七、出版記念パーティ
自室にて、つくしは勉学の合間に秋の夕暮れを眺めておりました。これから訪れる寒い冬を想うと、ついこの間までのうだるように暑い夏さえ愛おしく思われます。目もくらむほどの刺すような直射に、はるか道の向こうはゆらゆらと陽炎を立ち上らせていましたっけ。見えない果ての景色までむっつりとした湿気をはらみ、それがまた立ち上ってはつくしの体にこもった熱を封じ込めて、上昇させるようでありました。そこへ、木の間から木の間へ吹き渡って来た一陣の風がざぁっ、と吹き抜けます。なんと気持ちの良いこと。おおせいに茂る緑のにおいを一杯にさせて、清々しい。見上げれば青々とした木の葉が陽の光を遮って、つくしの全身には木漏れ日のまばゆいレースが踊っています。夏への郷愁は季節が冬の入口へ近づいたことの証。毎年恒例の美しい追憶ですが、つくしはここのところ、添えられる自分の気持ちが変化していることに、今年になって初めて気付かされるのでありました。曰く、つくしは冬を恐れているのであります。冬への恐れがいかほどか?と申しますと、夏の嵐の後の、道のぬかるみさえ懐かしいほどにです。つくしは思うのであります。夏のうだるような暑い日々、さなかに降り注ぐ雨は恵みをもたらし、自分はその涼しさにあずかることで一夏を越えてゆけるのだと。うとましいぬかるみはしもやけを作る、冬の朝の霜柱に比べれば可愛いもので、恵みの雨を思えばなんのことは無い、ささやかなささくれ程度に過ぎないと。
つくしは窓の向こうを見詰め、熱燗を一口すすりました。
〝・・・何故、俺はそこまで冬を恐れる?〟
物思いにふける夜長は楽しくもわびしいもの。つくしは一抹の虚しさを感じて思わず熱燗がまだ沢山入った酒器を文机に置き、今しがた走らせていた筆も置きました。それから目を伏せ、わずかのいとま、考え事をすると、にわかに答えが導き出されるのでありました。
〝心地よい孤独、というには少し年をとりすぎたせいかな・・・〟
そう胸の内に浮かべるとつくしは孤独、という言葉を何度も頭の中でなぞり、自嘲的な笑みをもらしました。呼気は、直前の空気をわずかに揺らし、それは酒くさく、つくしにはいよいよ年寄りじみて感じられるものでありました。それを確認してからつくしは再び筆を取り、時々酒を口に運ぶと筆を走らせ、また何事も無かったように勉学へ戻りました。
つくしは今年、三十六。青年の頃は遠のいて久しかった。
外に出た途端の冷気に、つくしは思わずしかめっ面をして外套の襟元をグッ、と両手で押さえました。首まで亀のように縮こめて、顔を出来るだけ外套の中にしまい込みました。家の中からはそうとは分からなかったのですが、さすがに冬もいよいよ本番。冷たい北風は向かい風になってつくしに吹き付けます。少し伸び過ぎた耳にかかる毛髪が揺られ、つくしはうんと外套に顔を埋めるように肩まで強張らせ、両目をきつく瞑って風が吹き止むのを待ちました。なんせ、今はまだ朝の五時。真冬の早朝はまだ暗く、陽光も無しに体を温めてくれるものは、外套だけ。手袋をした両手まで外套のポケットに突っ込んで、つくしは外套の中に身を隠します。そうしてしばらく立ちん坊した後に、そろそろと両目を開いて風が吹き去ったのを確認し終えると、自分の鼻息で眼鏡も白いままに、つくしはとぼとぼと始発に乗る為に駅へ向かって歩き出しました。目的地は亡きお師匠さまのお宅。
実は先月、本当に久しぶりにお師匠さまの奥さんからつくしは文を頂戴しました。厚手の上等な真っ白い和紙の封筒から出て来た三つ折りのカードには、「亡き先生を偲ぶ会」とありました。内容を読むに、亡きお師匠さまを偲ぶ会、と言うのはお題目半分でした。お師匠さまの生前の友人数人が集い、お師匠さまの遺した功績を一つの本にまとめて自費出版したそうで、その出版記念パーティも兼ねているようです。文には、懐かしい皆さんで集まって、昼食とお茶を頂きながら語らいませんか。とありました。封筒には丁寧に返信はがきも入っていましたから、つくしは参加する、の所に丸を付け、ポストへ投函した次第です。