四、青物問屋〜ぼたんの行方
ぼたんが姿を消してから、ぼたんを探しに満月は至る所を毎日駆けずり回っています。満月にとっては入れあげている特別な女でも、世間さまでは一介の女中に過ぎないぼたんの事を、覚えている者など青物問屋に深く関わる人しか居らず、なんてたってぼたんは長い間毎日毎日、女中の仕事にしか明け暮れていません。こんなに青物問屋にばかり、と言うか、にしか縁の無いぼたんを探すのは至難の業でした。なにぶん、なぜ、ぼたんが忽然と姿を消してしまい、何の音沙汰も無いのか、てんで分かりません。手がかり一つ残さないでぼたんは行ってしまったし、多分、行ってしまったのだと、そうとしか満月には考えられないわけですが・・・だってほら。考えてもみなさいな。ほんの拍子にぼたんが犯罪などに巻き込まれて、満月達には到底手の届かない所へ行ってしまったとか、やくざと付き合いがあって、身代に売り飛ばされた、とか、行方知れずの身の上にはいくらでも想像力が働くはずです。それにしてはぼたんは自分の荷物をまるでひとつ残らずきれいに持って行ったし、満月も幾度となくご近所のきざな男連中の事を、あいつはやくざだ、とか聞かされてはいましたけれど、ぼたんにそういう悪い男や商売を匂わせるところはてんで無く、そもそも女中と言えど青物問屋に雇われる身な訳ですから、そんな気配が微塵でもあれば禄満が黙っていられません。禄満だってまかりなりにも商売人で、商いは青物ときています。壁一枚隔ててやくざと背中合わせに商売をやることだって少なくは無いのです。つまり禄満は、それなりには、事情通でした。無論、禄満の気性から言って決してお近づきにならないように、事情を把握していたに過ぎませんが、ね。犯罪とかやくざとか、こんなに怖い事がぼたんの身の上にあってたまるでしょうか。満月には想像することは無理でした。ですからぼたんは、自分の意志で、突然青物問屋をあとにしたのです。なにはどうあれ、青物問屋から出て行った明白な理由無しに、ぼたんを諦めることは満月には出来ないことでした。何か悩みでもあったのか、とにかく一声聞かせて欲しい一心で、満月は毎日至る所を歩き巡っているのです。長者の令息、それも満月は年頃で、それなりには見栄えのする青年でした。そんな満月を走らせるのですから、ぼたんも中々妖婦なものです。ぼたんを探し回りながら、満月は風の便りも待ちました。歩き巡っては何か聞いたら知らせてくれと皆に念を押して、一度家に戻っては皆に何か知らせがあったかと聞いてまた、ぼたんを探しに出かける毎日でした。十日ほど経った頃でしょうか。満月はこの日もお昼に一度家へ戻るとご飯もそこそこに急ぎ身支度を整え直し、靴もろくにきちんと履かないで、とにかく門を出ようと戸を開けて足早に歩き出しました。門まで来た満月は禄満が門前で誰かと話をしているのを見つけ、内心舌打ちながら近くの梅の木の影に寄り添い何気ない風を装いました。早く終えろと胸の内で念じていると、禄満と話をしている相手の声があまりに大きくよく通るものですから、聞く気などなくても満月の耳に入ってきました。いいえ。本当のところは、ぼたんの名が出たから、満月はお行儀も忘れて耳をそばだてたのでした。禄満の話し相手は、近所の料理屋さんの主、親父さんで、一人娘が満月の同級生でした。一人娘の名前を藤乃ちゃんと言って、満月は小さな頃からよく遊んだものでした。禄満と青葉の諍いは変わりなく続いていました。ですからこの日のお昼も冷たい食卓で、多分夜の食卓も冷え切ったものでありましょう。とにかく機嫌の悪い禄満はお得意さんの手前では以前と変わらず丁寧で礼儀正しいものでした。
「そういや昨日、社長さんが来てさァ。いやァ、あの人もいい加減、道楽者だね!隣町まで遊びに行ったって、また自慢げに話してたよ。」
親父さんは一転して声を落とし、禄満に顔を近づけて言いました。
「女だよ。お・ん・な。ご近所の目が怖いってんじゃないんだ。道楽で綺麗な花摘みにわざわざ遠出するような人だよ。玉こんにゃくみたいな顔しちゃってさ。いやらしいったらないぜ。」
