君という想

こんぶ138

君という想

人間ってのは、すぐに「死にたい」だの「消えたい」だの言ってるけど、しばらくしたら、ずっと考えてたことなんてきれいさっぱり忘れてたりするんだ。

僕はさ、人間の心の変わりようには、ほとほとあきれてるんだよ。でも、つい最近の話。ほんとに死のうとした女の子がいたんだ。お風呂場で手首切ってさ、でも家の人に早く見つけてもらえて幸い命には問題なかったんだけど、ショックで今も昏睡状態みたい。

…僕は、何もできなかったんだ。


あの子を助けたかった。僕じゃ助けられなかった。

でも、あの子は全然一人ぼっちなんかじゃなくて、あの子を心から思ってくれる親友が4人もいたんだ。


これは、優しくて美しい、友情。

いわゆる『いつめん』って奴らのお話。


     *      *      *


親友が自殺未遂をした。

そう聞かされたのは高校2年の夏休み直前のことだった。期末テストも終わり、学校が早帰りの期間になってしばらくたったある日。突然私のスマホに恵から連絡が入った。いや、正確には恵の母親が連絡してきたようだった。


恵が自殺未遂をした。見舞いに来てやってくれ。

という旨の連絡だった。


私はその情報を何も噛み砕くことができず、とりあえず中学から恵と私と親友の男子たち3人がいるグループに連絡を入れた。いつもより簡潔なメッセージになってしまったのは、私の脳内が『信じられない』という戸惑いでいっぱいだったからだと思う。


このメッセージには、私の学校が終わる頃には全員から学校が終わったら集まろうという旨の返信が来ていた。既読は3つしかつかなかった。


私たちは学校が終わったあと、駅前の喫茶店で彼女を抜いた和泉 瞬、入夏 朝陽、高坂 海斗、そして私、七瀬 美琴の4人で集まっていた。


『よかった、みんな集まれて。』

「いや。全然いいんだけど…それより、あの話本当?……華月が自殺未遂って。」

『分かんない。でも、私のスマホに連絡があったの。見舞いに来てやってくれって。』


和泉を始め、この場にいる誰も状況を飲み込めていなかった。

当たり前だ。恵は全く自殺なんて図るような仕草は見せていなかった。…私達が気づけていなかっただけなのかも知れないが。


コップの中の氷が、カランと音を立てる。


「恵のいる病院、行ってみた方が早いんじゃない?」

「そうだよな。その話が本当だったら、今の華月は相当参ってるはずだ。俺たちが話ぐらい聞けるかもしれないし。」


海斗の提案に朝陽が同調する。

私達もこの提案に乗ることにした。全員が気が気でない、そんな状態だったこともあり、病院へ向かう電車内は誰も喋らなかった。


30分ほどの電車に揺られていると、病院近くの駅に着いたことを知らせるアナウンスが響いた。私達は電車を降り、走って病院へ向かった。


「…ここでいいの?」

『うん。教えてもらった病院、のはず。』

「とにかく行こうぜ。」


バタバタと病院に入り、受付を済ませた。

10分ほどの待ち時間が、永遠のように感じる。

しばらくすると、看護師らしき人が、私達を病室まで案内してくれた。私達は恵のいるらしい301号室へと向かう。たどり着いた病室は個室で、そこには確かに"華月 恵"と表記されていた。勢いよく入ろうとした私を制止して、朝陽が人差し指を口に添えながらゆっくりと扉を開けた。


『…恵…?』


薄いオレンジのカーテンを静かに開いた。

そこにいたのは、間違いなく、私達の親友。恵だった。そこにいる全員が息を飲んだ。


しっかりと閉じられた目、包帯で覆われた痛々しい左腕、もう一方の腕からのびる点滴の管、冷たい心電図の機械音。全てのことが、容赦なく昏睡状態の彼女を現実だと思わせてくる。本当に恵は、自分で命を絶とうとしたのだと、実感した。


