六、青物問屋〜満月の旅立ち〜
あれから随分日が経ちました。満月から音沙汰が無いことは、つくしにとって少しさみしくはありましたけれど、その後の様子を想像するに、今は黙っていたほうが良さそうです。なにしろ親友満月の恋愛がかかっているのです。良きにつけ悪しきにつけ、おじゃま虫は控えていなければ。とはいえもうひと月もすれば満月の学校が始まります。満月が住む予定の街はつくしの住む街の隣駅。まだ他に知り合いの居ない満月にとって、つくしは唯一のご近所さんになります。幼友達にして親友の満月がご近所さんになることは、つくしにとって、楽しみにほかなりません。そりゃ、たったの今は心配が勝っておりますけれど、ね。なにしろぼたんとの一件があって、二人を青物問屋へ送り届けてからというもの、入学を目前に控えているというのに満月から連絡の一つも無いのですから、つくしだって気をもんでいましたよ。そんな折、夜中に突然満月が訪ねて来たのです。夜中ですからね、つくしは歓迎、とまではいかないまでも、迎え入れるより仕方ありません。部屋のドアを開けるなり、ぷん、と酒の匂いがして、こともあろうか満月は泥酔していました。
「よぉー!つくしぃー!元気してたかぁー?」
「シィーっ!満月、何やってんだ。早く入れよ!」
ご機嫌な満月は真っ赤な顔をしてバンザイすると大喜びでつくしにしなだれかかりました。満月の大声につくしは大慌てで満月の着物を掴むや部屋に引っ張り入れ、急いでソーッとドアを閉めました。つくしに引っ張られた満月は勢いのままに部屋に雪崩れると幸福そうに笑いながら床で転げ回っていました。靴を脱ぐのもままならない満月をつくしは小声で叱責し、最後は仕方無く靴を脱がせてやりました。まだ騒ぐ満月に大人しくするよういいつけると、満月は唇に人差し指をあてがい「シィーッ!」と言って嬉しそうにはしゃいでいます。満月の大暴れにため息をこぼしながらつくしは流しへ行き、コップに水を汲んで戻って来ました。それをちゃぶ台に置いてさぁ大酔っぱらいを片付けようとした途端、まだ床に転げていた満月は跳ね起きてちゃぶ台の前に座り、「それでは、失敬して・・・」というやすごい勢いでコップを手に取って水をがぶがぶと飲み干しました。そしてやたら丁寧に空のコップをちゃぶ台に置いたのです。コップはコトン、と小さな音をたて、その音は夜中の静まりかえった室内に響き渡りました。つくしは呆気にとられまじまじと満月を眺めてしまいました。満月もジーッとつくしの顔を眺めていたので、ようやっといつも通りの静寂が一室を押し包み、それはまさしく水を打ったように静かでありました。当然のこと、静寂を破ったのは満月でした。
「つくしぃー!俺ぁ道化だ!!」
「シーッ!満月、うるさいって!」
満月は突然わっ、と泣き出し、つくしの言葉にも一向に構わず、身も心も泥酔に任せていました。まるで子どものような振る舞いにつくしは少し呆れてしまったのですけれど、満月の様子に、ただなんとなくの事情を察してここは怒るまい。と腹を決めました。一度腹を決めたからにはとことん付き合おうではないか。そう思い、つくしは再び立ち上がるともう一杯水を汲みに流しへ行きました。勇ましい気持ちで小さな台所から戻ってきたつくしはちゃぶ台にコップを置きながら座り、満月と視線を合わせるとはっきりとした声で言いました。
「満月、一体どうした?何が有った?」
ちゃぶ台に置かれたコップを両手に持ち、満月はぼんやりとあらぬ虚空を見詰めていました。しばらくそうした後にスーッ、と涙を流し、しゃくり上げるものですから、いたたまれなくなったつくしは思わず優しげな声で名を呼んでしまいました。
