五、青物問屋〜満月の恋やいかに?〜

 一花亭がある街から、つくしが住む街までは汽車に乗ってしまえばそう時間はかかりません。駅での待ち時間含め、青物問屋から一花亭までのほうがよっぽど時間がかかります。つくしの住む街は港町で、それなりに都会でした。汽車から降りた満月とぼたんはつくしの間借りしている部屋まで歩きます。明け方まで数時間。まだまだお陽さまの気配は無く、暗い街はしん、と静まり返っていました。ぼたんは汽車の中でなんとか泣き止んで、満月にやっかいをかけた反省から何も言えず、満月の後をとぼとぼ歩いていました。しばらくそうしていると、突然満月がぼたんを振り返りました。うつむいていたぼたんはそれに気がつくとばつが悪そうに満月を見ました。

〝今度はなんの用かしら・・・〟

ぼたんは何も言えず、ただ自分の心臓の鼓動がずきずきと打つのを感じていました。満月はぼたんの表情を一度確認してから、手を伸ばし、ぼたんの手を取ってまた前を向きました。終始歩みを止めないまま、満月は呟くようにこう言いました。

「夜道だから・・・」

手を繋いだ二人は互いが立てる足音を聞きながら、冷たい石造りの街を歩きます。手を繋ぐ、ぼたんにとって、これに恋愛めいたところは一つも無く、幼い頃のままでした。ぼたんは小さな頃、忙しいおいとを恋しがってすねたり、泣いたりすることがありました。すると満月がこうやって、どこかへ連れ出そうと手を引くのです。さみしいぼたんは中々笑ってくれず、けれども次第に遊びに夢中になれば、さみしさなんか忘れてしまって、気がつけばおいとの仕事も終わっていました。道の所々に現れる街灯のぼんやりとした灯りに照らされた満月の背中は、あの頃よりずっと大きくなって久しい。ぼたんはそれを眺めながらひたすら歩みを進め、時間はかかりましたけれど、痛い心臓の鼓動を落ち着けるのでありました。


 つくしは幼少の頃より満月、青葉、ぼたんや、他の近所の子供たちとよく遊んで育ち、十二になったらすぐに一人都会へ行って、お師匠さまの元で書生として勉学に励んできました。数年前から書生としてでは無く、お師匠さまの弟子として、助手として、お仕事の手伝いをしながら学校へ通っています。年齢の割には多忙な毎日を暮すつくしも盆暮れ正月には満月たちの居る地元へ帰り、その上何は無くても時間が取れれば地元へ帰ります。ですから、青年になった今も、三人は互いを良く知る仲なのでありました。つくしについて、青物問屋での評判はいかがかと申しますと、つくしはその勤勉さから一通り皆の信用をかっていました。つくしは賢く、真面目で優しいと。禄満から粟子叔母さん、勤めに来ている老若男女誰もが皆そう信じていたのです。つくしは十二のほんの子供の時分から、一人都会へ出て行って立派なお師匠さまに学んできました。地元のどこを探してもそんな子供はつくしだけでしたから、当たり前と言えば当たり前の評判なのかも知れません。そしてつくしの学問の道は実力とは釣り合わずとも、並外れて一途なものでした。お師匠さまはこれを快く思い、つくし一人を愛弟子として長く可愛がっておりましたので、それがなんとなく皆に伝わったのも、一理あるのかも、知れません。さて、満月から事前にもしもの場合の世話を頼まれていたとは言え、実際、深夜も過ぎて夜明け前という頃合いに、訪ねて来た二人を目の当たりにしたつくしが、動揺を隠せないのは当然のことです。けれどねぇ、やっぱり皆の評判通り、つくしは紳士なものでしたよ。いたたまれないといった様子で満月に手を引かれ佇むぼたんを見るや詳しい事情を聞くこともせず、すぐに二人を部屋へ入れてくれました。


 「急にごめん。つくし。やっぱりこうなった。」

満月の言葉につくしは苦笑で答えました。ちゃぶ台の前に座る二人にお茶を出し、つくしは静かな声で言いました。

「ぼたんさん、すみません。狭い部屋で・・・男一人なもんだから・・・むさ苦しいかも知れないけど、仕事が見つかるまで居てもらって構いませんから。」

「悪ぃな、つくし。」

「ごめんなさい、私・・・」

「いえいえ、ぼたんさん、謝らないでください。青物問屋を出て来てしまった以上、どうしようも無いですから。きっと何か事情がおありなんですね。こんな事を言っても慰めにはなりませんが、皆それぞれ大小なりと事情を抱えているものです。そうでしょ?だから今はこれからの事を皆で考えましょう。」

