第7話 劇場型犯罪

 一時間が経ったその時、手術室の赤いランプが消えた。医者が出てきて、刑事に説明をしている。

「患者さんですが、一応手術は成功し、一命をとりとめました。結構危ない状態で運ばれてきたので、かなり危険ではあったのですが、何とかなりました」

 といって医者は少し黙って下を向いた。

 佐和子はその様子を、違和感を持って見ていた。

「助かったわりには、何か変だ」

 と感じたのだ。

 すると、医者は、おもむろに頭を挙げて、

「実は、命はとりとめたんですが、意識を取り戻すまでには行っていません。とりあえず、人工呼吸器をつけての治療になりますが、ここから先は、本当に経過観察しかできませんね」

 というのがやっとという感じで、いくら医者でも、この宣告がどのようなものか、分かっているだけに、やるせなかったであろう。

「医者としての、限界」

 というものを、感じていることだろう。

 しかも、瞬間的に感じさせられて、後はすぐに意識が戻る。それは、

「自分たちはやるだけのことをやった」

 という自負もあるからだろう。

 それでも、どうにもならないのは、医者が抱えた宿命であり、ジレンマや憤りという言葉だけで言い表せるものではないということに違いない。

 それを思うと、本当は質問も憚るというもので、

「ありがとうございます。そういうことでしたら仕方がありませんね」

 といって、半分歯を食いしばる気持ちになったのだろうが、刑事も医者も職業柄、こういう状況には慣れているはずなのに、

「こういう状況には何度なったとしても、やるせない気持ちが薄れていくなどということはないのだろうな?」

 と考えるのだった。

「医者って、そういうものだ。警察だって一緒なんだ」

 と思っていた。

 しかし、そのほとんどは、

「被害者、あるいは、患者の命を助けられなかった」

 という憤りがほとんどで、

「命は助かったが、それ以上はどうすることもできず、やるせない気持ちが果てしなく続いていく」

 と思うだろう。

 医者は、特にずっとそばにいなければいけないので、その思いは強いだろう。

 しかし、同じ思いを他の人にさせないようにしないといけないということで、どこかで割り切らないと、他の人の命を危険にさらすことになる。

「精神的にタフでないと医者というのはやっていけないんだろうな?」

 と佐和子は感じた。

 刑事にしても、そうだった。

「警察というと、公務員なので、どうせ、役所仕事みたいなものだろう」

 と思っていた。

 ドラマなどの必死の捜査であったり、すぐに憤りを忘れて、別の仕事に邁進できるのが刑事なのだろうと思っていたので、本当にこのような表情をするのだと思うと、佐和子は、これまでの刑事に対しての思いを少し改めなければいけないというようなことを、感じたのだった。

「刑事さんも、お医者さんも、大変な仕事だ」

 と、会社で普通の事務しかしていない佐和子は、自分の今まで見てきたものが、何だったのか、考えさせられる気がしたのだった。

「とりあえず、我々も死力を尽くしますが、あとは、本人の気力と、運を天に任せるしかありません」

 と医者はいったが、佐和子としても、

「一生懸命にできるだけのことはした」

 ということだろうから、分かってあげられる気がしたのだ。

 そんな中、今佐和子は、

「できるだけのことはする」

 という言葉を医者から聞いたことで、もう一つ似た言葉があり、その言葉との間に強弱があるのかどうかを考えていた。

 その言葉とは、

「やるだけのことはする」

 というものであった。

 前者と後者で、ニュアンスが、若干違ってることを感じた。

 前者は、

「自分の限界を分かっていて、できることとできないことを考えて、できることだけを行う」

 というものである。

 つまり、

「できないことに足を踏み入れると、取り返しのつかないことになる」

 ということの裏返しの気がする。

 逆に、

「やることはやる」

 というのは、

「やらなければいけないということは分かっていて、それに対してミスのないように、遂行する」

 というもので、今度は、前者よりも、自分に自信をもっていて、やるべきことが分かっている、つまりは、

「できることと、やるべきことの両方を把握していて、できるできないということよりも、やれることというのが最優先になることで、できることという認識が頭の中で欠如している」

 と言えるのではないだろうか?