「なぁ、満月、」
「小便。」
立ち上がり便所へ向かう勝手気ままな満月につくしはむかつきながら、”いいや。俺は腹を決めたのだ!”そう自分を鼓舞して満月が便所から戻って来るのをお茶を淹れながら待つことにしました。心もとない手つきでズボンを直しながら戻って来る満月は鼻をすすり、座った拍子に鼻提灯を出しましたので、つくしは戸棚に置いてある明日使おうと洗濯してあった手拭いを満月へ渡しました。
「ありがとう。つくし。」
受け取ったとたん容赦なく鼻をかむ満月を、つくしは気づかれないよう嫌な顔で見ていました。ひとしきり鼻をかみ終えると、かんだ鼻水をじろじろ眺めながら、満月はへへへ、と不気味な笑いを漏らしました。
「つくし、その節はありがとう。」
「うん。」
その節、つくしにはすぐにぼたんの事と分かりました。その後どうなったのか聞かなくても、満月を見れば一目瞭然です。お師匠さまの仕事の手伝いのために明日も朝早いつくしはこれからの事を考えて少し気が滅入りました。満月の様子から合算するに、これは朝までかかるかも知れない、そう考えたのです。ですがつくしは一度腹を決めたのです。決してせっついたりせずに、満月から話し始めるのを辛抱強く待ちました。これから自分が言おうとしていることにも、つくしの真面目な表情にも気圧され、満月は話すことをためらって、しばらく右手で左手をいじくりまわしていました。元々自分の方からつくしに面倒掛けてしまった事ですし、夜中に自分から訪ねて来てしまったものですから、少し後に満月は仕方無く観念しました。ひとつ大きな息を吐くと緊張を和らげるためにもう一度へへへ、と不気味な笑い声を立てました。自分の気持ちを取り繕おうとしているあたり、なんだかまだらにしらふなようです。満月は覚悟を決めるとつくしを赤い目で見ました。
「青葉に、兄貴にぼたんをくれてやったんだ。知ってたか?つくし。ぼたんはもうずーっと以前から男と言えば青葉以外に心に浮かぶ奴など居なかった。ぼたんは永らく青葉だけを好きだったんだ。」
言い終えるや満月はつくしの手拭いを自分の手でしっかり持っていたのを忘れ、着物の袖口でぐいっと顔を拭きました。真摯な顔で、そんな風に言うものですから、つくしは満月の鼻水が何処へ行こうがもう構いません。つくしはため息をつくように一言、「そうかぁ・・・」とだけ残念をあらわに返事をしました。いざ満月の口から失恋を聞くとつくしの胸も痛みました。なんせどれだけ真剣にぼたんを想っていたか、つくしは知っていたのです。満月の恋心は、つくしには覚えのない一途なものに思えました。そして満月の痛手に同情しているとつくしはある一つの考えにたどり着き、満月を可哀想に思いました。曰く、青葉とぼたんが恋仲であることを知らなかったのは青物問屋中で満月だけだったのでは、と。つくしはふいに浮かんだこの考えを自分で否定しようと試みました。けれど否定しようとすればするほどそう思えて仕方ありません。〝いや、満月の性格から考えてそうに違いない。〟と。この場でそれを満月に確認するのはあまりに酷でしたから、つくしは黙し、満月の言葉を待ちました。
「俺は自分の好きな女を、わざわざ労を要して実の兄貴に届けたんだぞ?こんな道化芝居があるかよ。・・・けっ、つまらねぇやい。よぉ、女っていうのは、何も考えていないようなふりをして、自分の良いように人をこき使うものなんだぜ。つくし。」