含み笑いもほどほどに、いかにも重大な話をするように親父さんがけしかけるも禄満は高潔な紳士らしく話の続きを拒み、顔をしかめると片手を顔の前で何度も振りました。
「あぁ、いやだ。いやだ。聞きたくねぇや。誰がどんな顔して遊んでようがちっとも構わねぇが、その話だけは止めてください。」
禄満の渋い声に親父さんは一瞬すまなそうな顔をしました。
「そうか・・・そりゃどうしたもんかなァ。実はさ、行った店先で・・・
親父さんは面白い話にめっぽう弱い人でした。始めの方はすまなそうでも終いの方は愉快そうに笑い、一回そういう風になってしまうとやっぱり止められず、続けざまに笑いながらこう畳み掛けました。
「目をこんな風につり上げてさ、お酒持って来たからってそんな事される筋合いありません!って金切り声上げるんだってさ。かわいそうに。そいであんた、ご主人、ひどい奴ってのはほんとに糞野郎だぜ。調理場の裏から手引してやろうって意地悪な奴が居てさ、賄賂だよ、賄賂。いよいよ女にしてやろうかって時に、あいつ、ぼたんは包丁ぶん投げたんだって。すぐに店の奴に怒鳴られてこぉんなに小さくなって謝るらしいがね。そいでそん時は男の方が酒も入ってたし興ざめだったんだと。けどなァ、そん時は良かったけどよ、何のことは無ぇ、ありゃその内道は決まってら。ひでぇ話だろ。皆クズだよ。大した器量も無ぇくせにくそ生意気な女がいたもんだって、社長さんは口が悪ぃだろ、だから俺はたしなめたんだが・・・」
やはり禄満にこの話はまずかったようです。例え今はそうでなくても、ぼたんは一度は青物問屋の敷居をまたぎました。怒りに青ざめ、ぶるぶる震える禄満に気がついた親父さんは少し怯えた様子を見せるも謝罪はせず、言い訳がましく言いました。
「社長さんはお得意さんだがいけ好かないね。いつもずいぶん遠くから来てくれるがそんなこた、関係無ぇや。その点おたくは誠実で清らかなもんだから、俺は安心してここで商売のもんが買えるんだ。うちにも年頃の一人娘が居るけど、世の中にああいう不潔な輩がうろうろしてると思うと心配で目が離せねぇ。はは、女房ともいつもそんな事言ってますよ。おたくの女中なんて真面目な仕事にありつけてたのにぼたんの奴、一体どうしたんだかなァ。あいつの父親が借金でもしたのかな。おいとは娘にそんなふしだらな真似させるような女じゃなかった。そういやぼたんの父親がまた若い嫁さんもらったって女房が騒いでたな。ジジィのくせに何考えていやがるんだか。まったく世間はいやらしいね。不潔だよ。不潔。」
親父さんは話ながらまたお喋りを止められなくなって、けれどもさすがにまずいと思ったのでしょう。最後の方はまくしたてるように言い終えると適当にお茶を濁し、店へ帰って行きました。禄満は親父さんが帰るという段になると、怒りに震えながらもいつもと変わらず懇切丁寧に挨拶をしていました。これが怖いことときたら、親父さんは逃げるように去って行きました。さて、これを盗み聞いた満月はと言うと、何度飛び出して行って、親父さんを張り倒してやろうと思った事でしょう。しかしぼたん操の危機。そんなことをしている場合ではありません。親父さんの背中を見送ってから家へ入る為に振り向いた禄満に気が付かれないよう、満月はさっきまでよりずっと梅の木の影にぴったりと重なるように身を引き、息を殺しました。禄満が家の中へ入って行くのを確認するや、満月は駆け出しました。途中、ふいに立ち止まってズボンのポケットを軽く二度たたき、財布の中身を思い出して米の家へ寄ろうかと考えましたが、わずかな思案の後に、止めました。ぼたんの身に何が有ったのかまだわからないし、何があろうと米には味方で居てもらわなければなりません。尽力してもらう為に、米に頼るのは最後の最後にしなければ。そんな風に考えたのです。例え短くも満月のこれまでの人生が、こんな風に行動に現れることになろうとは。結果はどうあれ、満月自身がしっかりと自分の考えを持ち、自分の足で歩んできたという一つの証明なのではないでしょうか。人を愛することを人へ教えるのは一体誰なのでしょうか。満月はぼたんに会いたい一心で、助けてやりたい一心で、駅まで駆けて汽車に乗ろうとしています。行く先どんな所かも分からないというのに。
