第3話 佐和子の成長
「さすがに電車に飛び込んで死んだ人を見ると、少しは自転車を運転する人も気を付けるのではないだろうか?」
とは思うが、実際に見ると、トラウマになるだろう。
しかし、それくらいのショックがなければ、自転車の無謀運転は亡くならないかも知れないとも思う。
考えてみれば、運転講習などのビデオでは、必ず、事故の悲惨な写真を見せたり、事故を起こしてしまったドライバーの反省の肉声を載せたりしているではないか。
普通の優良ドライバーであれば、
「こんなものを見せられて」
と思うのだろうが、それだけの衝撃を与えないと、分からない人がいるということになるのだろう。
そう思うと、本来であれば、
「加害者になりそうな人に、恐怖の体験をさせるくらいのことがあってもいいのではないだろうか?」
とも思える。
教習上のようなところに縛られて、車をギリギリのところで止めるなどのような恐怖体験をさせないといけないほど、人間の感覚は、マヒしてしまっているのであり、本来なら、本能で感じなければいけないところを感じないままに、やり過ごすなどというようなことが、実際に起こっているのだろう。
確かに、
「恐怖政治」
のようなことはいけないのかも知れない。
それこそ、独裁政治や、軍事政権などのように、
「力で押さえつける」
というようなやり方は、悲劇を生むのだろうが、それをしないことによって、善良な人が被害に遭うというのであれば、それこそ本末転倒だといってもいいのではないか。
そんな中で、もう一つの手段としては、
「事故の場面を見せつけられる」
というのが一番なのだろう。
もちろん、それだけのために、誰かを犠牲にするなど、これこそ本末転倒であるが、例えば、轢かれるのが、ロボットやサイボーグのようなものであれば、少しはリアルになるかも知れない。
これは、あまり知られているわけではないが、実際に、
「事故のシーンをリアルに見せる」
という意味での、ロボット開発が進められているという話を聞かされたことがあった。
どこまでが本当のことなのか分からないが、実際に研究されているというのは、ウワサとして聞いたことがあった、
それを聞いたのは、
「警察に知り合いがいる」
と言っていた人だったので、信憑性がないわけではない。
わざわざ人を欺くのに、こんな、わかりやすくウソかも知れないと思われるであろうに、普通なら考えないような発想を思いつくということにギャップがあり、考えられないことでもないような気がしたのだった。
特に、最近の自転車問題など、
「自転車だったら、リアルにできるかも知れない」
ということで、スタントマンを使っての、
「事故再現ドラマ」
のようなものを作成しているということなのだろうか?
確かに、ビデオだと、
「静止画」
になって、白黒だったする。
だが、逆も真なりで、
「モノクロだったり、静止画の方が、却ってリアルに思える」
ということで、血糊も、色がついているよりも、モノクロの方がリアルで、気持ち悪いように思えるのは、自分だけなのだろうかと思うのだった。
そんな再現シーンを子供の頃、学校の特別授業として見せられて、トラウマになったのが、佐和子だった。
小学生の5年生くらいの頃だったか、学校の行動に、5年生が集められ、
「警察による特別授業」
と称して、
「交通安全教室」
が催されたのだった。
最初は、婦人警官であったり、男性の私服警官が、交通事故を目撃した時にどうすればいいかなどということを、実演してくれた。救護なども説明していたが、
「小学生にそんなことをいったって分からない」
と思っていたのだが、それを見越したか。
「皆さんは、さすがにここまでのことを覚える必要は、今のところありません。事故に遭った人を救護するには、このようにするのだということを目で見てくれていれば、それでいいですからね」
ということであった。
「そういうことなら」
と、佐和子は、じっくりと見ていたが、一連の講習が終わった後、
「これから皆さんに、ビデオを見ていただきます。事故現場などの少し生々しい場面もありますが、できれば、目をそらさずに見ていただければいいかと思います。ハンドルを握る人は皆いい人ばかりとは限りません。歩行者も、それなりに、気を付けていてくれることが、招かなくてもいい事故を防ぐことになります」
といって、室内が暗くなり、ビデオが流れた。
そこには、事故の散々たる様子が映し出された。事故現場などは、スライド形式だった。しかも、モノクロだっただけに、余計に、不気味さを感じさせられ、けが人の様子が映っていなかっただけマシだったが、それでも、車が大破していたりするのを見るのは、衝撃だったのだ。