言い終えると満月はちゃぶ台に顎をのせ、コップの中の水を寄り目して見ていました。唇を尖らせるさまは幼少の頃となんら変わりません。ですがそんな様子も、つくしはもう気になりません。なにしろつくしは本当に残念な気持ちでいました。すべてを一人で成し遂げたわけではなかったけれど、満月がぼたんの一助をし、相手は青葉ではありましたけれど、幸福にしてやったことは決して間違いなんかじゃありません。片思いの情熱ゆえ、恋人たちの未来を救った満月の労を、つくしはねぎらってやりたくて、懸命に励ましの言葉を探しました。
「いや。満月、それはないよ。実際あの人は困っていた。もうあとが無かった。それに青物問屋に帰るのをずっと拒絶していたじゃないか。」
つくしの言葉に間髪入れず、満月は言いました。
「好きだから帰りたくねぇって言いやがったんだぞ!分かるか?つくし。親父が反対して、叶わぬ想いに胸が張り裂けそうだから兄貴の、青葉の顔が見れねぇってぼたんはそう言ったんだ!つくし、俺ぁ初めて青葉の顔をつくづく見たよ。」
満月は胸に迫る思いの鞘当てを求めるように鋭い勢いで窓の外へ顔を向けました。さきほどまでつくしは窓際の文机の上で勉強していたのですが、つかの間の休息に、今宵の月を眺めるためにカーテンは開いたままでした。頂きに座する月はよほど高く昇って、今は降り注ぐ月光が窓枠にわずかにかかるばかり。しばらく黙していた満月は何を考えているのでしょう。突然表情を緩めると口元に笑みを浮かべています。目を細めて、それはさっきとは違って、自嘲的な笑みではありません。さきほどまでの話ぶりを考えるに奇妙と言えば奇妙ですが、優しい表情でした。無論悲しげではありましたけれど。満月が打って変わって思いがけない顔をするものですから、つくしは目が離せなくなりました。満月は微笑んだまま、わずかに視線だけを下げると声音まで優しげに言いました。
「青葉っつうのは、中々に良く出来た男じゃねぇの、そう思った。良い所にほくろなんか付けちゃってさ。色気じみてやがんの。自分に必要なものはこれとこれ。最初からそう決まってて、決して揺るがない。一途な姿は寡黙だがどうにも人を頷かせる強さがある。ぼたんと二人並んでみればなるほどぴったりとして、ぼたんの旦那になれる男は青葉しか居ないように思われる。俺は負けだ。敗北だよつくし。」
満月は微笑みを引っ込め、やはり苦虫を噛み潰したような表情をしました。つくしは懸命で潔い満月を重々に受け止め、神妙な気持ちになりました。少し考え、満月を見詰めたままつくしはねぎらいの言葉を掛けました。
「・・・満月。それでお前、それから今まで一体どうやり過ごした?言ってくれれば部屋を明け渡したものを。始終青葉さんやぼたんさんと暮らさなきゃならくなくて、気持ちが大分腐ったんじゃないのか?」
満月はつくしの顔をまじまじと見詰めました。するとにわかに満月の頬が赤くなってきて、それは耳まで行き渡ると慌てたように両手をぶんぶんと振りました。
「いやいやいやいや!つくし、気遣いなんてしてくれるなよ!男満月、恋の一つや二つ。女々しく夜中の月を見上げて涙。なんてことは、無い!」
満月が突然火の付いたように赤くなるものですから、つくしは不審に思い、思考を巡らせました。そしてたどり着いたある一つの答えを口にしました。
「満月、お前もしかして藤乃ちゃんに・・・」
つくしと満月の幼なじみの藤乃ちゃんは、料理屋の親父さんの一人娘。殿方であれば隔てなく誰にでも
「明日は十二時の汽車に乗りますんで。つくしさん、どうかよろしく。おやすみなさい。」
・・・やれやれ、どうやら満月は仕方ないようです。これにはつくしも取り合う気力を失くしました。つくしは大きなため息を吐くと記憶の中のぼたんをたどり、その顔や佇まいを出来るだけ思い出して声を与えてみました。もう二度と見ることはないだろう、心細そうなあの表情。そんなぼたんの行く先を懸命に見詰めていた満月。青春のかくも儚いこと!安アパートの一室の、しょぼくれた電灯が、満月の未だ少年らしい肩と背中を、ほの明るく照らし出しておりました。