満月が隣駅に着いたときには、空は暮れたばかり、早くも月が輝き初めていました。停車した汽車の車窓から月を見上げた満月は夜というのに眉をしかめ、少し眩しそうな顔をしました。雲一つ無い夜空で、月明かりゆえ星まで注意が向きません。こんなお天気の日に、ぼたんはどうして嫌な場所で怯えて暮らさねばならないのでしょう。満月は唇を噛み締め、立ち上がると汽車から降りました。それから間近を歩いていた駅員を呼び止めると親父さんが言っていた店の名前、「一花亭」と言ってそこに行きたいと言いました。これを聞いた駅員は銀色混じりの太い眉を、帽子のつばが作る濃い影の下で訝しげに歪めました。黙し、少し顎を引いてじろじろと満月を見るものですから、さすがの満月も少し顔を赤らめて、つばでも吐き捨てるように、一言文句を言ってやりたい気持ちにかられるのでありました。
「・・・一花亭、それなら馬車しかありませんよ。街のほとんど外れに有るし、途中物騒ですから。この時間だともう、ね。馬丁に言えばすぐ分かりますよ。」
軽蔑するような駅員の声音に満月は嫌な気持ちになりながら軽く頭を下げて礼を言い、駅から出ました。満月の家の青物問屋より寂れたこの隣町には駅の周りと言えど馬車は余り多くありませんでした。満月と同じ汽車に乗っていたであろう中年とおぼしき男女が目の前で馬車に乗り、すぐに出発しました。満月は、行き先が行き先なだけに乗り合いを避けようと立ち止まって待っていました。馬車が遠くなって、街の角を曲がるのを見届けると残されたのは一つだけ。選択肢も無い訳ですから、満月は真っ直ぐその馬車に歩み寄り、馬の世話をするでも無く馬車の周りをたむろしている黒い衣装に身を包んだ馬丁らしき男に声を掛けました。満月が「一花亭」と言うと馬丁はいやらし気に含み笑い、こぼれた前歯の不潔なことと併せて満月はまた嫌な気持ちになりました。「一花亭」、そう言っただけでこの反応では満月はいよいよぼたんの身の上が心配になります。もう食べて数時間も経った昼食をもう一度飲み下し、腹の腑に収めんと大きく喉を上下させて、満月はむくむくと膨れ上がってきた不安を、なんとか落ち着かせようと試みました。馬丁は汽車のすすで汚れた顔をくしゃくしゃにしていよいよ笑い出しました。小柄で骨ばった馬丁の姿は、馬車に据え付けられた行灯二つに照らされて濃い陰影を作りました。満月が少し眩しそうに眉根を寄せ、目をしばたかせていると、馬丁はにやけたままじろじろと満月を眺めてこう言いました。
「なんだよォ、兄ちゃん随分と若けぇのに・・・おいおい、おれはァ、そんな所連れてって良いのかなァ。・・・あははァ、随分と豪勢な道楽ですねェ、いやァ、怒んないで下さいましねェ・・・あいよ、連れて行きましょう。責任持ちませんよォ?えへへ、これから向かえば丁度開店時でしょうから、皆揃って出迎えてくれますよ。さすがにお客さまだものォ、子供だからって追い返しゃしねェだろう、なァ。」
満月はどうしてさっきの男女がこの馬車を選ばなかったのか、合点がいきました。馬丁に誘われるまま、満月は馬車に乗り込みました。ろくに掃除もしていないのか、馬車の中は暗くてよく見えませんが、靴の底から大粒の砂を踏みしめたような音がして、満月は座席に座るも思わず一度落ち着けた背中を背もたれから浮かしました。先程の話し声からは想像つかないような厳しく張り詰めた馬丁の掛け声がして、すぐに馬車は大きく揺れて走り出しました。
