第18話 日常

 ルイの弟ガブリエルの朝はマリアンヌに起こしてもらうことから始まる。

 生後九ヶ月ともなれば自分で起きることもできる月齢だったが、全ての点において早熟なガブリエルであっても、自力で朝起きることだけは苦手だった。高い能力を得た弊害だ、などと本人は考えている。

 起こしてもらった後は、侍女から離乳食を食べさせてもらい、ミルクを飲む。

 そして、ニーナのところに向かうのだ。

 ガブリエルはニーナが城に来る前から、すでに彼女のことを知っていた。正確には夢に見ていた。

 ガブリエルはザフィーラに重要なことが起きるとき、それを先んじて夢で知ることができる。夢で会ったときからガブリエルはニーナのことを気に入っていた。

 ニーナは優しい。いつも穏やかにガブリエルの相手をしてくれるし、一緒に遊んでくれる。

 まだ乳児であるガブリエルにも礼儀正しく接してくれる謙虚なところもいい。子どもだからと侮られるのが、ガブリエルは何よりも嫌いだった。

 それに、ニーナの持つ、柔らかく清らかな雰囲気も好きだった。ニーナのまとう空気はまるで雨上がりに輝く月のように清純で、一緒にいるだけで癒される。

 それは彼女の持つ魔力にも現れていた。破邪の力。そのようにガブリエルはニーナの魔力を評価していた。誰にも言ったことはなかったが。

 ルイは自ら結婚破棄をニーナに突きつけた。ガブリエルにとってはチャンスだ。

 誰かがニーナの良さに気がつく前に取り入ろうというのがガブリエルの作戦である。

 ガブリエルが壁抜けして部屋に入ると、ニーナはドレスに着替えている最中だった。

 アメリが宙に浮くガブリエルの首根っこを掴んだ。


「ガブリエル様。入って来るときはドアからですよ」

「あーうー?」


 ガブリエルは心がけて可愛く見えるよう上目遣いでアメリを見た。


「そうやって誤魔化そうとしてもダメです。さあ、入る前からやり直してください。まずはノックですよ」

「……」


 アメリには通じなかった。これで籠絡ろうらくできなかった大人なんて今までいなかったのに。厳しすぎる。

 ガブリエルはドアから入り直した。ノックをしたのち、部屋に入るのを許されたときには、ニーナの着替えが終わっていた。


「いらっしゃい。ガビー」


 ニーナがガブリエルに笑いかけた。

 ガブリエルもニーナに笑顔を返した。


『お出かけ用のドレスだね。またルイ兄に誘われたの?』


 派手なデザインのドレスだった。濃い黄色のドレスで胸のところにギャザーで大きなバラ型が作ってある。


(別に悪いってわけじゃないんだけど、全然本人に似合ってないんだよね。微妙に体型もあってないし)


「今日は城にある美術館を案内してくれるみたい」


 ニーナは嬉しそうに笑っている。

 前回の満月の日以来、ルイは理由を作ってはニーナに細々こまごまと会いに来るようになった。しかも、ニーナはなぜかルイのことを怖がらなくなっていた。ガブリエルにとっては嬉しくない変化だった。


「今回は前触れもいただけましたし、ゆっくり準備ができて助かりました」


 女性を誘うスキルも順調に腕を上げているようだ。

 ルイのスキル上達はガブリエルにとっても喜ばしいことだった。そのままニーナではなく他の女性に行ってほしい。価値がわからない人にニーナはもったいないのだ。


「じゃあ、今日は魔法の練習お休み?」


 瞳を揺らしながらのガブリエルの質問にニーナが首を振った。


「いいえ。午後からは仕事だとおっしゃっていたから、それまでには帰れるはずよ。だから、午後に是非お願いしたいの」

『そう……だよね!』


 ガブリエルは大きな瞳でウインクをした。

 アメリが訝しげな目をガブリエルに向けた。


「お二人のデートに付いて行ってはいけませんよ」

『まっさかあ! そんな子どもみたいなこと、僕がするわけないじゃない』


 そんなこと言いながらいつも邪魔してますよね、というアメリのツッコミが聞こえた気がしたが、もちろん無視をした。

 ニーナの前ではいい子にしていなければ。


『じゃあ、僕はお昼ご飯の後に来るよ。またね!』

「ええまた」


 ニーナに手を振り部屋を出た。

 美術館に行くにしても偶然を装う必要がある。少し時間を潰す必要があった。


(しょうがない。昼寝でもしよう。僕はまだたくさん寝なきゃいけない身だし。これぞ大人の睡眠コントロールだ!)


 ガブリエルは自室に戻り、ゆりかごの中に丸まると瞳を閉じた。


 * * *


 「ゔ、うう……あああああ!」


 ガブリエルは自分の悲鳴で目を覚ました。


(また、この夢か)


 今でも心臓がバクバクと音を立てている。

 酷い夢だった。ニーナが真っ黒な闇に覆われていた。そして、鏡の中に吸い込まれたのだ。

 すでに同じ夢を何度か見ている。これは予知夢だ。

 見るたびに少しずつ夢の内容が増えていく。夢が増えていくのは、夢の内容がそう遠い未来の出来事ではない証拠だった。事件が起こる日が近づいている。

 内容は増えるたびにオーギュストとマリアンヌに報告していた。

 しかし、それとは別に、自分にしかできないことがあることをガブリエルはすでに夢から理解していた。


(外は晴れていた……ということは、あれは雨季が終わってからの出来事? あるいは終わりがけ。ニーナを助けるには、彼女自身の力が必要だ……僕は行かないと)


