第19話 農園地帯
約束はしていたものの、次の満月の日にニーナとルイが一緒に出かけることは叶わなかった。
ルイが思っていたよりも忙しかったのだ。さらに仕立て屋の仕事も遅れた。ブリジット地区以外でも天幕に破れが見つかったせいだった。針子たちは天幕の修繕に駆り出され、ルイはその対応に追われた。
結局、ニーナの乗馬服が届く頃には雨季の終わりが近づいていた。その頃には、晴れている日も増え、呪いに侵される人もいなくなっていた。
ニーナが待ち合わせ場所である城門前に行くと、ルイが先に来て待っていた。
「おはよう、ニーナ」
ニーナの姿を見て、ルイが一人納得したように首を縦に振った。
「ルイ様、おはようございます」
ニーナはスカートはないけれど、膝を折りカーテシーを行った。
つい最近、ニーナはルイの呼び方を殿下からルイ様に変えた。ルイが名前で呼ぶことを望んだからだ。
「乗馬服よく似合っているな。やはり服はサイズが合っているものを着るのがいい。新しく仕立てた甲斐があった」
「恐れ入ります」
馬丁がニーナの元に栗毛色の馬を引いてやってきた。鞍はすでに取り付けられている。
「こちらがニーナ様の乗る馬になります。うちで一番性格が大人しい馬なので、安心ですよ」
ニーナがお礼を言い、手綱を受け取ると馬丁は恭しく礼をした。ルイの馬は白馬だった。ニーナの馬と違い、鞍の後ろに鞄が付けられていた。ルイが言うには、飲み物が入っているらしかった。
出発しようと言うルイに、ニーナは違和感を持って周りを見回した。
「護衛はいないのですか?」
「いらないさ。十分に治安がいいからな」
ルイはニーナを馬の上に乗せると、自身も軽い身のこなしで馬に乗った。
「それでは行ってくる。日が落ちるまでには戻ってこよう」
クリスがルイに白い薄手のケープコートを差し出した。背中には月桂樹の刺繍が施されている。
「殿下。天気読みによれば本日雨が降ることはないでしょうが、念のためお持ちください」
「わかった」
ルイが馬の腹を踵で突いた。馬がゆっくりと歩き出す。ニーナもそれに倣った。
城門を抜けると、まぶしいほどの陽の光がニーナを出迎えた。空は雲ひとつない快晴だった。
* * *
馬で進むこと数時間、ニーナたちは王都を抜け、小さな集落に着いた。
王都から最も近い集落だったが、住んでいる人はいないらしかった。
昼間だけ王都から住む人たちが農作業をするために滞在しているという。主に休憩したり、農具を仕舞ったり、農作物の保管したりするのに使われていた。
夜間に無人でも盗みがないというのだから、本当に治安がいいのだろう。
そのことについて尋ねるとルイは少し笑った。
「水路のことと言い、ニーナはまちづくりに興味があるんだな。これに関しては治安がいいというより専用の結界が貼ってあるせいだ。許可証がないと集落に入れないのさ。それは王族だろうと関係ない。馬の首に下げられているのが許可証だ」
ルイが馬の首にかかったベルトを指差した。その紐にはいくつかのチャームがぶら下がっていた。
「集落だけではなく、農園にも専用の許可証がある。今日行くかもしれない場所の許可証は全てつけてある」
「この国は自由に出入りできないところが多いのですね」
一つ一つ許可証がないと出入りできないとは。状況によっては少し不便そうだった。
「そうだな。だが、おかげで罪を犯す者が減った。これを作ったのは件の女王なのだ……雨を呪いはしたが、彼女がザフィーラに残してくれたものは多い」
ルイは馬屋で馬から降りたあと、馬の首に下げていた許可証を外した。
「馬はここに留め置くが、許可証は持っていく。ベルトにつけるといい」
ニーナが取り付けるのに手間取っていると、ルイがベルトの金具にうまく引っかけてくれた。
酒場ではテーブルの上に不自然に一つバスケットが置いてあった。ルイはためらいなくそのバスケットをとった。
「これは私たちの昼食だ。ここに置いておくようお願いしたんだ」
「ここにも誰もいないのですね」
酒場にもさっき行った馬屋にも、それどころか集落に入ってからというもの、まるで人の気配を感じない。
