三、青物問屋〜ぼたんの娘時代

 ぼたん十七歳のお祝いから一年と経たない間に、おいとは息を引き取りました。本当に可哀想なことで、懸命に看護に従事した粟子叔母さんと桃香の尽力虚しく、ぼたんを遺しておいとは逝ってしまったのです。おいとが病に伏したばかりの頃には今夜が峠という時もありましたけれど、亡くなる以前の数カ月間のおいとは返って調子がよさそうで、今年もそろそろぼたんのお祝いの準備を、なんて連日粟子叔母さんと桃香と一時間か、時には二時間も楽しくお茶をしていたくらいでした。けれども血色のあまり良く無いことは、粟子叔母さんにも桃香にももちろん、ぼたんにも明白でしたから、おいとの様子とは関係無しに、病状が好転してるとは誰も考えませんでした。病の良い時と悪い時の切れ間に、ほんの少し安定の兆しが見えようとしている、そういうふうに思っていました。病に疲れた肉体が安定している間ですから、ここぞとばかりに精のつくように粟子叔母さんは毎日おいとのご飯を自ら特別にこしらえました。のどの通りが良いように、もたれては次の食事時口に運ぶのをおいとが億劫に感じるかも知れません。そういうことが無いように、粟子叔母さんは桃香の助けも借りて下ごしらえに余程時間をかけて実に端正で滋味深い味わいのさっぱりとしたご飯を作りました。おいとはそれをいつも以上に、とはいきませんでしたけれど、しっかりと食べ、真摯に二人に感謝するものですから、粟子叔母さんと桃香はほんのりと頬を赤く染めて喜びました。

「そんなにまじめにありがとう、なんて言われると恐縮しちゃうわよ。」

「ほんとねぇ、粟子姉さん。」

「私の女中時代に、二人にこんなに優しいお夕飯、作ったことなんかあったっけねぇ。」

病に一時いとまが訪れて、おいとも皆もとても幸せでした。しかし幸福は続かず、おいとの病状が急に悪くなって、おいとは昏睡し、それから三日ともちませんでした。帰る家庭も身寄りも無いおいとの葬儀は青物問屋で行われました。たかが女中風情で雇い主の屋敷で葬儀なんて聞いたことがありませんし、おいとの葬儀は晩年女中どころか床に伏せるだけの病人であったのに、それにしては沢山の人がおいととの最後のお別れに集まりました。青物問屋の取引先の家族まで駆けつけたりと、おいとの人柄を偲ばせる葬式でした。まだ逝くには早すぎたものですから、葬式はそれは深い悲しみに包まれました。人様の手前、気丈に礼節を取り繕おうとしても、粟子叔母さんの悲しみはそれを許さず、お棺の手前でついに床に頭をついてしまう程でした。涙に膝を折る桃香に肩を抱かれ、なんとか葬儀のお終いまでその場に留まった粟子叔母さんを、母を亡くしたぼたんは唖然として眺めていました。粟子叔母さんと桃香をまとめて抱きすくめるように葬儀の場を移動させる青葉までその様子に鼻をすすりました。青年青葉の精一杯な親切も、この時ばかりは粟子叔母さんにも桃香にもかまえないことでした。ばたんはでくのぼうのようになってしまって、ただただ涙をこぼして皆に誘導されるままに右往左往していました。そのぼたんの手を、満月は葬儀の始めから終わりまでしっかりと握り締めていました。ぼたんの可哀想な様子に満月は何度も涙を流し、けれども眉山厳しく、ぼたんがもし泣き崩れても、支えてやろうとしっかりと目を見開いておりました。葬儀の締めに皆で葬儀のお菓子を頂いている間も、満月はぼたんと二人並んで座り、ろくにお茶もお菓子も頂かず、皆の会話を聞くでもなしに、葬儀のお終いをただ座って待っていました。ぼうっとした面持ちで瞳も動かさず、ぼたんはすこし紅潮した頬をしてただ目前を見るともなしに見ていました。満月はそんなぼたんの邪魔をしないよう、それとなく寄り添い、時々心配そうに目配せする青葉に、ぼたんに代わって、少し頷いたり、ただ視線を返したりしていました。青葉はしっかりとした体に母親桃香と粟子叔母さんを預けさせ、時々優しく声を掛けてみたり、流れた涙に頷いたりしていました。こちらも満月と同様に、満月が心配して目配せすると青葉が代わりに答えました。まったくこの青物問屋は、主人禄満の二人の息子を抱え込み、しっかりとした屋台骨をさらに骨太にさせたものです。兄弟はまったく優しさに満ち、汚れなくまともな性根を持った青年に成長し、まだまだ子供ではありますけれど、世間のピンチに際して精一杯働こうと努めているのですから。なにより暗黙の内に人の苦しみの機微を恐れず寄り添うことは、非常な難しさを要します。兄弟のしたことが正しかったのかどうか、それは私には分かりません。けれど兄弟は痛みました。大切な人の涙を苦しく思い、沢山の悲しみを切実なものとして受け取りました。一見単純に思われるこの心の働きは、実は非常に稀有なことなのです。兄弟は時々反発しながらも自分の生家を故郷と定め、青物問屋に出入りする人々を大切に思っていたのです。兄弟の振る舞いこそが、まさしくその証でありましょう。満月とぼたんが二人並んで悲しみに肩をすぼめていると、丸まった背中越しに米が来ました。米は両膝をついて二人の間にひざまずくと、よく通る小声でぼたんの背中に声を掛けました。