 フラフラと宙を飛び、ニーナの元へ向かった。


* * *


 ガブリエルが廊下を飛んでいると、ルイとニーナの声が聞こえた。二人はニーナの部屋の前で何やら話し込んでいた。

 

「乗馬用の服は持っているか?」

「いいえ」


 (そういえば、次の外出では馬に乗るって言ってたっけ)


 ガブリエルは二人に近づき、ルイの背中側に隠れた。二人はまだガブリエルに気づいていないようだ。


「そうか。では近いうちに仕立て屋をよこそう」

「そんな、わざわざ仕立てていただくなんて、申し訳ないです」

「それは迷惑だという意味か?」

「まさか、迷惑だなんて……ただ恐れ多いのです」


 ガブリエルが思うに、ニーナは他人の好意を受け取るのが下手なのだ。ただ笑顔で受け取ること、それで十分なのに、それが難しい。何かしてもらうことを申し訳ないと思いすぎるのだ。

 ニーナに受け取ってもらうにはこう言えばいい。


『僕、ニーナの乗馬服姿見てみたいな。お願い』


 ガブリエルはルイの背中からニーナの前へ躍り出た。

 ウインクも忘れない。お願いするときは可愛くする、それがガブリエル流の礼儀だ。

 ニーナは遠慮しがちだけれど、相手が喜ぶことは積極的にやる。少しやり過ぎではないか、と思うくらいに。しかし、それがニーナなりの、人間関係の中で安心を得る方法であることをガブリエルはすでに見抜いていた。

 だから、時々、ニーナの負担にならない程度のお願いをガブリエルはするようにしている。ニーナが安らかな気持ちで自分と一緒にいられるように。


「ガビー、来てくれたのね」

「なんだガビー。またニーナのところに入り浸ってるのか?」


 ニーナが宙に浮くガブリエルを後ろから抱きしめた。ルイはガブリエルの頭に手を伸ばす。

 ガブリエルはルイの手を払った。ライバルに頭を撫でさせてやるつもりなど毛頭ないのだ。


『もちろん毎日来てるよ。僕ニーナのこと大好きだもん』

「私もガブリエルのこと大好きよ」


 ニーナがころころと笑っている。ガブリエルは勝ち誇った笑みを浮かべた。兄よりもニーナと仲がいい自信がガブリエルにはあった。

 ルイが自身のこめかみを指先で揉んだ。少し困ったときに見せるルイの癖だった。


「あまり迷惑をかけるなよ。では、ニーナ。乗馬服は次の満月に間に合うように用意するから、仕立て屋が来たらよろしく頼む」

「かしこまりました」


 ルイが踵を返した。ルイが廊下の角を曲がるまでニーナは見送っていた。ルイの後ろ姿が完全に見えなくなると、ニーナはガブリエルに言った。


「ごめんなさい、ガビー。せっかく来てもらったのに、私、まだお昼ご飯を食べていないの。だから、魔法の講習は少し待ってもらってもいいかしら」


 ガブリエルは思い出した。自分もまだ昼食をとっていなかった。予知夢のせいですっかり忘れていた。


『実は、僕も……』

「そうなの。では、一緒に食べましょう。ガビーのご飯もここに持ってきてもらえるようお願いするわね」

「……」


 ガブリエルとしては、なるべく、ニーナと一緒に食事をするのは避けたかった。哺乳瓶からミルクを飲むだなんてまるっきり赤ん坊の所業だ。しかし、ガブリエルは離乳食の他にミルクを飲まないと栄養が足りない体なのだ。


「どうしたの? ガブリエル」


 返事がないことを心配したのか、ニーナがガブリエルの顔を覗き込んだ。


『なんでもない。じゃあ、魔法はご飯の後でね』


(ああ、早く大きくならないかなあ)


 いくら月齢のわりに賢く、予知夢をたしなむ大魔法使いの卵でも、体の成長スピードを変えることはできないのだった。


 * * *


 日が沈む直前、ニーナは王妃の執務室を訪ねていた。その腕にはガブリエルを抱いている。

 思念を飛ばすことも、宙に浮くこともなく、その身をニーナの胸にあずけ、彼はぐっすりと眠っていた。


「今日もニーナさんのところに行っていたのね」

「はい。今日はお昼ご飯のあと、少ししたら眠ってしまって……そのまま」

 

 王妃はニーナからガブリエルを受け取った。


「この子は、赤ちゃんなのにもう色々なことができるけれど、とてもよく眠るの。特に最近は夢を見ているみたいで」

「夢、ですか?」

「ええ。特別な夢をね」


 王妃がガブリエルをベビーベッドへ置いた。余程深い眠りなのだろう。ベッドに置かれても、その寝息には少しの変化もない。


「ニーナさんが来る前は、一人でふらっと遊びに出かけては、その先で寝てしまうことも多くて。城の中をみんなでよく探したの。思いもよらない場所で見つかったりしたものよ。最近はニーナさんのところにいるようだから、助かっているわ」

「私もガビーが毎日来てくれて楽しいです」


 ニーナはガブリエルの頰を指の甲で撫でた。柔らかく、滑らかな頰だった。尊いとはこういう存在のことをいうのだろう。

 王妃がニーナの手を取った。


「ニーナさん。これから何があったとしても一緒に乗り越えましょうね」


 妙に真剣な様子で王妃は言った。ニーナはその言葉にどう返事をすればいいかわからなかった。あと一ヶ月ほどで帝国に帰ることになるというのに。


「ガビー、さようなら。また明日ね」


 結局、何の返事もできず、ニーナはガブリエルにお別れを言って部屋を出た。

 あと何度、こんな日が過ごせるのだろう。

 せめて、この国にいる間は、ギリギリまでこうして楽しく過ごせると嬉しいな、とニーナは思うのだった。



 

 

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