第18話

 楊梅が来るのならば、失敗は許されない。

 莉美は府庫で書物を干すと、すぐに奥の小部屋に入って練習のためにいつものように餓鬼を描く。しかし、結果はいつも通りだ。


 二枚は絵のまま少々留まってくれたあと飛び出してきて顔に張り付き、最後の一枚はひっそりと抜け出して逃げようとしたため、捕虫網を振り回すことになった。


「まずい。万が一、楊梅様を墨で汚してしまったら」


 凱泉に凄まれる想像を頭から振り払い、もうこうなったらイチかバチかでやるしかないと気持ちを入れ替えることにした。

 手を一度止めた莉美は、干した書物の様子を見に外に出た。


 そろそろ中に仕舞わなくてはと思いながら戸を開け放つと、なんと、干してある書物を読みふけっている青年がいた。


 驚きすぎて息を呑んでいると、莉美に気がついた青年がこちらを向いた。

 濃紺の髪と瞳がきれいだ。だが、整っているが神経質そうな面立ちと、あからさまに鬱陶しいものを見たと言わんばかりの視線に莉美はたじろぐ。


「あのどちら様ですか?」

「名乗るほどのものではない」

「ではお帰りくださいませ」


 にべもなく言い放ったのが気に障ったのか、青年は眉毛を吊り上げた。


「五月蠅い女だ。読書の邪魔をするな」


 ずいぶん上からな物言いが返ってきて、今度は莉美がむすっとした。


「どこのどなたか存じませんが、お持ちになっていらっしゃるのは大事な書物です」

「そんなもの、城内の府庫なのだから見ればわかる」

「わかっていらっしゃるのでしたら、すぐに本を閉じてください。そろそろ仕舞います」

「手伝ってやろうか?」

「結構です。私の仕事を取らないでください」


 言い放つと、青年はちらりと莉美を一瞥してから、ふんと鼻を鳴らして視線をまた文字に戻してしまった。


「あ、あの……人の話を聞いていましたか?」

「もちろん。なんのための耳だと思っている」


 ああいえばこう言い返される上に、つかみどころのない雰囲気に莉美は困ってしまった。どうしようか考えていると、本から視線を外すことなく青年が口を開く。


「お前、名前はなんという?」

「莉美です」

「先日、顒の騒ぎを起こした奴と同じ名だ」


 莉美は天を仰いで息を吐いた。青年の手元に視線を落とすと、古すぎて読めない文字がずっしり並んでいる。


「そんな難しい古代の書物を読んで、どうされるおつもりですか?」

「お前には関係のない話だ」

「悪事に使うわけじゃないですよね?」

「まさか。俺は府庫への出入りを制限されている。久々に入れたので、楽しんでいるだけだ」


 即座に否定するところを見ると、本人の好奇心で読んでいるように思える。

 しかし、これ以上訊いてもなにも答えてくれなさそうなので、莉美は青年の両手からひょいと書物を取り上げた。


「こら、なにをする」

「いい加減お帰りください。勝手に読んでいるのが知られて、楊梅様と凱泉様に鞭で打たれても知りませんよ」


 青年は立ち上がると、髪と同じく濃紺の着物についた埃をはらう。少々見上げるくらいの同じくらいの背丈で、正面近くから莉美をガンと見据えてきた。


「まあいい、今日はもう帰るが、また来る」

「それは困ります。もう現れなくて結構ですから」


 青年は薄く笑った。


「莉美。その右手の能力のことを大げさにされたくないだろう?」

「なんのことですか?」


 莉美は一瞬肝が冷えた。楊梅にも凱泉にも、知られてはならないと言われていたし黙っていたのに、いつの間にどうやって知られたのか。


 ここは、知らないふりをするのが一番だ。


「さっき見てしまった。黙っておいてやるから俺のことも黙っておけ」

「あなたのことを黙っているなんてできませんよ。出入りを制限されているんでしょう?」


 青年は莉美の苦情を無視して歩きだしたが、数歩先で立ち止まった。


「では、この城内や宮廷内のことも色々教えてやる。たとえば……この府庫に幽霊が出るという噂とかな」

「幽霊ですか?」

「特別に、対処法も教えてやろうか?」


 どう断っても来てしまいそうな気配だ。


「黙っていたら、お前の右手の謎を解く手がかりも教えてやる」


 莉美は瞬時に彼の全身を視界に収めた。一見簡素に見えるが、花喰鳥はなくいどりの文様が織られた、錦の円領えんりょう(丸襟)の缺胯袍を着用している。

 それに、腰帯から垂らされた佩玉は、小ぶりだが金緑石で作られているようだ。凱泉と同じそれは、楊梅の側近である印だろう。


「……では、古文書の読解をお願いします」


 へえ、と青年はさらに意地の悪い笑みになった。


「俺を府庫に入れたのを知られたらどうする?」

「ご安心ください。その時は一緒に罰を受けます」


 莉美があまりにもきっぱり答えたので、青年は驚いたようだ。


「右手の手がかりが書いてあっても、もし古代文字だったら私は読めません。しかしあなたは難しい本を読めるのでしょう? 力になってください」

「首が飛んだらどうする?」

「私の命はすでに楊梅様のものです。どうしようと彼の勝手です。でも、万が一首が飛ぶようなことがあったら、その時は死んでからあなたを十二分に呪ってやりますから、覚悟してください!」


 青年はぽかんとしたあとにくつくつ笑い始めた。


「……お前、おかしな奴だと言われないか?」

「大きなお世話です。で、どうします、楊梅様の側近さん?」

「いいだろう。俺に駆け引きを持ちかけてきた度胸を買ってやる」


 認めたということは、彼は楊梅の側近の一人で間違いないのだ。莉美は少々安心した。青年は莉美が口を開けるのを遮った。


「ちなみにいいことを教えておこう。お前が仙星かもしれないと、すでに城内で噂になっている」

「――っ」

「ただ、能力は知られていないから安心しろ。慎重にしておけよ」

「そう、ですか。ちなみに、城外でも噂に……?」

「それはない。修繕のほうに気を取られて噂など消えた」

「もう建物の修理は済んでいるのですか?」

「そこそこな」


 青年はそれだけ言うと、素早く消え去ってしまった。

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