「ね、ぼたん、新しいお茶の場所って、前と変らない?」

こんな日も、米だけがいつもと同じにてきぱきと立ち働いておりました。ぼたんは突然の声に驚いて背筋をビッ!と伸び跳ねました。座ったまま直ぐに振り向くと慌てて手をつき、一度米の顔を真っ直ぐに見詰めました。「米さん、この度は本当に・・・」そう言ってぼたんが頭を垂れようとするものですから、米はしっかりとした動作でそれを止めました。ぼたんの両肩を米は優しく強く掴み、よくよくぼたんを見詰めて言いました。

「なに言ってんのよぼたんったら。あんまり水くさいじゃないの。・・・ううん。私の方こそ最後にこんなお世話までさせてもらっちゃって。」

米は何かを言いかけて黙り、唇を噛み締めて大粒の涙をひとつ、頬に伝わせました。けれどもやっぱり、瞳を涙で濡らしていても、いつものようにぼたんに笑みかけるのでありました。実はこの時、沈黙を守りつ二人の会話を聞いていた満月は、母親を亡くしたばかりにも関わらず沢山の人が来る葬儀の席にお終いまで居なければならないぼたんに、米が茶の話などをするのを咎めたく思っていました。「よう、米ちゃん、なんだっておまえはこんな時にぼたんに茶の話なんか聞きに来るんだよ。大体、茶の置き場所なんか大抵決まっているんだし、おまえは女中なんだから戸棚でもなんでも全部開けて見たらいいじゃねぇか。俺が行って見てきてやろうか?」ぼたんの重大な悲しみの手前、満月は口をつぐんでいたのですけれど。しかしながら後から考えてみるに、米はただぼたんの事が心配で様子を見たく、米の心を鑑みるに、おいと母さんとおいとを慕っていた米はその死と自分の悲しみに不安で、少し気が動転していたのかも知れません。だから米はただぼたんの声を聞きたく思ったのかも知れません。とは言え話が無かったのでしょう。おいとの死は口に出来ようも無く、口をついて出たのがお茶の在り処だったのかも、知れません。ことに米は昔から人の死を丁重に扱うたちでした。丁重に扱う、これには少しばかり語弊があるかもしれません。つまり米は、習慣的に〝あの世〟にまつわることにひとつ、米の人生に対しては大きな思想が身についていたのです。幼少の頃より施された教育は大人になってからもこういった立ち居振る舞いに現れるもの。〝あの世〟にまつわること、それは生と死、肉体と霊魂の繋がり、それについての人と神との関わり合いなどですが・・・これはまた、今度別の機会に。とにかく、米はそういう生い立ちなのもあって、しかし少女時代から他所の空気も大いに吸っていたわけですから、自分の生い立ちと世間さまの考え方の差異をも知り、元々やたらと死について口にするたちではありませんでした。ぼたんは口を開けば今にも涙をこぼしてしまいそうで、しばらくただ米を見詰めてしまいました。それを分かった米も無言のまま、ぼたんを見詰め返し、瞳をうるませる始末。見かねた満月は近くに居た若い女中に声を掛けると米に茶の置き場所を教えるように言いました。米は立ち去り際にもう一度ぼたんににこっと笑いかけると、一転して眉を歪ませ、ぼろぼろ涙をこぼして行きました。ぼたんは何も言わず米の背中を見詰め、少ししてからもらい涙をしました。一度堰を切ってしまうと苦しそうに声をもらし、呼吸もおぼつかない様子でした。満月も涙を流すとぼたんにぴったりと寄り添い、少し怯えた手つきで背中をさすってやりました。


