二、青物問屋〜満月、初めての恋

 満月は青物問屋の次男坊。三つ違いの兄、青葉と二人兄弟でした。青葉は小さな頃から学校へ通う傍ら、青物問屋の仕事の手伝いを自分ですすんでやっていました。小さな体で無心に家業を学ぼうと励む姿は、本人の一生懸命さと反して愛らしく、周囲の大人達の表情をほころばせたものでした。青年になってもそれは変わらず、最早がっちりとした背中は、将来の有望さを物語るようでした。余計な口を慎み、文句一つ言わずに、なんと孝行なことでありましょう。青年の頃から最早老成されて、大人びた青葉の高潔な所は父親譲り、青葉も満月と同じく清潔を好み、うじうじと卑屈な野郎を嫌うさっぱりとした良い性格をしていました。弱い者いじめが嫌いで、見るに耐えないと仲裁を買って出るわけですが、最後の最後まで拳は出さない。気がつくとそれなりに場が治まっている、なんてことも珍しくはありませんでした。どうやら青葉は、中々に頭の回転もよろしいようでした。青葉は周囲の期待を一身に集め、次男の満月は傍らでいつもそれを眺め暮らしていました。そこかしこから羨望のまなざしさえ集める青葉を満月が妬むか、と思えばまるでどこ吹く風で、劣等感は無いのに等しく、競争心すら満月には有りませんでした。これが災いしたと言うには清潔な心根の満月に不憫ですが、満月は自分の人生を社会的に上昇させ続けたいとか、他の誰より豊かでいたいとか、極めつけに言いますと他の誰にも成し得ていないことを、成し遂げてやるという渇望もなければ気概も有りませんでした。満月は日々の暮らしが明るくて優しく、それなりに幸福に満たされていればそれで満足してしまうのでした。満月の父親はこれを男のくせに不甲斐ないと思い、母親は優しくていい子だと満足していました。


 青葉は腕っぷしも強く、男らしさは年々増して頼りがいの有る一人前になるのは誰にも明らかなことでした。そんな青葉が実家の家業に誇りを持っているのは父親、禄満ろくみつにしてみても誇らしいことで、実に喜ばしいことでありました。当時青葉は十八で、満月は十五でした。父親の期待を一身に集める青葉を満月は変わり者とみなしていました。もちろん、冗談半分なんかではありません。家業を継ぐのは問答無用で長男と決まっていました。それは青物問屋の誰もがそう考えていて、禄満もそうして父親から青物問屋を継いだのです。つまり先祖代々からの決まりごとのように最早しきたりとしてそうありましたから、青葉と満月においてもそれは当たり前のことでした。そんなちっぽけな決まりごとに産まれた時から定められ、もう十八にもなるのにそれを誇らしく思い、喜ばしくさえ思う兄、青葉のことが満月は不思議で仕方なかったのです。先祖代々から続く青物問屋なんて古ぼけた商売に色気を感じる青葉が満月には益々年寄りじみて見えました。実家の家業にそのままかじりつき、外の世界に目もくれず、安定を好むのも解せないし、今のところは順風満帆でも、世間はどんどん変わっていくのです。雇い入れた人たちを抱えながらそれなりには大金を動かし続け、物が安定しない青物を生活かかった人から買い入れて、自分の都合ばかり押し通す世間にそれを継続して買わせなければならないのです。商売や仕事なんて自由なもので、いつ、誰が、どんな商売を新しく始めても誰一人、青物問屋の売上を守ってなんかくれないのです。その上青物問屋が雇い入れている人たちには各々家族までいるのです。考えるに足一つすくまない青葉が、満月には変わり者に思われて仕方が無かったのです。そんな風で、満月は青物問屋のことなど何一つ考えておらず、もう十五で、青葉と三つしか違いませんのに自分の将来のことすらまともに考えた事がありませんでした。関心事と言えば女のこと。つまり、当時満月には好きな女が居たのです。これが一途なものですから、満月はほかに何かを考えるという事が中々出来ずにいました。満月の心を独り占めにしているのは、女中のぼたんでした。ぼたんはこの間十七になったばかりのうら若き乙女でしたが、二つ年下の満月からしてみれば年上の女に他なりませんでした。ぼたんと青葉、満月は小さな頃から一緒に育った仲でした。年頃になってからは三人それぞれで、別段仲違いしている訳ではありませんが、まさか子供のままに馴れ馴れしく遊びふざけたりはもうしません。昔から満月は人懐こい遊戯心に任せるままにぼたんにちょっかいを出してはからかい遊んでいました。しかしそれが数年前からどうしても、満月にはぼたんが色気じみて見えて仕方なく、子供のすけべな悪戯もすっかり鳴りを潜めて久しかった。