実のところ、お師匠さま唯一の弟子であるつくしがお師匠さまの身の回りの人で知っているのはお師匠さまの奥さんだけでした。以前にも話したように、お師匠さまはご自分の仕事を家庭に持ち込むのを厭われる方でしたから、書生といえど、つくしがお師匠さまのお宅におじゃますることはまれでした。もちろん、仕事を家庭に持ち込むのを厭われる、と言ったって、つくしが家庭の中に入ってくるのを厭われたわけではありません。むしろまだほんの十二才だし、とにかく子供のつくしをお師匠さまはいつも心配して、身の回りの世話を奥さんに頼んでくれたものでした。そういうわけで、十代も半ばになるまでは、つくしはたまにお師匠さまのお宅におじゃましていました。ですが学問を愛するお師匠さまですから、つくしを連れてまっすぐに向かうのは決まって書斎でした。お師匠さまは子供相手に子供心を発揮されて、つくしに思うがまま夢中で学問を説いたものでした。奥さんがやんわりとたしなめるのも聞かずにお昼やお夕飯まで書斎に持ち込んで、煮物で数学を説明されたのは皆の語り草になりました。当時のお師匠さまの目の輝きときたら、まるで初めて素晴らしいことに出会った、いつもそんな風にまばゆいものでした。
中々に
そんなわけでつくしは〝ややよそゆき〟の服を着て、お葬式以来、十数年ぶりにお師匠さまのお宅へ向かっているのです。
つくしがお師匠さまのお宅へ着いた時には空を覆っていた厚い灰色の雲はすっかり晴れ渡り、お宅を取り囲む山々がてっぺんの方まで一望出来ました。お師匠さまの生家はいわゆる、ド田舎にあるのです。山の空気は一層冷たいものでしたけれど、今しがた汽車と馬車に乗っていたのもあって、閉塞感から解かれたいつくしは思い切り新鮮な空気を吸って、ゆっくりと吐き出しました。それからコリをほぐすように肩を上下させ、実に久しぶりの訪問なわけですから、なんとなく気合を入れてから門のベルを鳴らしました。女中に案内されて門の中へ入ると、すぐにお師匠さまのお宅が見えました。清楚な平屋は経年劣化の為にいくぶん改装されて、そういえば趣が少し変わったような気もしましたが、つくしがお師匠さまのお葬式で訪れた時のままでした。あまりにも懐かしかったものですから、最初はおっくうに感じていたつくしも、亡きお師匠さまのご実家との久しぶりの再会に神妙な気持ちを抱かずにはいられません。神妙な気持ち、なんせつくしがここへ訪れたのは、お師匠さまがご病気になられたからで、最後はお葬式の為でした。お師匠さまとの思い出はどれも楽しいことばかりですけれど、この場所に限っては、つくしは複雑な感慨を抱かずにはいられなかったのです。家の玄関から客間に通される間にも、見覚えのある景色がいくつもつくしを迎えてくれましたけれど、つくしにはどうしても、ふとした拍子に当時のお師匠さまの、無精髭に痩けた頬や、肩に掛けられた羽織が骨ばった骨格をなんとなくしのばせていたこと、お葬式の朝の悲しみや奥さんの淋しげな面影とか、そういうことばかり思い出されるのでありました。お師匠さまはここで、黄昏時を迎えたのですから、当然と言えば、当然なのですけれど・・・そうした非常に惜しまれる別れと思い出が詰まった家の中で、ただ一つ、つくしの心にパッ、と明かりを灯してくれたものがありました。それは客間の入口に飾ってあった一枚の書でした。軽みの有るセンスの良い木製の額縁に収められた一文字の書は、明らかにお師匠さまの筆による物でした。字は、「学」。学問に精通はすれど、他人の書物を記憶するだけでその心を持たないとつくしに宛てた遺言でお師匠さまは嘆かれておりました。「学」は、詩や文学の創造に憧れたお師匠さまらしい、純朴で誠実な文字選びでした。書に関しては、やはり少々無骨ではありましたけれど、闊達な筆運びに仕事におけるお師匠さまの豪傑さをつくしは思い出し、思わず足を止めて書を眺め、お師匠さまから与えられた沢山の恩恵が今の自分の学問に対する情熱の礎を清く正しいものにしてくれていることに、改めて気付かされるのでありました。どうやらつくしと学問は、切っても切れぬアツい仲、人生の伴侶として間違いないようです。