道は半ば舗装されてはいましたけれど、まだまだ土が剥き出しの状態で、人が踏み、馬車が踏み、経年されても土埃が舞うようでした。満月は馬車に吊り下げられた行灯と時々立っている街灯の灯りを頼りに濃紺の夜空と砂埃を少し眺め、その先の遠くに有る野原も眺め渡しました。これから夏に向かっていこうという季節。夜風はひんやりとして日没前の体に溜まった熱を癒やしてくれるようです。いよいよ昇って来た月明かりの下で、長くなった雑草がざあ、ざあ、と風に揺られて一方向に傾くさまは、浜に打ち寄せる波のようでした。こんなに美しい風景は、もっと違う形で目にしたかった。満月はこれから向かう店の屋根の下で、懸命に日々を闘うぼたんのことを想い、悲しい気持ちでいました。明るすぎる今宵の月を見ていると、今こそ誰もが見放してしまえば、この先必ず訪れるであろうぼたんの暗く救いの無い日常を余すこと無く照らし出し、想像せよと急き立てているように思われます。満月は堪えきれなくなって、馬車の中へ身を引込み、黒い壁を見詰めながら馬車が止まるのを待つことにしました。「一花亭」、満月は胸の内でそう呟くとそれをぺしゃんこにしてやりたい気持ちにかられ、今見詰めている目前の黒い壁を、あらん限り睨みつけました。
ものの数十分と言うのに、随分と長い時間に思われました。馬車は止まり、馬丁が「おい、兄ちゃん。着いたよ。」と言う声と共に扉が開き、満月は降車しました。馬丁はいよいよ愉快そうに含み笑い、すけべに鼻の下をむずむずと動かして言いました。
「まだちょっと、早いみてェだけど、すぐ開くでしょうよ。ほら。見えますか?あれが一花亭。へへ。開くまで馬車の中で待っててもいいけど、戻りますか?」
「いや。いい。ここで待つからもう行っていいよ。」
満月が答えながら馬丁にお代を渡すと馬丁はこれをじろじろ眺め、「へへェ、それじゃ、丁度で・・・」と言い、指先を舌で湿らせて一枚のお札を何度もぺらぺらと確認しました。去り際にまた、馬丁はいやらしく笑って行きました。満月は馬丁に馬の糞を懐一杯に詰め込まれたように感じ、非常に不快な気持ちになりました。この時の、どうしようも拭い去れない不快はこれから長い間、尾を引いて満月の記憶に名残を残し続けることになります。そして名残はいけない病を満月にもたらしました。満月は女が不幸でいるのを嫌いました。女であるがゆえに見舞った不幸を、馬の糞にそうするように軽蔑するようになったのです。満月が振りかざす、残酷な鞭でした 。このまま手放されてしまえば、いずれぼたんもそんな女になるかも知れないと言うのに・・・不幸に耐えなければならない日々の暮らしにさらなる侮辱を受けたことで、生まれた憎しみは一体どこへ向かうのか。恐らくではありますが、きっと生んだ女がまた口に含んでかき消えるまで生きるか、死ぬかして喰らい尽くしたんでしょう。憎しみに己が身を、まさしく腑の内から焼かれる苦痛を、時に知らされる人も世には存在するのであります。
一花亭の戸はまだぴったりと閉まっていました。建物は実に古びていて、店と言うより家屋に似ていました。二階建てで、一階にも二階にも格子窓が部屋ごとに付いていました。満月はなんとなく気になった二階の格子窓を凝視しました。明かりが灯され、格子窓の格好に光りが漏れて、家屋の外壁を闇の中、浮かび上がらせていました。土壁の経年と不潔に満月は目を細め、家屋が柵や生け垣で取り囲まれていないことにも不満を感じました。他に何も建物が無いのに囲いも無いなんて。一花亭は寒々しく、隅から隅まで貧乏臭く、貧相で下劣な存在に思われました。丁度満月の正面、一階の角に調理場の戸が有るらしく、半分開いた戸からわずかな灯りとともにかすかな白い湯気が上がっているのが見えました。家屋の佇まいをつぶさに観察していると先ほどの馬丁の含み笑いが思い出されました。そうなるといよいよ調理場から上がる真新しい白い湯気さえばい菌に侵され、臭いような気がしてきます。一花亭は客の不潔と、長年かかって積もり積もった情婦らの不潔を飽和したまま時を止め、それら不潔が促す腐敗の行動が家屋を軋ませ、出来た隙間から余剰な欲望の臭い煙を漏らしている、そんな佇まいでした。実際重ねた年数よりも古びて見えるのは、人が出した感情や、あらゆる老廃物が建材に染み込んでいるからに思われる、とにかく一花亭は、満月にとっていけ好かない店なのです。こんな世も末な場所に、まだろくにものも知らず、操清いままのぼたんが、情婦目当ての客に酒を運ぶ為に毎日床に自分で布団を敷いて眠っているのかと思うと、満月はいよいよぼたんを青物問屋に連れ帰らねばならない、そう固く決心するのでありました。