 だから、後者はどこか、事務的なところがあり、人間味を感じさせない。

 本来であれば、後者の方が冷静沈着で、

「そうあるべきだ」

 と言えるのだろうが、そう感じてしまうと、

「どこか他人事のようでさばさばしているように見えることで、人間らしさというものがない」

 と言われるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「私は、医者として、どうすればいいんだろう?」

 と、若い医者が最初の頃に落ち込んでいるというような、医療ドラマを見たことが何度もあった。

 昔は医療ドラマも好きで見ていたが、最近は、どうにも見たいとは思わない。

 見たくないと思うドラマは、、医療ドラマと刑事ドラマ、さらにいえば、純愛モノなのでも、どちらかが病気か何かで、

「余命数カ月」

 などというドラマである。

 要するに、重たいのだ。

 見ていて、リアルではなく、ドラマだということは百も承知のくせに、それを納得できるだけの思いがないのだ。

 ものすごいリアルさを感じ、ドラマの重たさゆえ、同じように、頭を抑えられているかのように思う。

「重たいドラマは、いくら、笑いどころを作ったとしても、最後は、その重たさに自分が耐えられるかどうか」

 と考えてしまう。

 そういえば、親がよく言っていたが、

「年を取るにつれば、ドラマを見ていて、涙ぐむことが多くなった」

 といっていた。

 どうやら自分の親もそうだったようで、昔あった、昼メロと呼ばれる、少しリアルな、

「大人の恋愛物語」

 というのが、ものすごくリアルなんだといっていたのだった。

 だが、意識が戻らないというのは、かなりディープなところであった。

 だが、佐和子は、関わってしまった以上、放っておくことができなくなった。もし、放っておいてしまうと、何よりも、

「あの人はどうなってしまったんだろう?」

 という意識と、さらに、自分の中にある

「勧善懲悪」

 という気持ちを失ってしまうかのように思えてくるのだ。

 だから、ディープだと思っても、何かの結論が出るまで、関わらなければいけない。さらに、あの加害者がどうなるのかということも気になる。

 いや、勧善懲悪とすれば、むしろ、

「あの加害者がどのような裁きを受けるのか?」

 ということの方が、この事件、いや事故において、気になるところであった。

 警察から、これ以上話が聞けるわけもないが、どうにも気になるのだ。

 警察だって忙しいのだし、守秘義務から、いくら通報者だとはいえ、何でも教えてもらえるわけもない。だから、どうなったかは分からないが、とりあえず、少なくとも厳重注意くらいはあるだろう。

 だが、

「被害者がこのまま、意識が戻らなかったらどうなるのだろう?」

 ということであった。

 病院の手術も終わり、佐和子が帰ってから、被害者の家族がやってきたという。

 被害者は、この街に一人暮らしをしていて、田舎の家族も、仕事に出ているので、すぐには連絡がつかなかった。しかも、車で来るとしても、高速道路がないような田舎だということで、

「向こうを出てからこちらに来るまで、普通にきても、4時間くらいはかかるだろう」

 ということであった。

 佐和子は、病院にいたのは、2時間半くらいだっただろうか? 当然、被害者の家族とは面会もしていない。

 もっとも、このような状況で、どう家族と向き合えばいいのか?

