第26話 聖杯

 ニーナは引き続き夢を見ていた。

 父親が青いシルクのリボンをミーナに渡している。これはミーナが十歳の時の誕生日だ。

 ミーナは父親の目の前で金色の髪をリボンで束ねた。ニーナが八歳の時と変わらず、玄関前にはプレゼントの箱が山を作っている。あの時と違うのはそのプレゼントが全てミーナのものであるというところだ。

 ミーナはすでに輝くような美貌の持ち主に成長しているはずだ。

 十二歳のニーナが部屋の端で、泣いているのと笑っているのだったらギリギリ笑っている方に見える表情を浮かべ、こちらを見ている。ミーナに比べて着古した服を着ている。存在を無視される痛みに耐えている。

 この時には人々の関心も両親の愛も全てミーナのものになっていた。

 両親がニーナの方に顔すら向けず部屋から出ていく。ミーナはニーナの方へ近づいた。


「かわいそうなニーナ。容姿が悪いだけでこんなに扱いに差があるなんて」


(そう。全て仕方のないこと。美しく生まれなかった私に愛は得られない)


 ニーナが力無く笑った。


「ミーナ、誕生日おめでとう。今日もとても綺麗よ」


 ニーナがこう言って褒めるとミーナはいつもとても嬉しそうにしていた。

 ミーナがニーナの頭を撫でる。


「ありがとう。安心してね。私だけはいつだってあなたの味方だから」

「うん……そうね」


 ニーナの笑顔が嬉しそうなものに変わった。

 

(ミーナ……私にはミーナがいる)


 視界がまた暗くなった。


 * * *


 ルイが扉をくぐると、長い螺旋階段が塔の最上階まで続いていた。

 遥か上に、まるで空でも飛んでいるように、夜色のドレスのスカートが優雅に舞っている。

 今の一瞬で女王が塔の中ほどまで登っていることがわかり、ルイは舌を巻いた。


(ドレスを着ているというのに、なんて足が速いんだ)


 ルイも階段を登り始めたものの、女王とルイの距離は全然縮まらなかった。

 中身が女王とは言え、体はニーナのものだ。一体、あの華奢な体のどこにそんな体力が潜んでいたのかわからない。普段のおっとりとした動きからは想像できない速さだった。

 ルイが階段を登りきり、ようやく聖杯の間に足を踏み入れたときには、女王はすでに部屋の奥にあるひな壇の上に立っていた。

 ひな壇の上には大理石で作られた台座があり、聖杯が飾られている。

 聖杯は杯というより、大きな深皿のような形をしていた。飾り気のない木の器で、見た目はそこら辺の家庭にある食器とあまり変わらない。普通の器と明らかに違うのは、木の器にしてはとても薄いことと、中から絶えず水があふれていることだった。

 聖杯からあふれた水は台座を伝い、ひな壇にある溝の中を流れ、塔の下へと落ちていく。そうやって城の中を一周した後、水路を通じてザフィーラの隅々まで流れゆくのだ。

 女王の手が聖杯にかかった。


(まずい!)


 ルイは祭壇へ走ろうとしたが、女王の方が早かった。

 聖杯を持ち上げ、頭の上に掲げる。


「この時を待っていた!」


 女王が勢いよく聖杯を床に叩きつけた。


 ––––ガッシャーン


 まるでガラスが割れたときのような音を立てて、聖杯が三つのカケラに破れた。聖杯から流れていた水は消え、直ちに台座もひな壇にあった溝の中も乾いた。

 それは音のない、決定的な変化だった。

 ルイは城の温度が体感で二、三度下がったような気がした。急激に生命を失っていく老木のように、城から魔法が消えていく。

 その変化は城だけでなく、国全体に広がった。

 今まで当然に隣にあった、暖かな護りが、風に吹かれた煙が見えなくなるより早く消えていくのを、ザフィーラの国民全員が感じた。島を護る霧の結界が消えたのだ。海辺に住む人々は不気味な咆哮を冷たい風の中に聞いた。

