第2話 自転車走行可?

 そんな国民が、あるいは政府がバカだということを、マスゴミもさらに、切り取って報道するから、もう収拾がつかなくなってくる。

 だから、おかしな連中が出てきても、感覚がマヒしているのか、マスゴミが取り上げるのはいいのだが、結局は他人事、煽るだけ煽るのだが、それも、しょせん、自分たちの記事が売れるかどうかということだけに掛かっているのだ。

 マスゴミは、昔からそうだ。

 事実関係だけを追いかけて、中には被害者が悲惨な目に遭っていることを、客観的に報道しなければいけないのに、どこか一方にだけ加担する形になり、さらには、自分たちは蚊帳の外で、客観的に描けばいいものを、

「ただの、他人事」

 という風に煽るのだから、始末に悪い。

 それが、

「マスゴミ」

 と言われるゆえんなのであろう。

 特にマスゴミの罪は、

「話題になる時は徹底的に煽るが、マンネリ化してしまい、記事としての価値が、次第に落ちてくると、もう見向きもしないようになる」

 ということである。

「オオカミが来たとウソをついているうちに、誰も信用してくれなくなった」

 というオオカミ少年と同じではないか?

 ともいえるだろう。

 オオカミ少年になってしまうと、もう誰からも信用されなくなるのだが、マスゴミはそれでもいいということなのだろうか?

「真実を伝える」

 というのが、モットーなはずなのに、

「売れる記事であれば、ウソでも何でもいいから、読者が喜ぶ記事を与えてやればいい」

 と思っているのだろう。

 つまりは、読者は、マスゴミから、

「下に見られている」

 ということである。

「常葉や文字というのは、いくらでも、相手を洗脳できる」

 とでも思っていて、それを裏のスローガンにしているのだとすると、マスゴミは一般市民とは、一線を画したもので、さらに、その先に政府などの政治家がいると思うと、

「政府もマスゴミも敵である」

 と言えるだろう。

 そもそも、政府もマスゴミも、

「国民のためにある」

 あるいは、

「国民のために作られた」

 といってもいいだろう。

 そんなことを考えていると、今回の、

「世界的なパンデミック」

 というのは、一種の

「ノアの箱舟」

 ではないかと言えるのではないだろうか?

 もちろん、亡くなった人には気の毒であるが、

「世の中をただす」

 という意味で、浄化のための大洪水が、今回の、

「パンデミック」

 だとすれば、

「国民を中心に、政府もマスゴミも一丸とならなければいけない」

 ということであろう。

 昔、プロ野球チームが久しぶりに日本一になった時の監督が、

「とにかくチーム一丸となって……」

 という言葉を口にしていたのを思い出した。

 それは、スタッフ、ファンも含めてということで、

「野球にできて、実際の国民生活の危機においてそれができない」

 というのは、本当に情けないことなのであろう。

 チーム一丸どころか、蓋を開けてみれば、そこに見えてくるのは、

「責任のなすりつけ合い」

 だったのだ。

「どうせ、ロクなことにならないのだから、責任を押し付けられても困る」

 という、言い訳の応酬で、そんな状態の国家に、誰が賛同するというのだろうか?

 そんな今の政府、マスゴミ、国民と、それぞれがそれぞれの言い分を言い訳にする。だからこそ、マスゴミも、国民も一部の若い連中などを中心に、

「切り取り解釈」

 というものが、根づいてきたのだろう。

 特に政府の輩、ソーリなどはひどいもので、もうすでに、

「世界的なパンデミック」

 というものを忘れ、

「疲弊した経済をどうするか?」

 ということに関わっている。

 ただ、それも、国民生活のために必要なことだということで解釈をしているとすれば、それは、

「実に綺麗なお花畑しか見えていない」

 ということで、これも結局、都合のいい切り取りである。

 政府が経済に力を入れるのは、

「自分たちの私利私欲を満たしたい」

 というところから来ているのだ。

 経済を復興させると、自分たちに入ってくるであろう、

「甘い汁」

 を吸いやすくなる、

 それだけではなく、商売がうまくいけば、

「政府の政策が成功した」

 ということで、選挙の時の票になるのだ。

 選挙の票は、基本的には、

「金で買えるものではない」

 と言われている。

 実際には、金で買っている場合もあるだろうが、基本は罪になるのだ。

 だが、実績による票であれば、これに超したことはない。

 だから、政府は、経済復興に必死になるのだ。

 もし、失敗でもすれば、そこには、政府批判が巻き起こり、下手をすれば、

「解散総選挙」

 なるものが、任期を待たずにやってくるということになるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「政府が結局は、どうすることもできないので、棚に上げ、票になるということにだけ目を向ける」

