第16話
*
空が白み始めるまだ寒い頃に目が覚めた莉美は、手に息を吹きかけながら部屋の中の小さな竈に火を熾した。
湯を沸かし朝食の準備を始めながら、莉美は粟を小さな袋に持って外に出た。入口の脇にそれを数粒パラパラ撒き両手を合わせる。
「……なにをしているのだ?」
急に声をかけられて、莉美は心臓が口から出るかと思うくらい驚いて振り返った。爽やかな声音がよく似合う見目麗しい人物――楊梅がそこに立っている。
朝靄に覆われた幻想的な
急いで深く揖しようとした莉美を楊梅は止めた。
「いい、そのままで」
「そういうわけには」
「こんな早朝から堅苦しくしないでくれ。次に堅苦しい態度や言葉遣いをしたら怒るからな」
「……怒る、ですか?」
「ああ、とても怒る」
ちっともそんな様子がない上にからかっているのか笑顔まで見せられてしまって、莉美は肩の力が抜けた。楊梅が莉美のことを面白がっているのは確実だった。
襟や袖口に錦の縁取りがなされた夜着の深衣に羽織をかけている姿だが、右手に長手甲をつけているのが目に入る。それはいささか、今の召し物と不釣り合いなようにも思えた。
(いつでも出陣準備ができるように、寝ている時も籠手を常につけていらっしゃるのかな?)
凱泉によると、楊梅は顒の眉間をたった一本の矢で射抜いて止めを刺したらしい。そのことからして、彼がたぐいまれな弓の名手であることは明らかだ。
(でも、楽芙は安全な街……誰が攻めてくるんだろう?)
莉美の視線に気づいた楊梅は、籠手のついた右手を持ち上げてみせる。
「わたしのこれが気になるか?」
「すみません。気になります」
不躾に見てしまったことを咎められるかと思ったが、楊梅は頷いた。
「趣味だ」
「……趣味、ですか?」
そうだ、と楊梅は至極真面目に頷いた。
「格好いいだろう?」
莉美は何と答えていいかわからず、口をもぐもぐさせてしまった。
「女子にはわからない格好良さというのが、男子にはあるのだ」
「そうですか」
「鄧将軍のようにはなれないからな。せめて格好だけでも良くしておくのだ」
「籠手を着けてらっしゃる理由に、納得しました」
「男は格好いいものに憧れるものだ。よく覚えておくと良い」
たしかにどんなに寝間着を着崩していても、寝起きでもこれだけ地が格好いい人間はそうそう居ないだろうが、と莉美は頷くにとどめた。
「そして、それを褒められるのも好きだ」
「と、とてもお似合いです」
楊梅はニコッと笑う。解かれている艶やかな黒い髪の毛が、まるで上質な絹糸のように肩から流れ落ちた。
「次は莉美がわたしの質問に答える番だ。先ほどはなにをしていたのだ?」
「えっとその……」
莉美が口ごもっていると、楊梅は首をかしげる。
「わたしと話をするのは嫌か?」
「まさか、違います!」
嫌なのではなく、困るのだ。
莉美のようなどこぞの小汚い娘と話しているのを、城の下男下女たちが良く思っていないことくらい知っている。
命を救ってくれたし、莉美からすると楊梅は皆が言うほどぼんくら愚息には思えない。それなのに、楊梅への城内外からの風当たりはきついように思える。
それが、なんだかちぐはぐに感じているので、話しづらかった。
これ以上、彼の評判を自分が落としてしまうようなことがあってはならない。できるだけそっとしておいてほしい気持ちもある。
彼の評判を底上げできるほどの技量は、まだ自分にはない。だからこそ、あまり目をかけられすぎると、もやもやする。
「……ここで話をしたら楊梅様が冷えてしまいます。またご報告の時に申し上げたほうがよろしいかと」
帰ってくださいと伝えているつもりだったのだが、楊梅はならば、と口元を緩ませた。
「小屋の中に入れてくれ」
「は、はいっ!?」
朝っぱらからとんでもないことを言われたのだが、楊梅は目を見開いている莉美には構わず、小屋の扉に手をかけてしまう。
(いやいや、朝からなんでこんな所に好んできちゃうわけ!?)
莉美の心情を知ってか知らずか、楊梅はすでに中に一歩入っている。
「ちょっとちょっと、待ってくださいって!」
「早く来い。お前も冷えてしまう」
莉美は楊梅の空気に呑まれっぱなしになりつつ、彼を止めるのを諦めた。
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