『…恵、起きるよね。』

「起きるよ。絶対に。」


全員が、恵が横たわるベッドの側で立ち尽くしていた。私は、どうしようもない無力感に襲われた。


ふいに恵の手を握った時、バチッと目の前に火花が散るようなほどの軽い衝撃が、私の脳に起こった。


『…ッ?』


静電気のような小さな衝撃。なんだったのだろう。

冴えきらない頭で考えていると、私はそのままじっと動けなくなってしまった。


「話、聞いてやれる状態でもねぇな。」

「…七瀬、今日は帰ろう。」


比較的冷静な入夏に連れられ、外に出ることしかできなかった。この中の誰よりも離れがたかった私の手を引く入夏。彼の顔には、言い表せないほどの怒りと悲しみが滲んでいた。


病院を出て、駅までの道のりをゆっくりと歩いていた。すると、海斗が側を通る車の音にかきけされそうなほどの声でぽつりと呟いた。


「恵…何で、教えてくれなかったんだろう。」


それは、この中の誰もが思っていたことだった。

彼女は、なかなか誰かに頼る、ということをしない人だったのだ。だからこそ、誰にも話すこともせず、全てを抱え込んだまま、消えようとしたのだ。

海斗の言葉で、和泉や朝陽、そして私の胸にも、強い思いが競り上がってきたようだった。


『そうだよ。恵、何で言ってくれなかったの。何でも抱え込んじゃってさ…。』

「あんなになるまで気づいてやれなかったなんて…悔しいな。」

「俺たちじゃ…あいつのこと、助けてやれなかったのかな。」


絶望に近い感情だった。親友として頼って貰えなかった寂しさ、傷ついた恵の心に気づけなかった悔しさ、恵の心を傷つけたものへの怒り、全てが入り雑じって、どうしようもない絶望へと変わっていった。


重い空気は帰りの電車の中でも同じだった。

いつもは電車でもお構いなしにふざけてくる和泉でさえ、今日ばかりは、何かを考え込んでいるようだった。

私達は、各々の感情を噛み砕くのに精一杯で、電車内の心地よい温度と、一定のペースで流れる単調な景色に、いつの間にか眠りについてしまった。それは和泉も海斗も朝陽も、同じだった。


     *      *      *


「-次は、終点__です。お降りのお客様は、一番前のドアからお降りください。」

『…ッみんな起きて!結構乗り過ごしてる!』

「マジか!とりあえず…一旦降りよう!」


終点を知らせるアナウンスで目を覚ました。窓から暖かい日が差し込んでいる。辺りを見渡すと、車内にはもう私達しか乗客はいないようだった。他のみんなを起こして、慌ただしく電車を降りた。だがここで、私達の知っている世界とは大きく異なる点があることに気づいた。


「…何だ…これ。」

「ここ、どこ…?乗り過ごしたどころじゃなくない…?」


駅のホームの間を通る線路が、水に浸かってしまっている。というか、後ろを振り返った景色は見渡す限りの海。私達の乗ってきた電車の錆び付いた胴体にいくつもの蔦が巻き付いて、線路に完全に固定されている。運転席にも人影はなく、どう見ても動くような気配はなかった。


『…どうなってるの私達、夢でも見てるの…?』


駅名が書かれているであろう看板を見ても、錆びていて、全く読むことができない。

再び飲み込めないほどの状況に困惑していた。

すると、どこからともなく、誰かの声が聞こえた。


「あれっ?!君たち、何でここにいるの?!」

『…だっ誰?!』


私達の鼓膜を震わせた声は、質の悪いマイクを通したような声だった。声の主は、姿こそ見せなかったが、小学生くらいの少年のような声をしていた。


「誰って言われても…うーん。神?的な?…

っていうか!君たちこそなんなの?人の心の中にズカズカ入ってきてさ。」

「神って…ん?心?ここって、あんたの心の中なのか?」

「僕のじゃないよ~。君達も知ってるでしょ?

