第28話 名声

 ニーナが目覚めると、そこは土砂降りの雨の中だった。体がすっかり冷えてしまって、うまく動かせない。それ以上に濡れたドレスが足に絡み付いて、起き上がるのもやっとだった。


(ここは……どこなの……?)


 円形の部屋だった。屋根は全て落ちてしまったのか、無くなっていた。石造の床に屋根のものと思しき石材がゴロゴロと転がっている。壁も上半分は跡形もなかった。

 窓だった場所は、全て割れてしまっていたが、窓枠に少しガラスが残っている。

 窓枠の向こう、黒い雨が降りしきるなか、地平線が煌々こうこうと光り、空が燃えていた。まるで地獄のようだ。

 背中側で何か硬いものと硬いものが激しくぶつかる音が聞こえて、ニーナは振り返った。

 ミーナが祭壇の上に立っていた。深いスリットが入った白いイブニングドレスを身にまとい、手には長い錫杖を持っている。錫杖には血がついている。

 その足元には黒髪の男が倒れていた。頭から血を流している。先ほどの音は錫杖が男の頭を殴った音だったのだ。


「思ったより手こずったわね」


 ミーナが男を上から踏みつけたあと、その腕を蹴飛ばした。男が握っていた剣が手から外れ、飛んだ。床に落ちたあと、滑りながらくるくると回転し、ニーナの足元で止まった。


「あら、ニーナ。鏡の魔法が解けたのね」

「ニー……ナ……」


 男の口から掠れた声が紡がれた。

 ミーナは顔をしかめると、腰をひねる。


「まだ意識があったの」


 ミーナのつま先が男の頭を高く蹴り上げた。男の体が宙を飛び、床に叩きつけられる。ミーナとニーナの真ん中あたりに男の体が転がった。

 その顔を見て、ニーナはショックで口に手を当てた。左の頰が大きく腫れ上がり、人相が変わってしまっているが間違いない。男はルイの変わり果てた姿だった。

 ミーナが指を鳴らした。すると、床から黒いツルが生えてきて、ルイの体を大の字にして縛りつけた。


「ちょうど良かった。そろそろ起こそうと思っていたの」


 ニーナの体がガタガタと震えた。


「これは……どういうことなの? どうして……」

「どうしてって、そんなの、ザフィーラを滅ぼすために決まっているでしょう? 王子さえ処分すれば、あとは敵ではないもの。オーギュストもマリアンヌも魔力なし、弟はまだ幼すぎるものね」

「滅ぼすって……」


 ああ、ニーナはまだ知らないのね、というとミーナは艶やかに笑った。


「それは、私がザフィーラの女王だからよ」

「ミーナが、ザフィーラの女王……」


 ニーナは事実を飲み込もうとゆっくりとつぶやいた。

 ミーナが楽しそうに言う。


「そう。黄泉返ったの。あなたの妹としてね。この国はじきに滅びるわ。地平線に明かりが見えるでしょう? 帝国兵が村を蹂躙じゅうりんしている証よ。そして、首都の人間は私がこの雨で皆殺しにする」


 ふふふ……とミーナは小さく笑い声を上げた。その笑い声は徐々に大きくなり、空を仰いでの大笑いに変わった。


「とうとうやってやったわ! あとはこの城を跡形もなく消し去ってやる」


 口の中に雨粒が入るのも構わずに、ミーナは大口を開けて笑っていた。


「どうしてそんなにザフィーラを憎んでいるの? この国には女王の遺した物がたくさん……」

「だからよ」


 ニーナの言葉をさえぎり、ミーナが言った。その顔からは笑みが消えている。瞳にはニーナを鞭打つときと同じ、酷薄な光が宿っていた。


「蔑んでおいて、私が発明した物は平気で使い続けている、その節操の無さに吐き気がするわ。私をずっと利用してきたくせに、容姿を理由にして影ではわらっていた……誰一人として生かしておけない」


 その王子も、とミーナは顎でしゃくった。


「折角、伝説の女王に拝謁できたと言うのに、やったのは武器の召喚よ? 失礼よね、ちょっと顔がいいからって。ま、今となってはその顔も見る影がないけれど。不細工のまま死ねばいいわ」


 ミーナが手を叩いた。


「さあ、こんな不快な人たちの話はやめましょう。もう過去になるのだから。あなたのことを話さないとね、ニーナ」


 ふっと雨に溶けるようにミーナの影が消えた。ニーナがミーナを探して首を振ると、ミーナはニーナのすぐ後ろに立っていた。

 ミーナが左手をニーナの腰に回し、そして右手の爪先でニーナの頰をなぞるように引っいた。


「ねえ……この国でどう過ごしていたの? 三ヶ月も……私がいなくて清々したかしら」

「そんなこと……」


 ない、と言おうとして、ニーナは悩んだ。ミーナは自分にとってかけがえのない存在だ。たった一人、愛してくれる大事な人だったはず。

 しかし、ミーナのそれは本当に愛なのだろうか。自分は国を離れたとき、寂しいと思うより、心の奥底でほっとしていたのではないだろうか。

 酷い人、というガブリエルの言葉が頭にこびりついて離れなかった。


「ふふふ……素直ねぇ、即答できないなんて。この国の人間に毒されてしまったのね。だから、本当は手元に置いておきたかったのに。他に駒がなかったから仕方がなかったけれど」