なんて素晴らしい快晴!今日、満月は生まれ育った家を初めて離れます。青葉とぼたんの祝言はこれから満月が都会へ行き、学校が始まって丁度二週目に予定されています。旅立ちを夕刻に控えた昼下がり、ぼたんは庭先で満月を呼び止めました。
「新しい生活にまだ慣れないでしょうに、すぐに呼び戻すことになってしまって・・・」
満月が永らく自分に気持ちを寄せていたからでありましょうか、改まった挨拶にどうやらぼたんは遠慮しているようです。顔を俯けると視線だけをわずかに上げて満月を見ていました。けれどぼたんの心配をよそに、満月はいかにも優しげに微笑むのでありました。満月が何か言いかけた丁度その時、家の正面の門からきっちりとした身なりの老人と、老人の使用人らしい男が一人入って来て、使用人らしい男の方が大きな桐の箱を持っていました。満月が思わず視線をやると、ぼたんもつられ、二人は門の方へ顔を向けました。すると、青葉が母屋から出て来て老人と使用人の元へ駆け寄って行くではありませんか。ついで禄満と桃香も母屋の方から出てきて、何か話をしています。
「おーい!ぼたん!」
青葉に呼ばれたぼたんはもう事の次第がだいたい分かっていましたから、「はーい!青葉さん、少し待っておいて。」とすぐに返事をしました。話の途中でしたから、ぼたんはまたすぐに満月に向き直りました。けれどねぇ、ぼたんときたら、青葉に呼ばれたまんまの表情で満月を見詰めたんです。満月はずっとぼたんのことを恋していたんです。目のイキイキとしてることなんか、分かるに決まっているではありませんか。ぼたんが無意識なのは確かでしたけれど、それがかえって満月を苦い気持ちにさせました。満月だってプライドくらいはありますから、それを顔に出すようなことは、しませんでしたよ。自分の心を見ないように優しい口調でぼたんに語りかける、満月の涙ぐましいこと!
「何だよ、ぼたん。おまえ俺の心配なんかしてる暇ねぇだろ。人の顔じろじろ眺めてないで早く行ってこいよ。
あんまり優しいものだから、ぼたんは少しあっけにとられて思わず満月をじろじろと眺めてしまったほどです。ようやく気を取り直すと、ぼたんはわずかに眉山を曲げて、神妙そうに言いました。「・・・はい。ありがとう。満月さん、それじゃ、行って来るわね。・・・汽車の時間までまだあるわよね?」満月は自分の腕時計をちら、と見てから、ぼたんにいたずらっぽく笑いかけました。
「ある。ある。十分だ。ほら、青葉と親父がしびれ切らすぞ。」
その言葉に、ぼたんはほんの少し頬を赤らめると満月と同じように微笑み、「じゃ、」と言って青葉の元へ駆けて行きました。ぼたんの後ろ姿を眺めながら、満月はひとり、しんみりと口にするのでした。
「何だよ、太っちまって。随分と愛らしい姿じゃねぇの。」
「坊っちゃん!満月坊っちゃん!」
満月の後ろから声を掛けたのは米でした。
「うるせぇな。こんな近くに居るんだからそんな大声出さなくても聞こえるだろ。」
「あらぁ、ごめんなさいね。思わず大っきな声が出ちゃって。」
米は満月の言葉を真に受けてきちんと頭を下げて詫びました。
「いいよ。米ちゃんの声はよく通るから。」
「ね、満月坊っちゃん。持ってく荷物って、あれとあれ、それから奥に有るやつの三つで良いのよね?」
米は座敷の方を指差しました。
「うん。そうだよ。」