 王城を中心として黒い雲が渦を巻き始めた。一粒、二粒と、雨が降り始める。空が重くなっていくに従い、雨足が酷くなっていった。


「あははははははは!」


 城から完全に聖杯の守護が消えると、女王が笑い声を上げた。

 大きな雷が塔に落ちた。衝撃で屋根瓦が剥げて、バラバラと落ちる。それだけに止まらず、雷は何度も塔を襲った。塔の屋根は石造であったにも関わらず、激しいエネルギーに耐えかね、崩れ始めた。

 笑い声を上げたのを最後に、ニーナの体は力を失ったように膝をつき、ひな壇の上から転げ落ちた。

 ルイはニーナの体を受け止めた。その体を抱き上げると、上から降ってくる瓦礫を避けながら柱のある場所まで走った。

 塔は屋根を失い、雨が聖杯の間に降り注いた。雷を含んだ雲がチカチカと光っている。

 もう一度、一際大きな雷がひな壇に向かって落ちた。


「とうとうお出ましか」


 ルイが口の端を上げる。

 稲光が消えた場所に人影が立っていた。

 長く美しい金髪が稲光に照らされ、強く輝く。白磁の肌に、毒々しく感じるほどに赤い唇、一級品のサファイヤをはめたような瞳。

 腰まであるのではないかと言うほど大きなスリットが入った白いイブニングドレスに、こぶし大の黒い宝石がヘッドについた長い錫杖を持っている。


「それが今世での姿か……まさか帝国の皇太子妃殿下が女王イデイアだったとはな」


 強大な力が出現したのを肌で感じる。雨で冷えたせいか、あるいは本能的な恐怖のせいか体が震えた。


「あら? 名前を覚えていてくれたのね。嬉しいわ。現世での名前はベルヘルミナっていうの。愛称はミーナよ。これからはミーナと呼んでいただけるかしら」


 ミーナが赤い唇を弓形に引いた。

 ミーナは黒い雨の中ですら、全く美しさを損ねていなかった。むしろこの危険な状況が彼女をより艶やかに見せていた。

 ルイは柱の隅にニーナの体を壊れものを扱うように丁寧に横たえた。

 ニーナの体を背にして、ミーナと向かい合う。

 雨が降っているというのに、ミーナは全く濡れていないかった。


(やはりとんでもない力の持ち主だ)

 

 ルイは恐怖を奥歯で噛み殺す。

 ミーナが錫杖を空に掲げた。


「雨よ。お前を邪魔する力は潰えた。今こそ、人々から根こそぎ奪え!」


 雨脚がさらに強まった。

 雨は呪いの雨と同じものだった。違うのはザフィーラが完全に聖杯の守護を失ってしまったことだった。この雨の中では、大きな魔力の持ち主以外、命が半日と持つまい、とルイは感じとった。

 ルイが死ぬまでには相当の時間がかかるだろうが、動いていられるのは一時間と少しというところだろう。それまでにミーナを倒せなければ、雨の元にいる人々の死が決定してしまう。


粛清の炎よターヘル


 ルイは呪文を唱え、粛清の炎を召喚した。

 炎がルイの周囲を渦巻き、やがて手の中に一振りの剣となって収まった。


「ふうん。やる気なのね……まあ、いいけど。何もしなければ、皆殺しになるだけなんだから、やれるだけやらないと、ね」

「……」


 ルイは黙って剣を構える。

 ミーナが杖をかざした。


いかずちよ怒れ!」


 杖に雷が落ちた。黒い宝石が雷を吸収し、中に雷光が宿った。

 ミーナがルイの方へ杖を向けると、稲光がまっすぐにルイの方へ飛んだ。ルイはそれを剣で弾き落とす。

 ルイにとって避けられない戦いが始まった。

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