さて、そのぼたんが何故、女中として満月の実家である青物問屋で寝食を共にするようになったのか。青葉と満月が産まれるずっと前、ぼたんの母親が今のぼたんと同じ年頃の時に女中として青物問屋で働き出した当時にまで話は遡ります。ぼたんの母親は、名前をおいと、と言いました。雇い入れたのは禄満の父、つまり当時の青物問屋の主でありました。どんな縁で雇い入れることになったのか、最早誰一人覚えていませんが、由来定かでなくとも、おいとは、その名を聞けば青物問屋を後にした女中達誰もがにっこりと微笑む、母性に溢れ、親切で寛容な働き者でした。ぼたんが産まれたのはおいとが青物問屋に雇入れられた後でした。音沙汰なく、もう一度働かせて欲しいと突然出戻って来た若い母親に最早寿印ことぶきじるしはどこにも無く、不幸な結婚をしたのは誰の目にも明らかでした。当時青物問屋は代替わりしていて、先代の隠居を背中に背負い、禄満が主になっていました。栄達は自分の高潔さからを認めることが出来ません。そういった婦人が男と子供の不運を作るのだ、そういう風な、実に古代的な考えを持ったいわゆる一般的な紳士でした。不味いことにはこれがマントルすら持たない実に堅固な地盤として禄満の常識を揺るぎ無いものにしている訳ですから、いよいよ夫の居ない若い母親を許す事など出来ません。


これを仲裁に入ったのが満月の母親桃香とうか粟子あわこ叔母さんでした。粟子叔母さんは禄満の姉さんでした。おいとと同い年で、青春時代には学校に通えないおいとに女学校の話や少女達の流行を共有させてよく遊んでもらいました。仕事をそっちのけにさせる自分の娘と誘われるまま遊びに興じる若い女中。当時の青物問屋の主はこれを咎めようにも老いた先々代、つまり自分のお爺さんにたしなめられて出来ませんでした。そのお爺さんこそ、青物問屋の創業者だった訳ですが・・・

お爺さんはただ、睦まじくお喋りしたり、遊んだりする娘二人が可愛くて、勉強を教えたがる自分の孫が誇らしかっただけなんですけれど、今から考えてみても、当時の世相に在って、お爺さんは中々にハイカラな人でした。遊戯心は時には人をこうして救うことがあるのです。


 そうして二人共だんだん大人になって、結婚の為に住み込みを辞め、出産の為に青物問屋から遠のいたおいとの後を追うようにして、粟子叔母さんは結婚し、子供を産みました。自分の家庭を持った喜びもつかの間。結婚して五、六年も経つと粟子叔母さんはまったく不運な事故で亭主を亡くし、すぐに実家に出戻りました。傷心甚だしく、幼い我が子を胸に抱き、父親の不在を問われては悲しみに胸を詰まらせる毎日。そんな時に現れたのが、ろくでもない旦那にほとほと困らされて青物問屋に駆け込んできたおいとでした。おいとが粟子叔母さんの視線を悲しみからそらしてくれたのは言うまでもありません。大人になっても睦まじく、互いの幸にも不幸にも一喜一憂し合った二人の友情に、かげりはみじんもありませんでした。おいとからずっと便りの一通も無かったものですから、粟子叔母さんは心配していたくらいでした。親友との久しぶりの再開に、粟子叔母さんの頬に暖かく優しい涙が伝いました。