…恵の心だよ。」

『恵の?!』


彼から全て教えて貰った。この世界は恵の心の中が具現化された世界だということ。現実世界の恵は、私達の見た通りの昏睡状態だが、この昏睡状態というのは、体は正常に動いているが精神だけが働かず、夢を見ているような状態だということ。


そして、この世界のどこかに恵がいるということ。


「普通、"共鳴"ってやつができないと、他の人はここには来られないんだよ。」

「多分君の強い思いが君達をここに連れてきたんだろうね。美琴。」

『…私?!』

「病院に行った時、なんか違和感とかなかった?」

『………!』


そういえば病院で恵の手に触れたとき、静電気のような軽い衝撃を感じていた。


「やっぱりね。それが"共鳴"だよ。…恵も、君達に会いたがってるんじゃないかな。」

「本当かそれ!」


私はあの時、恵ともう一度話したい、と強く思った。それが恵の思いと共鳴したようだった。


「僕からはこれ以上何も言えないけど、ここは恵の心の全てだから、君達の知りたいことは分かるはずだよ。」

「何とかして恵と会ってやってよ。…僕じゃ、何もできないから。」


じゃあね。と言って声は一切聞こえなくなった。

私達は顔を見合わせた。


『…ねぇ、みんな。私…恵ともう一度話したい!』

「うん。俺も話したい。」

「僕も。もう一回ちゃんと話して、恵のこと助けてあげたい!」

「まだ死んだ訳じゃないんだろ?だったら俺たちであいつのこと連れ戻してやろうぜ!」


私達の思いは同じだった。恵を想う気持ちも同じだった。彼女は紛れもなく私達の親友だ。恵は何故自殺するまでに至ったのか。彼女を苦しめたものはなんなのか。この世界に何かヒントがあるはずだ。全てを突き止めて、彼女を救ってやりたい。私達の大切な親友をもう一度助けるチャンスを与えられたのだ。無駄にはできない。これが夢だとしても、絶対に恵を連れ戻してみせる。


私達は恵への強い思いと共に、恵を探すために歩き出した。


     *      *      *


「とにかく華月に何があったのか突き止めないとな。」


私達はあの神とおぼしき何かのヒントを元に、この世界を歩いてみることにした。ここが恵の全てだと言うなら、絶対に何か恵を助けるための手がかりがあるはずだ。


改めて思うことだが、この世界は本当に美しい。

私達の踏むこの大地は、果てが見えないほどに広がる海に浮かぶ島のようなものだった。その海もコバルトブルーに染まる透き通った海だった。春のように暖かな大地には様々な花が咲き、青々とした芝生が広がっていた。


『綺麗だね。ここ。』

「うん、ほんとに恵らしいよ。」


15分ほどさくさくと芝生を歩くと、美しい自然の情景に似つかわしくない古い建物が見えてきた。何やら学校のように見える。黄ばんだ壁には、あの電車と同様に幾重にも蔦が巻き付いており、いかにも退廃的だった。明るくて暖かい世界にぽつんとあることによって、この建物は異色を放っていた。


「…これ、俺らの中学じゃね?」

『そう言われると…そうかも!』

「あっほら見て!玄関の上についてるマーク、中学の校章だよ!」


和泉の言う通り、ここは私達の出会った中学校なのかもしれない。私達は恵の身に起こったことを調べるため、入ってみることにした。入夏が足元に注意しろと指を差しながら校舎へと足を踏み入れ、私達もそれに続いた。


『うわ~懐かしい…』

「内装は結構綺麗なんだな。」


古びた外装とは一転、内装は私達が在籍していた頃と全く変化はない。少し薄暗いが電気はついていて、物の判別などには困らない明るさだった。一階には、1年生の教室だけでなく、図書室や保健室がある。どれも部屋の名前が書かれたプレートは掠れて読めなくなっていた。だが、ひとつだけ"1-3"と書かれたプレートだけははっきりと読むことができた。


「中にいるの、もしかして華月か?!」


入夏が何かに気づいたらしい。廊下側の窓から覗いてみると、そこにはセーラー服を着て、少し戸惑ったようなでもどこか嬉しそうな表情の恵と、学ランを着て恵と楽しそうに話す和泉の姿があった。二人は半透明に透けているものの、話している動作や内容ははっきりと分かった。