「つくし、お茶ありがとう。暖まった。いや、なんか寒くて・・・」

「はは。満月、お前緊張してたんだろう。ぼたんさん、おかわりは?」

「・・・ありがとうございます。」

ぼたんの湯呑みにお茶を足してから、膝立ちになっていたのを座り直し、つくしは自分も一口茶をすすると満月に言いました。

「しかしお前、よく治めたな。」

つくしの称賛に、満月はいたずらっぽく不敵な笑みを浮かべるに留めました。ぼたんへの気遣いからですが、まぁ、なんと優しいこと!満月の表情につくしは笑顔を浮かべるともう一口茶をすすってから眼鏡を外して眉間をつまみました。

「えーっと、何から話せば良いかな・・・まず、俺に出来る事から話しましょう。もちろん、進捗を見ながら臨機応変に対応しましょう。まず、俺は先生の仕事場に泊まります。先生には事前に伝えてあるのでご心配なく。満月は今日は?帰らないなら俺と仕事場に泊まろう。」

「うん。家の女たちにつくしの家へ泊まりに行くと伝えてある。来年の事で・・・」

「なるほど、分かった。それから俺は明日先生の奥さんに頼んで推薦状を書いてもらいます。ついでに女中の口が無いか、探してもらいます。もちろん俺も探しましょう。満月も粟子叔母さんと母さんに頼めそうか?」

「当たり前じゃねぇか。ぼたんのことだぜ?もしかしたらここに来るかも・・・」

ぼたんの暗い表情を察して、満月は思わず黙り込みました。どうしてぼたんは青物問屋を怖がるのでしょうか。満月はさみしいような、悲しいような心苦しさを感じていました。

「けどもしかしたら米だけで十分かも知れない。米の方が顔が広いんだよ。おしゃべりだから。」

「そうだな。あまり皆で大騒ぎしても仕方無いしな。じゃあそれで、今日の所はこれでおやすみにしましょう。満月、外泊の用意は?」

「うん。大丈夫。」

「じゃあ行こう。ぼたんさん、向こうの部屋に一通り揃ってますから、自由に使ってください。明日また来ます。・・・その前に満月が来るか。必要な物があればその時に。お腹空いたら戸棚にパンと果物とか入ってます。もちろんお茶も遠慮せず。」

「本当にありがとうございます。なんて言ったらいいか・・・」

居心地悪そうに肩をすくめるぼたんにつくしは微笑みました。

「・・・もうこんな時間ですから・・・大家さんには明日俺から電話しておきます。何も心配せず、今日はゆっくり休んでください。」

「ぼたん、明日朝イチで銭湯行っていいぞ。汽車で汚れたろ。はい。ジュース代。」

満月はズボンのポケットから小銭を取り出し、ちゃぶ台の上に置きました。ぼたんが目をうるませるのを無視して立ち上がるとつくしもそれに従い、二人は忍び足で出て行きました。


 お師匠さまの仕事場までの道のりで、つくしは一人考えていました。余程のことが無い限り、親も家も学も無いぼたんに、仕事は見つからないだろう、と。実のところ、満月も同じように考えておりました。一通り思い当たる所を当たってみて、何も収穫無ければぼたんを説き伏せて青物問屋に連れ帰るしか道は有りません。これにももう一つ問題が有って、例え潔白であろうと、何の言伝ことづても無しに突然姿を消し、十日ほどであろうとも茶屋の給仕をしたぼたんのことを、果たして禄満が許せるでしょうか?なんとまぁ、問題は山積みです。とにかく、今は目前の計画を一つづつこなすしかなさそうですが・・・


