第23話 綺麗になる魔法

 日が傾く頃、やっとニーナの準備は終わった。


「さあ、鏡の前に」


 アメリにうながされ全身鏡の前に立つ。

 上品な印象の女性が鏡の中に立っていた。プラチナブロンドの長い髪が藍色のドレスにとても似合っている。首を飾るダイヤモンドもドレスを着た人物の高貴さを示すように誇らしげに輝いて見えた。


「これが、私……」

「自信を持ってください。女の子はちょっとした魔法で綺麗になれるものなのです」

「魔法を使ったの?」

「例えですよ」


 鏡の中でアメリが満足げに微笑んでいた。


「では、私は準備が終わったことをクリス様に伝えて来ますね」


 そう言うと、アメリは部屋を出て行った。

 夕日が差す部屋にニーナは一人きりになった。アメリの報告が済んだら、ルイがニーナを迎えに来るはずだ。

 視線を鏡に戻すと信じられないくらいに綺麗になった自分がいた。もちろん、本物の美人には及ばないだろうが、それでも普段のニーナからすれば考えられない程に華やかだ。


(まるで夢の中にいるみたい……)


 鏡の隅々まで何度も往復し、自分の姿を見直した。その時だ。

 鏡の中のニーナが、ニーナの意志に反して、口の端をくいっと上げた。


(え?)


 鏡の表面が波立った。ニーナが驚きに身を硬らせている目の前で、鏡の中のニーナの像が、藍色のドレスを着ているミーナの姿に変わった。


「元気そうね、ニーナ」

「ミーナ……」


 ニーナの口から掠れた声が漏れた。驚きで言葉も出ないとはこのことだ。


「どうして」

「魔法よ。ザフィーラにはいっぱいあるでしょう? 私たちには血の繋がりがあるから、こういうことができるの。会いたかったわ。なんの便りも無いんだもの、私はミーナから手紙が来るのを待っていたのに」


 送ってくれるって言ったわよね? とミーナが目を細めた。

 ミーナから向けられた酷薄な視線にニーナは肩を震わせた。蛇に睨まれたカエルのように心が縮む。

 ミーナは時折こういう目をニーナに向けるのだ。その度にニーナは恐ろしくてたまらなくなる。それは、人殺しさえなんとも思っていないような瞳だった。初めてこの視線を向けられたとき、ニーナは殺されると確信したほどだ。とにかく尋常な様子ではないのである。

 そして、ミーナがこういう目をニーナに向けるとき、必ずニーナはのだ。


「それは……ザフィーラは少し変わっていて……」


 いつにも増して喉に言葉がつかえて上手くしゃべれない。異常なほど喉が乾いていた。


「雨の呪いのせいでしょ。ふふふ、そこまで怒ってはいないわ」


 ニーナの耳に笑い声らしきものが聞こえる。嵐が過ぎるのを待つような心地で瞳を閉じた。ザフィーラに来てからというもの、久しく感じていなかった無力感が忍び寄ってくる。


「ところで、この格好は何?」


 ミーナがスカートのヒダを手でつかんだ。


「こんなドレス、あなたに持たせたかしら」

「殿下から……今日、食事会があって……聖杯の間に行くって……」

「へえ」

 

 ミーナが手で口元を押さえ前屈みになった。その肩が小刻みに震える。


「プッ……」


 ミーナの指先から呼気がこぼれた。肩の震えが大きくなっていく。


「ミーナ……?」

「プププ……プハッ、ハハハハハ!」


 ニーナがどうしたの、と聞く前にミーナは身をよじって大笑いを始めた。


「あ……あなた、まさか」


 ヒーヒー言いながらミーナは言葉をつむいだ。


「まさか……こんなに華やかな格好が自分に似合うと思ってるの? 丹念に化粧もして、髪まで丁寧に整えて。ザフィーラは残酷ね。すぐ不細工に勘違いさせようとするんだから!」