米の相変わらずの態度に満月は不機嫌そうに鼻を鳴らしました。小さな頃から変わらない米とのやりとりは最早満月の生活の一部になっていました。荷物を確認し終えた米は今度はじろじろ満月の表情をうかがい、何を思ったのかとたんに笑顔になるといかにも御婦人らしく片手をパタン、と一度振って言いました。
「満月坊っちゃん!緊張しなくても大丈夫ですよ!そりゃ、私だってさみしくなりますけどね。都会に行ったからといって、
米は満月の上着のポケットに店の名前と住所、連絡先が書かれた紙を勝手に入れると、一人で笑っていました。満月は一度だけ、「何すんだよ、勝手に。」と身をよじるもこらえきれず、笑う米につられてつい一緒になって笑ってしまいました。
「ガキじゃねぇんだから大丈夫だって。近くにつくしも住んでるし。それよりいつまでもここでたむろしてて米ちゃんの方こそ大丈夫かよ?早く帰らねぇとまたお姑さんに嫌な顔されるぞ。」
それを聞くや米は人差し指を目尻に持ってきて目を吊り上げ、低い声で唸りました。
「嫁は嫁っ!女中は女中っ!」
唇を尖らせて悪ふざけにご満悦な米は途端に一人で笑いだし、その声の高らかなことときたら、満月はいよいよ呆れてしまいました。
「あのなぁ・・・米ちゃん・・・」
「今日は駅まで見送りに行きますよ!帰りに主人と合流して、久々に外食するんです!だから満月坊っちゃん、まだ私はここに居ますからね。何か用事があったら頼りにして良いですよ。」
米は相変わらずの口調で言うとくるり、と体を反転させて倉の方へ歩き出しました。数歩行った所で満月を振り返り、片手をひらひらと振りながら。満月は米のシャン、とした小さな背中をしばらく見送ってから、一人感慨にふけりました。
「可愛い
さすがの満月もいよいよ旅立ちとなると、慣れ親しみ、嫌というほど身近な存在だった青物問屋が美しい郷愁に満たされているように感じます。また、冬の盛りの空気は侘びしく厳しいものでありましたけれど、一層澄んだ蒼天の頂きから降り注ぐ陽光は優しく、春をしのばせて力強いものでした。その力強さは冬のそれとは違い、芽吹きをしのばせるものです。いかにも旅立ちびより。満月は夕方、汽車に乗って都会へ行きます。果ての無いように思われる未来は、果たして満月の年齢が見せる幻でありましょうか。実は満月はこの時に至って、初めて将来のことなどてんで考えていなかったことに気がついたのです。なんせついこの間まで、自分の将来の進路はぼたんに委ねていたのですから。ぼたんが右と言えば満月も右。ぼたんがやっぱり左と言えば満月も左に行くまで、と。
「女は、恋は魔物だ。俺の時間を、瞬く間に飲み干していやがった。俺の知らぬ間に・・・」
満月はわざとらしく両手で自分の肩を抱き、ぶるり、と身震いすると「浦島太郎だぜ。まったく。おぉ、怖っ・・・」とつぶやき、近所の幼なじみ連中にあいさつ回りに行くために歩き出しました。
米の紹介してくれた店は満月の地元では見かけない類の、紳士向け洋品店でした。満月はそこで青物問屋の令息らしい金額を提示し、学校に通うために親切な店の主人にあれやこれやと一通りあつらえてもらったわけですが、学生らしく清楚にめかしこんだ満月はまるで貴公子のようでした。
「中々良いんでないかい?」
鏡に映る自分に満月が感心していると、店の主人は本当に嬉しそうに微笑むのでありました。
満月は素敵な格好のまま、つくしに会いに行きました。待ち合わせ場所でいつものように、ぼんやりと立っていたつくしに満月が「おーい。」と声を掛け、手を振ると、つくしは嬉しそうに笑みながら「お。来たな。満月。」と迎えてくれました。つくしは満月を上から下まで眺め渡すと、納得したように何度も頷くのでありました。
「ついに子供服を脱ぎ捨てたな。」
