第20話 逃亡

 果樹園の端にあるリンゴの木の下でニーナたちは食事をとった。リンゴの木は生い茂る葉の内に薄紅色の小さな花と蕾を付けていた。

 ニーナがその可愛らしさに歓声をあげていると、ルイはこれから花を摘む作業があることを教えてくれた。実を大きく育てるためには花摘みの作業が必須だという。やってみたいと言ったら、時期になったら農家に頼んでみようとルイは言った。ニーナは返事をしなかった。

 食事を終えたあとは、さっき摘んだブルーベリーを食べた。

 木に成っていた実の中には甘く熟した実もあったはずだが、食べたブルーベリーはどれも酸っぱいものばかりだった。おいしい実を見分けられる方法が知りたいと二人で笑い合った。

 そのあとは、もうすることもなく、ぼうっと麦畑を見ていた。

 動きを止めることなく麦畑は風にそよいでいる。

 麦畑に顔を向けたまま、ルイが言った。


「ニーナは砂浜を見たことがあるか?」

「砂浜……ですか? ごめんなさい。それは何ですか」


 砂、ということは、地面の種類だろうか。


「砂浜は、海に接しているところで、砂地になっている場所のことを言うんだ。港のような場所とは違って、海が少しずつ深くなるから、水に入って遊ぶこともできる」

「海に入れるのですか?」


 あの大きな青い水の中に入るなんて、想像もできなかった。


「ああ。砂浜には、ちょうどこの麦畑のように絶えず波が打ち寄せる。とても不思議で……楽しいところだ。今度、一緒に行こう」

「……」


 ニーナは返事をしなかった。したくなかった。今日のルイは妙に未来のことばかり言う。けれど、ニーナにはもう、帝国に帰らなければならないはずだ。

 未来の約束に対して必ず口を閉ざすニーナの態度に思うところがあったのだろう。ルイは意を決したように立ち上がると、ニーナの正面にひざまずいた。


「ニーナにずっと言わなければならないと思っていたことがある」


 改まったようなルイの姿にニーナは身構えた。


「何でしょう」


 今日のルイは明らかに変だった。思わせぶりなことを言うだけではない。雰囲気からもいつもの溌剌はつらつは影を潜め、どこか感傷的だ。

 ルイはひざまずいたまま、深々と頭を下げた。


「国に来たばかりだったというのに、いきなり婚約破棄などと言ってすまなかった」


 ニーナは驚いて言葉に詰まった。まさかルイからそのことについて謝られるとは思っていなかった。


「ニーナがジンに言ったことがずっと気になっていた。自分の安心のためにやったのだと……天幕を作ろうと考えたのは君の優しさだ。しかし、無理をしてまで作業に没頭したのは私のせいだろう。そうしなければ不安になるような状況に私が追い込んだ」


 ニーナがぱっと顔を上げた。


「それは違います! 私が勝手にやったことです。それに……」


 ルイの後頭部、それに続く首筋がニーナの目の前にあった。こんなにも深く頭を下げて謝られるなど、ニーナは恐れ多く感じた。まるで対等かのように仲良くしてくれていてもルイは一国の王子なのだ。

 傷ついたのは事実だが、だからといって自分のような分際に謝る必要なんてないとニーナは思った。


「婚約破棄も仕方のないことです。殿下は悪くありません。私が悪いのです」

「何が悪い? 君は何もしていないではないか」


 ニーナが首をふった。


「いいえ。もし、私が……」


 この先は事実とはいえ口にしたいことではなかった。相手がルイだからこそ、なおさら言いたくなかった。


(もし、私がミーナのように美しかったら、婚約破棄にはならなかった。あの月夜の晩のままでいられた。悪いのは、美しくない、私……)


 だから、親ですらニーナに愛情を向けなかった。それが人にとっては当然なのだ。美しい者が愛され、ニーナのような見るところのない容姿の者は息を潜めていなければ痛い目にあう。

 愛は美しくなければ望めないものなのだ。

 ニーナの目に涙がたまっていった。

 自分を憐れんで人前で泣くなんてことはずっと昔にやめたはずだったのにとめられなかった。

 涙が二人の座る敷物の上にはらはらと落ちた。


「すまない。泣かせるつもりはなかったんだ」


 ルイの焦った声がニーナに聞こえた。ニーナはなおさら泣きじゃくった。


「殿下のせいではありません。違うのです。ごめんなさい」


 泣き止まなければならないのに、涙は止まらなかった。ハンカチで何度もニーナは目元を押さえたが無意味だった。


(こんなの甘えてるだけ。失礼よ。それにみっともない。早く止まって……)