「今日は私たち二人の貸切だからな」
「貸切……ですか? えっと、この集落を全部ですか?」
ルイが得意げに目を細めた。
「違うな。周辺の農地、全てだ」
ニーナは驚きすぎて何の反応もできなかった。というより、どういうことなのかもはやよくわからなかった。
固まったニーナを見てルイが笑みを深くした。
「さすがに満月の日だとしたらこうは行かなかったが。最近は晴れている日も増えてきた。何とか話を通すことができたんだ」
ルイが手を差し出す。
「行こう。見せたい景色がある。早くしないと日が沈んでしまう」
集落の周りは果樹園だった。
果樹園に生えている木々にはブルーベリーや桃が実っていた。近くにはなかったが、チェリーも収穫時期らしい。好きなだけとっていい、と言われたので、ニーナはブルーベリーを木からいくつか捥いでバスケットの中に加えた。
果樹の森を抜けると、その先は穀倉地帯だった。
ニーナたちは小高い丘の上から麦畑を見下ろした。冬小麦が青々と茂っていた。
「綺麗なところですね」
「そうだろう」
時折、風が吹いて、畑の脇にある風車がカラカラと音を立てて回る。その度に、冬小麦がやわらかく頭を垂れ、葉と葉が擦れる音と共に、明るい緑と濃い緑の波が立った。それが視界が続く限りずっと続いている。畑には誰もいない。周りを見回しても動くものは風にそよぐ植物以外、ニーナたちだけだった。
不思議だった。音はあるのに、とても静かだ。
「父上が初めてここに連れてきてくれた時も、こうして人払いしてくれていた。この景色を見せたかったのだと。もっとも私が来たのは収穫前で畑は黄金色だった。けれども、青い麦も美しいものだな」
風が揺らすのは麦だけではない。ルイの黒い髪も風に流れていた。
ニーナにはもうルイが神様のようには見えなくなっていた。彼はニーナにとって、よく知る人に変わっていた。その変化をニーナはどう考えるべきなのか、悩んでいた。
ひとつわかるのはもうすぐ別れなければならないことに現実味がないということだ。
ルイは地平線の向こうを見つめるような、遠い目をして言った。
「この国を守ることが私に課せられた運命だと母上は言う。魔力を失った父上に代わり、私がいずれ黄泉返るであろう女王を倒し、呪いを終わらせる」
食事会でマリアンヌがルイのことを運命のために訓練ばかりしてきた、と言ったことをニーナは思い出した。
「恐ろしくはないのですか? 女王と戦うことが」
相手は先王、つまり、ルイの祖父を殺した相手だ。
「恐ろしいさ。だが、そうだとしても、勝たねばならない。誰かが女王を倒さなければ、この国は呪われたままだ。そして、それは王位継承者の役目……我々の血は他の国民とは違う。王位継承者だと認められた者には聖杯から力が与えられる。私には浄化の力、そしてガブリエルには真実を見通す透目の力が。それらは国に降りかかる火の粉を払うための特別な力なのだ」
ニーナの胸の奥にツンとした痛みを伴う悲しみが広がった。
どうして戦わなければならないのがルイなのだろうと思った。力があるから戦う義務があるなどと、そのような状況にルイが置かれていること自体が悲しかった。
「でも、戦えば、死んでしまうかもしれません」
できれば戦ってほしくないニーナのせめてもの
ルイがうなずいた。
「そうだな。だから、ニーナには話しておこうと思った」
(今のは、どういう意味……?)
つい、ニーナはルイをまじまじと見てしまった。
彼が発する言葉に言外の意味など読み取ろうとしてはいけないとわかっていた。
そういうのはまともに恋愛することが許されている人がすることだ。自分のような容姿の持ち主がやることではない。
期待で自らを傷つけるのはもう嫌なのだ。
(わかっているのに……そんなことを言うなんて、まるで私と婚約を続けるつまりがあるみたい。でも、そんなわけないわ)
これ以上考えてはいけないとニーナは唇を引き結んだ。
ルイがニーナの手を取り、丘の下を指差した。
「この先に昼食を取るのにうってつけの木陰がある」
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