つくしが客間に入ると、先に到着した何人かのお客が婦人と話をしていました。それが誰ぞの到着と気がつくや、誰ぞ、とはつくしのことです、一斉につくしの方を振り向きました。一斉に皆が振り向くものですから、つくしは思わずわずかに面食らい、鳩が豆鉄砲を喰らった顔をするとすぐに取り繕うようにはにかみました。真っ先に駆け寄って来たのは灰色と薄い金茶の上品なよそゆきに身を包んだ白髪の婦人、お師匠さまの奥さんでした。
「まー!つくしさん!いらして下さってどうもありがとう!随分遠かったでしょう?」
久しぶりの再会と、熱烈な歓迎ぶりに、さすがのつくしも表情が緩みます。
「ねぇ!みなさん、見てちょうだい。この人はねぇ、つくしさんて言うの。つくしさんはね、主人の唯一のお弟子さんなのよ。十二才のころから知ってるのよ。つくしさんたら、本当にお久しぶりだわねぇ。あーあ、なんて嬉しいのかしら。」
奥さんは昔と変わらず、おっとりとした調子で言いました。ハンカチで目頭を押さえ、嬉し涙を流されてはつくしの胸も熱くなります。感動から、つくしは言葉もありません。
「主人が亡くなってから、めっきりねぇ、つくしさん。わたし、年とったでしょう?つくしさんはすっかり男らしくなって。まぁ。ほんとうに。なんて素晴らしいのかしら。あら。いやだわ。わたしったら。つくしさん、お茶、お茶飲むわよねぇ。」
鼻をすすりながら突然ばたばたとお茶の用意をし始める奥さんに、居合わせた客人の一人、恰幅の良い老紳士が「ちょっと落ち着いたら。」と優しい微笑みをたたえてたしなめました。おくさんは老紳士の腕に掴まると「だって、わたしあんまり嬉しくって・・・」そう言ってつくしに笑いかけるのでありました。奥さんは昔から、こんな具合でした。ゆったりとして、一人別の時間を生きているように、それは少しとぼけているのかしらん。そんな風に感じられるほどなのです。お師匠さまの奥さんは、とても愛らしい人なのでした。
「初めまして、生前、先生からお話はよく伺っていましたよ。」
客人の幾人かがつくしに握手を求め、つくしは一人一人と丁寧に挨拶を交わしました。
「つくしさんはねぇ、十二才で主人の所へ来た時、まだこんなに小さかったのよ。ふふっ。小さなお顔に合わせて、小さなめがねかけてたわね。あの子がこんなに立派になって・・・」
また目をうるませる奥さんに皆は優しく笑みかけました。そうして再会と出会いを喜んでいると、奥さんの傍らに一人の婦人が来て、つくしにティカップを差し出しました。
「はい。どうぞ。召し上がってください。」
「あ、どうも・・・」
つくしが婦人を見ると、それは女中ではありませんでした。二十代と思われる婦人は微笑みを浮かべ、口元にえくぼを作ってまっすぐにつくしを見ていました。そのまなざしの、気の強そうなことときたら!しっかりと健康そうな輪郭と、小さなほくろをいくつか散らベたきめ細やかな白い肌。少し縮れた黒髪が若さを物語っておりました。黒目がちで控えめにくぼんだつぶらな瞳はいかにも強情そうな印象です。奥さんは自分より少し背の高い婦人をつくしに紹介しました。
「あら!ありがとう。とうこ。とうこ、あなた、覚えているかしら。つくしさんよ。お父さんのお弟子さんの。つくしさん、この子は次女のとうこです。」
奥さんの言葉に、とうこはにっこりと笑いました。とうこが笑うと、頬がつやつやと健康そうに上がりました。
「お母さん。そんなに興奮して。大丈夫?私、あんまり小さかったものだから。・・・お葬式の時きっとご挨拶してると思うけど、ほとんど初対面みたいなものだわ。初めまして。私、先生、父の娘のとうこです。確か、私が産まれてすぐ、つくしさんが来てくださったのよね?」
つくしは差し出された手を握り、二人は握手を交わしました。とうこの掌は熱く、ふんわりとしていました。
「初めまして。つくしです。ええ。先生からそう伺っています。実を言うと先生の書斎で何度かお会いしています。あなた、とうこさんはまだ本当に小さくて、先生の腕の中で色んな単語を教えられていたのをよく覚えています。とうこさんは産まれたばかりでまだ喋れないのに、先生は一生懸命辞書を読み聞かせていた。」