 ということになり、

「国民生活など、他人事だ」

 ということになってしまうだろう。

 そんなパンデミックの時代が次第に膠着状態になってくると、パンデミックによって、

「便利だ」

 と言われ、重宝されてきたことが、当時はあまり深堀されなかった、

「裏で起こっていた問題点」

 というものが、やっと浮き彫りになってきた。

 これも、本当は、その時リアルに対策を取っていれば、もっと簡単にことが進んだのかも知れないというのに、蓋を開けてみれば、

「もう、どうすることもできなくなっていた」

 という状態になっていることも少なくなかっただろう。

 アーバーイーツの問題などもその一つで、もちろん、アーバーだけの責任ではないのだろうが、本当はクローズアップされるべき問題であったのを、

「厄介な問題だ」

 ということで、先送りにしてきたことが今では大きな社会問題になってきていたのだった。

 というのが、前述の、

「自転車問題」

 というものであり、

「アーバーの配達員のように、配達時間に遅れたら罰金があるのか、逆に、時間通りにうまく配達できれば、それの継続に応じて、褒美でも出るというのか」

 どちらにしても、会社側の勝手な都合によって、自転車を使っての配達は、縦横無尽で、走行してはいけない歩道を、人のことなどおかまいなしに、猛スピードで走っているのだった。

 マスゴミも、

「毎日毎日パンデミックの話題だけではダメだ」

 ということで、読者が飽きてきたところを見計らうようにして、

「自転車配達の、我が物顔の暴走」

 というような番組を作成する。

 本来であれば、数か月前くらいには、アーバーのような会社のやり方を、

「パンデミック禍においても、逞しく生きる、宅配業界の今」

 などとして、新しい産業が今の時代に合っているということを、誇大宣伝ともいうべきないようで持ち上げておいて、その舌の根も乾かむうちに、今度はその配送の問題を番組にする。

 確かに、街の人の話を聴くと、

「危ない。何度轢かれそうになったか?」

 と、もっともらしいインタビューをしているが、それも、インタビューしたすべての人に対してのものではないだろう。

 危ないということを視聴者に認識させるための、陽動手段でしかないのだ。

 そんなところが、マスゴミの面目躍如というところか、露骨に、

「自分たちさえよければ」

 というところが眼に見えてくるのであった。

 そんなことを考えていると、

「マスゴミというのは、本当に厄介だ」

 というところしか見えなくなるというのが、正直なところだろう。

 あまりにも、あからさまにすることで、いい部分までもが色褪せて見えてきてしまうのだ。

 そう思うと、

「マスゴミは、自分で自分の首を絞めている」

 と思えてくる。

 これが、結局、やつらのやることが、客観的に見ているつもりでいて、そのすべてが、他人事のようにしか見えていないということになるのだ。

「アーバーの配達員がどれほど危険なことをしているのか?」

 というのは、番組から見えてくるのだが、

「それがどれほど危険なことか?」

 ということで、実際の被害について、一切語ろうとしない。

 被害者がいないわけではないのに、やらないということは、そこまで追い詰めてしまっては、アーバーを敵に回すことになってしまい、下手をすると、高校収入も、やつらが手をまわし、マスゴミ相手に、スポンサーとならないというような協定を結べば、マスゴミもどうすることもできないからだ。

 スポンサーも、

「アーバーを敵にまわすわけには」

 ということで、今を時めく業界の寵児のごとく、アーバーは君臨しているといっても過言ではないだろう。

 ただ、被害がないわけではない。実際には、事故が起こって、裁判的なことも多いだろう。

 そんな中で、実際に、

「人を撥ねる」

 という事故が多発しているのも、問題ではあった。

 しかし、自転車には、免許が必要なわけではない。小学生でも、幼稚園生でも、乗れるのなら載っても構わないのだ。

 ただ、あまりにもルールを守らない人が多すぎる。

「自転車は、基本的に、歩道を走ってはいけない」

 ということを認識している人がどれだけいるだろう?

