような気持ちになりながら、先ほどの人物は一体なんだったんだと考えた。
しかし、まだこの城の内部事情に明るくないため、彼がどういった人物なのかさっぱりだ。ひとまず、楊梅の手下なのは間違いなさそうではある。
常に仏頂面の凱泉といい、先ほどの意地悪な青年といい、楊梅の周りは変わり者が多いようだ。
謎の青年に首をかしげながら、莉美は午前中の仕事を終わらせて右手の研究のため奥の小部屋に籠って考えにふけった。
(あんなこと言っちゃったけど、本当に冗談じゃなく首が飛んだらどうしよう)
悶々としながら名工の硯を撫でまわしていると、こんこんと扉を叩かれた。
びっくりしてくぐもった悲鳴をあげると、開いた戸の向こうから現れた楊梅は目をしばたたかせた。
「わたしだが……どうした、そんなに驚いて」
楊梅は近づいてきて、口元を覆っている莉美の手に触れる。
その瞬間、またもや右手の中で奇妙な鼓動が脈打った。
「大丈夫か?」
肩に手が置かれると、莉美は止めていた息を吐き出す。
「す、すみません。ただ驚いてしまっただけですから」
心配する楊梅に向かって、莉美は首を横に振った。
「手を洗いに行った先で、府庫に幽霊が出ると耳に挟んだもので」
青年から聞いた話をそれとなく尋ねてみると、楊梅は肩をすくめた。
「なら、お前の正体が噂されているというのも、既に知っているな?」
墨を磨っていた手を止めて、莉美は恐る恐る頷く。
「それで、私はどうすれば?」
「問題なく今までと同じように過ごすといい」
それに莉美はほっとした。
「だが、煩い輩は現れるかもしれない」
「あっ、もしかして、それで府庫に幽霊が出ると?」
ご名答、と楊梅は口の端を持ち上げる。楊梅はさりげなく幽霊の噂を流し、そして莉美が仙星だという噂を上書きするつもりのようだ。
「本当に出るかもしれないが――」
「それ以上は知りたくないです!」
莉美はふうと息を吐いてから楊梅に向き直った。
「では。気を取り直して、いまから予告していた通り魚を描きますね」
「研究の成果が楽しみだな」
莉美は集中し始める。そして楊梅はこのあと自分の目を疑うことになった――。
楊梅は言葉を失ったまま、ただただ目を円くしていた。
「やっぱり抜け出ちゃいましたね」
莉美の言葉など耳に入らない楊梅は、部屋中を泳ぎ始めた魚に目を奪われていた。信じられない光景に驚きを隠せず、楊梅は魚たちを目で追っている。
莉美が描いた絵は、彼女が筆を置いた瞬間紙から生まれ出た。
逃がすまいと虫網で捕らえようしたのだが、楊梅はそれを止めてわざと生まれさせた。
すると、待っていたと言わんばかりに魚は紙から飛び出してきた。
生まれ出た魚が泳ぎ始めると、描いてあったはずの紙はまっさらになってしまう。
楊梅に促されて、莉美が紙に魚を描き続けたので、紙からはどんどん魚が飛び出してきた。そうしているうちに、あっという間に小部屋中が墨でできた魚で満たされてしまったというわけだ。
水もない空間で、魚が悠々と空中を泳ぎ始めるという不思議を自身の目で確認した楊梅は、あまりの美しさに感動していた。
「今日こそはと思っていたのですが、失敗です」
なぜか今日はどんどん絵から抜け出されてしまい、莉美はがっかりしている。
しかし、魚たちは餓鬼のようにすばしっこくなく、悪戯な動きをするわけでもないため、あきらめて自由気ままに魚を泳がせることにした。
「失敗ではない。わたしは魚の絵が泳いでいるのが観たかったのだから」
「泳がれてしまったら、もはや絵とは言えないです」
確かにそうだが、と言いながら楊梅は指先で魚を追いかけて戯れていた。
「素晴らしい……これが仙星の力。いや、莉美の力か」
「せっかく府庫で研究させてもらっているのに、今日はいつにも増して制御ができていません。絵も描いたそばから抜け出してしまいましたし」
連続で描いたとしても、生まれるのに時間がかかったり、すぐだったりの差があるものだ 。
しかし今日に限ってそれがない。そう考えてから、莉美はふと思い出した。
(違う……描いたそばから生まれてきたのは、今日と、楊梅様の前で蟻を描いた時の二回だけ。いつもと違うのは画題と、楊梅様がいらっしゃること)
壁に貼り付けた紙に昨日と異なっていることを記入しながら、莉美は唸った。
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