第5話 民主国家

 そんな時代において、アーバーウーツなどの宅配が流行るのは、当たり前のことで、

「自粛期間中、買い物に行くのも憚るくらいで、食材を買いにいけないのであれば、宅配を頼むしかない」

 と考えるのは当たり前のことで、どうしても、それだけ配達員が、道路を縦横無尽に走っているのだ。

 もちろん、キチンとルールを守って配達している人は山ほどいるだろう。

 しかし、ごく一部の、不心得の人たちが、迷惑をかけるのだ。

 道を歩いて、

「危ない」

 と思ったことが一度でもある人がどれくらいいるのか、想像しているよりも、きっと確率は高いものではないかと思えるのだった。

 これは、タバコの不心得者にも言えることで、今の世の中、

「タバコを吸っているのを見られるだけで、罪人のような目で見る人がいる」

 当然、ちゃんとルールを守っている人間からすれば、理不尽で仕方がないのだが、一人でも不心得者がいれば、それだけで、

「タバコを吸っている皆がマナーが悪い」

 とみられてしまうのだ。

「そんなのは理不尽だ」

 と思うだろう。

 しかし、それが事実なのであり、本来マナーを守って吸っている人が怒りの矛先を向けなければいけないのは、

「ルールを守ることのできない連中」

 なのである。

 そのことも分かっている人も多いだろう。

 だから、

「マナーを守れない連中は、禁煙者だけではなく、ルールを守って吸っている人からも嫌われている」

 ということになる。

 だから、数字はかなりいい加減で、まったく信憑性のないものだと思ってもらいたいのでだが、

「マナーを守らずに吸っている人間が、人口の1%であったとすれば、喫煙者が3割だったとして、普通に考えれば、禁煙車の7割が敵だということになる」

 と言えるだろう。

 しかし実際には、ルールを守って吸っている29%の人も結果としては敵だということになる。しかも、その憎しみは7割よりも大きい。

 となると、敵は自分たち以外の99%ということになり、

「自分たちの99倍の人が怒っているのと同じで、100人の中で自分一人だけが、賛成していることになる」

 ということで、それこそ、

「国際連盟を脱退することになった、満州国の承認に対しての決」

 のようなものだといえるのではないだろうか。

 しかも、大義名分は敵方にあるのだ。どんなに抵抗しても、逆らえるわけはない。それが、民主主義というものでもあるのだ。

 このことは理屈では分かっていることだろう。

 しかし、誰もが分かっていない。

 というのも、

「本当の敵は、ルールを守って吸っている人たちからも、敵だと思われている」

 ということであった。

 どうせ、ルールも守れないような連中は、

「他の喫煙者も自分の気持ちが分かってくれる」

 とでも思っているのかも知れない。

 しかし、そんなバカなことはないのだ。

 つまりは、自分たちは、

「3:7」

 だと思っているのだ。

 そもそも、過半数にも満たないくせに、それでも、

「自分たちの味方が3割いる」

 とばかりに、気を強く持っているのだろう。

 一番の敵を、味方だと思っているというほど、これほど、

「お花畑にいる」

 という感覚であるということもないだろう。

 もし、これが戦であれば、最初は、味方のふりをしている連中が自分の中に、29%いるということになる、しかし、実際に戦が始まれば、その連中は、先陣を切って敵に突っ込んでいったと思うと、急に踵を返し、こちらに先陣として突っ込んでくるのだ。

 もちろん、自分を守ってくれていると思っていた兵が、急にこちらに槍を向け、身動きができないようにしておいて、たった一人に、全員で襲い掛かってくるのだった。

「一匹のウサギに、ライオンは必死に向かってくる」

 というが、まさにその通りであろう。

 特に先陣を切って切り出した連中は、一番自分を憎んでいる連中である。その形相はすさまじいに違いない。

「お前たち、俺の仲間ではなかったのか? 卑怯だぞ」

 というとすると、彼らは自分たちの言い分を述べるだろう。

「何いってやがるんだ。お前がルームを守らないせいで、真面目にタバコを吸いながらでも、肩身の狭くなりながらタバコを吸ってきたのに、お前のせいで、それすら怪しきなってくる。全部お前のせいではないか」

 ということだろう。

 その時、責められたルールを守れない人間が、やっと気が付いたのであれば、まだ救いようがあるだろう。

 しかし、たぶん、自分の権利だけを主張して、ルールなんか、どうでもいいと思っているやつに、反省という言葉が当て嵌まるかどうか、怪しいものである。

 だからこそ、

「俺たちは、ここで活躍しないと、禁煙車から、お前の仲間なんだといって、村八分にされかねないんだ。だから、お前の首を持っていかないと、俺たちが危ないんだ」

 というだろう。

 そうなると、きっと捉えられた男は、顔面蒼白になり、

「もうダメだ」

 と思うことだろう。

 そして、顔面蒼白になりながら、

「頼む助けてくれ。俺は死にたくない」

 といって、必死になってすがって助けを乞うことだろう。

 しかし、これが武士の世界であれば、そんな男のいうことを誰が聞くというのか?