親も車を運転するので、それを思うとゾッとしてしまった。時々、急に大げさな考え方を抱くことのある佐和子は、ちょうどその時、そのくせが出てしまったのだろう。
何とも不気味でゾッとしてきたかと思うと、急に身体が震え始めていた。
「一体、どうしたんだろう? 私は」
と思ったが、震えはすぐには止まらない。
だが、ゾクゾクがさらにひどくなってくるのを感じると、急に身体が反応して、椅子を後ろに倒すようにして、立ち上がった。
椅子が、
「ガタン」
という音を立てて、後ろに倒れた。
「どうしたんだ?」
と先生がいうのが早いか、意識が遠のいていく中で、まわりのざわめきも、ほぼ同時に聞こえてきた。
「沢村?」
と先生が叫んで近寄ってきていると思ったが、次の瞬間は、どこかのベッドの上で寝ているところだった。
どれくらい時間が経ったのか分からないが、時間が進んだことは確かだろう。
しかし、自覚はまったくなく、気が付けば、頭が少し重たくて、身体を動かすのが、億劫だったのだ。
「タイムマシンに乗ったら、こんな感じなのかしら?」
と、時々、SF小説を読むのが好きだった佐和子は、小学生にしては、ませていたといってもいいだろう。
身体を起こしたのに気づいたのか、
「大丈夫?」
と女の人の声が聞こえた。
その声は、保健室の先生の声で、椅子に座って、何かを書いていたようだったが、きっと自分の仕事をしていたのだろう。
「私どうしたのかしら?」
というと、
「気を失って、運ばれてきたのよ。だいぶ顔色もよくなったみたいなので、もうこれで大丈夫ね」
と先生はいったのだ。
「ありがとうございます」
といって、頭を下げた。
その時、ただ気を失っただけのはずだったのに、何か、気持ちの悪いものを見たような気がした。それが何だったのか、目が覚めるにしたがって分からなくなってきたのだが、それを、
「まるで、夢を見ているかのようだ」
と思ったのも、半分当たっているような気がした。
意識を失った時と、夢を見ている時、その入り口は違っても、意識を取り戻す時の出口というものに、変わりはないのだろう。
夢というのは、毎日見ているのかと、いつ頃かまでは思っていた。しかし、どこかで、
「夢を見ていない時の方がむしろ多いように思う」
と感じるようになった。
だが、今度は、またある時に、
「夢は本当は毎日見ていて、ただ、それを目が覚めるにしたがって、忘れていくのではないだろうか?」
と感じるようになっていた。
ただ、この意識に信憑性はない。なぜなら、
「それまでずっと思っていたことを覆すには、それだけの理由がなければいけない」
というものだった、
その理由というのは、一種の、
「大義名分」
とでもいえることでなければいけないのではないだろうか?
そうでもなければ、意識を急に変えることを、自分自身が許さない気がするのだ。だが、今から思い出そうとしても、その、
「大義名分」
が見つからない。
ということは、その大義名分を思い出すためには、他に理由がなければいけない。
それを考えると、
「大義名分は、複数あったのではないか?」
と考えるのだ。
大義名分というものが、何も一つである必要はない。それを思うと、
「何も急いで思い出す必要もない」
と思えてきたのだった。
ただ、2回目の、大義名分によって、考えが変わったというのは、まだ小学生の頃だったような気がする。それ以降、また考えが変わるということはなかったので、夢に関しての自己意識は、
「小学生の頃には確立していた」
といってもいいだろう。
だから、逆に、大義名分ができたとすれば、ひょっとすると、この時だったのかも知れない。
起きている時、今回は完全にまわりに見られていたことで、自分が気を失う時が分かった。
いや、まわりに見られているという意識があったことで、気を失うという意識を抱いたまま気を失ったのかも知れない。
ということは、
「気を失う」
という意識がない時には、まわりの目を意識することなく、気が付けば機を失ってしまっていたのだろう。
だから、目が覚めても、時間だけが進んでいて、気を失っていたという時間を感じないのだろう。
そういえば、時間が思ったよりも早く進んでいるということが頻発したことがある、
確かに、
「楽しいと思う時は時間があっという間に過ぎ、辛いや苦しいと思っている時は、時間がなかなか過ぎてくれない」
とよく言われるが、まさにその通りだと思っていたが、本当に時間があっという間に過ぎることがあった時、偶然なのか、それとも、気を失った時が、そういう時だという必然なのか、意識を失っていた時のことだったのかも知れない。
それを考えていると、大義名分とは、
「何か楽しいことを考えている時だ」
と言えるのではないだろうか?
