第27話 記憶

 雨が降っていた。酷い雨だ。窓を雨粒が叩くたびに、カタカタと音を立てる。

 暗い部屋の中で、ミーナは腕を組んで、ニーナを見下ろしている。時折、雷鳴がとどろいた。閃光が部屋に差し込むたびに、二人の影が床に浮かび上がる。


「どうしてお茶会に行こうなんて思ったの?」


 バンッと大きな音が響いた。雷が近くに落ちたのかもしれなかった。

 ニーナが肩を震わせた。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。


「友達が……欲しかったの」

「馬鹿ね。あなたに友達なんてできるわけないでしょう」

「で……でも、わからないわ……やってみないと」


 この時のことは覚えている。十四歳のときだ。公爵令嬢から茶会の招待を受けた。初めての招待だった。ミーナは反対したけれど、二つ返事で行くと答えた。


「で? やってみてそれでは、目も当てられないわね」


 ニーナのドレスは赤黒いシミで汚れていた。

 公爵家には多くの令嬢が集まっていた。テーブルには一人ひとり招待された令嬢の名前が書いてあるカードが置かれていた。

 ニーナは一番の末席だった。子爵家だから席次が低いのは当然ではあったが、男爵家の令嬢よりも端の位置、ニーナ以外誰も座らないテーブルにカードが置かれていた。

 そして、紅茶が配膳されるとき、公爵家の侍女がカップとは違う場所に紅茶を注いだのである。ニーナのドレスの上に。


(みんな私のことを笑っていた。私はどうすることもできなくて……)

 

 笑い声がさざめいていた。誰一人ニーナの味方はいなかった。小さな笑い声の中に、いい気味、もう美人でもなんでもないから、そんな言葉が混じっていた。

 最後、退席するときに近くに座っていた伯爵令嬢が耳打ちした。ちょっと綺麗だからって調子に乗っていたからよ、と。さらに公爵令嬢からは、美しくない貴女なんてもう誰も助けない、と言われた。

 今、冴えない容姿であることも、美しく生まれたことでさえ、ニーナにはどうすることもできないことだった。調子に乗っているつもりなどなかった。ただ、普通に過ごしていただけのつもりだった。

 その後、自室で泣いているところにミーナがやってきたのだ。

 美しさに無自覚だったこと自体が罪だとミーナは言った。確かに、ニーナは無自覚だった。

 美しい者はそれを自覚し、他人を押しのけるか、あるいは、他人より小さくなって生きる必要がある。なぜなら、存在そのものが羨望と嫉妬の的だからだ。穏やかに生きることなど許されない。

 ニーナの肩が小刻みに震え続けている。それは何も雷のせいだけではなかった。ニーナを見るミーナの目が今にも殺さんがばかりの様子だからだ。


「だからやめろと言ったのに。これは罰よ」


 ミーナが細いむちを振り上げた。少しの躊躇ためらいいもなくニーナに向かって振り下ろされる。鞭の先がニーナの足首に当たった。


「いっ!」


 ニーナの口から悲鳴が上がった。叩かれた場所がうっすらと赤く染まる。


「手で口を押さえて悲鳴が漏れないようにしなさい。叫んだら増やすわよ」

「うっぐ……」


 また鞭が振り下ろされる。


(やめて……お願い……早くミーナに謝って。こんな恐ろしいこと、見ていたくない)


 鞭が下されるたびに、ニーナの体に赤い線が増えていった。


「さあ、もう友達なんて作らないと言いなさい」


 ニーナは口を押さえているだけで返事をしない。


(言って! 早く。言えばそれで済むんだから)


 その時だ。一際大きな雷の音が響いた。それと同時に窓の外に浮いている人影に気がついた。

 小さな人影だった。窓に体当たりをしている。鞭が降りるのと同時にその人影は窓を揺らしていた。人影が窓に当たる瞬間、鞭で打たれたときのようなバチッという音と共に火花が散る。


(あれは、ガビー?!)