つくしの思い出話に、皆一斉に笑いました。奥さんは本当に嬉しそうに「つくしさんたら!まったく、主人らしいわ。」と言ってつくしにしなだれかかりました。
「あの時はねぇ、素晴らしかったぁ。一度に二人子供が出来たようで、主人もほんとうに喜んでいたんですよ。目新しいものを見ているように、毎日つくしさんの話をして。とうこが大きくなって、何か覚える度にあの人、にこにこ笑って。わたしは子育てでめまぐるしかったけれど、何度思い出しても幸せな時だったわねぇ。あら。あの時からよ。小さな時からとうこは頑固もので。ねぇ、つくしさん、とうこったら、一度決めたらもうきかないの。」
「もう、やめてよ。お母さん!」
母娘のやりとりに、また皆でどっ、と笑い、「亡き先生を偲ぶ会」は、中々に楽しい幕開けのようです。
客間の時計が正午を知らせる時には招待客はだいたい揃いました。お師匠さまの産まれ年を考えるに、当然と言えば当然なのですけれど、これがなんともみごとなもので、お客は見渡す限り皆老人でした。禿とか白髪とか言う言葉がありますけれど、皆一様に老練の冠を頂いて、三つ揃えや蝶ネクタイの紳士もおりました。その中の一人が奥さんに歩み出ると、「皆揃ったし、もうそろそろ・・・」と声を掛けていよいよ出版記念パーティ、すなわち昼食会が始まりました。
「みなさん!こちらですよ!」
奥さんの案内で皆ゾロゾロと部屋を移動し、大広間へと向かいます。先ほど皆が居た客間も相当に広い洋室でしたけれど、昼食会の会場は本当に広々とした洋室なのでありました。内装のみごとさはお師匠さまの出自を物語るようでありました。曰く、お師匠さまは
「・・・うーん、けれどねぇ、住んでる身としては、複雑なんですよ。これ、動かせないんですもの。どうやってドアから出すのかしら。」
「ちょっと、お母さん!」
奥さんの言葉に、傍らに居たとうこは赤面しました。奥さんはとがめるとうこをまじまじと見詰め、相変わらずの調子で言いました。
「あら、嫌味じゃないのよ。ほんとうにそうなの。わたし、思ったのよ、どうして丸テーブルにしなかったのかしら、って。主人も生前よく言ってたもの。この広間がこうで無くて使えたら・・・なんてよく話したりしてねぇ。けれどずいぶん高価な物だって聞いたら、なんだか手が出せないじゃないの、ねぇ?昔の贅沢って、今のわたしたちにはよく分からないわよねぇ。とうこが小さなころ、上に上がって雑巾がけしていたことがあったの。廊下にそうするみたいに雑巾がけしたのよ。叱りつけたけれど、今思うとずいぶんと可愛いわよねぇ。ふふっ。ちゃんと後ろ向きに進んでた。」
「・・・お姉さんと妹はあっちとこっちで糸電話してたわ。」
諦めたように口にしたとうこを奥さんは愉快そうに眺め、二人は家庭の思い出に幸福そうに笑い合うのでした。母娘の睦まじいようすに、思わずお客にも笑みがこぼれます。
各々名札の置かれた席に着席し、もちろん、テーブルとセットになった椅子にも皆感嘆してから着席しました。それから本の製作者が挨拶をして、乾杯の音頭をとると次々に食事が運ばれてきます。つくしは近くに居た老紳士たちと話をしていました。亡きお師匠さまの日々の勉学のことや、皆ほとんど引退はしておりましたけれど、元は学者なわけですから、ことに近頃のつくしの仕事や学問のことなんかを聞きたがりました。老紳士たちはつくしの話に耳を傾け、自分の話をしたり、食事について談笑しています。そんな中、会話の切れ間につくしはなんとなくこの豪勢な広間を見渡しました。その時、遠く離れた奥さんの隣に居たとうこと一瞬だけ目が合い、二人は顔を見合わせました。顔は見合わせましたけれど、二人共会釈をするだとか、微笑みを交わすだとか、そういうことはせずにただ顔を見合わせたんです。この場所で、とうこは一人、場違いに若く、つくしは一人、場違いに、働き盛りをそのままに、日々の仕事の疲れを引きずっていました。とうこは垢抜けずどこもかしこも若さゆえハリがあるし、つくしは疲れから年齢のわりにくたびれて、独り身の気ままさに任せて身なりが手入れ不足でした。二人はこれといって何か考えたわけではありませんでしたが、なんとなく、この場所におけるお互いの立場を分かりあったような気になってそのまま視線を外すと、お互いに目の前の話し相手との会話に戻りました。