「お前は、武士として恥ずかしくないのか? せめて、処刑は嫌なので、切腹にしてくれとかいう気概もないのか」

 となじることだろう。

 すると、男は、もう恥も外聞もないと思っているのだから、さらに必死になってすがり、

「そんなこというなよ。仲間じゃないか」

 といって、仲間意識を駆り立てることで、助けを乞うに違いない。

 だが、取り囲んでいる連中は、明らかに冷静だった。男もそれを分かっているだけに、何とかそれでもすがるしかないのだ。

 だが、何を言っても逆効果である。

「仲間じゃないか?」

 という言葉は、却って、取り囲んでいる連中の気持ちを逆撫でする。

「仲間だと? 仲間だと思っているのなら、なんで俺たちがやっていることに少しでも注目しないんだ? 注目しないから、分からないのであり、お前だけが孤立してしまって、そのストレスを禁煙者に向けた? 俺たちが味方をしてくれているとでも思ったのか? 俺たちは、確かに理不尽だと思ってはいるが、それでも、まわりに迷惑をかけてはいけないんだ。人が生きていくうえで、何もタバコだけの問題じゃないだろう? 他にももっと大切なことがあるんだ。だからこそ、そのことをしっかり分かっていて、自分の身の振り方を一人一人考えたんだ。別に俺たちは最初から示し合わせていたわけではない。結果として、まわりに気を遣うことを選んだんだ。お前以外はな」

 というのだ。

 それを聴いて、男は、身体から力が抜けていくのを感じた。

 完全に観念しているということは分かっている。だからと言って、許すわけにはいかない。それが、武士の世界というものだ。

 男は、結局、その場で首を切られることはなく、連行された。

 いずれは、獄門台に晒されるということになるのだろうが、その時点ではお話は終わりであった。

 これは、中学生の時に、

「ルールを守る」

 という授業を、ホームルームでやった時、このような話になったというのを思い出した。

 佐和子は、その時の思いを今でも忘れない。

「確かにルールを守らせるには、説得力があることなのかも知れない」

 と感じたのだ。

 だが、時期的に思春期という実に曖昧な精神状態の子供に、理解することができる人がどれくらいいるだろうか?

「全員などということはありえないけど、半分くらいは、理解してくれればいいんだけどな」

 と、先生は思っていたことだろう。

 何しろ、

「民主主義の世の中で、民主主義の基本は、多数決だ」

 ということだからである。

 それを聞かされて、

「なんて理不尽なんだ?」

 と思っている人は少なくもないだろう。

「51:49」

 であれば、51の方が勝ちなのだ。

 それは、

「99:1」

 であっても同じことであり、勝ち負けだけに限定すれば、相手よりも、数が多ければ、それでいいということだ。

 もちろん、これは、二人による決戦である場合は分かりやすいが、いくつかの候補があり、その中で決める場合は、民主主義の場合には、いろいろな決め方があったりする。

 普通であれば、

「いくつ候補があっても、その中で一番の得票を取った人が、文句なしに当選だ」

 ということであれば分かりやすいが、他のやり方もあったりする。

 たとえば、

「もし、トップを取った人が、50%以上であれば、文句なしに当選となるのだが、もし、トップが過半数に満たなかったら、1位と2位とで決選投票ということになる」

 というやり方もある。

 一見不公平に見えるようだが、それは、

「当選者が、過半数に満たなくて、候補者が多くて、しかも、当選ラインがかなり低く、拮抗しているとすれば、

「本当に一回の投票で当選させてもいいのだろうか?」

 ということになる。

 これは、確かに当然するには当選したが、この支持率の低さから、

「任せてもいいものだろうか?」

 と考えるのだ。

 しかし、もう一度、上位二人で決選投票をすれば、自分が最初に支持したのがその二人であれば、票を変えることはないだろうが、他の人を支持していた人が、今度はこの二人にしか権利がないとすれば、どちらに投票するかというのは、ある意味重要になってくる。

 これが、

「民主主義の考え方だ」

 と言えるのではないだろうか?