 「だって、私がここへ来たのはまだ娘の年頃で、おいとさんは母さんみたいに世話やいてくれたんですもの。」

「おいとちゃんは自分が大変な時だって人の面倒ばかりみてたよ。私だってあの時分、おいとちゃんに支えてもらったんだ。あんなにいい人がどうして・・・苦労ばかりしてねえ。」

「ほんと。だけど、おいと母さんはよく笑う人でしたねぇ。」

思い出話もほどほどに、葬儀に来ていた何人かは、夜を明かして泣きました。お別れは質素でしたけれど、決して侘びしくはありませんでした。 


 それから二日か三日もするといつも通りの日常が戻って来ました。粟子叔母さんと桃香の悲しみは実に長く尾を引きました。娘のぼたんはと言えば、おいとを亡くして天涯孤独になってしまった訳ですが、あっけにとられでもしていたのか、十八の娘にしてはいやに気丈でした。しかしぼたんにしてみれば、これにはひとつ理由があったのです。理由、と言っても、ぼたんが気丈に振る舞うすべての原因とは言えないのでありましたけれども、つまりぼたんは、あからさまに満月に気に入られ過ぎていました。例え亡きおいとの娘であろうと一人の若い娘に変わりなく、まったく、人の卑しさたるや何処から降って湧いてくるものなのか。おいとの死に嘆き悲しんだにもかかわらず、眼の前にぼたんが独り、ぽつんと居れば唯一の肉親である母親を失くしたばかりの十七の少女だなんてことは、返っておいとの目がもう行き届かないこともあって、皆頭から吹っ飛んでしまうようでした。満月は単なるなぼうずと言えどれっきとした青物問屋の次男坊。裕福な令息はそこいらのガキンチョには無い気品があるように若い女中連中には見えました。粟子叔母さんや他の青物問屋の大人たちがぼたんに同情しようものならぼたんが恐ろしいいじめに合う訳ですから、内密に皆で話をして、皆ぼたんの事をセンシティブに扱い、これまで通り、これと言って仲良くするような事は控えていました。親切とわかっていても、腫れ物のように扱われて、ぼたんの胸は痛んだものでした。さすがに堪えきれなくなった粟子叔母さんが、人が近寄らない家の一角にぼたんを手招いて、励ましにと、自分の若い頃の清楚な肩掛けを譲ってくれた時、初めてぼたんはこの日が自分の十八の誕生日だと思い出しました。粟子叔母さんは桃香からみごとな桃の花を象った髪飾りもぼたんに、と預っていました。この髪飾りは桃香が女学校の卒業式に付けたもので、本物の珊瑚が付いていました。ぼたんはこれを見ると顔を赤くして、粟子叔母さんから「後で読んでね。皆に見つかっちゃ駄目よ。」そう言って文を受け取るとついに泣き出しました。粟子叔母さんは声を震わせ、苦労をねぎらうとぼたんの頭を抱いてやりました。そうして粟子叔母さんの胸を借り、ぼたんは大いに泣きました。けれどぼたんが葬儀の後に人前で泣いたのはこれきりでした。満月はぼたんが隠れて独り、泣いているのを何度も気が付きましたけれど、満月にはぼたんに自分の胸を借してやることなどまさか、声を掛けてやることすら出来ませんでした。ぼたんの辛い、辛い娘時代の始まりでありました。