食後のお茶のために皆はまた部屋を移動しました。一室は広けれど内装は質素で、先程の広間とはまるで趣が違いました。恐らくこの一室はお師匠さまの見立てによるものでありましょう。随所に清潔でモダンな、そういうセンスが伺えます。ここでは決まった席はなく、皆自由に室内を行き来して歓談していました。つくしは部屋の隅の窓際のソファに腰掛けるとすっかり落ち着いてしまって、始発に乗るために夜明け前に起きたし、いい感じにお腹もいっぱいなこともあって、眠気を感じていました。ですから話しかけられてもどこか上の空で、人はそういうことには気がつくものです。つくしはにこやかに笑いかけたりするのですけれど、二、三言葉を交わすと皆離れていって、つくしはぽつん、と一人きりになりました。一室の窓はほんとうに大きなもので、元々天井も高く、それに合わせて窓ガラスもしつらえてあるわけですから、それは空まで見渡せるほど大きいのでした。窓の向こうの庭は畑かと思われるほどに広く、昼下がりの陽光は晴れた空模様のおかけで実に暖かそうなものでした。そんな穏やかな景色を暖かい室内から眺めていると、つくしはいよいようつらうつらとし始めます。なんと心地よいまどろみ。つくしがほんとうに睡魔に負けようか、という絶妙なタイミングで、「つくしさん、眠たそうね。」含み笑い、声を掛けたのはとうこでした。つくしは船を漕いでいた頭をはっ、と持ち上げて目を見開くと、とうこと視線がかち合い、赤面しました。つくしが垂れかかったよだれを手で拭うととうこは声をたてて笑いました。
「ごめんなさい。良いところだったんじゃないですか。このまま寝かせてあげれば良かったかしら。」
「いえいえ。とうこさん、起こしてくれてありがとう。」つくしはまどろみから覚めたままに、崩れた笑みを目元と口元に浮かべました。
「つくしさん、お仕事お忙しいのかしら。」とうこは眉尻を下げて微笑みました。
「いえ・・・仕事は・・・少しだけ・・・」
つくしの未だわずかにねぼけたようすにとうこは再び声を立てて笑うと、その明るい声音につられてつくしは次第にほんとうに覚醒し、みぞおちの辺りをくすぐられたように感じるのでありました。
「いや、お庭を眺めていたらなんだか眠たくなってきて。申し訳ない。あんまり良い天気なものだから。」つくしの声は途中から苦笑いに変わっていました。
「あら。何も気にしないでくださいね。コーヒーでもお持ちしましょうか・・・ちょっと待っててくださる?」とうこはいい終えるやつくしの返答も待たず、足早に奥さんの所まで行くと、遠いし、他の人の話し声や女中が給仕をする音でつくしには何も聞こえなかったのですが、とうこはどうやら奥さんと何か話し込んでいるようでした。一分も経たないうちにとうこの話に耳を傾けていた奥さんの頬がみるみる紅潮すると、突然、奥さんはつくしの方目掛けて大きな声を上げました。
「つくしさん!そうよ。あの花は、たしかに主人が私にくださったものなの。よくわかったわねぇ!」
「あの花が、お母さんと同じ名なのを、つくしさん、本で見て知っていたそうなの。」
・・・なにやらとうこには一計があるようです。奥さんはなおも嬉しそうに遠くからつくしへ声をかけます。
「まー!さすがね!やっぱりつくしさんは話のわかる紳士だわねぇ。とうこ、いいわよ。つくしさんに一輪取ってさしあげて。ふふ。花がほしいだなんて、つくしさんは中々感性のある人だわねぇ。」嬉しそうな奥さんと楽しげなとうこ、ただ呆然とソファに身を沈めて佇むつくしを、周囲の誰もが静まり返って見詰めていたものですから、つくしは皆の注目に思わず赤面しました。すぐに皆が会話を再開すると、やはり幾人かは奥さんに例の花のことを聞きただしていました。