それ以外にも実際にはあり、それをいまだ意識することはなかった。
だが、
「気持ちの悪いものを見た時、気を失う」
というのが当たり前のことだと思っていたので、それ以外にも、自分の意識の中に存在しているものがあるのではないかと感じるのだった。
それから少しして、佐和子は、初潮を迎えた。
「私も大人の身体になっていくのかしら?」
と、最初はビックリしたが、本などでそれくらいの知識は持っていた。
学校で、先生が女子だけを集めて、
「女性の身体」
というものについて話をしてくれた時、
「そんなこと、すでに知っているわ」
とばかりに、素通りに近い感覚で聞いていた佐和子だったが、まわりを見ていると、ことの他皆必死で聞いているので、
「私も知らなかったら、あんな感じになるのかしらね?」
と思うのだった。
佐和子はそれほどませた女の子というわけではなかったと、自分では思っていたが、本当は、いろいろなことに興味津々だったのかも知れない。
中学生になってからの佐和子は、初潮を迎え、
「大人の身体になってきたのかな?」
と感じた時よりも、変調が起こりやすくなってきた。
「精神的なものかしら?」
と感じるようになったのだが、中学生になって、それまでと一番大きな違いが何かということを考えていると、
「男の子の視線を変に感じるようになった」
ということだった。
当然、女子が思春期を迎えたのだから、男子だって迎えるのも当たり前のことで、その意識はしていたはずなのに、いざ視線を浴びると、自分の身体が、どこか反応しているということを感じてしまう。
男子の視線が気持ち悪いと思ったのは、中学時代までのことだった。
自分が高校生になると、今度は男子の視線を受けることで、自分の身体が、心地よく反応していることに気が付いた。
その思いが、
「男性を求めている?」
と感じるようになったのは、当時、友達だと思っていた、中学時代からずっと、同じ学校に通っていた男の子からだった。
その子は、中学時代、佐和子の方が好きだった。他の男の子とどこかが違っていて、ただ、どこがどう違うのかということを説明しなさいと言われると、その理由について答えることができないという思いが強かった。
そういう意味で、中学時代に他の男の子は意識しなかった。
「男性として見ていなかった」
といってもいいかも知れない。
だから、男性として見ていたのは、彼だけだったのだが、だからと言って、いやらしい目で見ていたというわけではなかった。
自分がそう思い込んでいるだけなのかも知れないが、少し違うように思えてならなかったのだ。
小学生の頃は、
「ませていた」
といってもいいくらいの女の子だった佐和子であったが、中学に入ると、今度は晩生になってきて、特に男性とのことに関しては、次第に意識がなくなってきた。
かといって、好奇心がなくなってきたというわけではない。男性に対しても好奇心がないわけではなかったのだが、
「男性として意識する相手がいなかった」
というのが、本音だったのだろう。
最初はそれを、好奇心がなくなってしまったかのようで、気になっていたが、後になって思い出せば、気が付けば、気になる男の子がいたわけで、徐々に意識が強まっていったのだが、それが、最初からだったのではないかと思うと、それまでの思いと重なって、
「本当に彼のことが好きなのだろうか?」
と一足飛びに、恋愛感情と結びつけてしまったことで、行き過ぎた感情に、またしても、足踏みをしてしまい、それ以上の感情を抱かないように、自分で、感情をセーブするようになったのだった。
その思いは、あくまでも、自分の中にあるもので、人から言われて感じるものではないと思うのだった。
さて、高校生になると、今度は、それまでと違い、男子が気になって仕方がなくなっていた。
身体が勝手に反応するのだ。
恥ずかしくて、他の人に言えるわけもなく、一人で悶々としている。
男子を好きになるのだが、いったい誰が好きなのかが分からない。誰かを好きだという感覚はあるのだが、相手が見えてこないというのは、これほどもどかしいことはないと思ったのだ。
誰のことを好きになったとしても、自分で抑えることができないと思っているくせに、「どこまでが肉体的な感覚で、どこからが精神的な感情なのか分からない」
と思うのだった。
自分の中で分かっていることは、
「まず、肉体的に身体が反応して、ムズムズした気持ちになり、次第にそれが精神的なものに変わり、ムズムズが悶々とした気持ちに変わっていくのだろう」
というものだった。
そしてその時、
「精神的なことに移行しても、肉体的なムズムズが収まるわけではないようだ」
と感じた。
思いが強くなると思うのは、
「最初は肉体だけだったものに、精神的な感覚が加わり、単純に倍というわけではないのだろうが、少なくとも意識するほどに、感情が高ぶってくるものではないだろうか?」
と思えたのだ。
しかし、その時に感じるのは、
「相手がハッキリしないと、これほど悶々とした気持ちはない」
というものだった。
最初の肉体的なムズムズを抑えるにはどうしたらいいのか、最初は分からなかったが、
「自慰行為」
というのを覚えてからは、まるで、
「動物の営み」