 二年後、満月は十八になりました。近頃の青物問屋は、と言えば、これが一体どうしたことか、主、禄満と長兄青葉の諍いが絶えなくなりました。あんなに順調だった父と息子の関係も、青物問屋のひとつ屋根の下に入れば父は主に変わり、息子は次代の主に変わり、それも青葉は二十一歳。元来の気性もあって、二人が共に居るにはいよいよ青物問屋の屋根が小さくなってきたのかも知れません。商売の事で衝突してはそれが連日続き、家庭の中までまずい空気で一杯な訳ですから、十七くらいから家に近寄らなくなっていた満月はいよいよ家に近寄らず、友達の家を泊まり歩く日々を送っていました。満月は十八と言えどまだまだうちの次男坊。そう連日友人らの家を泊まり歩き続けては禄満の厳しい目がこちらへ向くかも知れません。満月は来年都会の学校へ行くのが決まっていました。これは生家のなりわいを満月が継げない為に、せめてもと禄満が勧めてくれたことですが、今から不良をやってはそれも取りやめになるかも知れません。昔から禄満は満月と余り関わろうとしません。手塩にかけてきた青葉と近頃衝突ばかりして、青葉にはろくに反抗期というのも見当たらなかったというのに、意見の食い違いに突然どうしたことか、と毎日手を焼いては苛立ち、余程機嫌が悪い訳ですから、この大事な時期に禄満は満月のことなど一層ほったらかしでした。とは言っても親心。愛情が無いのとは違いますから、これから都会へ出ようとしている満月が夜に家を空けて不良の入口に居るなんて知ったら、誰が満月の肩を持ち、味方してくれたとしても、禄満は満月を都会へ出すのを止めるかも知れません。正直、満月は都会の学校などどうでも良かったのですが、青物問屋と実家に未練が無いのも本当でした。地元で気のすすむ仕事も見つけられないし、家の中の空気がどんなにまずかろうと、今はどうにか来年までやり過ごし、早めに都会へ行くくらいしか満月に出来ることはありませんでした。たったひとつ心残りなのはそう、ぼたんのことでした。二人の関係は相変わらず。実のところ満月が実家に近寄れない原因のもう一つはぼたんにありました。二十歳になったぼたんは女中の仕事もなかなか板について、それに合わせて大分世間馴れしてきました。満月のちょっかいをあしらうのは見事なもので、まさしく赤子の手をひねるようでさえありました。ですから満月は事あるごとにぼたんに挑戦しようとちょっかいを出してはあしらわれ、体裁を取り繕おうと他所へ逃げては・・・と繰り返していました。すったもんだももう三年になろうというのですから、満月も中々に奥手です。そういう風にして、満月はひとり、ぼたんへの恋心に深入りしていきました。ぼたんの方はと言えば、もう二十歳と言うのに色ごとにてんで興味無さそうに振る舞って、恋人もつくらず、嫁ぎ先を探そうともせず、毎日毎日女中の仕事に明け暮れていました。仕事にばかり夢中になって、構ってくれずとも、日々を共に暮らす満月にはぼたんがもう昔のままの少女で無いことがなんとなく分かりました。ぼたんは、ふとした拍子に以前より大人びて、美しい表情をするようになっていました。


 この日も満月は昇り始めた月明かりの道をなんとか青物問屋へ帰ってきました。帰って来たは良いけれど、中々家へ上がれない満月はまず初めに、敷地内に有る今はもう使われていない倉を目指しました。使われていないといっても、倉の奥には滅多に使わないハレの日の雑貨なんかが丁寧に仕舞い込んでありましたから、荒天の時で無い限りは毎日同じ時間に戸を開けてありました。入口の所へ尻を地面に着けず、しゃがみ込み、満月は家の方をじろじろと眺め始めました。 家の中でもとりわけて小さい倉の中は、初夏の夜に日中の日陰を蓄えて、ひんやりとやや湿った空気を保っていました。満月は幼少よりこの場所が大好きでした。勝手口が開いていると、家の中の台所の様子がよく見えるからです。女たちは忙しく立ち働き、時々声が聞こえます。水の流れる音や鍋がぶつかる音、湯気は立ち上り労働の女たちは額の汗を拭ったりしています。そこには確かな幸福の景色がありました。いつも大体同じ時間に、この倉を誰かが閉めに来るわけですが、幼少の頃より家の中のどこにも満月が見当たらないとまず初めに戸を閉めるついでに女中の誰かがこの倉へ満月を探しに来てくれるのです。満月の幸福がここにもありました。禄満と青葉の衝突ばかりの毎日で、家庭は夕食時でもすっかり緊張感に満たされ、あつい汁物も冷え切らんばかりです。だからと言って、半分捨て猫のようなこの暮しが、軽傷と言えどぼたんの軽蔑を買っている事を、満月はうすうす気が付いていました。しかし近頃どうしてか、いつも迎えに来てくれるのがぼたんと決まっていて、軽蔑を買ってはいても、恋心から満月はこの暮らしを止めることが中々難しくなっていました。それにしてもぼたんが満月を迎えに行くことを許すだなんて、女中達ときたらどんな風の吹き回しでしょうか。考えられる理由に明白な事は見当たりませんが、これもまた彼女たちの兼ね合いと競争が出した一つの答えであるのは確かなことでした。満月は女たちの競争を余り好みません。よく分からないし、なんとなく皆が何かに対して躍起になって場の熱が上がり、目に見えないものを奪い合うのを感じると、背筋が寒くなる思いがしました。ですから女の集いとあれば、遠巻きにしているのが一番で、台所の景色もこの倉から眺めるくらいで丁度良いのです。例え幻の幸福でも、満月はそれを好きでしたし、倉からの眺めがよろしいのは、確かなことなのですから。