「私たち、二人共、苦労したねぇ。ぼたんちゃん、偉かったね。あなたはいい子。これまでよくがんばってくれたね。おかげでおばちゃん、またあなたのお母さんと会えたよ。」

二人は互いの身の上に涙を流し、寄り添って我が子を抱き締めました。


 カミさんの言うように、姉さんが寂しそうだったから、粟子叔母さんの不幸の手前と言っては冷酷で非常識ですが、禄満がそういう風に算段つけて采配したのは確かなことでありました。紳士の高潔さは時に女の不幸に冷たくてとても厳しい。自分の無知なことには、恥じらいを感じないくせに、婦人が自分の夫や、子供を不幸にしたと決め込めば、婦人の人生や人格に非常な恥を感じるらしいと見えます。自分を見下す嫌な男に、怠惰にふしだらな婦人が手を付き頭を下げるなんてことがあり得るか、一度だって考え至った事も無いのでしょう。男に産まれたが故の強さすら、ひどいふしだらの前では忘れてしまうようでした。


そういった訳が有り、ぼたんは母親おいとと青物問屋に女中の仕事を持ちながら暮らすことになったのでした。他所に寝食を持たなく、事あるごとに物入りになる母と娘になんら血縁の無い粟子叔母さんはよくこう言って聞かせました。

「なに言ってるの。私達、血は繋がらないけど姉妹でしょ。さぁさ、遠慮しないで姉さんに甘えてちょうだい。」

年の近い満月の母親桃香とうかも優しい二人によく懐き、これに従って母娘を大切にしました。


それから十年経つと今度はおいとが病気になりました。ぼたんは十五でした。病は重たいものでありました。日がな一日床へ居て、出られるのは自分の身の始末をする時くらい。女中の仕事なんて到底出来ないおいとを、本来ならば無慈悲でも追い出しているところですが、過去のこともあり、禄満は家内安全の方を取ってカミさんと姉さんに任せることに決めました。禄満のこれを歓迎した粟子叔母さんと桃香は良く面倒をみました。「専属の看護人が二人も居るなんて、おいとちゃんはお后さまのようだわよ。」冗談言われて励まされてもおいとが肩身の狭い思いをしているのは、当たり前と言えば当たり前。おいとはありがたさと申し訳無さから、自分に出来ることは何でもしようと、二人が安心出来るよういつでもごく明るく振る舞いました。

病身で時々看護さえ必要な母親と十五の小娘。それなら働き盛りで一丁前の婦人一人の方が青物問屋にはずっと都合が良いのなんか誰の目にも明らかでした。こんなに親切な話が他の何処にも無いのはぼたんにもよーく解ることでしたから、ぼたんは母親の分も自分が働くくらいの気概を持って、一生懸命朝から晩まで良く立ち働きました。