 人影がガブリエルだとわかった途端、窓以外の風景から色が消えた。

 ミーナの身体の中から記憶を見ていたはずだったが、体が外れて自由に動けるようになる。

 窓だった四角は鏡の外の景色に変わっている。ガブリエルが窓に体当たりを続けていた。ニーナは窓辺に寄った。


「何をしているの、ガビー!」

『ニーナ』


 ガブリエルとニーナの目があった。


『少し待っていて。今外に出してあげるから』

「やめて! 私は……いいの。ここにいる。ミーナがそれを望んでいるんだから」


 ガブリエルは鏡に体当たりしながら問いかけた。


『ミーナって、君の体を乗っ取った人のこと?』

「私なんかとずっと一緒にいてくれた、私の妹よ」


 ニーナの頭上ではミーナの鞭が鳴り続けている。


『でも、酷い人だ!』


 酷い人、の言葉にニーナは息を飲んだ。

 バチッと火花が弾ける。ガブリエルが鏡に跳ね返されて、部屋の端まで飛んだ。


「ガビー!」

『そんなところにニーナを閉じ込めて! 今日はルイ兄とご飯を食べる約束だったのに。僕だって母上に言われて部屋でお留守番してたのにー!』


(お留守番て……そこなの?)


 床に落ちたガブリエルが短い手足をバタバタと振り回していた。さっきまでの暗さが嘘のようだ。辛い記憶は相変わらず再生され続けていたが、ニーナは毒気を抜かれてしまった。


『僕はニーナを絶対に助ける!』


 ガブリエルは起き上がると宙に浮いた。体の表面が白く発光する。光ったまま鏡へ飛んで激突した。バシンッという大きな音がする。ニーナのいる鏡の中の世界が灰色に揺らいだ。


『ニーナを閉じ込めて、勝手に体を使って。そんなの許せない』

「ま……待って、ガビー。ダメよ。そんなことをしたら、ガビーだってどうなるかわからない。私のことは放っていていいから……私に助ける価値なんてない……」

『やだー!』


 ガブリエルが叫んだ。


『価値って何? そんな悲しいこと言わないで。僕が助けたいから、助けるんだ!』

「ガビーに傷ついてほしくないの!」


 ニーナも叫んだ。

 ガブリエルの着ている服はすでに少し焦げ、茶色く煤けていた。ガブリエル自身にも大きな傷はないものの、細かいかすり傷がいくつもできていた。


『僕だってニーナに傷ついてほしくないよ!』


 ガブリエルがまた鏡に体当たりした。鏡の世界が揺らぐ。


『自分に酷いことする人の言う事なんて聞かないでよ! ニーナに価値がないなんて、どうして思うの? ニーナは僕にも他の人にもみんなに優しかったでしょ。僕はニーナがいてくれるだけで嬉しいのに』


 バシンッ、バシンッとガブリエルの魔法と鏡の魔法がぶつかって火花が飛ぶ。鏡に跳ね返されてもガブリエルは諦めなかった。


『ルイ兄はバカだから、婚約破棄なんて言ってたけど』

「やっぱり知っていたのね」

『当然。僕を誰だと思ってるのさ』


 発光しながらガブリエルが不敵に笑った。


『ニーナは絶望しても、誰かに優しくあることをやめなかった。僕はニーナがずっとがんばってきたこと、知ってるもの。だから、もう苦しまないで』


 何度体当たりしただろうか。とうとう鏡の表面にヒビが入った。灰色に揺らいでいた景色にも白い亀裂が走る。


『これで、最後だ!』


 ガブリエルの体がに帯電したように眩く光った。そのまま鏡に激突する。鏡には、ガブリエルの体当たりを弾き返す力はもう残っていなかった。ヒビが全体に広がり、とうとう砕け散った。

 鏡の世界も同時に割れて、灰色のかけらが白い空間の中に散らばった。鞭を振るうミーナも灰色に溶けて、白の中に消えていく。

 ニーナとガブリエルを繋いでいた窓もかけらになってニーナの足元に落ちた。

 ニーナは残った窓のかけらに顔を寄せた。


「ガビー!」

『もう大丈夫。体に戻れるよ』


 ガブリエルが鏡の破片の中に横たわっている。体からは白い湯気が上がっていた。服も肌も所々焼け焦げ、ボロボロだ。


『僕ね……ニーナのこと好きだよ……本当だよ。信じてね……僕は少し眠る』


 それだけ言うと、ガブリエルが瞳を閉じた。やがて、完全に脱力したように、腕も足も重力に引かれ、垂れ下がる。とうとうピクリとも動かなくなった。


「ガビー……ありがとう」


 目に涙が溜まっていった。

 残った窓のかけらが粉々になって消えていく。

 ニーナの意識はそこで途切れた。

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