 ニーナの心臓がバクバクと大きな音を立て始めた。


「に……似合うだなんて思ってない……これは殿下が……」


 言い訳じみたセリフが口から飛び出した。こういう自分がニーナは大嫌いだ。自分が着ると決めたというのに。


「へえ? それで、他国で毎日毎日愛を囁かれて幸せに過ごしてたってわけ?」

「ち、違うわ。だから、私も……殿下が何を思って私にこのドレスをくれたのか、わからないの……」

「ふうん……」 


 少し考えるようにミーナは指先を唇に当てた。細められた瞳がニーナの全身を舐め回す。


「それ、『女王の涙』なのではなくて?」


 ミーナが胸元にある大きなダイヤを指差した。


「ミーナ、知ってるの?」


 元々細められていたミーナの目がさらに細くなった。


「質問に質問で返されるのは嫌いよ。いいから答えて」


 ミーナの怒りを感じて、ニーナは震えながら答える。


「そ……そう。そのレプリカだって……」

「効果は?」

「一度だけ……死に至る魔法を無くしてくれる、と」


 ミーナが嬉しそうにニヤリと笑った。


「まあ、そうよね。ただのレプリカだもの」


 ミーナが腕を組む。


「そうよ、あなたがもらったのはただのレプリカ。その意味を少しは考えて?」

「何を……」

「あなたには所詮、偽物しかくれなかったってことよ」


 そういう風には少しも考えなかった。


「でも、私は嬉しかったし、とても素敵だと思ったわ」

「よく見るとこのドレスも地味ね。とても王族が贈るようなものには見えないわ」


 ドレスのことを貶されて流石のニーナも苛立った。これはルイが選んでくれたものなのだ。ミーナにとやかく言われたくなかった。


「殿下のことを悪く言わないで」


 ニーナのささやかな抵抗だった。ミーナが薄く開いた口から笑い声をもらす。


「あなた、ザフィーラに着いてすぐ婚約破棄されたのではなくって?」

「どうして……それを」

「あはは、やっぱりね。あなたに婚約の話が来るなんて、何かの間違いだって思っていたもの」


 何か勘違いして怒っているみたいだけど、と前置きしてミーナは言った。


「あなたが愛されていないから、この程度のもので済まされようとしているんでしょ? 慰謝料がわりにね」

「そ……そんな……」


 そうなのだろうか。この贈り物の意味は、婚約破棄したことへの償いだったのだろうか。

 辻褄つじつまはあっている。この前、ルイには謝られたばかりだ。

 しかも、あと少しでニーナは帝国に帰ることになる。慰謝料があるとしたら、渡されるのはこのタイミングかもしれなかった。


「いつまでも夢見てるから、そんなことにも気づかないのよ。あなたが男の人から愛されるわけないじゃない。誰かの特別になれるなんて」


 ミーナのサファイアを思わせる青い瞳がニーナを見ていた。

 深く、底が見えないほどの青だった。その青の奥深くが赤黒く光っている。引き込まれそうだった。見つめていると頭の芯がぼうっとしてくる。


「で、でも……聞いてみないことにはわからないわ……」

「わかりきったことよ。慰謝料なんだから」

「私は私のために贈り物を考えてくれた殿下の気持ちに応えたい……」


 ニーナは言葉を紡ぎながら、自分が何を言っているのかわからなくなってきた。慰謝料だというのに、ルイの気持ちを聞く意味などないはずだ。


「ふうん? 粘るのね」


 ミーナが矢継ぎ早に質問を重ねた。


「一度でも好きだと言われたことはあって?」

 

 あるわけない。


「綺麗だと褒められたことは?」


 もちろんなかった。

 

「だってあなた、美しくないもの。あの王子とは釣り合わないでしょ」

「……」


 ミーナの意見になんとか抵抗しようとしていたニーナの唇の動きが止まった。


(その通りよ……私は美しくない。だから、帝国では誰も私をかえりみることがなかった。ミーナだけが私を気にしてくれて、いつもこうして声をかけてくれた)


 ついさっきまで、鏡の前でルイに会うのを心待ちにしていたはずだったが、そのときの自分が何を考えていたのか、ニーナにはわからなくなってしまった。

 似合いもしない豪華なドレスと首飾りをつけて、浮かれて、これではまるで道化ではないか。

 ニーナの全身を無力感が覆った。


「王子は似合いもしないドレスを贈ってニーナを笑い物にしようとしているのよ。悪い男ね」


(そう、かもしれない……でなければ、私にこんな贈り物するはずない……)


「ニーナと一緒にいてあげるのは私だけ」


(その通りだわ……ミーナはいつも私を助けてくれる……ミーナだけが……)


 ミーナの言葉がニーナの心に染みていく。


「さあ、こっちにおいで」


 ニーナの足が鏡の方へ一歩前に出た。


「大丈夫。何かあっても私が守ってあげるから……」


 頭にもやがかかっているみたいだった。ニーナはさらに鏡へ近づいた。


「後は私に全部任せるのよ」

「わかったわ……」


 唇から紡がれた自らの呟きにはっとした。


「どうなっているの?」


 周りが暗い。目の前にはドレスを来たニーナがさっきまでいたはずの部屋の中に立っている。


「そこは鏡の中よ。食事会には私が行ってくるわ。あなたはそこで眠っていなさい」


 部屋にいるニーナはミーナだった。ニーナは体を奪われたのだ。

 ミーナが鏡の表面を指先で弾く。ニーナはそのまま眠ってしまった。

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