それから二年後の今日。ぼたんはやっと十七になりました。今日はぼたんの誕生日。この母娘おやこには毎年二人だけのお祝いがあります。ぼたんの誕生日には決まって新しい着物を仕立てるのです。それはおいとの若い頃のお祝いの晴れ着を解いた物であったりしました。つましい贈り物がそうと見えないように、ぼたんに相談しながら毎年欠かさずおいとは空いた時間にこれを仕上げるのです。病気になってからは、悲しけれど、ぼたんはあまり期待しないように気をつけていました。聞き分けの無いことはもう年齢にそぐわないし、同じ年齢の女の子達のようにするのは自分たちには贅沢で、それを考えると自分の母親が切ない思いに涙を堪えるのはぼたんにも良く解りましたから。けれど今年もおいとは、病の体をおして、粟子叔母さんと桃香に手伝ってもらい、どうにかこしらえたのでした。おいとが一番裕福だった時代、丁度五つくらいの時の愛らしい晴れ着を解いて、大きな柄の一番に華やかな所を、真新しい布地で仕立てたワンピースに縫い付けた一着は、清楚で、いつもより大人びたデザインになりました。ぼたんはこれを受け取ると恥ずかしそうににっこり笑い、早速着てみて二人は喜びました。今日はぼたんはお休みと粟子叔母さんと桃香は取り決めて、存分に母娘水入らずで過ごさせてやることにしていました。こんな貴重な一日にさえ、いつものように挨拶も無しに満月が入って来るものですから、ぼたんの表情は一瞬の内に曇り、不機嫌に歪みました。何か冗談言ってやろう、という満月の心がこそ浮ついて場違いで有ることを、満月自身が承知しきっているのに母娘の曖昧な対応になお甘えているのを、ぼたんは心底軽蔑していました。満月は恋愛の為にそれなりに感性が繊細になっていて、ぼたんの軽蔑に素直に傷心していました。これがぼたんにとっては億劫なことで、けれどこの関係が数年は続いているものですから、ぼたんの方も最早取り繕わず、満月の好きなように振る舞わせるくせに、止めさせることすらしませんでした。まさか面倒くさいから傷心するなとも言えないし、少し経つと満月がまた開き直っているし、気に入られようとするだけで直しもしないのでぼたんはいよいよ満月に気を遣わないようになりました。初めのうちはみすぼらしい自分のことを、それでも色眼鏡に掛けてくれる性格いったって純情な優しい満月を、ぼたんは憐れみから可愛いらしいとさえ思っていたのに。さすがに度が過ぎたようです。ぼたんにとって、残り少ないだろう母親との時間は満月が考えるよりずっと大切で貴重な時間だったのです。ぼたんには、自分の母親が感じるわずかな周囲の環境の変化や心の変調さえ恐ろしかったのです。それらは塵のように積もり、疲れた病身にどんな風に働きかけるのか。ぼたんはこれを考えるに母親の小さくなった背中が一層小さく思われて胸が苦しくなり、眼の前が真っ暗になる思いがしました。それはもちろんばたんの胸の内だけのものでありましたけれど、一寸先の暗闇一点を見詰めているとき、ぼたんはいつもより少し大人びて、いよいよ色気じみてみえました。満月は悲しげな眼差しを見つけるやどうして良いかわからず、お茶を持ってきたり、お菓子をあげてみたりするのですが、「ありがとう。」と言って受け取りながらなおも悲しげに瞳を震わせため息を吐くぼたんの胸の内など分かりようもなく、何も出来ずにただただ、ぼたんの側に居る事しか出来ませんでした。

「よう。」

満月は部屋の戸を開けたなり入室すると後ろ手に戸を閉めました。おいとの床の脇に座っていたぼたんは思わず顔を上げ満月を振り向くと二人は視線をかち合わせました。誕生祝のぼたんを満月は初めて見ました。渋い茶色のワンピースに華やかで愛らしい柄のアップリケ。真っ直ぐな黒髪は休日の為に下ろされ、片側の肩に流されていました。よく梳いて薄く油をのばした髪は艶めかしく、母娘の為の小さな一室の暗い灯りと、障子に透ける縁側の向こうの、今日の日で一番高いお陽さまに美しく輝いていました。足を崩し、ふくらはぎを揃えて少女らしく床に座るぼたんの足はふっくらと健康的で、おいとは優しい配慮からすぐに手元の肩掛けをそこへ掛けてやりました。それから満月にいかにも優しげに笑い掛けると「満月さん、今日ぼたんは十七になったんですよ。」と言いました。その声がかすれ弱ったように思われて、ぼたんは思わずうつむき、ついでに正座すると肩掛けをおいとの肩へ掛けてやりました。

「寒いでしょう?」

「ありがとう。」

二人のやりとりを眺めながら、満月はぼたんの横顔の輪郭を視線でなぞりました。控えめに丸みを帯びた白い額に丁度良い鼻筋。ぼたんがふっくらと厚い唇に色を乗せているのを見るのは初めてでした。上唇よりぽってりと厚く丸い下唇を噛み合わさずに薄っすらと開けて、うぶなまなざしで母親を見詰め気遣うぼたんの美しさときたら。満月はひととき時を忘れたようでした。