〝汚ぇ店構えだぜ。どこが勝手口だか見分けがつかないくらい汚れていやがら。店と言い張るならまともに掃除くらいしたらどうなんだ。商売の基本も知らねぇのかよ。〟
満月は手伝った事も無い実家の商売を引き合いに一花亭を内心、侮辱しました。時間を持て余し、手持ち無沙汰の満月はとにかく一花亭をじろじろと眺めまわしていました。すると突然、表玄関の戸が開いたらしく、満月の方を向いてるのは一花亭の調理場の方で、勝手口が有り、店の入口の向かって左側ですから、満月に見えたのは地面に走った光りだけでした。けれどすぐに店が開いたのだと分かって、満月はにわかに緊張し、一瞬だけ肩をすぼませました。店からでてきた男は手に一花亭、それから茶屋と書かれた行灯を持っていました。店の軒先に男が行灯を掛ける時、行灯の灯りが男の顔を照らし出したものですから、満月は随分遠くに居ましたが、目を細め凝視して男の顔を確認しました。男は三十半ばくらいの中肉中背。世の中の汚れを一身に吸い取って栄養としているような、そんな横顔に満月には思われました。〟男のくせに・・・〝満月は店から出て来た男をあらん限り侮辱してやりたい気持ちに駆られ、両手に拳を握りました。馬車でそうしたように一花亭と男、それから茶屋と書かれた行灯を睨みつけていると、男は店では無く、満月と反対側の、街と逆の方向に消えて行きました。手にランプ一つ持たず、何も無いように見えるだけで、もう少し行った先に何か建物が有るのかも知れません。果たして、どんな?そこは一花亭と何か関係があるのでしょうか?関係?それはどんな?商売の事で?それとも??満月は考え始め、そうなると想像は膨らみ、それは暗い方へばかり堕ちていきます。満月はぼたんを連れ帰りたい気持ちでいっぱいになりました。ぼたんが勝手口から姿を現したのは、男が暗闇の方へ姿を消したすぐ後でした。勝手口の戸が引かれ、調理場の中が顕になりました。そして誰かが調理場から出てくると、灯りを取る為なのか、戸は閉めませんでした。調理場からの逆光を背に、満月の方へ向かってとぼとぼと歩く婦人がぼたんだと、満月はすぐに気がつきました。目を見開き、心臓の鼓動を苦しく思いながら満月は注視しました。それからぼたんが勝手口から十分に離れたのを確認すると緊張にこわばらせた全身を、一瞬の内に躍動させ足音を立てないよう細心の注意を払いつつ、駆け寄りました。
「おい、ぼたん、分かるか?俺だ。満月だよ。」
ささやき掛けるような満月の声は切実で、ぼたんの耳に届くようにと小さけれどしっかりとして、重たいものでした。毎晩の緊張から呆然としてたのか、見るともなく前方をただ眺めるような顔つきをしていたぼたんは調理場から漏れてくる長く淡い光りを受けて闇の中に浮かび上がる満月を見るやまるで鞭打たれでもしたように全身を跳ね上げて静止しました。満月を見詰めるまなざしは疲れ果て、一花亭に居ることへの緊張で一杯でした。満月はぼたんが驚いた拍子に自分もびっくりして、それまで張り詰めていた緊張が一瞬の内に爆発し、その衝撃たるや口から心臓が飛び出したのかと思うほどでした。満月はぐっ、と全身に力を込めて、跳ね上がりそうな自分を押さえ、気を落ち着ける為に一つ息を吐きました。その息は熱く、震えていました。それから満月はたったの今のぼたんの状況が少しでも分からないだろうかと、遠くの明かりの逆光を背に佇むぼたんをよくよく観察しました。遠くの灯りはここに居ると淡いもので、逆光ですから、顔はよく見えません。