 それを思うと、このやり方は、やり方としては、公平だともいえるだろう。

 だから、このやり方をする選挙などの場合は、

「あらかじめ、決選投票になった時を見越して、少数派層お取込みというものを、いかに根回ししておくか?」

 ということが重要になってくる。

 これもある意味、闘い方であり。選挙にて選ぼうとしているものが、

「政治家」

 ということであれば、

「政治家というものは、選挙戦を勝ち残ってくることからが、政治家の意義だ」

 と言えるのではないだろうか。

「根回しもできないくせに、選挙で勝って議員になったとしても、その人の実力は、たかが知れている」

 といってもいいのではないだろうか?

 それを思うと、

「決選投票をする方が、民主的だ」

 と言えるのではないだろうか?

 そんな民主国家で、ルールを守る人はほとんどであろう。それだけの教育を受けてきているからである。

 そして、法律、ルール、さらに、モラルというものを段階をつけて理解もしているのが普通だということだ。

 戦後すぐまでは、それらは、国家の締め付けで決まっていた。何といっても、

「帝国主義」

 だったわけで、国家元首は天皇であり、天皇は家族も同様、

「天皇を守るために、国民は命を捧げる」

 という意識が当たり前だった時代があった。

 今の発想とはまったく逆である。

 しかし、そんな時代から、民主主義の時代へと変わった。

 民主主義の基本は、自由と平等だといえるのではないだろうか?

 だからこそ、強制してはいけないのが自由であり、何かを決める時には、

「多数決」

 を使うことが、平等だというわけである。

 だから、そこに弊害も起きてくる。

「自由であろうが、何であろうが、そこには競争が起こってくるのは、必定である」

 ということが言えるだろう。

 自由競争と行うと、そこに出てくる弊害の一番大きなものは、

「格差社会」

 というものである。

 一歩間違うと、平等という概念が脅かされるもので、自由競争によって、現れてきたものは、企業の格差、そして、貧富の差、さらには、それら企業が成長するための新たな力を育成するための、教育現場での格差。

 それが、顕著になったのが、1970年代からの、

「受験戦争」

 というものであろう。

 アメリカやヨーロッパなどの大学と違い、

「日本の大学は、入学するには、相当な受験勉強をしなければいけないが、卒業はそれほどでもない」

 と言われている。

 欧米は逆であった。

「入学はそこまで難しくはないが、卒業するのが難しい」

 と言われる。

 それだけ大学というところは、日本と違って、

「本当にやる気があって、真剣に大学の授業に向き合って勉強しないといけないところなのだ」

 ということであろう。

 そういう意味で、日本という国には、有事というものはなく、戦争は憲法で放棄するということになっている。

 憲法ができた時から、ずっと言われている、

「戦争放棄の条文の問題」

 今では、世界情勢の問題も絡むことで、

「憲法改正」

 が叫ばれているが、どこまで踏み込めるのか?

 この問題に一番躍起だった、元ソーリが亡くなったことで、少しトーンダウンしたのも仕方がないといえるだろう。

 そんな時代において、実際の

「武器を使って行う戦争」

 というわけではなく、受験戦争のような、

「精神的な戦争」

 というものは、日本人は、子供の頃から背負わされていることになる。

 しかも、それが、

「日本に、民主主義というものを押し付けた欧米によるものだ」

 というのも皮肉なことではないだろうか。

 そもそも、大日本帝国時代も、

「民主主義」

 という考えもあった。

 すべてにおいて、天皇の独断で国の方針が決まっていたわけではなく、あくまでも日本という国は、憲法があり、その憲法に則った国なのだ。いくら天皇とはいえ、憲法に逆らうことはできない。それが、大日本帝国が、

「立憲君主の国だ」

 ということだ。

 そういう意味では、独裁者と言われる人間が統治しているところは、

「専制君主国家」

 と呼ぶ、大日本帝国はそういう国家とは違った。

 だが、いざ戦争ともなると、そうも言っていられない。

 戦争遂行のためには、プロパガンダや、マインドコントロールによって、国民の気持ちを一つにしないといけない。

 情報統制もその一つだし、治安維持法などという悪法も、当時としては、

「しょうがない」

 といってもよかったのかも知れない。

 そんなことを考えていると、天皇による、立憲君主であれば、平等だったともいえるだろう。ただ、そこには自由はなく、生存維持ということを目的とした、

「国家総動員」

 という発想が不可欠になる。

 もっとも、時代が時代であったというのもあるだろう。

「欧米列強による、植民地化を防ぐ」

 というのが、ペリー来航から続く、諸外国に対しての取り組みだったので、大日本帝国という国の存在意義も、そこから始まり、結局、そのスローガンで終わったのかも知れない。