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「よろしくね!…えっと~和泉くん!」

「おー…!よろしくな、華月さん!」

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「俺ぇ?!何で居んの?!」

「ここは恵の心の中だから、多分記憶とか思い出として出来事がそのまま残ってるんじゃないかな。」


海斗が学ランを着た和泉に触れようとするが、その手は彼の身体をするっと通り抜けてしまった。


「やっぱり…記憶だから、実体はないんだね。」

「すげぇなお前…頭良…。」

「恵の思い出がありそうなところに行ってみたら、こんな感じで何か手がかりがあるかもしれないってことだな。」


なるほど、記憶か。それならば、恵のあの戸惑いが混じったような笑顔にも納得がいく。彼女は中学の頃から、人と話すことが苦手になったと言っていた。だから和泉と初めて話した時は相当頑張っていただろうなと、想像を働かせた。

他にも恵の思い出がありそうな場所を探してみたが、めぼしいものは特になかったので、階をひとつ上げ、2階へ行ってみることにした。2階には、2年生の教室や職員室、理科室、体育館がある。1階と同様に、どの部屋のプレートも掠れていて読めなかった。


「華月のクラスにまた居るんじゃないか?」


掠れたプレートの中で、"2-2"と書かれたものだけがはっきりと見えていた。中を覗いてみると、教室の端の席で、学ランを着た海斗がセーラー服を着た恵と楽しそうに話しているようだった。それも、半透明に透けているが話している動作などはよく分かった。


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「えっと…僕は、高坂海斗。よろしくね!」

「高坂くんね。私、華月恵。よろしく!」

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「今度は僕なんだ…。」

『3階には全員居るかもね。』

「ちょっと待って?!あっち側、華月もう一人居る!!」


私達のいる教室には、もう一人恵がいた。

廊下側の席でスケッチブックを広げた恵を数人の女の子達が取り囲んでいる。それらの光景は今までとは違って、半透明ではなかった。


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「恵ちゃん、美術部なのに絵下手だね~」

「あー分かる!そのレベルなら人前で描かない方が良いよ?」

「そう…だよね。そうだよね!ごめんごめん。」

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そう言って恵は気まずそうにスケッチブックを鞄にしまった。気丈に振る舞っているが、恵の表情には、隠しきれない悲しみが滲んでいた。


『…ひどい。』


恵は昔から絵を描くことが好きだった。

でもある時から、絵を描くことをぱたりとやめてしまったのだ。この記憶は、絵をやめたことの原因かもしれないと思った。


「…あいつ、こんなこと言われてたんだな。」

「半透明じゃないってことは、この記憶が、かなり濃く恵の心に残ってるのかも。」

『恵の自殺にも関係してるのかな…。』

「他にも記憶があるかもしれないな。」


恵にとって辛い記憶は、この世界では半透明にはならずに、色濃く刻まれているのかもしれない。


少しの憤りを感じつつ、私達ははっきりした記憶を離れて、3階へ向かった。

3階には、3年生の教室や音楽室、美術室などがある。部屋の上に付いているプレートは、相変わらず掠れて読むことができなかった。そして、下の階と同じように、3-1と書いてある教室のプレートは、はっきり読むことができた。


『恵…いる?』


私は教室の扉を開けたが、そこには、はっきりした記憶はなかった。その代わり教卓の方で、半透明になった恵を含めた私達が楽しそうに話している様子があった。


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「入夏くん、1年間よろしくね。」

「うん。よろしく。」

「お前ら会ったことなかったっけ?」

「いや~クラスは近かったんだけどね。」

「にしても今回のクラス替え神引きしたわ。」

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「今度は皆いるな。」

『3年生の時、このメンバーが揃ったんだよね。』

「懐かしいな。」


不謹慎かもしれないが、恵はこの思い出を、大事な思い出として残してくれているのだと、少し嬉しく思ってしまった。だがそれは和泉達も同じようだった。私達の一番と言っていいほどの思い出は、やはりここにあるのだ。