表情のこまやかなつぶさは判別つかずとも、満月にはぼたんが怖がっていることはよく分かりました。突然とは言え、ちょっと声を掛けただけなのに、ぼたんはまるで出会い頭に猫に遭遇してしまったねずみのように肩を跳ね上げて、返事もろくに出来ず、眉をひしゃげ、目を見開いてただただ満月から目が離せないようでした。十日ぶりに会ったぼたんはろくでもない店に生活の糧を求めていても、体裁だけは取り繕おうとしてるのか、見たことも無いほど身ぎれいにしているようでした。その姿はまさしくついこの間まで少女だった娘でしかなく、こんなぼたんの姿を見たことはいまだかつてありません。満月はいたたまれなく、それを理解しない一花亭が悔しくて仕方ありませんでした。ぼたんを不憫に思うあまり、満月の緊張は徐々に解けてきて、そうなると今度は腹立たしくなってきました。
「ぼたん!おまえ・・・どうしてこんな所で・・・なんで突然・・・ひでぇじゃねぇか!誰が・・・誰がこんなひどいまねを・・・」
満月には自分の心を言い尽くすことは出来ないようでした。思わずぼたんの手を掴むと強く引き、背を向けてそのままいましがた馬車に乗って来た道をぼたんを引っ張って歩き出しました、二、三歩無理やり歩いた所でぼたんが声を上げました。
「やめてください!やめて、触らないで!」
ぼたんの叫びは一花亭に対する緊張感から、叫びでありながらささやきでした。声は震えていて、泣いているのかと思うほどでした。けれど満月はぼたんの拒絶を無視してなおも歩き続けました。満月は感情から、ぼたんの顔が見れませんでした。ただの反応と言えど、ぼたんは触らないで、とはっきりそう満月を拒絶したのです。言葉は一歩踏み出す度に満月を打ちました。満月は目に涙を浮かべ、唇を噛み締めていました。後ろからぼたんの息遣いが聞こえましたけれど、その息遣いは一呼吸一呼吸が緊張を帯びて重たく、泣きそうなのか絶え絶えでした。それがどうにも子供っぽくて、満月はなおさら悲しい気持ちになるのでした。子供っぽい、と言えば満月は自分の事も実に子供じみていると思いました。ぼたんの拒絶の言葉にひどく傷付いた満月は顔を見たら泣いてしまいそうで、ぼたんを振り向くことが出来ません。それに心根はいたって真剣で、一見正義漢のような行動でも、これでは何の解決にもならなさそうです。二十歩ほど歩いた時でしょうか。何も言わない満月に仕様の無くなったぼたんがこう言いました。
「満月さん、お願いです。手を放して。話が有るなら聞きますから。引っ張らないで。腕が痛い。私・・・私もういじめられるのは嫌なの。分かって、お願い満月さん!ねぇ、止まってってたら!」
「なんだっておまえは突然居なくなったりしたんだ!あんまりじゃねぇか!」
満月は突然立ち止まると振り返り、今度は激昂しました。ぼたんの手は解かれましたが、今度は怒鳴られました。満月の声は切実で、震えていました。ひとつ涙をこぼすとそれを拭いもせず、涙を浮かべた厳しいまなざしでぼたんを食い入るように見詰めていました。その眼差しにも責められているように感じたぼたんは、泣き出す寸前で、顔を真赤にしながら、満月に当てつけでもするように荒い息遣いをし、手首をさすりかばっていました。
「怒鳴らないで・・・!怒らないで・・・」
ぼたんは絞り出すような声でやっとそう言うと唇を噛み締め、一度うつむき、指先で涙を拭うと顔を上げて、満月と視線をかち合わせて吐き捨てるように言いました。
「私、戻ったら今日もまた叱られるんだわ。・・・怒鳴られるの・・・」
満月はぼたんのあからさまな八つ当たりをそのまま返すように、鼻でせせら笑いました。
「ふん。安心しろよ。今日はおまえの時間を買ってやろうと思ってちゃんと持ってきたんだから。」
自分の苦労と怖い気持ちをいかにも冷たい態度で笑い飛ばした満月に、ぼたんは身を縮込め、本当に怯えきってしまいました。どうやら今のぼたんには、満月とやり合う余裕は無さそうです。満月はその様子にはっ、としてすぐに怒りも悲しみもどうでもよくなりました。
