向日葵の香

オキタクミ

向日葵の香

 朝起きると、昨日までよりもふわりと暖かった。暦が春になってからもずるずると続いていた冬の名残りのような日々が、ようやくふつりと途切れた。冷凍室からとりだしたラップに包まれたご飯を解凍して、納豆をかけて食べて、それから、窓の近くに椅子を持っていって座り、陽にあたりながら本を読んだ。夏目漱石の『永日小品』の文庫版。ほんの数ページの掌編をひとつ読み終えるごとに、立ち上がって椅子に本を置き、伸びをしたり、食器を洗ったり、洗濯機のスイッチを入れたりしては、また戻ってきて次の掌編を読んだ。そんなことをしているうちに、午前中はすべるように流れていった。

 正午間際になって、やっと彼が起きてきた。頭やら背中やらを掻きながら、部屋の真ん中にぼーっと立ち尽くし、寝起きで半開きの目で窓の外をじっと見ているから、どうしたんだろうと思って眺めていると、彼がこちらを振り向いて、「ピクニック行きたい」と言った。

 電気ケトルでお湯を沸かして、魔法瓶にお湯と麦茶のパックを入れ、蓋をしめた。それを、なんかのキャンペーンでもらったエコバッグに入れた。あと紙コップ。それから、いちおう顔を洗ったり寝癖をなでつけたりしてから、ふたりとも、ほとんど部屋着みたいな格好にユニクロのダウンジャケットだけ羽織って外へ出た。彼はバッグを肩にかけ、私は文庫本を手に持って。

 外に出ると、手首や首筋に触れる空気はまだ少し冷んやりしていた。けれど、陽に当たると、冷えた肌はすぐにぬくもった。アパートの外階段を降りて、少し歩いて街道に出て、そこからはひたすら街道を下った。車道を行き交う車たちも、どこか陽気のもとでうわついているみたいに見えた。途中にあったローソンで買い込んだサンドイッチとかサラダチキンとかを魔法瓶と紙コップのうえからエコバッグにつめこんで、また街道を下った。二十分くらいで多摩川に着いた。

 土手の芝生に並んで腰掛け、ぱさつくサンドイッチを頬張っては、紙コップに注いだ熱々の麦茶で、口の中を火傷しながら流し込んだ。食べ終わってから横に倒れ込んで、彼の膝に頭を預けた。頬と後ろ頭に彼の暖かさがあって、目の前では土と芝生と川の水が陽の光をじんわりたくわえながら、青い香りをそよ風に浮かべていた。あっかんべえをするみたいにして舌の火傷を空気にさらすと、風と陽の光の味がした。

 彼の膝に頭をのせたまま、体をよじって仰向けになると、彼がこちらを見返してきて、まともに目があった。

 「いいアイディアだったね」

 そう言うと、彼が驚くほど素直に嬉しそうな顔をするので、私はおかしくなって笑ってしまった。その勢いでのけぞると、青い鉄橋の裏側が見えた。

 『永日小品』を手に取ると、彼が

 「え、本読むの?」

 「うん」

 「えー、足痺れそうだな」

 「がんばって」

 「どうやってがんばんの」

 「気合い気合い」

 「そんな。痺れたらどいてよ」

 「えー、どうしようかな」

 そんなことを言いながら、しおり紐を使って本を開く。漱石とともに、倫敦ロンドンの重苦しい冬空の下、灰色の雑踏に押し流されるようにして歩く。劇場にたどり着いて、暖かい空気と蠢く極彩色に息をつく。

 夢から醒めるようにして本を閉じる。河川敷を吹く風が頬を撫で、視野が展ける。川の向こう側の土手で、ダウンを羽織った少年がサックスの練習をしているの。小さく姿が見えるだけで、音は聞こえない。そこから斜めにのぼったところの橋の下には、段ボールや寝袋が固まって置かれていて、その周りを何個かの三角コーンが囲っている。

 足先のほうから、自転車に乗ったお爺さんが一段下の道路を通り抜けていく。それを自然と目で見送った先、道路の傍らの草むらの中に、少しだけ土が盛り上がっているのが目に入る。

 「なに見てんの?」

 と彼が言う。

 「あれ」

 「え、どれ」

 「あれあれ」

 そう言って、寝転がったまま手をめいっぱい伸ばし指さす。

 「あー、お墓じゃない?」

 「お墓?」

 「うん。ペットとかの」

 「えー、そういうのって勝手にそのへんに埋めていいの?」

 「わからん。でも言われてみればダメそうだな」

 「だよね」

 「でも、じゃあ普通どうすんだろ」

 「さあ。ペット飼ったことないし」

 そう自分で言っておいて私は、あれ、飼ったことなかったっけ、と思う。そうして、実家の団地にいた猫のことを思い出す。

 団地の前には駐車場があって、地面はアスファルトだったのだが、真ん中のあたりに丸く土の見えているスペースがあった。そこで、私の母は勝手に花を育てていた。ホームセンターで買ってきた種をそこに蒔いて。買ってくる種類はきまぐれだったし、育て方をきちんと調べていた様子もあまりなかったが、陽当たりがいいからか、そこにはいつも季節ごとの花が見事に咲いていた。きっとうちの家族以外の住人は、ちゃんとした業者が育てていると思っていただろう。

 そのスペースに毎日やってくる、よぼよぼのぶち猫がいたのだ。いつも昼過ぎくらいに来ては、花の下にうずくまって日向ぼっこをし、陽が落ちるころにはいなくなっていた。私は、四階の自分の部屋の窓からときどき思い出したように駐車場を見下ろしては、今日も来てるなあ、とか、あれ、今日はもう帰っちゃったのか、とか、思っていた。何年もの間ほとんど毎日来ていたから、その上に影を落とす花の種類はいろいろと変わっていたはずだ。それなのに、あとになって思い出すとき、記憶の中の猫はなぜか決まって背の高い向日葵の下で眠りこけていた。

 実家を出たのは十八歳のとき。そのころにはもうとっくに猫はいなくなっていた。気がついたら毎日来ていて、気がついたらいなくなっていたから、結局のところいつからいつまでいたのか、はっきりしたことはよくわからない。

 ふと風が強くなって、流れた雲が太陽にかかったのか、陽が翳る。

 「ね」

 至近距離に茂る草むらを見つめながら、私は言う。

 「ずっとこうしていられたらいいね」

 「なに急に」

 彼の笑いが快い振動になって、彼の膝から私に伝わる。

 記憶の中で、私は猫に近づく。半径一メートル足らずの地面いっぱいに向日葵が咲き、その下に垂直に立ち並ぶ緑色の茎の中に隠れるように、老いた猫がうつらうつらしている。陽の光と向日葵の影が猫の背中にまだら模様をつくっている。私は土とアスファルトの境目のこちら側にしゃがみ込んで、呼吸に合わせてその猫の背中が微かに膨らんだり縮んだりするのを眺めている。

 「あのさ」

 「ん?」

 「向日葵ってどんな香りだっけ」

 記憶の中により深く沈んでいこうとしたとき、ちょうど鉄橋の向こう端から近づいてきていた電車の轟音が、私の回想をかき散らす。

 

 

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