 数週間後・・・つくしと満月の予想は的中してしまいました。不憫にもぼたんを雇い入れてくれる所は見つかりませんでした。こうなってはどうにかぼたんを青物問屋へ連れ帰らねばならないわけですが、それにはぼたんだけでは無く、禄満も説き伏さねばなりません。しかもぼたんはいく日もつくしの部屋に寝泊まりしました。果たして、こんなことが禄満に許せるでしょうか。考えあぐねたつくしはお師匠さまの奥さんに今度は禄満宛に一筆書いてもらえないか頼んでみる事にしました。禄満の弱点は他所さまと世間体でしたから。そういったわけで、つくしはお師匠さまに頼んで奥さんに会わせていただいたわけですが、つくしがお師匠さまにくだんの件で、奥さんにもう一つお願いしたいことがある、と言ったとき、それまで若い者同士の事だから、と詳しく話を聞こうとしなかったお師匠さまはあまりに長引いているらしいくだんの件についてつくしに申開きを求めました。そしてつくしは奥さんに会いに行った時に二人に詳しい経緯を話したわけですが、奥さんは二つ返事で文を書くことを了解してくれました。なんと直後に、お師匠さままで文を書くと仰るではないですか。これにはわけがあって、どうやら一連の出来事と満月の行動がお師匠さまのに触れたらしいのです。お師匠さまは奥さんに紙と筆と硯を持ってくるように言いつけると、つくしに墨をすらせ、その場で奥さんと一緒にすらすらと文を書き始めました。楽しそうに禄満宛の文をしたためるお師匠さまを尻目に、つくしはすっかり恐縮してしまって、もう、タジタジでした。なにしろつくしは、まさかお師匠さまの筆を拝借するだなんて考えも及ばなかったのですから。機嫌が良くなったお師匠さまは、帰宅しようとするつくしに、「送って行こうか?よし、ハイヤー呼んでやろう。」とまで仰るものですから、つくしは冷や汗の出る思いがしました。それを見て笑う奥さんののんきなことときたら!去り際、「満月君によろしく!」と言ったお師匠さまの笑顔は、何ものにもとらわれず、時々の心のままにあらゆる出来事へ好奇心を持たれるお人柄を実によく表しているようでした。


 ぼたんの説得にはさほど手こずりませんでした。満月とつくしが二人並んでつくしの部屋で話をしたときには、ぼたんは愕然として、気落ちし、暗い顔をしていましたけれど、正直なところ、つくしにとっても、つくしに仕事場を貸しているお師匠さまにとっても、ぼたんは少々つくしの部屋に長居しすぎました。ぼたんだってそんなことは言われなくても承知していました。お返事良ろしく、態度はしぶしぶ、と言った具合。青物問屋へ帰ることを了解したぼたんに、つくしは言いました。

「今日仕事終わりに先生と一緒に先生の奥さんに会いに行ったんですが。」

「ええ。」

「そこでぼたんさんが青物問屋に帰れるように満月の親父さん宛に文を書いてもらいました。」

つくしの言葉にすっかり恐縮したぼたんは顔を赤くしました。見かねた満月はわずかに身を乗り出すと諭すようにこう言いました。

「ぼたん、おまえこんな事くらいでびびっちゃ駄目だぞ。おまえが居なくなってすぐ米ちゃんが粟子叔母さんと結託してさ、親父が新しい女中雇入れないように忙しくなると米ちゃんが毎度来てくれてるんだ。米ちゃん、店先には出ないけど、お姑さんにかなり厳しく言われてるはずだぜ。おまえの仕事先まで探してくれてさ。あいにく今はどこも雇い入れる余裕が無い。って、涙目だったぞ。代わりにうちに帰ってくるならいくらでも手助けしてやりたい。ってそこまで言ったんだ。自分のこと大事にしねぇと皆泣かせるんだ、天涯孤独だなんて悲しいこと思ってくれるなよ。人の不幸喜ぶ奴らもおまえが見た世間には居ようが、そればかりが世の中じゃないぜ。何か問題があればこうして手を貸し合うのが俺達だったろ?それを忘れてくれるなよ。」