「やめろよ、ぼたん。何考えてんだよ。すけべめ。」
満月の声は取り繕った道化芝居にしては上出来でした。やっぱりいつも通り、こうしている方がずっとすんなりと言いたい事が言えそうです。ぼたんは呆然と満月を見ていましたが、少し緊張が解けたのかしばらくすると一度鼻を啜り上げ、何度かまばたきをしました。
「だめ・・・満月さん、私もう、青物問屋には帰れません・・・」
連れ帰りに来た、なんて一言も言っていないのに、ぼたんには満月の望みがちゃんと分かっていたのです。ぼたんの一言は満月の緊張を大いに和らげてくれる麻酔になりました。
「帰れないって・・・なぁ、ぼたん、おまえ・・・まさか借金のカタじゃねぇよな・・・?」
「違います。」
「はぁ。そうか・・・まぁいいや。理由は今は・・・じゃあこうしよう。俺が友達に口利きしてそいつの家におまえを数日泊めてもらうよう頼むから、その間に米に頼んで勤め先を探してもらおう。もちろん俺だって探してやるし、粟子叔母さんだって母さんだって、おまえの事ときたら黙っちゃいねぇだろうよ。皆で探してやるから仕事は心配すんな。後のことはどうとでもなるから、今すぐここを出るんだよ。」
満月は努めて優しい口調で、語りかけるようにぼたんに言いました。
「・・・だめ。だめです。私はここに居ます。それがいいの。・・・米さんにだってもう頼れない。」
まるで子どものように肩をすぼめ、首を横に振るぼたんを満月は不思議に思いながら、なおも語りかけるように優しく説得するのでありました。
「頼れないって言ったって、たかが勤め先探してもらうだけじゃねぇか。どうした?ぼたん。まさか米ちゃんや粟子叔母さんが意地悪なわけじゃねぇだろ。何が怖い?親父か?青葉か?女中の誰かがおまえに悪さでもしたのかよ。さっき言った俺の友達なら心配すんな。つくしだよ。おまえも良く知ってるだろ?あのガリ勉のデグの棒だよ。あいつは優しい男だよ。俺の頼みは断れない。つくしに言って、数日おまえの世話をさせるから・・・世話ったってそんなご大層なもんじゃねぇけどさ。だって、つくしだぜ?つくしは勉学にしか興味を示さないよ。つまり、つくしは清らかな優しい男だよ。小さい時のまんま。おまえもよく遊んだろ?だから心配いらねぇよ。な?」
満月の問いかけにもぼたんは応じず、首を横に振るだけでした。これではらちがあかないと悟った満月は少し身を乗り出すとぼたんを凝視し、訊ねました。
「なぁ、ぼたん。おまえ、女がこういう店出入りするってのはどういう事か、ちゃんと心得てんのかよ?」
「私はお給仕で勤めてるの。」
ぼたんのいかにも子供じみた答えに満月は一度大きくはぁーっ、と溜息を吐きました。
「どうしたことかなぁ・・・」
頭をボリボリと掻いて困る満月に動揺したのか、ぼたんは少し視線を泳がせ、唇を噛み締めました。それに気がついた満月は気遣いから呆れるのを止めるともう一度ぼたんに向き直り、説得を続けました。
「あのなぁ、ぼたん。俺達からしてみれば、娼婦も給仕も同じだぜ。飯屋、料理屋、お茶屋とか、看板と店構えは幾通りも考えられようが、客の目当てと売ってるもんは同じじゃねぇか?」
満月に言わせてみれば今さらな反応でしたけれど、満月の言葉にまた衝撃を喰らったのか、ぼたんは豆鉄砲喰らった鳩のように動くのを止め、ぼろぼろと涙をこぼしました。あれまぁ、なんてこと。満月が初めて女を泣かせた瞬間でした。両手で涙を拭い拭い、肩をすぼめて震える子供のようなぼたんに満月は戸惑い、臆しました。それでもどうにかここからぼたんを連れ出せないだろうか。そう考えていました。ぼたんにとってもこのまま一花亭に留まるのはごく近い将来的に見て幸運なこととは言えないし、実際、ぼたん自身が一花亭をひどく怖がっているのに。一体どうしたことなのでしょう。満月はこの場で深く考えることを我慢しました。そんなことより、とにかくぼたんを連れ出す事さえできれば、解決の糸口が見つかるはずです。何より満月は、一花亭や夜の危ない世界で、ぼたんが涙を流すなんてことは嫌でしたから。