つくしの冗談に満月はムッ、と難しい顔をすると、「おう。けどよ、それで一番に会いに行くのがおまえじゃ仕方ねぇやな。」と答え、殊勝な顔でつくしに目配せしてやりました。つくしは「なんだよ。どういう意味だ。」と文句を言いながらも、少し久しぶりの再会を喜び、これから都会で暮らす満月を歓迎するのでありました。
つくしは満月の通う学校のある街を案内しました。二人通う学校は違っても、つくしはお師匠さまの仕事の用事で、何度も街を訪れていましたし、元々満月の通う学校に縁の有るお師匠さまの案内で、街の事はよく知っていました。お師匠さまは、社会的地位は普遍的な人々よりも特別でありましたけれど、どこか子供のような遊戯心を持っています。ですから面白いと感じれば見るからに不相応な場所にもどんどん入って行きました。もちろん、相応にかなり高級な店にも出入りしてよしみにしていましたけれど。つくしはお師匠さまに街での遊び方を教わり、学生らしくお金を掛けずに楽しむやり方も心得ていました。二人は気の済むまで遊び周り、日暮れ前には満月の借りている部屋へ行きました。満月が都会へ来てまだそう日が経っていないものですから、つくしは雑然としているのを覚悟していました。それが到着してみればまぁ、こざっぱりと綺麗なもので、思わず感嘆するほど。後でよくよく考えてみれば満月は産まれた時から女中達が片付け、掃除し、行事や季節が変われば飾り立てた家に住んでいたのです。年頃の男の子らしく暮らすままにし放題した部屋に落ち着いて居られるわけがありません。
満月はお茶を淹れると、お茶菓子まで持ってきました。それは地元の銘菓で、つくしをずいぶん喜ばせました。
「お!懐かしい!なんだ、満月。気が利くなぁ。」
その言葉に満月は苦笑していました。
「米ちゃんが持ってけってうるさかったんだよ。子供みたいだろ、俺が。」
米ちゃん、と聞いてつくしはよく通る声と、いつでもシャン、と伸びた背中を思い出しました。小柄な美人で、つくしが満月を訪ねて行くといつも「あらぁ!つくしさん!」と歓迎してくれたものでした。淡く、暖かな思い出につくしが思わず笑うと、満月は不満そうに唇を尖らせるのでした。
「うるせぇのなんのって。あれ持ってけ、これも持ってけ、荷物が多すぎやしねぇか、夕飯はどうするつもりだ。って、ちったぁ放って置いてくれってんだよ。俺がバカみてぇじゃねぇか。なぁ、つくし。」
「米さん、相変わらずだなー。」
「そうだよ。あれは、なんも変わんね。なんかありゃ呼びもしねぇのにスッ飛んで来てさ、叔母さんや母さんときゃっきゃっきゃっきゃっ小娘みたいに遊んでるよ。」
言い終えると満月は一口茶をすすり、まだ嬉しそうに笑っているつくしをジッ、と眺めました。そのままふいに、一度視線を外すとどこかあらぬ方角を見、静かな声で言いました。
「よぉ、おまえ、近頃睡眠不足だろ。・・・なんかあったのかよ?」
言われたつくしは笑うのをピタ、と止めて、思わず、といった表情で満月を見詰めました。見詰められた満月は一瞬言葉に詰まり、なんとなくお茶を一口口に含んで飲み下すと「・・・おまえの特技は昔から睡眠じゃねぇか?目の下にくまなんか作って薄ぼけた顔して・・・声もよく出ねぇみたいだし、困ったことでもあるんじゃないかと思ってさ。いや、俺もおまえももう大人だし・・・あんまり悩むと体にこたえるぜ、まぁ、俺の思い違いなら・・・いや、待てよ。お堅いつくしさんが色恋とありゃ、万々歳だけどよ。」そう言って悪戯そうに微笑みました。言われたつくしはと言いますと、少し困り、迷いました。満月に事のうちわけを話すべきかと。寝不足で、確かに頭が一寸ぼんやりとして、後々考えると口が軽かったようにも思われるのですが、つくしはまるで自分に言うようにぽつり、と満月に白状しました。