満月のまなざしは真摯で、暖かいものでした。

「ごめんなさい。私、本当にどうしたらいいか・・・」

ぼたんはいよいよカタカタと小さく震えだし、一層縮こまってしまいました。そんなぼたんに満月は表情ひとつ変えずに言いました。

「・・・ぼたん、支度しろ。帰るぞ。」

「・・・はい。」

立ち上がったぼたんの目から涙がこぼれました。満月とつくしは黙って顔を見合わせました。不安は大いに残りますが、タイムオーバーです。やれやれ、どうなることやら・・・


 三人とも覚悟はしていましたけれど、禄満の怒りは凄まじいものでありました。禄満はぼたんを見るや噴火したように怒り、客人つくしの存在もそっちのけでぼたんに食って掛かりました。止めに入った満月を案の定その場で勘当しようとさえしました。結局つくしの懸命な説得とお師匠さま夫妻の手紙の存在、最終的には騒ぎを聞いて駆けつけた青葉の力づくで噴火を止められた禄満は青物問屋の皆の説得とお師匠さま夫妻の手紙でうわべだけはどうにか折り合いをつけました。ずっと怒っているわけにもいかないですし、やっぱり禄満は桃香と粟子叔母さんに泣かれると自分の怒りを貫くのも面倒になってしまうようです。


 さて、それからぼたんは青物問屋で実に厳しい毎日を余儀なくされました。使用人連中の冷たいことときたらぼたんがその場で泣き崩れなかったのが不思議なほど。なんせ皆の雇い主である青物問屋の主、禄満がぼたんを冷遇するのですから皆ボスに従うまで。ぼたんは令息満月とその友人つくしを味方につけ、お師匠さま夫妻にまで肩を持ってもらいました。そんなことは他の使用人連中にはあり得ないことでしたし、桃香と粟子叔母さん、米の尽力は表では無いことになっていましたが、当然筒抜けでした。青物問屋で何か他に、特別に皆の注目を集める出来事が起こるまで、ぼたんは辛抱するしかありません。けれどそれがね、すぐに起こったんです。青葉に縁談がきたんです。相手はお得意先の娘さん。以前満月が毎日のように文をもらっていた、内気な可愛いお嬢さんでした。縁談が来れば代替わりも自分の将来として実感が湧いてくるわけですから、青葉は禄満と諍いを起こさなくなりました。久しぶりの仲睦まじい一つ屋根の下が戻って、青物問屋は毎日若い二人の縁談と祝言の話でもちきりでした。使用人たちも一緒になって浮かれていましたから、誰もぼたんのことなんかもう構いやしません。これを冷たい気持ちで見ていたのは満月でした。使用人連中ときたらまるでアリンコみたいです。甘い物めがけて皆してわらわらと群がり、美味しい所だけ力づくで持って行くんですから。毎日大人しく、神妙にして忙しく立ち働いているぼたんが満月は不憫で仕方ありません。青葉の結婚となればいよいよ青物問屋は青葉に代替わりをし始めるでしょう。青葉はぼたんを冷遇しませんから、少しは居心地も良くなるかも知れません。ですが、満月は違います。兄、青葉があのお得意先の娘さんを奥さんにして、夫婦で切り盛りする青物問屋のどこに満月の居場所があると言うのでしょう。その上満月は年が明けたら都会の学校へ行くのです。青物問屋から一時的にしろ遠ざかった満月はよそ者のようになるに違いありません。満月は、ひとつの決意を固めていました。都会で仕事に就いて、ぼたんをお嫁さんにしようというのです。しかしながら青葉の縁談で機嫌のすこぶるよろしい禄満をまた噴火させるかも知れませんし、なにより以前よりましになったとは言え落ち着かない日々を送っているぼたんに結婚してくれとは今は言えません。青葉の祝言が済むのは来年の春。もうひと月半もすれば年が明けます。ぼたんに話をするなら学校が始まって、最初のお盆くらいが良いでしょう。


 果たしてぼたんは、辛く陰鬱な毎日に耐えかねました。年明けを待たず、またどこかへふらり、と失踪しようとしたのです。それは青葉の結婚に向けて、両家の最初の顔合わせの日取りが決まり、満月が都会へ行くまであとふた月という頃でした。昼食を終えて片付けも終わり、それぞれ午後の用事に入ろうかというそんな時、勝手口から敷地の外に出て行ったぼたんを追いかけたのは満月でした。