「満月坊っちゃん。ここにいらしたの。」

勝手口から出て来たぼたんの背中を、やっぱり何人かの女中はちら、ちら、と見ているようでした。何か用事を装い勝手口から出てくる者までありました。月明かりの下、満月を呼びに来たぼたんの佇まいは日常のそうしたささくれの連続を微塵も感じさせない程たくましいものでした。毎度毎度の事なのに、〝ここにいらしたの。〟なんてぼたんの色も素っ気も無い言葉遣いと声色に満月もすっかり馴れきってしまっていました。それらしくはにかみながら「よう。」なんて返事をしているところを見るに満月の諦めを伺わせ、どうやらこの恋の雲行きはいよいよあやしい模様。勝手口からの灯りを背にしたぼたんの姿をみとめるや満月の胸に一条の感情が湧いてきました。例えるならば大きな空気の塊のようなものでしょうか。体の深い所からふっ、と湧いてくるや見る間に浮上して、余りに大きいものですから、胸と喉をぎゅ、っと一寸苦しくさせる。それは好いてる女の姿をみとめた時のよろこび、もちろんそういうわずかに熱のいった部分もありました。けれどもそれよりかは、うたかたのように消えてしまうものを一時此処へ留めようと直感する時の焦燥や、消え入る間近に儚さを偲ぶ、つまり傷心がほとんどを締めているようでした。もしかして満月は切ない、のかも知れません。なんせぼたんがもう何年も余りにつれないものですから、満月もようやっと、さすがに諦め始めていました。満月は若年でありながら人生の終わりを見詰めたように思って、この恋に自分の大切な〝何か〟を託すように未熟で散漫ながら一生懸命真摯に向き合っていました。この真剣さこそが、満月の持つきらめきと美しさでありました。満月の恋の患いはいつも一瞬の事で、患うまでも真剣ながら竹を割ったようにさっぱりと清らかなものでした。その上満月は自分の真剣さをまるで処女おとめのように恥じていました。それだけは成人して悪い女癖を覚えてからも微塵も変わらず、これを知ると大抵の婦人は姫君のような気持ちを覚えたものでした。この時満月は十八歳。この青年は中々に清らかで美しい姿を垣間見せるのでありました。

「坊っちゃん。お夕飯のお支度がもうすぐ終わります。皆さんそろそろおいでになりますから、早めにお家へ入ってください。」

月光が、ぼたんの黒髪をしなやかに輝かせていました。頭にまるい輪を借りて、勇ましい戦いの天使。ぼたんは月の女神の様に冷淡な声をしていました。むせぶような胸苦しさは、満月を道化至らしめます。

「ぼたん、ここから逃げちゃおうか。俺と行こうぜ。」

悪ふざけの様子でも、満月の本音でありました。ぼたんはもうじき一日の仕事を終えようと、額に汗をにじませて、そこへ労働に乱れた新しい前髪を幾筋かぺったりと貼り付けていました。纏めそこねたおくれげは、うなじに張り付いています。ほんの少し上気した頬をして、満月より幾分大人びた面持ちのぼたんを、倉に吊り下げられたランプがその火を揺らし、本当にわずかに光と影の明暗を細かに作りながら闇の中へ浮かび上がらせていました。

「・・・随分と軟派な口きくのね。坊っちゃん、あのね、女遊びはもう少し待ってからにしたら?都会の学校で勉強して、仕事に就いて、それからゆっくり楽しんだら。」

先ほどと変らない様子のぼたんに、満月の体にぴりりとした緊張が走ります。

「よぉ、ぼたん、おまえ、いい女だろ。俺と楽しく暮らそうぜ。」

心と裏腹でも、変わらずふざけた調子の満月にぼたんはそれと分かられないよう、静かにひとつ、口も開かず大きなため息を吐きました。それから一息に言いました。

「坊っちゃん、私だって女でも犬や猫なんかとは違うんですよ。坊っちゃんと同じくらいはお腹も空くし、着替えが無けりゃどうすれば良いんです?まさか裸で通りを歩けってんじゃ無いでしょ?それは困りましたね。だから早く家へ入って、明日のためにお夕飯頂かなくっちゃ。ほら、早く。行きましょ。」