 笑顔で会える環境でないのなら、その場にいないのが一番いい。

 家族がやってきてからの光景は、ドラマなどで嫌というほど見ていた。それがリアルとなると、本当に見たいわけがあるわけもない。

 警察からは、

「何かあったら、ひょっとすると、またドご連絡を取るかも知れませんが、今日はありがとうございました。お引き取りいただいて結構です」

 と言われたので、

「分かりました。失礼します」

 といって、その場を後にした。

 そんな状態で、一人取り残された気分になった佐和子は、何となく、釈然としない思いを抱いていた。

 何が釈然としないのかというと、

「被害者があんなになったのに、加害者が、どこまでの罰を負うのかということが分からないと気が済まないよな」

 と思ったからだ。

 きっと、このまま、加害者のプライバシー保護から、目撃者と言えども、知らされることがないと思うと、何か理不尽な気がした。

 先ほどの加害者の態度を思い出していた。

「いくら気が動転していたとしても、自分がいるにも関わらず、明らかに、その場から立ち去ろうとしたではないか?」

 ということで、

「許せない」

 という思いが、またこみあげてきた。

 刑事事件にどこまでできるかであろうが、何しろ自転車でのことだ。車やバイクではねたのとはわけが違う。

 かといって、今起こっていることは、

「被害者の意識が戻らず、このままいけば、植物人間になってしまう」

 ということであった。

「意識がいつ戻るとも知れず、自分の意志で呼吸もできず、生きているのかどうなのか分からないまま、生かされているということになる」

 というのだ。

 しかも、この問題は、どこまで保険や、国が補償してくれるのか分からないが、そんなものが及びもしないほどの金銭的な負担が、家族に背負わされることになるだろう。

 人工呼吸器、生命維持装置というものが、どれほどのものなのか分からないが、いつ目覚めるとも知れぬ家族を、ずっと見守っていなければならないのだ。

 さらに、あまりにもその状況が長いと、まわりの家族が肉体的にも精神的にも参ってしまう。

 そうなると、

「一思いに、楽にしてやりたい」

 と思うのか。それとも、自分が楽になりたいと思うのか。人工呼吸器を外すという衝動に駆られることもあるかも知れない。

 いわゆる、

「尊厳死」

 あるいは、

「安楽死」

 と言われるものだ。

 これに関しては、最近の判例では、少し認められる方向にいってはいるが、よほどの事情がないと認められることはない。尊厳死に関しては。あくまでも、本人の問題であって、いくらまわりの家族がどんなに悲惨な目に遭っていようが、関係ないというところが、

「これ以上理不尽なことはない」

 と言われるゆえんなのかも知れない。

 だから、植物人間となってしまった本人が、以前から、

「植物化した時、延命措置をしないでくれ」

 ということを意思として残していたり、医者の診断で、

「このまま放っておいても、意識が戻る可能性は限りなくゼロに近い」

 というような、延命効果自体を疑問視する状態とが、重なっていなければ、少なくとも、尊厳死を求めるというような発想にはならないということであった。

 そんな中で、いくら自転車とはいえ。そんな結果をもたらした加害者が、その後も普通に暮らしていれば、許されることなのかと思うのも当たり前のことである。

 その時、加害者が、

「自転車を運転していなければ、こんなことにはならなかった」

 というのは、間違いのない事実なのだ。

 このような状況に陥ったことで、唯一の真実は、

「自転車を運転していた人が、歩行者をはねたことで、その歩行者である被害者が、植物人間になった」

 ということなのである。

 その時の状況であったり、加害者への叙情酌量などは、目撃した佐和子から見れば、もし、これが裁判となり、証言台に立ったとすれば、

「加害者が縦横無尽に、しかも、いくら自転車走行可の場所だったとはいえ、それだけに、歩行者に気を遣わなければいけない場所で、理不尽な運転をしたことで起こった事故だ」

 というに違いない。

 決して、加害者を陥れるような感情的な態度ではなく、事実見た通りがその通りなのだから、裁判が民事であっても、刑事であっても、同じことをいうに違いない。

 刑事の方では、それなりの判決は出たようだが、民事の方では、さらにややこしいことになっていたのだ。

 というのも、この加害者は、

「自転車保険に加入していなかった」

 のである。

 数年前から、自転車に乗る人は、自転車保険の加入が義務化されているところが多いという。

 というのも、自転車保険義務化というのは、都道府県の条例によるもので、義務化されているところが多い。

 これはあくまでも、加害者が高額の賠償金を保険で賄えるようになるという、

「加害者保護」

 の観点からなのに、面倒臭って入らないと、こういうことにならないとは得てしていえないということだった。

 今までに小学生が、自転車で人を撥ね、頭がい骨骨折などで、意識が戻らな状態になった時、約1億円の賠償を言い渡されたという事例や、それに近いことがたくさん起きている。いまさら、