「知ってるよな?」

 と誰かに言われたとすれば、

「あ、ああ、知ってるさ」

 といって、知らなかった場合は、ほとんどごまかすに違いない。

「いや、知らなかったなぁ」

 といって、

「そうか、だったら、教えてあげよう」

 というように言われたとしても、相手は心の奥で、

「なんだ、こいつ、こんなことも知らないで、自転車に乗っていたというのか?」

 ということになるだろう。

 自転車に乗るというのは、大体小学3年生くらいまでには、乗れるようになるもので、乗れるようになると、楽しくなって、少し遠くまで行ってみたいと思うようになるのは必定だろう。

 小学3年生に、交通ルールが分かるわけもない。せめて、信号機の見方だとか、車に気を付けるなどと言ったことは分かるだろうが、

「自転車は、歩道を走らなければいけない」

 ということや、

「車、自転車、歩行者の優先順位などは分かったとしても、実際に事故になったりするとどうなるか?」

 などということが分かるはずもない。

 そういう意味で、

「自転車というのは諸刃の剣のようなものだ」

 と言えるだろう。

 便利であるが、それだけに、危険もはらんでいることが分からないということなのである。

 そんな中、危険な走行をしていることで有名になっていた場所があった。

 そこは、一応、

「自転車走行可」

 という場所であった。

 だが、歩道は広いのだが、自転車専用という風に、別れているわけではない。実はこれがミソで、

「自転車走行可と言っても、それは、元々自転車が走行できる場所ではないが、車道だと危険だというような問題がある」

 ということから、元々、問題の多いとこるではあった。

 そんな場所で、接触くらいは当たり前で、たまに、

「傷害事件、一歩手前」

 ということもあった。

 そんな時は警察も困るというもので、とりあえず、事故報告だけしておいて、自転車側が保険に入っていれば、(今は保険加入が義務付けられているが)保険で何とかしようとするだろう。

 しかし、保険に入っていなかった昔だと、かなり厄介なことになったことだろう。実際にどういう事例があったのかは、よく分からないが、裁判沙汰も少なくはなかったことだろう。