ぼたんは苛立ちを抑えていました、そのために声色に抑揚は無く、表情は努めたつくり笑いでした。満月はその様子にまた胸の圧迫感を覚え、いよいよぼたんに自分の真剣さを見せるのが恥ずかしく、難しい事になってきました。一瞬、自分でもそれとわかるくらい火の着いたように赤面すると、やはり満月らしく覚悟を決めてこう切り出しました。

「ぼたん、俺来年は都会に行くぜ。お前も知っていようが、親父のはからいで・・・」

満月はぼたんをまっすぐに見詰めていましたが、なんとまぁ、ぼたんの方はまるでつくり笑いを止めないものですから、満月は話始めて一旦落ち着いたのを再び赤面するとついに立ち上がり、一歩進み出てぼたんを食い入るように凝視しました。ぼたんのお面のような表情の向こう側に、なにか一つでも自分を力づけてくれる感情が秘められてはいないかと、そう期待するしか出来なかったのです。満月を力づけてくれる秘められた感情。もちろんそんなものは満月の一方的な空想に過ぎないわけですが。これを目前にしたぼたんは何となく満月の辛さに気がついて、さすがにつくり笑いを止めました。わずかな罪悪感からほんの一寸唇を引き結び、満月の視線から逃げたい気持ちになりながら、続きの言葉を待ちました。これを見るや満月は一息ついたように緊張を解き、ほんの少し目をきらめかせるのですから、やれやれ、日頃のぼたんの苦労が偲ばれます。

「ぼたん、俺は、来年には都会へ行く。これは家の決まり事で、おまえの言うように確かに、俺には道の外れた事は許されない。・・・ぼたん、おまえ、おまえは、都会を知ってるか?ここからずっと遠いんだ。嘘じゃない。本当にすごく、遠い。景色だってまったく違う。とにかく都会の学校というやつは、やたらめっぽう遠いんだ。」

その声色から満月が再び緊張し始めたのは明らかでした。痛いほど気持ちが伝わってくるものですから、夕飯の時間は気になるところですが、誠実な気持ちだけは軽んじてはいけないと思い、ぼたんは少し頭を働かせました。返答を探し、とは言えあまり図に乗られても困るわけですから、感情だけは声に出すまいと努め、ようやっとのことでこう言いました。

「えぇ。さみしくなりますね。」

これはぼたんの本音でした。様々の思惑や感情から、言いづらい事を口にしたぼたんは満月の目を見れず、少し視線を外して頬を赤らめました。暗いもので、頬の上気したことが満月に判別ついたかどうかは分かりませんが、一瞬の隙に、満月が瞬く間に有頂天になった事はぼたんにも明らかでした。気持ちの走るままにぼたんへけしかけようとわずかに前のめりになり、今にも流暢に話さんとする満月を、ぼたんのいつもより少し大きな声が遮りました。

「満月坊っちゃん!何か好きなもの、何でもいいわ。仰ってください。これから毎日、私、お夕飯に一つは、坊っちゃんの食べたいもの、作りますから。だから必ず、お夕飯時にはご自分のうちへ帰っていらしてくださいね。寄り道しちゃいけませんよ。」

言い終えるとぼたんはにっこりと笑って満月を見詰めました。ぼたんのまぁるい目玉は何も語りません。けれども優しい佇まいをしているものですから、満月はいよいよいたたまれなくなりました。

「なぁ、ぼたん。俺は前々からおまえに言ってやりたい事が有る。おまえはなぁ、いつまでもいつまでも俺の事青臭いガキのように思ってないか?年下だって言ったって、たったの二っつじゃねぇか。そうだろ?そんならおまえもよぉく分かっていようがもう大人の男だろ。そうだよ。俺は大人なんだよ、ぼたん。それをおまえ、何が・・・おまえだって自分と二っつしか変らない男に、三時になったらおやつくれましょうね。なんて言われたら腹ぁ立つだろ?失礼だと思わねぇか?」

