第一章
1
「ご愁傷様です」
そんな声で目が覚めた。
目の前には女性の顔がある。いや……女性……か? この人の頭には小さいが角が生えている。いや、気のせいか? いや……え?
「な……ッ!?」
俺は飛び上がった。
どうやら俺は今の今までこの女性に膝枕をしてもらっていたらしい。恥ずかしい。
女性は灰色の着物を身に纏い、長くて白い髪に虚ろな目をしていて、そしてやはり……。
「この角が気になりますか?」
「……コスプレ?」
彼女は首を横に振る。
「私は『鬼』です。ご存知ですか? 『奪衣婆』という者なのですが……」
「……は?」
聞き間違いだろうか。というかまずここはどこだ。
周囲をキョロキョロと見渡すと、その異様さに今更ながら気付く。
辺りは薄暗く、どこまでも灰色の空が広がっていた。そして眼前には途轍もなく広い海……いや、湖だろうか? もしくは川が広がっていて、自分のいる場所が河原か何かだと理解できる。確かに足元には打ち上げられた石ころが散らばっていた。
「ここは……」
「『賽の河原』です。ご存知ですか?」
「……サイノ?」
「『賽』です。サイコロのことですよ」
「……賽の河原? 賽って……え? いやいや……というか、あの海は……」
「海ではなく川です。『三途の川』です。ご存知ですか?」
「いや! ご存知だけど! そういうことじゃなくて……」
「この川を越えるともう二度と現世には戻れません。ご愁傷様です」
「いやいや! そんな馬鹿な! 三途の川なんて……そんな馬鹿な……」
女性は可哀想なものを見る目で俺を見つめてくる。
止めてくれよ。まさか本当に『そういうこと』なのか? 本当に……。
「ご安心ください。確かにここは三途の川の一歩手前……。ですが、貴方はまだ亡くなっていません。この私が貴方から衣服を剥ぎ取れないということは、つまりそういうことなのです」
「どういうことなのだ……?」
「私は奪衣婆。閻魔様の命に従い、亡くなった者の衣服を剥ぎ取る仕事をしているのです。ですから、亡くなっていない者からは衣服を剥ぎ取ることが出来ません」
「……イカした仕事ですね」
聞いたことはある。
俺も日本人として三途の川や奪衣婆といった存在がある死後の世界の話は聞いたことがある。
しかし、仮にその話が本当だったとしても、この目で直接見たとしても、到底納得できるわけがない。
「貴方は今、生死の境にいます。生きるか死ぬかの瀬戸際で、このままでは間違いなく死に至ることでしょう」
「待ってくれ……いや、待って下さい。どういうことですか? 俺の身に一体何が……」
「ご存知ないのですか?」
女性は無表情だ。まるで、俺に対していかほども関心が無いかのように。
聞けば教えてくれそうだが、俺もだんだん思い出してきた。
「……そうだ。確か、バスが……俺はバスに乗っていて……それで、急に何か……。まさか!」
「はいそうです。貴方の乗っていたバスは横転し、橋の上から落下しました。その所為で貴方はこうして生死の境を彷徨う羽目になっているのです」
「まさかそんな……! いや、でも……橋から落下って……何でそんな……」
「運転手の方は先に三途の川をお渡りになりました。彼は運転中に心臓発作を起こしてしまったのです」
「えぇ!? な、何だよそれ……何でそんなことに……そんな……」
動揺が隠しきれない。そんな理不尽な話があるだろうか。まさか、俺は本当にこのまま死んでしまうのか?
女性は相変わらず無表情だ。
「このままでは確かに貴方は死んでしまいます。ですが、貴方にはまだ生き返るチャンスが残されています」
「……え?」
ここで俺は今更ながら女性の角に対して疑問を抱き始めた。
そうだ。この人は人間ではなく鬼なのだ。常識から外れた存在の彼女が、俺の理解できる言葉をどうして使うのだろうか。
それは自分やこの世界が俺にとって非常識なものだと理解しているからだ。
ならばつまり、俺を安心させるために理解可能な言葉を発しているに違いない。彼女は、きっと俺の味方をしてくれているのだ。
……などと都合よく捉え、俺は彼女の言葉に耳を澄ませた。
「『賽の石塔』へ向かうと良いでしょう。そこに行けば生き返るチャンスを与えられます」
「ほ、本当に?」
「行かなければそのチャンスは永遠に失われることでしょう、貴方が死にたいのならば話は別ですが」
そんなわけがない。俺は身を乗り出した。
「行きます! 行かせてください! その何とかという塔に!」
「『賽の石塔』です。あちらに見えるでしょう?」
そう言って女性は自分の背後を指差した。
そこには確かに石で作られたように見える塔がある。
「アレが……?」
ここからは少し距離があるようだが、それでも巨大に見える。
灰色の空の下に、灰色の巨塔。そして辺りにはまるで死んだ人間の怨念ではないかと思えるような黒い渦雲が蔓延っている。
果たして近付いても大丈夫なのだろうか。何もかもを飲み込みそうな禍々しい闇が、塔の外部から放出されているような気がする。
「恐ろしいですか? あの塔が」
「……雰囲気は。でも、生き返るためには行くしかないんでしょう? 俺には選択肢が無い」
「……果たしてそうでしょうか」
「え?」
女性は初めて小さく微笑んだ。その少し冷たい笑みの理由は、今の俺にはわからない。
「人間というのは『選択』をする生物です。貴方は既に『生き返りを望む』という選択をした。忘れないでください。貴方は……自分の『選択』に最後まで責任を持たなければならない」
言葉の意味は分からないが、不思議と耳に強く残った。
「……とにかく俺はあそこに行きますよ。その……世話になりました、お姉さん」
果たして年齢などあるのだろうか。
ただ、彼女は『お姉さん』と呼んだあと少しだけ口元を緩ませていたので、恐らく正解を引いたのだろう。
「ご武運を。しかし気を付けて。鬼は嘘を吐く生き物ですから。私の言葉を安易に信じてしまうのは危険ですよ?」
「でも俺は信じますよ。疑うよりは信じる方が俺は好きなんで」
「……そうですか」
俺はもう振り返らずあの塔に向かっていく。一つだけ気掛かりがあるとすればそれは……いや、今考えるのは止そう。
まずは塔の中に入ってから。そこからだ。
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