「・・・なぁ、ぼたん。泣かせて悪かったよ。けど・・・けど、どっちにしたっておまえ、これからあの店に戻って本当に大丈夫かよ?戻るのは嫌だろ?さっき自分でもう怒鳴られるは嫌だって、そう言ったじゃねぇか。俺だって嫌だよ。なんでおまえがそんな苦労しなければならないんだ?ここは俺に任せて、とりあえずこのまま街の方へ逃げてしまおう。一晩ゆっくり休んで、そしたらまた別の考えだって浮かぶかも知れない。とにかくぼたん、あの店で働くのだけは止めてくれよ。」
満月の優しい説得にもぼたんは首を横に振り、頑ななことときたら、まるで取り憑かれでもしているようです。本格的に泣き出したぼたんは満月が見詰めているといよいよ泣き止むことが出来なくなってきました。自分でどうしようも無かったのでしょう。突然、ぼたんはしゃくり上げながら勢いよく満月に背中を向けると一花亭の方へ走って行こうとしました。満月は慌てて走り出し、すぐにぼたんを追い越すと立ちはだかりました。
「おい!ぼたん!いい加減にしろよ!おまえだってよぉく分かっていようが、一度ああいういかがわしい店の戸をくぐったら、男も女も役割は決まってるとみなされて、いつかは必ず女の方に不運が見舞うんだ!あんな店で寝泊まりしていたら、おまえ一人が強気でいたって、身も心も汚されてしまうんだぞ!」
満月の声は荒々しく、たった今走ったおかげもありましたけれど、息も絶え絶えでした。しかしながら真剣さと緊迫感だけは怖いほど伝わってくるものですから、ぼたんは本当に怖い思いをしました。ぼたんはびっくりして満月を見詰めたまま硬直していました。涙でぼやけた視界の端に、調理場から人が出てくるのが見えます。何やら、もめ事かしら、と男と女がこちらを見ていました。ぼたんは呆然とした頭であれは店の誰それで・・・なんて場違いな事を考え、人が真剣なのを面白がって、と考え至るや自分の惨めさにまた涙がこぼれてきました。満月は怖い顔をしているし、まったく自分はどうしたら良いのやら、ぼたんにはついに何も分からなくなってしまいました。
「・・・坊っちゃん・・・困らせないでください・・・」
ぼたんが言えたのはそれきりでした。本当に涙が止まらなくて、声も出ません。この警告が最後のチャンスだと、ぼたんも分かっていましたから、一花亭に帰りたくなくて、けれどどこにも行くあてもないし、足が重たくて歩き出せなくなってしまいました。見かねた満月は少しづつぼたんとの間合いを縮め、ぼたんに近づくと小さな声とゆっくりとした口調で、説き伏せるように言いました。
「おい、いいか、ぼたん。おまえは何にもしなくて良いんだ。ちょっとの間ここで待ってろ。俺が話つけてくるから、そしたら馬車乗って二人で駅まで行こう。いいな?」
ぼたんは顔も上げられず、両手で顔を覆い、何度もしゃくりあげて、最後にようやく、小さく首を縦に振ると、肩をぶるり、と震わせました。満月は「よし!」と言って一度ぼたんの肩に触れると「あっちに居な。」と一花亭から遠く離れた街灯の下を指差し、ぼたんが泣きながら歩き出したのを確認してから一花亭に向かって走り出しました。
二人が汽車に乗ったのはほとんど夜中近くでした。最終の汽車は寝台付きで、一般車両には誰も居らず、ぼたんは生まれて初めて汽車に乗り、けれど短いこの旅を満喫することは出来そうにありませんでした。ぼたんはつくしに会うまでに涙を止めておきたかったのです。満月の方は、最終の汽車になんか乗って、ぼたんと膝を突き合わせているのですから、車窓の月でも二人仲良く眺めたく思いました。せっかくの機会がこんな風で、満月は非常に惜しい気持ちになりながら、それでもぼたんと二人きりの汽車をそれなりに楽しんでいました。さて、これからどうなることやら。満月は今この時は、先の不安は考えないことに決めました。
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