あらあら。これでは毎度の事とおんなじで、今夜もぼたんの思う壺です。何を言ってもゆったりと構えたぼたんの姿に満月は泣きたい気持ちでした。今しがたの自分の声ときたら女々しくて、会話にならない苛立ちがまるで子供のような言葉を喋らせます。因縁をつけるような藪睨みの表情が手に取るように自覚できるし、満月は自分にほとほと嫌気が差して逃げ出したいほどでした。しかしどうした事か、ぼたんの思う壺、そう反射的に身構えた満月の心とは裏腹に、ぼたんが赤面しているじゃありませんか。何がどうしてぼたんをそんな風にしたのかは分かりませんでしたけれど、とにかく満月を前にしてぼたんが頬を赤らめています。薄明かりの暗い夜にも、それとわかる程!満月は一転して歓喜に打ち震え、瞳をうるませると自分まで顔を上気させ、両手に拳まで握りました。

「俺が、俺が来年都会の学校へ行ってしまったら、滅多な事ではここへは帰って来れなくなるんだぞ。おまえは、え?ぼたん、おまえは、俺が盆暮れ正月にしか、いいや。それだって学業次第だろ。そんなに俺が不在で、おまえは一人、うまくやって行けるか?おまえにもし、困り事があったとしても、俺が居なけりゃここの奴らなんかおまえの話、聞いてやくれないだろうよ。なぁ?ぼたん。怖いだろ。もしもそうなってしまったら、いや!そうなる前にだな・・・」

「ねぇ、満月坊っちゃん。」

意気揚々と話す満月の言葉を遮り、ぼたんはこれから自分が話そうとしていることを今一度考えました。おおよその時間を考えてから、たすきを解いて、額の汗を袖口で少し拭いました。もうぼたんは赤面していませんでした。真剣な面持ちをすると真摯に満月を見詰め、ぼたんはしっかりとした声で、語りかけるように口にしました。

「満月さん。お話の途中でごめんなさいね。本当にもう、お夕飯の時間になってしまう。ほら見てください。月があんな所に・・・今日もお父さま、朝からご機嫌がよろしくなかったの。・・・私のこと、沢山考えてくださってありがとうございます。いつもね、とっても嬉しいんですよ。本当は。けれどね、」

言いかけたぼたんは懐から何か出して、満月に差し出しました。

「あの、これ、お店の大切な取引先の娘さんからです。咎めませんよ。満月さんももう十八なんですもの。けれどね、これ、何度目と思います?満月さんが困るだろうから、女中の皆で代わる代わる、つまりお父さまには隠してるの。あのね、娘さんに最近お会いした?気がついてるかしら。どんどんやつれてきちゃって。私達も心苦しくって。私から渡すのは初めてだけど、満月さん、ちゃんと正直にしてるのよね?私には関係の無いことだから、咎めませんよ。だけどね、お父さまが知ったら、お家がひっくり返るくらいは怒りますよ。娘さんのお父様、満月さんのご実家の商売一番懇意にしてくださっているから。満月さん。こんなこと言うの、失礼ですけど、あんまりこういうことが何度も続くとねぇ・・・終いにはご自分の身に降り掛かってきますよ。因果応報、昔からよく言うでしょ?少しは本当だと思いますよ。」

渡された文を片手に満月はあっけに取られ、口を半開きにしたまま立ち尽くしてしまいました。「それじゃあ、行きましょうか。」そう促しながら夕飯のために歩き出したぼたんを満月はよろよろした足取りで追いかけ、ぼたんに言い訳するのでありました。

「お、俺はただ・・・俺はただ普通に会話をしていたんだよ。あんまり毎日文をくれるもんだから、俺に気が無いことを、どうしたら傷付けずに伝えられるかなと思ってさ。」

ぼたんは歩みを止めないまま満月を振り返り、先ほどと変わらない様子で言いました。

「あら。満月さん。そうだったのね。それならきっと、しばらくしたら彼女にも分かるわね。それか満月さんがきちん、と話しをすれば分かってくれますよ。辛くっても、きっと一時の事だろうから・・・」

ぼたんは話の途中で再び前を向き、もう満月を振り返らず家まで歩きました。ほどなくして夕飯の席に皆が着くとこの日も昨日と変わりなく、冷ややかで、緊張に張り詰めた食卓が始まりました。


 ぼたんが忽然と姿を消したのは明くる日の朝のことでした。文一つ残さず、皆が気がついた時には家のどこにもおらず、せまい女中部屋のつましい荷物一つ、残されてはいませんでした。

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