「先生の期待に応えられるのは、俺では無い。・・・多分・・・」
さきほどと一転して暗い表情のつくしを満月は気遣おうとしましたが、つくしのプライドを思うに露骨に心配するのはどうにもはばかれ、それと分かられないよう、細心の注意を払ってつくしの少々くぼんだ目を見詰めておりました。
「・・・夜通し勉学勤めかよ?」
「・・・あぁ。・・・いや。実のところ、そうしていれば少し不安から逃れられる。・・・もちろん、先生が俺に求めているのはそんな事では無い事も分かっている。先生は俺に、頭脳は求めていない。」
眼鏡の向こう側で、遠い目をしたつくしはどこか頼りなさ気で、満月の目にはだいぶ参っているように見えました。自分に他する不甲斐ない気持ちなら、満月もよく知っています。満月はひとつ、ふん。と鼻をならしました。
「なぁ、つくし。人との競争で勝ち得た力は脆いぞ。おまえは小さな頃から大人の社会に単身出入りしていた。もまれ苦労もしただろうに黙し、俺達から見れば遊び人のような師匠とも上手く付き合ってきた。」
この言葉に、つくしは大きなため息を吐きました。
「満月、そんな事俺は・・・」
「うん。おまえがそんな事気にしていないことは、なんとなくだが俺は分かる。・・・おまえが望んでいるのが、そういった価値観で判断されることで無いことも。つくし。おまえは自分の道を行け。俺が知る限りに過ぎないが、おまえは自分で思うよりずっと人には中々出来ない努力をいつも積んでいた。そこまでしておいて、人との競争に甘んじるのはもったいない、と俺は思う。競争に勝てるのは、もちろん実力ありきだろうが、それだけじゃないだろ。その時女神が微笑んだ奴だけが、勝つ。一度や二度の勝利が何になる?人と競争して秀でることより、自分の力を磨き鍛えろ。実りの形はひとつでは無いはずだ。つまりおまえは、自分の道を行ける男だ。・・・ごめん。つくし。」
「なんで謝った?」
「いや、的外れかと思って。」
つくしは満月から一旦視線を外すと頭をガリガリと掻いて「ふー。」とひとつ息を吐きました。そしてそれきり、黙り込みました。満月はつくしの様子を眺めながら地元の銘菓をモクモクと食べ、「これ。持ってけよ。夜なべのお供に。」と言って一箱つくしに差し出しました。つくしは小さな、かすれた声で「うん。ありがとう。」と答えました。満月はお茶でお菓子を飲み下してから少し真剣な面持ちをして、つくしに語りかけました。
「けどなぁ、あんまり無理してくれるなよ、つくし。」
そう言う満月をつくしはまじまじと眺め、感心したように言うのでした。
「満月、お前やっぱり、米さんにちょっと似たな。」
満月が都会へ行ってから始めてのお正月。青物問屋のお正月は毎年のようにめでたく華やかで、都会の喧騒から離れた満月は実家の伝統としきたりにしみじみとした感慨にふけってしまうのでありました。盆にも一度帰っていたのですが、少し久々の実家はやはり、懐かしく心落ち着くものでありました。しかしながら青葉とぼたんが夫婦になってほんの一年あまり。代替わりが青物問屋の未来の形として皆の目に如実に見えてくると、確かにこれまでとは空気が少しづつ変化していました。それは年に数回しか帰れない満月には余計に目に付くものでありました。ですから、実家に滞在していても、満月はどうしてもかつての青物問屋が懐かしく、郷愁にかられるのでありました。それが拍車をかけるのでしょう。故郷の景色がもう戻らないことを悟ると、満月はいよいよ青物問屋から気持ちが離れ、身も心も都会に根づきだしていました。なにぶん、満月はてらいの無い性格で、行く先々で友人が出来ました。身のこなしや身なりを整えてしまえば見栄えもして、中々に男前なものでしたから、最近ではどこへ行っても、取り巻きの女の子がいつも二人か、三人は居るくらいでした。年頃の青年にとって、これほど楽しいことはありません。歓迎してくれる友人たちの居る場所が、満月の故郷になりつつあったのです。