すると、「そういえば…」と海斗が思い出したように呟いた。


「僕、高校入ってから恵と同じ電車使ってるんだけど…」

「そういえばそうだったな。」

「高校入ってから、気のせいかも知れないけど、恵…一人の時の表情がちょっと変わった気がするんだよね。」

『そうかなぁ…うん…そうかも。』


私は高校が恵と完全に分かれてしまって、電車でも会わないのであまりよく分からなかったけれど、人一倍人の変化に気づく海斗だ。言っていることはあながち間違っていないのだろう。


「じゃあ…この世界に恵の高校があって、そこにはっきりめの記憶がめちゃくちゃあったりするんじゃね?」

『そんな…』


和泉の勘はわりと当たる。そうだとすれば、この世界にある彼女の高校には、より残酷な何かがあるに違いない。そう思うと、やはり恵の自殺未遂にまで至った原因は、高校にあるのかもしれない。


学校が離れてから、彼女の変化を気にも止めなかったことの後悔に、唇を噛んだ。


『…高校を…探しに行こう。』

「七瀬…」


さっきのはっきりした記憶のこともあって、私は自分への憤りでいっぱいだった。私は戸惑う和泉の声を気にも止めず、ずんずんと出口へと歩いていった。


玄関を出ても、相変わらず空は青いままだった。


「おーい七瀬、落ち着けって。」

『……そうだよね。』

「大丈夫だ。華月はきっと待っててくれてる。」


波立つ心を押し留めながら、私達はまた進み始めた。歩いては、美しい景色に足を止め、また歩いては足を止めを繰り返していると、また見覚えのある建物が見えてきた。だがそれは、恵の高校ではなく、恵と私が出会った小学校だった。


「あれって恵の高校?」

『…ううん。あれ、小学校だ…。』

「小学校か…ここもみてみよう。かなり前の記憶が自殺に関係してるかもしれないし。」


私はあまりの懐かしさに導かれるように小学校へと足を踏み入れた。


『うわ!ヤバい!めっちゃ懐かしい!』

「さっきのテンションどこ行ったんだよ。」

「やっぱしんみりより美琴にはこういうのが似合うね。」


自分でも驚く程の切り替わりだと思う。でも5年前の思い出に触れたら誰だってこうなる。仕方ない。


『恵の教室行ってみよう!』

「ここは俺達分からないから七瀬、案内頼むぞ。」

『任しといて!』


建物の中は明るく、少し寂れてはいたものの、活気を感じる内装だった。校内を歩くたびに楽しそうにはしゃぐ子供達の声が、そこらじゅうから聞こえてきた。窓から見えるグラウンドには、幼少期の恵と私、そして数人の子供達が走り回る様子があった。それも恵の記憶のようで、半透明の子供達が楽しそうに遊んでいる。


「華月って、昔こんな感じだったんだな…。なんか以外だわ。」

『私もいる…』

「なんか和むな…。」

「おじいちゃんじゃん。」


そう話しながら、恵のいたクラスである1-2とかかれた教室へと向かった。


『ここ、一応恵の教室だけど…』

「あっ!待って、めっちゃ人いる!」


海斗はそう言うとあわただしく私達に手招きをした。窓から覗いてみると、教卓には担任の先生が、その目の前の席には幼少期の恵が、そして他の席にも恵の元クラスメイト達が座っていた。

そのクラスメイトの中には、幼少期の私も含まれていた。


『ヤバい恵かわいい…』

「えっどれ?」

「あれじゃね?…ほら、前の席の。面影あるわ。」

「美琴もいるじゃん、かわいい…」


教室では、担任の先生が道徳の授業をしているようだった。クラスの全員が、先生の方をまっすぐと見ている。


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「いいですか?皆さん。人に迷惑をかけるようなことは、してはいけません!。」

「「「はーい!」」」

「人を傷つけるようなことも、してはいけません!