「よう、ぼたん。元気か?」

背中から声を掛けられたぼたんはいつもと変わらない様子で振り返り、「ええ。」とだけ返事をしました。すぐに再び歩き出そうとするぼたんに、満月はなおも話しかけました。

「おい、待てよ、ぼたん。おまえまたどこへ行こうってんだ。」

満月の言葉にぼたんは大きなため息を吐き、もう一度振り返りました。

「どこって、おつかいですよ。満月坊っちゃん。」

ぼたんはご丁寧に片手に持った籐製の籠を掲げて見せました。

「・・・ならどうしておまえの部屋はすっかり片付いてるんだ?おい、ぼたん。二度目は無いぜ。」

ぼたんは肩を落とし、脱力すると唇を噛み締め、満月を見詰めました。満月は相変わらず真剣で、まなざしは熱い情けで満ちていました。ぼたんはそれを一通り確認していると、ふいに体が重たくなったような気がしました。まるで胸の中に漬物石を置き去られたように感じ、それは悲しみにとてもよく似ていたのです。

〝満月さんを幸せに出来るのは私じゃないもの・・・〟

ぼたんは泣きそうになって、それを振りほどくように前を向くと、足早に歩き出しました。満月は斬られるような痛切を全身に覚え、涙を流すまいとすぐにぼたんを追いかけました。ぼたんの腕を取るもぼたんはこれを拒絶してはねのけ、すったもんだしている内に口論になりました。らちがあかない言い合いに、さぁ、ぼたんが再び駆け出そうかというその時。

「ぼたん!」

家の門から出て来た青葉は息を切らしていました。肩をはずませる青葉を、満月は睨みつけました。青葉の方は一瞬だけ、わずかに視線を揺らして満月を見ましたけれども、てんで構わず、ぼたんを見詰めていました。満月と口論していたばかりのぼたんは青葉の登場にいたく驚いて、肩を跳ね上げたまま、ぴくりとも動きません。青葉は二度、三度と大きく呼吸をすると整え、一度喉を上下させると落ち着いたしっかりとした声でぼたんに訊ねました。

「出て行くのか?」

その言葉に、ぼたんはぱちくりとまばたきをし、上がった肩をゆっくりと元の位置に戻しました。けれど、返事はありません。満月は今度はぼたんを振り向き、答えを待ちました。しびれを切らして問いただしたのは青葉でした。

「どうなんだ?出て行くのか?」

「ええ。」

ぼたんははっきりと答え、青葉を見ました。それからすぐに目を伏せて、眉間に皺を寄せてあらぬ方を見詰めていました。二人の静寂をよそに、噛みついたのは満月でした。

「行く当てもねぇのにおまえはまた・・・」

満月の言葉を遮って、青葉はぼたんに歩み寄り、腕を掴みました。そのまま今来た道を戻り、開け放たれたままの門の中へ入って行きます。向かう先はどうやら、母屋。それにしてもすごい力で引っ張られるし、青葉が何も言わないものですから、ぼたんはすっかり怯えきり、反応出来ずに従うしかありません。当然のように追いかけて来た満月だけが、青葉に向かって吠えかかります。

「何すんだよ!青葉!痛ぇじゃねぇか!放せよ!」

もちろん青葉は無視をして、どんどん歩いて行きます。途中、なんの騒ぎかと使用人たちが見に来ましたけれど、異様な光景に誰もが黙して立ちすくんでいました。皆の注目の中、満月に怒鳴られながらぼたんの腕を掴み、ひっぱり歩く青葉。それにしては青葉に表情は無く、落ち着き払ったものでした。そうしてついに母屋の前まで来ると、庭にみごとな椿が咲いていたからでしょうか。障子は開け放たれており、座敷の中では十分に暖をとりながら禄満が仕入帳とにらめっこしていました。さすがの騒ぎでしたから、母屋の縁側にたどり着くずっと前に、禄満は三人に気がついて手を止め、驚いた様子で三人を眺め回していました。ついに縁側に到着すると青葉は靴を脱ぎ捨て、ぼたんを縁側にひっぱり上げようとしました。慌てて靴を脱ぐぼたんを待ち、脱いだのを分かるとひっぱり上げて、青葉はぼたんを座敷に放り込むと自分も入ってそうしてやっと、ぼたんの腕を放しました。ぼたんは掴まれていた腕をかばうでもなく、まだ何も反応出来ず、視線をただ泳がせていました。禄満は立ったままの青葉を見上げ、眺めていました。するとやにわに青葉が禄満の正面に回り込み、膝を折ると正座して、両手をつくと額を畳にぴったりとつけました。