「・・・あ、茶、お茶持って来ようか?なんだ、湯たんぽか?」

「いいえ。大丈夫ですよ。坊っちゃん、いつも親切にして頂いて、どうもありがとう。何か必要な時は、ぼたんが見てくれるから。」

満月のしどろもどろな口調にもおいとは変わらず穏やかに微笑むばかりでした。おいとのゆったりと構えた態度を前にして、満月は自分の器がひどく小さいように思われて、顔が熱くなるのが分かりました。ややこしいのはここからで、満月はそれをぼたんに悟られたように錯覚し、もう十七と言うのに自分の娘に全身を委ねさせるように安楽させるこの母親がこそ現在の状況の原因、諸悪の根源のようにさえ思いました。苛立ちを解消したく、満月はおいとと競って勝ちたく思いました。満月をちらとも振り返らず、正座の膝の上で両手を組んでそれを見詰め、指先同士を弄んでつまらなそうに振る舞うぼたんに、満月は言いました。

「おい、ぼたん、髪にさすなら牡丹の花にしろよ。お前と同じ名の花じゃねぇか。どうして桜なんかちまちまと頭に飾っていやがるんだ。艶やかな大輪をひとつ、どーんと飾ってやれば良いものを。」

確かにこの時、ぼたんは髪に桜の花を飾っていました。ほんの少し鋭い満月の声音にぼたんは思わず満月を振り向きました。その時、ぼたんは見ました。満月の紅潮した丸い頬と尖った上唇の熱に艶を帯びたさまを。ぼたんは何も見えてないという風に直ぐにまなざしをうつむかせると何も無い目前を見据え、ひとつため息を吐きました。いかにもつまらなそうな仕草はわざとらしく、満月の恋心を煽り痛めつけるものでした。少女と言えど女心はかくも複雑なものなのであります。ぼたんはぼたんでまだ遊びたい年頃。これを駆け引きとして遊び嗜んでいると言われてみれば確かにそういう節もありました。満月はいたって優しく純粋で、ぼたんの前では男らしく振る舞おうとしましたし、そんな時には美青年らしい佇まいさえありましたから、ぼたんはそこへ居ながら夢心地。目前の病身の母はひととき一室の効果に変わり、ここへ居るのは主役のぼたんと現実よりずっと見栄えのする満月の二人だけ。そういう風に、女は少女ながら無意識に自分の女性性を嗜み育むものなのであります。もちろん、これはぼたんの場合で、他の女たち皆そうかと問われればさぁ?分かりませんけれど、とにかく女と言うのは、女であると言うだけで、それが一つ、自分のおもちゃにも成り得るものなのです。これをどう扱うかはそれぞれで、多分ぼたんは、自己満足の為に満月に少し手助けをしてもらっているのでしょう。果たして行く先このおもちゃが、金貨を納める錦袋に変わったりするものですから末恐ろしい。女が女であるがゆえの業と言うのは欲望とそれを達成させるための賢さなのでありましょうか。しかしこのおもちゃ、一度手を出してしまうと女の人生を二分したりします。多くは語りますまい。ただ一つ言えること。人の恨みは万里を崩し、女の純情は時に山河を動かします。教訓といたしましては、人を騙すべからず。嗜みはほどほどに、でありましょうか、ね。さぁ、少々飛躍した話を満月のいじらしい恋路に戻しましょう。ぼたんのすげない態度に満月はいつものようにやり切れなくなって、「・・・待ってろよ、今お茶とお菓子持ってきてやるから。」とかなんとか言ってすごすご退室したわけですが、この時も満月は母娘に敗退したとそう見えないように胸をはって出ていきました。なんと涙ぐましく愛らしい努力でありましょう。そうして出ていく満月を横目でちゃっかり確認するぼたんのずるいことときたら。程度にもよりますがこれも中々に可愛らしいと言えばそうかも知れません。なんせぼたんは満月に想いを寄せられて、誇らしげに胸をときめかせているのですから。


 廊下に出た満月は忙しそうにどこかへ歩き向かおうとしているよねに会いました。米は満月の家の女中で、満月が五つの時、米が十八の時には家にいましたから、付き合いは長い方でした。満月は小さな頃「ねーちゃん、ねーちゃん」と言ってよく遊んでもらったのを覚えています。米はいわゆる晩婚で、この間結婚したばかり。青物問屋からは離れていましが、なにぶん仕事が誰より出来る上に働き盛りでしたので、こうしてたまに、奥さま家業と母親家業の合間をぬって仕事しに来てもらっていました。