とうこはまた早足で皆の間をすり抜けるようにつくしの元へ帰ってくると、いたずら坊主のようにつくしに笑いかけるのでした。
「つくしさん、よかったですね。お母さん、一輪くださるって。さ、早く。お庭へ行きましょ。」
とうこの少女らしいいたずらでありました。事の次第を理解したつくしがすぐに立ち上がると女中が窓を開けて外履きを用意してくれました。とうこは女中からハサミを受け取って、二人は並んで庭に出て行きます。
庭に出た途端、とうこがつくしを振り向き、わずかに舌先をぺろっと出しておどけてみせるものですから、そのいたずらな仕草に、つくしは久しぶりに童心に帰ったような気分になりました。けれどもその浮ついた心をつくしはそのままにせず、たしなめ、なだめすかすと顔には出さず、
畑のように広い庭は冬の盛に枯れ込んで、草が禿て土がむき出しになっています。そこかしこに今朝までむっくりと土を盛り上げていたのでありましょう、霜柱が溶けたあとがあります。けれど一角はまるで花園。菊だとか、西洋の球根花、つばきが満開に咲き誇って、冷たい風に色とりどりの花を震わせておりました。とうこはその一角を冬の花園と名付け、奥さんと共に楽しんでいるのであります。まるでそこだけ一足も二足も早く春が到来したようで、快晴の澄み渡る青いお空と相まって、ほんとうに美しいものでした。
つくしは「あー、いい天気だなぁ。」そう朗らかな声で言います。とうこはいかにも嬉しそうに笑って、「本当ねぇ。」と答えます。二人は一歩また一歩とゆっくり冬の花園を歩いていきます。数十歩ほど行った時でしょうか、つくしはとうこに訊ねました。
「とうこさん、今はどんな毎日を?」声のトーンを落として、つくしは口元に微笑みを浮かべていました。つくしの問に、とうこはにわかに赤面しだすと視線を泳がせ、一瞬唇を引き結びました。
「毎日、ですか?えっと、特に、別に何かをするということは無いです。私は誰の奥さんでもないし、仕事もしていないものですから・・・」とうこの声は先程までとうってかわって実に頼りなく、か細いものでした。
「そうですか。とうこさんは確か・・・今年で二十四でしょ?」つくしが言いかけた時、とうこは突然声を上げました。
「大変!見てください!つくしさん、これ今朝はまだ開いてなかったのよ。ちゃんと咲いてる。良かったぁ。今年はもう咲かないんじゃないかととっても心配してたの。蕾はついているけれど、だって見て。ほら、ここ。変な模様になっているの、分かりますか?これ、ウィルスなんですって。こっちもぜーんぶ。ね?一生懸命消毒したけど、もうだめかもね、なんて母と話していたんです。まだ咲くには季節が早いから、これから沢山蕾をつけてくれますね。」
とうこに笑いかけられ、つくしは崩れた笑顔を浮かべておりました。さっきの会話。実はつくしはとうこにわざといじわるをしたのです。つくしは自分に対するとうこの好奇心に気がついて、ぐっさりとは傷つけないように、とうこを遠ざけようとしたんです。まったくいじわるな婦人のようなやり方をして。独り身の長さがつくしを陰気でけちな性格にしたのでしょうか。とうこの言葉に、「あぁ、本当だ・・・」なんてしどろもどろやっている所を見るにつけ、つくしはまだまだ、手練れからは程遠いようですがね。
とうこは背すじをすっ、と伸ばすと、どこか遠くを眺めていました。
「・・・つくしさん、私ね、」
なにやらとうこはつくしに言いたいことがあるようです。静かな声だし、一寸神妙な面持ちだったものですから、たったのさっき意地の悪い口の聞き方をしたつくしは内心身構えてしまいました。
「去年大学を出たんです。」
とうこの突然の告白に、つくしはひどく面食らいました。理由は明白です。つくしの住む都会の街でさえ、大学に通う女の子なんててんで見かけません。世の中がまだまだ婦人の多様な生き方に追いついていないのです。その上とうこが暮らすこの村は古い伝統が未だに息づいていて、特有の地方信仰もまだまだ健在。お師匠さまは代々学者で、それも国の要となるような地位に着く優秀な学者でした。そんな一族がこの村の出身だということ自体奇跡のような稀有でありましたけれど、まさかとうこまでもが大学を卒業しただなんて!けれどもねぇ、天の采配とでも申しましょうか、特に秀でた人の才能と言うのは常々稀な運命に翻弄されるものなのであります。