とでもいうような感覚で、自慰行為にふけっていた。
「これが本能というものなのかしら?」
と思い、一度でまだムズムズする時は、我慢することなく、解消されるまでしていたのだ。
そこで解消されれば、精神的な悶々というのは、その時はなくなる。
だが、だからと言って、スッキリしたわけではない。
「おかしいわ。これでスッキリしないというのは、どういうことなのかしらね?」
と思うのだが、一つ思ったのが、
「自慰行為の時、誰か男性の顔が浮かんでくるわけではないからなのかしら?」
と思った。
男性に抱かれるという妄想が、自慰行為の
「おかず」
なのだが、自分を抱いてくれるその男性の顔がいつもハッキリとしない。
口元だけ、嫌らしく歪んでいるというのは分かるのだが、目も鼻も、まったく分からないのだ。
だが、高校生になると、その目がうっすらと分かるようになってきた。そして、その頃から、自慰行為でスッキリとしたはずなのに、精神的な悶々とした思いは、消えることはなかった。
「私、性欲が強くなったのかしら?」
と、恥ずかしく思うのだったが、考えてみれば、自慰行為をする時点で、恥じらいを感じるというのは、おかしなものだったのだ。
自分の性欲を抑えるのに、他に方法があるわけではなかった。そう思っているのは、
「自慰行為にふけっていたからではないだろうか?」
と思うのは、
「それだけ、自分が内に籠っていたからなのかも知れない」
と感じるようになっていた。
「大人というものに手が届く」
という意識を持つようになったが、
「近いのに、届きそうで届かない」
と感じるようになったことが、高校時代という時期の自分だったのかも知れないと感じるのだった。
「一番性欲が強い時期だ」
というのは、ウソではないだろう。
しかし、逆にいえば、
「誰か決まった相手とつき合いたい」
という思いが強くなったということだろう。
中学時代は、惰性アイドルに憧れ、いわゆる、
「推し」
というものになっていたことで、自分の欲しているものが、
「憧れの相手」
だと思うことで、自分に特定の彼氏がほしいなどという感覚はなかったのだった。
アイドルというのは、あくまでも、
「媒体を通してしか会うことのできない相手で、もし近くにいたとしても、決して触れることのできないもので、それだけに、今よりももっともどかしい」
と思うようになっていた。
それを分かっているのに、どうして自分がアイドルに憧れるのか、その時は分からなかった。
しかし、高校生になって感じたのは、
「一人の誰かを好きになるということを意識しないようにできる」
ということの裏返しではないか?
と感じるのが、理由ではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「やっぱり、彼氏というものが私には必要なのかも知れない」
という、どこか他人事に感じられるような思いが強かったのだった。
高校生になって、その子を意識するようになったのは、彼の視線を感じるようになったからだ。
「待って、何この感覚は?」
と最初は、その視線の意味が分からなかった。
だが、後になって彼がいうには、
「何いってるんだよ。視線を向けてきたのは、君の方だったじゃないか?」
と言われた。
最初は、
「彼も恥ずかしいから、私のせいにしようとしているのではないか?」
と思ったのだが、どうもそうでもないと、佐和子の方も感じるようになったのだった。
佐和子が、その彼のことを意識した時、すでに彼は、自分に話しかけようかどうか迷って、決心を固めた時だったという。
つまり、
「顔を向ければ、そこに、彼の顔があった」
ということだったのだ。
彼の顔が目の前にあるというのは、自分でも意識していたわけではなく、まるで、出会い頭のようだった。
だからこそ、気持ちが昂り、目の前に顔があることで、最高のエクスタシーを感じているように思うのだった。
「彼とは、相思相愛だったんだ」
と、佐和子はすぐに感じた。
しかし、彼は、もっと冷静な目で見ていたようで、相思相愛だったのではないかということを彼にいうと、
「そうだね」
とは口でいうのだったが、その奥に何か、違和感があるのを佐和子は見逃さなかった。
「相思相愛というよりも、どちらかの意識が強かったことで、それが相乗効果になったと言った方がいいような気がするんだ」
と彼は言った。
佐和子は、彼のその言葉に急に冷たさを感じたが、それは一瞬だった。
むしろ、
「同じようなことを考えていたということなのかしら?」
と感じると、まさにそこに、二人の間の絆のようなものが、次第に、恋愛感情に結びついたという、ある意味、当たり前のことであるにも関わらず、当たり前のことだけに、それを貫くことが、本当は難しいのではないかと感じるようになったのだ。
佐和子が、男の子と一緒にいることで、何が楽しいのかということを、恋愛感情に結び付けたのを、理屈で考えようとした自分が、余計に、
「肉体から、精神に移っていくのが性欲というものだ」
という基本的な考えに行き着いたように思えたのだ。
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