「あらぁ。満月さん。」
門を開けるなりそこへ居たのはぼたんでした。満月がぼたんに何か言いかける前に、嬉しそうに駆け寄って来たのは米でした。
「あら!満月坊っちゃん!言ってくれれば主人と迎えに行ったのに!ここまで歩いて来たんですか?まー。今日もなんだか王子さまみたいじゃないの!」
すっかり都会の人ねぇ、と畳み掛ける米に、満月は呆れた口調で言いました。
「米ちゃん。どうしておまえは正月なのにここへ居るんだ?まだ三が日だろ?」
「満月坊っちゃんがそろそろ帰って来る頃かと思って!」
米の透き通った明るい笑い声が正月の晴れやかな青物問屋に響きます。
「さては米ちゃん、お土産目当てだな。」
「あらぁ、バレてたかぁー。」
おどけた調子で、自分の額を掌で打つ米を無視して、満月はぼたんをじろじろと眺めて言いました。
「・・・おい。ぼたん。何だその腹。病気か?」
「満月!滅相もないこと言わないでちょうだい!」
「あぁ、母さん。ただいま。」
桃香に帰省の挨拶をしながら満月はもう一度、横目でちら、とぼたんを見ました。お正月の赤い着物に身を包んだ身重のぼたんは美しかった。もうすっかり奥さんが板について、少しふっくらとした顔や手が、なんとも艶めかしく、彼女の幸福を体現しているようでありました。満月の帰省に気がついた青葉が歩み寄り、兄弟はお正月の挨拶を交わしました。それから女三人まだ満月とお正月の挨拶をしていなかったことに今更気がついて・・・明るく楽しい笑い声は絶えません。
「満月、お前はいつも女に囲まれてるなぁ。」
青葉の声は以前と変わらず朗らかです。
「ごめんなさいねぇ、二人はおばちゃんで!」
そう言って米が桃香の腕を取ると桃香は楽しげに米にしなだれかかり、ぼたんも思わず笑顔になりました。皆にこやかに満月との再会を喜んでいました。
「ここは寒いわ。満月さん、家へ入りましょ。青葉さん、荷物持ってあげて。駅から遠かったでしょう?ね、満月さん、夏にも同じこと言ったけれど、駅に着いたら連絡くださいね。すぐに迎えをよこすから。」
にこにこ親しげに微笑みかけるぼたんに満月は少し面食らい、しどろもどろになりながら「あぁ、いつも何か、変な時間に駅に着くから・・・」と言い、手を差し出す青葉に荷物を手渡しました。
「おい。兄貴。ぼたんはやっぱりどこかおかしんじゃないか?人ってこんなに急に変わるものかよ?」
満月の言葉に、青葉は笑っていました。声音はやはり、おおらかに朗らかでした。
「さぁ?どうかな・・・」
歩き出す青葉の背中を見ながら満月が「何だぁ、青葉もなんだかおやじくせぇな。歩き方が若い頃の親父そっくりじゃねぇの。ぼたんは苦労するぜ。」そう言うと女達はまた楽しく笑い合い、満月はやっぱり女に囲まれて家に入って行きました。皆で過ごすお正月の楽しいこと。
さて、これにて満月の少年時代のお話はおしまいです。少年、満月は恋する女に一途で、騎士のような姿さえ垣間見せました。悩みながらも日々の仕事に従事するつくしと・・・思い出の回想はおしまいですが、二人の人生は続きます。共に三十六になった満月とつくし。その心はいかにして、各々の人生を見詰めるのでありましょう。それはこれから、
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