 ミーナの爪が頰から首に降りていく。その爪に力がかかった。長い爪の先がニーナの首に食い込み、 血が玉になり膨らんだ。


「毒は振り払わないとね」


 ミーナの爪が首を離れ、ルイを指差した。


「この王子を殺しないさい。そうしたら三ヶ月間連絡がなかったことも、即答できなかったことも、全部許してあげる」

「私は」 


 スッとミーナは人差し指を立てまるで沈黙をうながすかのようにニーナの唇に当てた。

 ミーナのサファイアの瞳の奥に赤黒い光が灯っている。

 その瞳に見つめられ、ニーナは何も言えなくなった。


「あそこに剣が落ちているでしょう」


 ミーナの人差し指がニーナの足元に落ちている剣を差した。その剣はニーナが目を覚ましたとき、ルイが持っていたものだった。


「その剣は聖杯と同じ古代の遺物……その切っ先が掠っただけで、当たった場所を消し炭に変える劫火ごうかつるぎ。心臓を貫けば、魂さえも残らない。適性のない者は握っただけで炎にまかれ、焼け死ぬことになる」


 ミーナが不愉快そうに目を細めた。


「あの王子には適性がなかった。体質的に魔力に対する抵抗力があったから、握っていられただけ。だから完全に使いこなせていなかった。もし適性があれば、さすがの私も危なかったわ」


 ミーナがニーナの耳に口元を寄せた。鏡に吸い込まれる前と同じだった。その瞳を見ていると頭がぼうっとしてくる。


「でも、あなたには適性がある。あなたは破邪の力を持っているからね……使いこなせるはずよ。さあ、剣を拾って」


 ミーナの腕がゆるんだ。

 ニーナはミーナの元から離れ、剣を拾った。

 剣は思っていたより軽かった。両刃の刀身はニーナの腕と同じくらいの長さだ。白金色でつるりと光っている。ミーナの言った通り、ニーナが柄を握っても、炎に包まれることはなかった。


「その剣を王子の心臓に刺しなさい。そうすれば非力なあなたでも簡単に王子を殺せるわ」


 ニーナはルイの方へ一歩、足を踏み出したけれど、すぐに止まった。


「ダメ……そんなことできない。殺したくない」

「ニーナ……」


 ミーナが呆れたように言った。


「私も嫌なのよ、ニーナ。あなたに鞭を振るうのは……だから、言うことを聞いてほしいのだけれど」


 ニーナは大きくかぶりを振る。


「で、できないわ。怖い」


 ニーナの膝も肩もガクガクと震えていた。それがミーナに逆らう恐怖のせいなのか、それとも人を殺す恐怖のせいなのか、ニーナにもわからなかった。


「これ以上術を強くすれば、ニーナの精神が壊れるかもしれないけれど、仕方ないわねえ」


 ミーナの瞳に宿る赤黒い光が強くなった。


「王子を殺しなさい」

「う……」


 ニーナを激しい頭痛が襲った。ミーナの瞳から目を逸らすことができない。


「殺しなさい!」

「ああ!」


 ニーナは剣から手を離し、両手で頭を押さえ、うずくまった。視界が涙でにじむ。頭が痛くて死にそうだった。


「はぁ……普段、虫も殺せないような女だものね、あなた」

「ううっ……」


 ミーナがニーナの髪を掴み、顎を上向かせた。至近距離にミーナの瞳が見える。


「もし、王子を殺せばあなたは帝国の英雄になれるわ」

「う……?」


 英雄になれるからなんだと言うのか、ニーナには意味がわからなかった。


「そうすれば、誰もがあなたを褒め称え、一目置くことになるでしょうね」


 ミーナの瞳が一際強く赤く光った。心の奥深くで眠っていた何かが動いたのをニーナは感じた。それは、ルイが城で歓迎会をしてくれると言ったときに感じたのと同じ、仄暗い余韻をまとっていた。


「知ってるのよ。あなたがいつも私を物欲しげな瞳で見ていたことを。愛されたかったのでしょう? 注目を欲していたのでしょう!」

「!」


 ニーナの頭の中で欲望が弾けた。

 ミーナの言う通りだった。ニーナはいつもミーナを見て羨ましく思っていた。自分もミーナのようにキラキラと過ごしてみたい、そう思っていた。皇太子と恋をしているミーナを見て、誰もがそんな彼女に憧れているのを見て、とても素敵なことのように感じていた。


「さあ、王子を殺しないさい! 名声はただでは手に入らないのよ!」


 ミーナがニーナの頭から手を離した。手を話してもニーナがうなだれることはもうなかった。

 ニーナは剣を手に立ち上がった。

 ルイの元まで足をすすめる。


「そう、その調子よ。ニーナ……これで私たちはずっと一緒にいられる」


 ニーナはルイの横に立った。

 そして、迷いなく剣を頭の上へ振り上げた。

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