 もちろん、極端な言い方ではあるが、それは今という世の中が、大日本帝国とはまったく違う国だったからである。今のような、戦争というと、

「受験戦争」

「交通戦争」

「企業による生き残り戦争」

 などという疑似表現に尽きる国になったのだった。

 そんな国になって、

「民主主義の矛盾」

 というのも、浮き彫りにされてきた。

 もっとも、これらの、

「自由と平等の矛盾」

 というのは、昔からいわれてきたことだった。

 それに対しての発想が、

「社会主義」

 であり、

「共産主義」

 という発想だった。

 民主主義のように、

「強制せずに自由に競争をさせ、そこに、国家がなるべく介入しないということになると、前述のような、貧富の差というような格差社会となってくる」

 という発想で、

「自由をとれば、平等が犠牲になる」

 という問題があった。

 そこで、考えられたものが、共産主義、社会主義であった。

 皆が平等に給料をもらえ、貧富の差をなくすため、どうしても、強制力が必要となる。その強制力を誰が持つのかというと、それが国家であった。

 国家が、社会をコントロールする。つまり、市民生活から、国家が介入するということである。

 だから、共産主義社会は、ほとんどが、国営だということになる。

 国家に権力や強制力が集中する。いや、国家というよりも、国家元首に集中すると言った方がいいだろう。

 そうなってくると、国家というものは、さらに独裁色を表す象徴となり、

「国家元首による独裁」

 という考え方を作ることになる。

 同じ独裁でも、ヒトラーのように、民主国家の中で、民衆の心をつかむことに成功し、国民を、独裁国家に引き込むための、時代背景や国家事情という後ろ盾があり、まんまと国家を自分のものとしたという例もあれば、ソ連のように、

「社会主義国家として、国家に権力が集中し、労働者の中から生まれた国家は、強力な強制力を持つ」

 ということでの独裁化ということで、同じ独裁国家でも、その成り立ちは違っていたのだ。

 ヒトラーは、当初スターリンと同盟を結んでいた。

 元々は、

「共産主義は一番の敵だ」

 と言っていたにも関わらずである。

 独ソ不可侵条約が結ばれた時、時の首相に、

「ヨーロッパは、不可解千万」

 と言わせただけのことはあるというものだ。

 ただ、それはあくまでも、主義に関係なく、自分たちの利害関係だけに基づいた条約だったのだ。

 だから、ドイツは数年で、不可侵条約を一方的に破棄し、ソ連に攻め込むという暴挙を行うことになるのだ。

 ただ、ヒトラーという男はバカではない。結構過去の教訓も持っていたはずなのに、なぜナポレオンと同じ道を、そして、第一次大戦での敗北の原因となった、東西での同時戦線ということを、やってのけようとしたのか、それだけ自分に、いや、ドイツという国家に自信を持っていたということであろうか?

 それを思うと、主義というものは、

「時代によって、いろいろな解釈ができる」

 と言えるだろう。

 日本において、発展してきたはずの民主主義、気が付けば、迷走している。

「自由」

 というのをはき違えて、個人の自由を高らかに謳い始めると、そこには、

「力の強い者が勝つ」

 という競争の理論があり、そもそも、その競争を煽ったのが、

「自由」

 という考え方ではなかったか。

 それを思うと、

「法律、ルール、モラル」

 それらの境界線が見えているのか見えないのかが分からなくなってくるというものなのだろう。

「法律であれば、守らなければならないが、ルールやモラルに関してはそんなことはない」

 と思っている人が、今は若者を中心にほとんどであろう。

 なぜかというと、

「法律には、罰則があるからだ」

 という、目に見えたものがあるからだった。

 例えば、

「人を殺せば、警察で取り調べを受け、裁判に掛けられ、有罪となると、懲役刑が待っている」

 しかも、前科がつくことで、それが、一生付きまとい、江戸時代の犯罪者が身体にまとわされた、

「罪人という烙印」

 を、情報共有という形で、データ化されることで、完全に生きている間、付きまとってくるのだ。

 だから、法律を犯すようなことは、よほどのことがなければないのだろうが、その割に、毎日のように世間を騒がせている事件が多いというのは、

「それだけ人口が多い」

 というだけで片付けられるものではないのかも知れない。

 そんなことを考えていると、何をどう考えればいいのか、どうしても、紆余曲折してくる。

 自由というのは、自分を束縛するものが、少ないということであり、それは、裏を返せば、すべてのことにおいて、

「自己責任」

 ということだ。

 国家や法律は、決まったこと以外に介入することはない。だから、流動的である、民事に対しては、警察は不介入だったりするのだ。

 そんな民主国家の弊害が、自分たちの気づかないところで、いろいろな事件の芽を生み出しているのかも知れない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る