「ぼたんを嫁にとらせて下さい。」

土下座した青葉は禄満にはっきりと懇願したのです。ぼたんは先程と変わらない様子のまま、青葉の背中をぼんやりと眺めていました。あまりの衝撃に言葉を失ったのかも知れません。少なくとも、満月はそうでした。満月の目は見開かれ、青葉を凝視していました。

「このくそガキ!お前はまだ諦めてなかったのか!」

禄満の怒号は座敷を震わせんばかり、青物問屋中に響き渡りました。縁側の向こうで様子を伺っていた使用人たちは唖然として立ち尽くしています。その怒号に、満月の途絶えていた思考が瞬く間に再開し、目前の景色のおかげで一連の出来事に一つの原因を見出し、答えを導き出すことが出来ました。つまり青葉とぼたんは以前から恋仲だったのです。禄満と青葉の長い諍いとぼたんの失踪、そして何故、一花亭からぼたんを連れ出すことがあんなに容易かったのか。自ずと理解しました。満月の全身から血の気が失せて、それは頭に全身の血が上ったからでした。満月は激怒し、それは産まれて初めてのことでした。

「貴様青葉!おまえは・・・!おまえは一体いつから、」

「てめぇ、このくそ野郎!今度という今度は許さねぇぞ!」

満月の言葉は、禄満の再びの怒号によりかき消されました。禄満は目を血走らせ、ひんむくとぼたんをとにかくひどい剣幕で睨みつけました。そしてこちらも怒りに震える満月の居る縁側を指差すと叫びました。

「出てけ!」

ぼたんは怖くて、がたがたと全身震わせると覚束ない足取りで縁側に行こうとします。それを何も恐れていない青葉がスッ、と立ち上がるとぼたんの手を今度は優しく取って、いつもの調子で「行こう。」なんていうじゃありませんか。繋いだ二人の手を振りほどいてやろうと満月は一歩踏み出そうとしたのですけれど、駆け込んできた桃香に後ろからぶつかられ、阻まれました。よろめく満月が見たのは母、桃香が青葉に縋りつき、懇願する姿でした。

「青葉!どこに行くの!?行かないで、行かないでちょうだい!だめ・・・!こんな別れ方したらいけない!」

禄満を怒鳴らせてもどこ吹く風だった青葉が、にわかにたじろぐとぼたんの手を握りしめたまま、立ち尽くしてしまいました。満月の後ろでは粟子叔母さんが涙で声を詰まらせ、「ねぇ・・・もう、やめて・・・どうしてこんな・・・」とうわ言を繰り返しています。ぼたんまで肩をぶるぶると震わせて、泣き出す始末。青葉はいっぺんに三人の女を泣かせてしまって、いよいよ顔を赤くしました。これではまるで弱い者いじめです。すっかり動けなくなった青葉を、禄満だけがずっと睨みつけていました。青葉はしぶしぶ観念するとまずぼたんを放してやり、そっと桃香を押し放すと禄満の真向かいに戻り、膝を折ってきちんと座りました。禄満はぷい、と体を少し傾けて、青葉と正面をきらないように座り、一度頬をかりかりと指先で掻くと遠くを見て黙り込みました。怒りの熱をそのままに、禄満の横顔は禿はげかけの額まで赤いものでした。青葉はそれでも構わず、すぐに話し始めました。あの手この手で禄満を説得しにかかるのですけれど、これがねぇ、禄満ときたらてんで話し合おうとしません。ほとんどは無反応、たまに苦虫を噛み潰したような表情で見るともなく視線を上げては首を横に振り、やっぱり青葉と正面から向き合おうとはしませんでした。禄満がそんな風でしたから、青葉の声も次第に切れ切れになりました。ついに言うことが尽きた青葉はしばらく黙り込むと一度禄満を真っ直ぐに見据え、背すじを伸びあげて両手を膝の前につき、腰を折って畳にぴったりと額をつけてまた土下座をしました。緊張から少し乱れた呼吸を整え、覚悟を決めて、大きく息を吸い、大きな声で一息に言いました。