 下手をすると、自転車の運転していた人は、

「人生がここで詰んでしまった」

 という人だっていただろう。

 自転車は、曖昧なだけに、実際に事故を起こしてしまえば、保険に入っていなかったりすると、後が大変だったりする。

 それは、加害者アもそうだが、被害者もそうである。

「ちょっとした瞬間の事故が、運命を狂わせるというのは、車の運転だけではない」

 ということであった。

 車の運転というものが、どういう悲惨なことを引き起こすのかということは、わかり切っていることであるのだが、

「こんな一瞬で運命が変わるなんて」

 と思ったら、後の祭りだった。

 交通事故を起こした人がどんな心境になるのか分からないが、たぶん、

「これで俺の人生終わった」

 と思うことだろう。

 実際に、事故を起こした人は、免許の更新の時、あるいは会社などで、

「交通安全講習」

 などがあった時、警察が持ってきた、事故を諫めるビデオなどを見ているはずである。

 その映像のすさまじさは、本当にすごいもので、事故の場面を敢えて映しているのだ。

 普通のテレビ放送では、

「放送事故」

 になるレベルである。

 実際に、そんなものを見せられると、その時は忘れることができても、事故を起こした瞬間に、完全にフラッシュバックしてくるものだという。

 ひょっとすると、軽い事故くらいだったら。

「それよりもマシだ」

 という、一種の現実逃避に走ろうとするのかも知れない。

 それを思うと、

「交通事故というものが、どれほど悲惨なのかを思い出させるために、敢えて、悲惨なところを見せたのだろう」

 と思うのだが、思い出すのが、

「事故を起こしたすぐあとだ」

 というのは、実に皮肉なことではないだろうか。

 それを感じた時、

「気を付けておけばよかった」

 と心の中で後悔しているのが分かるのだが、逆に、

「いまさら後悔してもしょうがないじゃないか」

 といっているもう一人の自分がいる。

 どちらも、本当の自分であることは分かっている。反省している自分の気持ちも分かるのだが、それだけに、もう一人の、

「いまさら後悔したってどうなるものでもない」

 という、当たり前の自分が、後悔する自分に苛立っているのも分かるのだ。

「ということは、実際の自分は、後悔している自分なのだろうか?」

 と感じる。

 後悔することが、自分の、いや、人間としての性だと思うことで、どこか、納得しようとしている。

 それは、

「俺は人間なんだ」

 と、後悔することを肯定しようという意識があるからではないだろうか。

 そんないろいろな思いが事故を起こした自分の中で、交錯してしまっている。

 それがいいのか悪いのか。どこまで考えればいいのか分からない。

 だから、考えている自分を肯定したいと思う自分と、

「いや、否定しないといけない」

 という自分がいる。

 そもそも、勧善懲悪の意識がある人間は、自分を否定したいと思うだろう。

「事故を起こすような自分は、もう、勧善懲悪の資格はない」

 と思うのだ。

 勧善懲悪であれば、

「事故を起こした自分を否定しなければいけない」

 という思いがジレンマとなり、そのジレンマが、どうすればいいのか、自分の立場と、考え方の板挟みとなって、

「お前は事故を起こしたんだから、もう俺ではない」

 とばかりに、自己否定に入ろうとする。

 そんな葛藤を知らずに、まわりが騒いでいるのを見ると、どこか億劫に感じられるというのも、一つのジレンマだった。

 自転車のよる接触事故を最近見たと思っている沢村佐和子という女性がいるのだが、彼女は、以前から、

「二度あることは三度ある」

 ではないが、連鎖反応と言えばいいのか、何度も、繰り返すことになることが多かった。

 実際に、学生の頃など、電車通学している時、

「人身事故が起これば、それから数日、発生する」

 という経験があった。

 それも、同じ路線であれば、自分だけに限ったわけではないのだろうが、すべてが違う路線で、それが一週間に数回ともなれば、

「ただの偶然」

 ということでは片付けられないのではないだろうか?

 というのも、乗り換えが3回あるだけでもまれなわけではないだろう?

 それなのに、その3回すべてで、一週間に一度ずつ事故、しかも人身事故というのであれば、それこそ、

「何かにつかれているのではないか?」

 と言われたとしても、それは仕方のないことだと思う。

 そんな佐和子だったので、

「一度見れば、他にも起こるかも知れないな」

 と思うのも無理もないことで、もう一度あれば、

「やっぱり」

 と思うのだった。

 ただ、電車においての人身事故というのは、

「そのほとんどが、飛び込み自殺だ」

 というではないか。

「飛び込み自殺ほど割に合わないこともないのではないか」

 と言われるのだが、その理由はいくつかある。

 一つは。

「壮絶な死に方を見せなければいけない」

 という理由である。

 轢死ということになると、身体がバラバラになることだってあるだろう。そういう死に際を見せるというのも、抵抗がある人は多いだろう。

 しかし、

「確実に死ねる」

 という意味で、轢死を選ぶ人というのも多いのかも知れない。

 だが、問題は、もう一つにある。

 というのは、

「鉄道で飛び込むと、賠償金を請求される」

 ということであった。

 鉄道に飛び込むと、たくさんの人に迷惑をかける。鉄道会社が損になるという理由で、賠償金として、ひどい時は、数百万を請求されるのだ。

 本人は死んでいるので、請求は残された家族に行く。下手をすれば、生命保険を、ほとんど持っていかれるというようなことになりかねないのだ。

「三代に渡って返さないといけない」

 と言われるほど、鉄道会社からの賠償請求は厳しいものである。下手をすれば、サラ金よりも容赦がない。

 相続税を収めなかった時などと同じくらいの扱いを受けることだろう。

 そうなると、

「鉄道による自殺は、本当に割に合わない」

 といってもいいはずなのに、なぜか自殺が減ることはない。

 本当は、

「自殺しなければならない」

 というほどに、世の中から追い詰められたということで、いろいろな理由もあるのだろうが、

「死にたい」

 と思うのだから、結局は、

「政治が悪い」

 と言えるのではないだろうか?

 そう考えると、

「まずは、世の中を何とかしないと」

 と、できるできないは別にして、そのあたりを問題にしないと、何も解決しないのではないだろうか?

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