分かりましたか?」

「「「はーい!」」」

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子供達が元気よく返事をして見せる。

担任の先生はそのまま、動物達の絵を見せながら授業を続けている。


「あの記憶…はっきりめのやつだね。」

「ってことは、恵にとってあんまりいい思い出じゃないのかもな。」


だがここで、私は彼らと別のところに気がついた。

これは、いつめんの中で一番恵と時間を共に過ごしている私だからこそ、分かることだった。


『恵、昔からずっと"誰にも迷惑かけちゃダメなんだよ"って言ってた…。』

「…マジか…。」


恵は昔から、実年齢より大人びた発言をすることが多かった。あの言葉もその中の一つで、恵が口癖のように言っていた言葉だったのだ。


「…華月ってあんまり悩みとか話さねぇじゃん?

それって、この記憶があいつの基盤になってるからとかってない?」


確かに。と思った。

そうだとすれば、恵の抱え込んできたものは、私の想像よりも遥かに大きくて重いものなのかもしれない。あの小学校時代の明るくて活発な性格だった恵をあそこまで変えてしまったのが、小学校での出来事からなのだとしたら、それはひどく残酷なものだろう。


「俺、あいつのこと勝手に全部分かった気でいたよ。…なんか今ので、またあいつのことひとつ分かった気がする。」

「そうだな…」


『…もう!またしんみりしちゃってるよ私達!』

「ははは、確かにな。」

「高校まだ見つけてないし、探しにいこう!」


いつめんと言えども、あまり自分のことを多く語らない恵のことだ。私達が知らないことなんてたくさんあるに決まっている。

これは、恵を連れ戻すための情報集めだけではなく、恵を知るための時間でもあるのだと思った。



小学校の玄関を出て、またまっすぐと歩いていく。

時折、先程と同様に美しい景色に足を止めながら。


「…ん?なんだこれ。」


しばらく歩いていくと、青々とした芝生の上に、錆びた線路のようなものが見え始めた。私達が視線を前にやると、ところどころ錆びてはいたものの、赤と白を基調とした電車が視認できた。

私はその電車に見覚えがあり、恵が電車通学で使っていた電車だとわかった。


『恵、この電車好きだって言ってたっけ…』


その電車の先にはまた、寂れた大きな建物が建っていた。今までの小学校や中学校よりは格段に大きい建物だった。玄関の上にある校章や名前から、ここは恵が通っていた高校であることが容易に判断できた。


『はぁ~やっとお目当ての場所に来れた…』

「とりあえず良かった。…記憶、探してみよう。」


恵はこの場所で自殺未遂に至るほどの経験をした可能性が高い。これから出会うであろう残酷な記憶達に、私は唾を飲んだ。


内装はこの世界で一番ボロボロだった。薄暗い校内に嫌な予感がする。一歩が重い。でも、進むしかない。私達は、恵が1年3組になったということを思い出し、それを頼りに教室へと向かった。

下駄箱から教室までは短い距離だったが、そこかしこから感じる重くて冷たい空気が私達の足に絡み付くようで、ずっと不快感が拭えなかった。


「あっ!恵いるよ!」


やっとの思いでたどり着いた1年3組では、また教卓に先生が立ち、恵を含めた生徒達が授業を受けているようだった。その記憶は、またはっきりとしている記憶だった。


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「では華月さん。この問題分かりますか?」

「…えっと……。」

「分からないんですか?この学校にいるなら分かって当然ですよね?」

「…すみません。」

「はい。予習も復習もしっかりやりましょうね。

えー続けます。ではここは…」

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恵は大きな目に涙をいっぱいに溜め、うつむいている。問題を見ると、さすが進学校という難易度で、私には到底分からないような問題だった。


『なんなの…あいつ最低…』

「瞬、あの問題分かる?」

「いや…時間かければいけるかもだけど、あの一瞬じゃあ…」

「それをあの一瞬で解けなんて…あの教師、理不尽すぎだろ…」


このような事が日常的に行われていたのなら、恵が大きく心を傷つけたのも頷ける。恵は自己肯定感が限りなく低い。低くなってしまった。そんな彼女が「こんなことも分からないんですか」と言われれば、自分の能力の無さを必要以上に責め立て、心を壊すまで勉強し続けるのは必然だろう。