「決して家業をおろそかにはしません。店が続いていくように、親父に教わった事は何でも大事にします。どうかぼたんを嫁にとらせて下さい。」

青葉に出来る最後の懇願でした。けれども、禄満は何も答えず、青葉を見ようともしませんでした。禄満は息子、青葉の最後の懇願さえ無言のうちにはねつけたのです。ほとんどぴったりと畳につけた青葉の顔面はひどく紅潮していました。沈黙は続きます。誰もが言葉無く、ろくな身動き一つしませんでした。まだ新しい青い畳のむせかえる匂いの中で、桃香のすすり泣く音だけが途切れ途切れに響いていました。満月は両手に拳をにぎり、奥歯を噛み締めて青葉を見ていました。満月が気がつき、ふと視線を上げるとぼたんがこちらを見ていました。まるで嵐のようなさきほどからの状況に任せたまま、怒りで頭が沸騰していたのもあって、ろくに思考も働かせていなかった満月は、ぼたんの懸命なまなざしに驚き、叩き起こされたように感じました。ぼたんは今しがた泣いていたばかりで、いつの間にか涙は止まっているようでしたが、まだ顔を上気させ、時折肩で息をしていました。見詰め合ったまま、ぼたんが一歩踏み出したかと思うとまた一歩、二歩と満月に近づいて来ました。一体どうしたことなのでしょう。ぼたんは目前で立ち止まり、ずっと立ち尽くしたままの満月を睨みつけました。突然のことに、満月はただただぼたんを見つめるばかり。すぐにぼたんは障子を閉め、満月は一人、座敷の外に締め出されました。満月は立ち尽くしたまま、幻燈機によって映し出されたぼたんの映像をそこに見るかのように目前の真っ白な障子を見据え続けました。ぼたんのまなざし、その切実さは、満月の記憶にずっと残ることになります。初めてぼたんがどのような人間かを、かいま見たような気がしたのです。たったのその一瞬に、満月は初めてぼたんと対面したのだと思い知らされました。満月はこの衝撃に、立ち尽くし黙して耐えるしか出来ませんでした。おかまいなしに、障子の向こうでは青葉の懇願が続いていました。物音から察するに、どうやらぼたんは青葉の隣に座り、同じように禄満に向かって頭を下げたようでした。聞こえてきたぼたんの声は決して頼りがいのある声ではありませんでしたが、一切迷いが無く、潔かった。

「お店にも青葉さんにもご迷惑を掛けるようなことは決していたしません。私の事で、親子仲を悪くされるような事が有っては、私は死んだ母に顔向けが出来ません。どうか青葉さんの話を聞いて下さい。」

それから少し間を置いて、話し始めたのはまたぼたんでした。絞り出すような声はそれでもやはり潔いものでした。

「・・・青葉さん以外の男の方を慕ったことは一度もありません。私が出て行ったのは、自分の想いが叶わないのに、青葉さんの顔を見るのが辛くて・・・噂を聞いたら自分がだめになってしまうと思って、遠くに行こうと思ったんです。お茶屋のことは・・・本当に仕方なかったんです。蓄えも無くて、私を住み込みで雇い入れてくれたのはあの店だけでした。それでも私は淡い期待をしていたんです。青葉さんは善い人だから。もしかしたら。そう思って・・・ですから自分の操を汚すようなことはしていません。私は潔白です。そうでなかったら青物問屋の敷居は二度とまたげない。青葉さんには二度と会えない、そう思って毎日暮していましたから。」

ぼたんが話終える前に、満月は縁側を降りて歩き出しました。遠く、その背に禄満を説き伏せにかかる桃香の声を聞きながら、満月は歩きました。


青葉とぼたんは来年の早春に祝言を挙げることとなりました。一度許してしまえば禄満もおおいに喜ぶもので、この間までの怒りなんてまるで無かったかのようでした。ご機嫌たるやお空と地べたが入れ替わったよう。お得意先は意外にもすんなり破談を受け入れてくれました。曰く、娘さんがあまりに若いので母親の方が心配していたのと、娘さん自身が乗り気で無いのが理由でありました。娘さんの母親がこっそり桃香に伝えた祝福はあたたかいものでした。

「娘の縁談の破談の手前だから、控えめにしておくわね。おめでとう!」

と。


 恋の幕切れのあっけないこと。それで満月はどうしたかって?あのね、これには私も口をつぐませてもらいますよ。なんてたって、たかが失恋、されど失恋ですからね。


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