 そのときだ。ふわりと温かな風が吹いた。頭に優しい感触がする。


「どうしてそんなことをするんですか?」


 ルイの手がニーナの頭を撫でていた。


「嫌か?」

「そういうわけではありません」


 ルイが困ったように笑った。


「ニーナは嫌なことでも嫌と言わないからな。信用していいかわからない」

「本当に、嫌なわけではありません」


 嫌だったら、いくらニーナでも身をよじるくらいのことはしていただろう。

 嫌なのではなかった。ただ、胸が苦しいだけだった。期待したくないのに、期待してしまいそうになる。

 そういう意味では、ルイから優しくされたくない、とニーナは思った。拒否することもできなかったが。

 

「すっかり遅くなってしまったが」


 ルイはニーナの頭から手を引いた。そして、ニーナの顔をのぞき込むようにして言った。


「もし、君を歓迎する舞踏会を城で開いたら、君は喜んでくれるか?」

「私のために舞踏会を開くのですか?」

「そうだ」


 そんなことをしてもらってもいいのか、ニーナにはわからなかった。

 雨季が終われば、ニーナは自分の国に帰らなければならない。いつまでも客としてこの国にはいられなかった。


(でも)


 一瞬だ。一瞬、ニーナのための舞踏会と聞いて、今まで動かないようにと必死に留めていたものが心の奥底で動いたのを感じた。それは、深い水底で泥に埋もれていた魚がわずかにみじろぎしたときのように、静かな揺らぎをニーナの心に起こし、仄暗い余韻を残していった。


「私は……」

 

 返事をしようとして、ニーナは異変に気がついた。

 ルイの頭より先、空に浮かぶ雲の中に分厚くぼってりとした雲が浮かんでいた。その雲の下はそのほかの雲の下より、さらに暗く、景色が淀んでいる。


「雨雲が来ます」

「何?」


 ルイが振り返った。

 大急ぎで荷物をまとめた。


「走るぞ」


 雨雲はあっという間に二人に追いついた。雨雲の下はニーナの予想どおり大荒れだった。前が見えないほどの土砂降りだ。

 ルイはバスケットからケープコートを取り出すとニーナに被せた。


「私だけ着るなんてダメです」

「問題ない。私には女王を倒すという使命があると言っただろう。そのために物心ついてからずっと鍛錬してきた。呪いにもある程度耐性がある」


 ところが、馬屋に着いたとき、ルイはもう青色吐息だった。


「殿下、酷い顔色です」

「そうか? これくらい大丈夫だ。早くここを出よう。この集落は呪い対策をしていない」


 ルイは自分が乗ってきた馬だけを馬房から出した。


「ニーナが乗ってきた馬は気性が優し過ぎて雨の中を走ることができない。私の馬に乗って帰ろう」

「コートは殿下が着てください。私にはいりません」

「私もいらない。馬を走らせるのに邪魔だ」


 ルイは馬に飛び乗ると、ニーナに手を差し出した。


「飛ばすから、私の後ろに」


 ニーナがコートをルイへ押しつけた。


「やめてください! 飛ばすと言うのなら、私が馬を走らせます」

「それではニーナが呪われてしまう」


 気づかわしげな声に、ニーナは胸が苦しくなった。


「私は呪われません。もう呪われているから」


 ルイが馬から降りた。


「まさかあのとき聞いていたのか」


 ニーナはうなずいた。誰にも今まで言ったことはなかったが、ルイが宮廷医師を呼んでくれたとき、実はニーナも話を聞いていた。

 自分はすでに呪われている身で、しかも雨より強い呪いだという。

 それならば、雨の呪いから守る道理など存在しないはずだ。そもそも、ニーナは自身を守る価値なんて、あるとは思えなかったけれど。


「そうだとしても、風邪は引くだろう」


 ルイが再びニーナをマントで包んだ。そして今度は有無を言わさず馬に担ぎ上げ、ニーナの後ろに座った。


「お願いだ。私に君を守らせてくれ」


 ニーナを前に座らせたまま王子は馬を城まで走らせた。

 ニーナはマントの中でまた泣いていた。今度はどうして涙が出るのか自分でもわからなかった。

 少なくとも、自分を憐れんでいる涙ではなかった。

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