「あら!坊っちゃん。出会い頭ですねぇ。」

米の声は相変わらず澄んでよく通ります。

「あぁ、なんだ、米ちゃんか・・・」

満月のぼんやりとした物言いとぐったり疲れたような表情、たった今ぼたん母娘の部屋から退室してきたらしい様子を見て、米はなんとなくの事の次第を算段つけました。にわかに苦笑すると、「すみません、なんだか急ぎ用があるらしくって。」そう米は言い、一礼すると再びすたすたと歩き出しました。満月は米を呼び止めようとしました。聞きたい事が有ったのですけれど、ふすま越しにぼたんの耳に入るのではないかと思って、満月はその場では口をつぐみました。先を行く米を追いかけながら、満月は自分が米に聞こうとしている事を二、三回頭に浮かべてみました。そうしているとすぐに母娘の部屋の前から遠のいて、中庭を渡る廊下まで来ました。廊下の両脇の障子は開け放たれています。広々とした庭には立派な松の木。満月の実家はほとんどお屋敷でした。

「なぁ、米ちゃん、ちょっと。」

満月のわずかにくぐもったような、内気な声を気にも掛けず、米はいたって元気な素振りで振り向きました。

「あら!坊っちゃん。どうされました?」

米は笑っていました。健康そうにぽってりと上がったほっぺたを、お天道さまがつやつやと輝かせました。満面の笑みはよく笑い、よく働く米のトレードマークでした。満月はこれを見るといつも、ついつられて冗談を言いそうになるのです。それを米も良く分かって、満月と分かるやにこっと笑うのですが、どうやら今日はいつもと調子が違うようです。待っても中々話し出さない満月に、米はスッ、と笑顔を止めて、真面目な表情をしました。心配になったのか、満月に歩み寄ろうとするものですから、満月はもう一度、「あのさぁ、米ちゃん、ちょっと・・・」と仕切り直しました。満月の声は間抜けのように気が抜けて、無理やり作ろうとした笑顔は引きつっていました。けれど今度も米はさっきとまるで同じ様に笑み返し、澄んだ通る声で言いました。

「はい。なんでしょう。満月坊っちゃん。」

小柄な米は背筋をピッ、と伸ばし、満月の言葉を待っています。これから自分が言おうとしている事に、満月は少し恥じ入り、自分の顔から湯気が上がったように思いました。自分の赤い顔に米が気がついたかも知れない。そう思うと急に米がいつものねーちゃんでは無くなって、知らない人のように思われました。誰にも明かしていない自分の心を分かられたのでは、と心配になって、急に米がよそよそしい存在に満月には思われたのです。

「米、おまえ、知ってるか?ぼたんは今日誕生祝にめかしこんで・・・髪に花を差してた。桜の花を。俺はどうして牡丹にしなかったのか不思議で・・・」

「ぼたん、と言う名だから?」

「うん。」

米は二度ほどパチパチとまばたきをしました。それから満月の顔をじーっと見詰め、一度眉根をぎゅ、と寄せるとにこっと笑って言いました。

「あのねぇ、満月坊っちゃん。私、思い出しましたよ!あれはいつだったかしら・・・二年前のお祝いだったかしら。私もねぇ、おんなじ事考えて。ほんとよねぇ。せっかくぼたんと言う名なのだから、牡丹の花にすりゃいいじゃないの、っておいと母さんに言ったのよ。そしたらね、さっき一度そうしたんだけど、そしたらあの子、どうしてか玄人の女の人みたいに見えてしまって、まだ子供なのにそれじゃあんまり可哀想だから、一寸もったいないけれど、も一度粟子さんにことづけて、番頭さんに買いに行ってもらったの。って言ってましたよ。今度は・・・二年前はなんだったかしらねぇ・・・確か二年前も桜だったかしら。ごめんさいねぇ、よく覚えてなくって。だって、毎日たくさんやる事があるじゃないですか。ねぇ、満月坊っちゃん。」