「保険に入っておけばよかった」

 といっても後の祭りであり、

「一生かけて償っても、償いきれないだけの、賠償が、残りの人生に襲い掛かってくるのだ。

 つまり、その少年は、

「ここで人生が終わった」

 といってもいいだろう。

 自転車は、確かに悪気がないのだろうが、被害者には関係のないことだ。それを思えば、

「本当は自転車保険など、関係のないことだ」

 と言えるのではないだろうか?

 その事故は、その後、少し大きなニュースとなった。事故が、事件になったというくらいだ。

 とはいえ、あくまでも、最初は全国ニュースとして扱われ、少しはセンセーショナルな話題を醸し出すのかと思いきや、世間はそこまでゆっくりと動いてはいないようだった。

 確かに、自転車の事故で、被害者が、意識不明状態に陥ったというのは、一時のニュースにはなるが、さらに悲惨なニュースが次々に出てくる。まるで、

「マスゴミのために、世の中が動いている」

 とでもいっているかのようだった。

 それでも、1カ月間くらいは、地元では話題になっているようで、事故現場では、事故が起きてからの2週間ほどに渡って、朝夕の人通り、さらには、自転車通りの多い時間帯には、数人の制服警官が、立っているというそんな光景が見られたのだ。

 さすがに、そんな状態では、自転車もおとなしくしているというものだと思っていたが、暴走自転車の連中には、警察がいようがいまいが関係ないのだ。見えていないのか、それとも、警察の威厳が分かっていないのか、どちらにしても、警察も甘く見られたものである。

 そんなことを思っていると、その場所を通りすぎるまでの10分くらいの間に、自転車が何台も止められて、質問を受けている。

「やはり、警察は舐められているんだ」

 と思う程に、警官に職質されているのに、

「急いでるんですよ。何ですか?」

 とばかりに、いかにも面倒臭そうな態度に至るのだった。

「何ですかじゃない。お前のあの運転は何なんだ?」

 と、警官の方も、ちょっと強めに言っても、相手は引き下がることなどなかった。

「俺が何したっていうんですか?」

 よいうと、

「危ない運転をするんじゃない。歩行者に当たりそうになっただろう」

 と警官がいうと、

「当たってないからいいじゃないか? 俺なんかよりももっと危険な運転しているやつはいっぱいいるんだ。何で俺を目の敵にするんだよ」

 というのが、自転車の言い分だった。

「しょうがない。ちょっと、署まで来てもらおう」

 というと、相手は急にビビッてしまって、

「いやいや、おまわりさん、冗談ですよ。すみません。これからは気を付けます」

 とばかりに、急に下手に出て、その場をやりすごした。

 警察としても、神妙にしている相手にそれ以上いうわけにはいかない。

「これからは、ちゃんと、歩行者に気を付けるんだぞ」

 といって話してやったが、その時は相手も神妙に、

「すみません」

 と頭を下げたが、次の瞬間、猛スピードで人をすり抜けるように走り去った。

「反省などしているわけもない」

 と思うのだった。

 やつら、配達員は、

「職質なんか受けて、配達に遅れて、相手に怒られたり、ペナルティで、配送料をもらえなかったりすることを恐れているだけなんだ」

 ということは分かっていた。だから、その場で揉めて、配達に遅れることを想像すると、急に我に返ったのかも知れない。

 さて、そんな配達員を警官がその2週間の間に、どれだけ、検挙でき、あるいは、その効果があったのかということは分からなかったが、目撃した状態を見る限りでは、

「こんなことをしたって、事故が減るわけもないし、それこそ、税金の無駄遣いではないか?」

 と思った。

「そんなことは警察だって分かっているように思う。だが、もし、それでも、これだけの取り締まりをする意義としては、マスゴミに取り上げられて、ニュースになった以上、警察は何をしていると言われることを嫌った」

 と言えるのではないだろうか?