「本当に?とうこさん、どこの学校?」
つくしの声は裏返りました。とうこはさきほどから変わらない様子のまま、つくしに聞かれたことを答えました。とうこの返事を聞いて、つくしは腰を抜かしそうになったんですよ。なにしろとうこが卒業したのは、つくしが卒業したのと同じ大学だったんですから。学部までおんなじで、つまりとうこはかなりの才女ということになります。
「中学生の頃から地元の学校では全然物足りなかったんですけど、結局地元に帰るだろうに他所の土地の高校へ行くにはその時、私、勇気がなくて。都会の学校なんかに通って、ここへ戻ってきたらどうなっちゃうのかなぁ、なんて心配していたんです。だってつくしさん、二十歳越えて誰の奥さんでもない女の子って、この村じゃ私くらいなのよ?変よねぇ。私、この土地が大好きなのに。
つくしはただ、とうこをまじまじと眺めるしか出来ません。
「ごめんなさい。つくしさん。そんなわけで、私話し相手に飢えていたんです。こんな庭まで連れ出すことないのにねぇ。」
とうこは一人、笑いました。笑い声の明るいことときたら、とうこはどうやらお師匠さまに似て豪傑なようです。それからとうこは身をかがめ、花を一輪切りました。
「これ、家で水に挿しておきますから、持って帰っていただけるかしら?勝手に変な荷物増やしちゃってごめんなさい。」
つくしは何も言えず、ただあいまいな微笑みを口元に浮かべておりました。
息子を持たなかったお師匠さま。誰も口には出しませんけれど、先祖代々の仕事を継ぐ者はもう居ません。伝統と才能の血すじがこんなところに、こんな形で受け継がれていたとは。亡きお師匠さまだって、とうこがこんな婦人になって自分の才能を受け継いでいると知ったら驚くに違いありません。つくしはとうこを見詰めます。大学を出たなんて聞いたものですから、どこか遠くを見据えるとうこのまなざしがどうしても聡明に見える気がしてなりません。そよ風が吹いて、それは冬らしくとても冷たいものでした。つくしはその冷たさに我に返ると神妙な心持ちになって、とうこから目をそらし、目前の草花を眺め渡しました。つくしの様子にとうこはまた声をたてて笑うと、黙り込み、少しのいとまだけ沈黙が二人を押し包みました。
「・・・本当はね、」沈黙を破ったのはとうこでした。
「母は八重の華やかなのがよかったの。あ、花の話ですよ。だけど父が新しい園芸種ももちろんみごとだけれど、野生種、原種の方が趣も感じるし、飽きも来ないだろう。ってそう言ったらしいんです。元々ここには無い植物だし・・・それでこの花に決めたそうなんです。きれいだろう。って。小さな頃はお姫さまみたいな花が大好きだった。けれど父の言ってたこと、本当だった。うちの庭にはこれがぴったり。」
とうこはつくしに笑いかけました。それから身をかがめてもう一輪花を切ると「これ、大好きな人が今日いらしてるんです。毎年うちに見に来てくださるから、プレゼントに。」
とうこの静かな微笑みにつくしはようやっとつられて微笑み返しました。
「つくしさん、本当に疲れていらっしゃるのね。気兼ねせず、早めに帰ってしまっても大丈夫ですからね。今日はお会いできてよかったわ。」
とうこに求められるがまま、つくしは手を差し出し、二人は握手を交わして宴会に戻って行きました。
結局この日、つくしはなんとかねばって会のお終いまでちゃんと亡きお師匠さまのお宅へ居ました。とうことは庭での一件だけ。老人たちと乗り合い馬車に乗って駅まで来ると各々の帰路につき、丁度いつものお夕飯の時間には帰宅しました。夏用のグラスにとうこから受け取った一輪の花を活け、それを夜の静かなひととき見詰めながら、つくしはある一つのことに考え及ぶのでありました。
桜花白蓮抄 花ケモノ @hanakemono
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