事の真相に、満月は中々反応出来ずにいました。さっきのぼたんの様子と対応になんとなく落ち着かなくて、満月はただ米に決着を求めて甘えただけかも知れません。満月には消化不良のようにみぞおちに溜まり、ふつふつと自分を急き立て、シンシンと胸を突く痛みに似た焦燥を一人で持っている事が出来ないだけなのかも知れません。けれど、確かにこの時満月は米から知った事の真相に対する衝撃よりずっと強い衝撃を感じていました。満月は自分が何を言いたかったのか、今になってふっ、と糸が解けるように理解し、その事実にまるで他人事のように襲撃を受けたのです。


”俺はただ、ぼたんには牡丹の花の方がずっと似合いだとぼたんにそう伝えてやりたかっただけだ。つまりおまえは・・・”


何を飾らなくても美しいと。満月はいよいよ自分の気持ちを知って、血の気が引く思いがしました。満月にとって、これはかなり重度の恋心だと自分で解ったのです。何も言わずに立ち尽くし、今度は神妙な面持ちで顔を青くしている満月に米はこれまで自分が抱いていた満月に対する疑惑をいよいよ事実として確信するのでありました。満月の心の在り処を知ってしまった米は少し思案し、思考を先走りさせました。それから真面目な顔をするとゆっくり話し始めました。

「ねぇ、満月坊っちゃん。ぼたんにすけべなちょっかい出さないでくださいね。」

「はぁ?」

満月は再び顔を真赤にさせました。米はそれでも構わず真面目な面持ちのまま、話を続けました。

「あの子、ここへいられなかったら他に行く所なんか無いんですよ。」

米の目は黒く澄んで、眼差しはまっすぐに満月の瞳に向けられていました。

「冗談なんかじゃ、ないのよ。」

米の慎重な声に、満月は口を引き結び、米を見つめ返しました。もう満月は赤面していませんでした。

「満月坊っちゃん、ご自分のお気持ちひとつだと、そう心得ていてもらわなきゃ困りますよ。・・・ぼたんの事妬ましく思ってないの、ここの女の人達で私だけなんですよ。坊っちゃんのお母さまの気遣いでぼたんがここに居られる事、決して忘れないでくださいね。」

満月は米を見詰めたまま、何も言いません。満月の神妙な面持ちに米は満月のよろしい理解を感じ取り、にこっと笑いました。

「満月坊っちゃん、私仕事に戻っても良いかしら。」

「あぁ、米ちゃん、悪かったよ。その、くだらない事で呼び止めて・・・うん。ありがとう。」

「えへっ!何言ってるんですか。くだらない事だけどおめでたい事じゃないですか!お誕生日ですよ?ぼたんの。私今日、お夕飯頂いて帰るから、満月坊っちゃん、またその時に私に会えますよ。ふふっ、楽しみにしてますから!」

米はにこにこ笑って行ってしまいました。お喋りなのは昔から。米の態度と言葉の向こう側に、満月はどうしても米の実年齢がちゃんと控えている気がしてなりません。米は大人で、世間のことも女性の人生の事も、それなりに知った上で、満月こどもの恋を軽んじるような事はしませんでした。世の中には不幸な色恋がごまんとあります。満月はなんとなくその存在が有るのを肌で感じながら分かりようも無く、自分の心と体の変化になんの抵抗も感じませんし、つゆとも考え及びませんでした。これを幸福と知ることさえ無いのです。心と体の豊かさや自由を、身の回りの大人たちがそれとなく、または無意識に守ってくれている事すら知らないで居る。そういう幸福を、満月は出生よりこれまで甘んじて受けてきたのです。満月は自分の恋愛に限りなく自由に一喜一憂しています。こうした恋愛のさなかだとか、生活におけるたくさんの出来事のさなかで、自分の血肉を忌む事だって世の中には有るでしょう。自分の血肉を憎む事は、世に最たる悲しい事のひとつと私は考えます。健全で無いとは考えません。悩み多きことは、賢さの証でもあるのです。自分を愛し、同じ様に人を愛すること。これほど難しいことはありません。しかしこれを成し得た時、人は得難いものを自分の中に灯りとして宿すことが出来るのかも知れません。それは行く先の道しるべであり、よろこびの手がかりであります。これを得られること、これこそが豊かな幸福と呼べる気がしてならないのです。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る