 実際に、SNSでの拡散でも、被害者が気の毒だという意見、自転車に対しての憤りを示す意見、さらには、今の世の中では仕方がないという意見とさまざまであった。

 しかし、その中で、

「警察は何をしているんだ?」

 というのも散見される。

 それでも、そんなことをツイートしている連中も、

「警察はしょせん何もできない」

 ということが分かっている人も結構いることだろう。

 それでも、警察を悪者にして、自分の意見の正当性を主張しようとするのが、ツイッターなどの、SNSというものだ。

「一体、どういう連中なんだ?」

 と考えたが、例の、

「世界的なパンデミック」

 が起こった時、日本では、行動制限のために、

「緊急事態宣言」

 というものが出たではないか。

 この宣言は、一定の効果があった。

 結構、伝染病によって、

「芸能人などの有名人が、バタバタと死んでいく」

 ということに直面したことで、さすがに平和ボケの日本人も、

「これは怖い」

 ということと、世間の風当たりから、

「従うしかない」

 ということになったのだった。

 そして、そんな状態において、日が経つにつれて、家に引きこもっていることに、皆がストレスを感じるようになると、ニュースが気になるようになってくる。

 その時、

「自治体の休業指示に従わず、店を開けているところがあります」

 ということで、パチンコ屋がややり玉にあがったことで、

「ストレス解消のためのおもちゃ」

 を手に入れたのだ。

 SNSでは、そんな店を攻撃する記事が多く、世間もほとんどが、休業要請に従わない店の敵となった。もちろん、ギャンブル依存症の連中は、

「世間から何と言われようとも、開いているなら、並んででもいく」

 ということで、何と、車で、十時間以上も掛けて、やってくるという人もいたくらいだ。だから、その店の駐車場は、ほとんどが、他府県ナンバー、しかも、自治体が開いている店の名前を見せしめとして、後悔したりしたものだから、余計に、人が集まってくるというものである。

「県をまたいだ移動は控えるように」

 というのも、指示であった。それも守っていないということになるのだ。

 だからこそ、世間では、店を開けているパチンコ屋に非難が集中する。言っていることはもっともなことを言っているのだ。確かに、諸事情を加味しないで考えるとするならばであるが、休業要請が出ているにも関わらず、開けている店が悪いというのは確かであるし、そのせいで、余計に依存症の連中を煽る形で、社会問題となったのは、パチンコ屋側にも問題があるのだろうが、一番悪いのは、

「煽った連中だ」

 と言えるのではないだろうか。

 つまりは、

「過剰な報道で、世間を洗脳したマスゴミ」

 というものであり、

「何ら事情も分からずに、無責任に騒ぎ立てるだけのSNSにおける誹謗中傷などが、余計に世間を煽り、社会問題としてしまったことが大きいのではないだろうか?」

 と言えるだろう。

 マスゴミというのは、このようなことは今に始まったものではない。しかし、SNSというのは、ここ十年の間に急速に普及してきたもので、それが今回の問題をさらに大きくしたのだった。

 これを、

「自粛警察」

 というのであり、それらが、さらに事件を大きくしていることを誰が想像できたというのだろうか?

 ここ最近言われるようになったことではあるが、実際には、ここ20年くらいの間に注目されるようになった犯罪として、

「劇場型犯罪」

 というものがある。

 これは、実は戦後の混乱であったり、探偵小説などのネタになったり、学生運動の時期においての、作家の割腹自殺などのような時代もあったが、それとすべてが同じだというわけではないだろうが、同じような事件であるということが分かっているのだった。

 そんな、

「劇場型犯罪」

 が、こんな間近で起こることになるなど、佐和子には分からなかったのだ。

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