と、そのようなことを考えていると、突然2階からドンッと何かが落ちるような大きな音がした。


『…うわぁっ!何?!』

「びっ…くりしたぁ…何か落ちたかな。」

「行ってみるか。」


バタバタと階段を上がって行く。2階のフロアにたどり着いたとき、私は一瞬、鳥肌がたった。

外の春の陽気とは裏腹に、この場所は、真冬のような寒さだったのだ。そして一階より一段と照明が暗くなっているのを感じた。


『寒くない?ここ…。』

「確かに…しかも暗い…」

「ここの記憶はどこよりもひどそうだな…。」


寒さに震えながら、音のした方へと進んでいく。


すると、階段のすぐそばにあった廊下で、恵を含めた女子生徒二人が話している様子があった。だが見る限り、あまり楽しい話ではなさそうだった。


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「いやそれはさ、ちょっとよくないんじゃない?」

「…は?」

「だ、だって…先生に怒られちゃうよ?」

「あのさぁ…いちいち意見すんなよ。」

「えっ…」

「いい加減、頑張ってます、真面目ですみたいなフリやめてくんない?…部活も辞めたくせに。」

「…!」

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そう言うと女子生徒は恵を突き飛ばし、足早に去っていった。その場に立ち尽くす恵は、完全に絶望した表情をしていた。…そのときの彼女が何を思っていたのか、私には容易に想像できた。


「きっついな~あの女子…。」

「なんてこと言うんだよ…。」


すると、今まで下を向いて黙りこくっていた海斗が、ぽつりと呟いた。


「………頑張るの何がいけないんだよ。」

『…海斗…。』


彼は私や、他の二人よりも、複雑そうな顔をしていた。この光景に対して、彼には何か特別な思いがあるのかもしれない。

問い詰めてもいけないと思い、リアクションは、海斗の背中を軽く叩くくらいにしておいた。


その時、また遠くからドンッと大きな音がした。音のした方へ向かってみると、2-2と書いてあるプレートがつけられている部屋にたどり着いた。あの音は、どうやら女子生徒が机を勢いよく叩いた音のようだった。

窓から覗いてみると、数人の女子生徒が、ひとつの机を取り囲んでいる。


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「ほんと空気読めないよね~あんた。」

「そうかなぁ…あはは、ごめんごめん。」

「恵ちゃんさぁ、私達にハブられたらぼっち確定で居場所ないんだから、もうちょっと考えたら?」

「えーっごめんじゃん!いつも感謝してるよ~?」

「あはは冗談だよ。恵ちゃんほんとおもしろ~い」

「…な、何だ冗談か~もうびっくりしたぁ!」

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そう言って笑う恵は、張り付けたような笑顔を浮かべていた。そして私は確信した。これが恵の自殺未遂の引き金となったことを。


ふと、隣に立っていた和泉を見やると、骨張った手をぎり…と効果音が付くほどに握りしめて、目の前の光景を見つめている。その奥にいた入夏は、教室の扉を思いっきり叩いて、怒りを顕にしていた。普段、あまり表情の変わらない彼だが、この時ばかりは眉間に皺を寄せて、かの光景を睨み付けていた。


彼らにも、先ほどの海斗と同じように、何かそれぞれの思うところがあるのだろう。


「…もういいよ。出よう…。」


そう言った入夏の手は、扉を叩いたせいか、ほんのりと赤くなっていた。私達も畳み掛けられた残酷な記憶のせいで、かなりの精神が削られていたので、入夏の提案に反対する者はいなかった。


ゆっくりと階段を下りていき、玄関へと向かった。

グラウンドを全力で周回したような疲労感で、うつむきながら玄関を出ると、視界に入った地面は、先ほどの殺風景なコンクリートではなくなっていた。芝生が青々と茂って、色とりどりの花が咲いていたのだ。


「綺麗だね。」

『…そうだね。』


私達が辛い時、恵はどんなときも助けてくれた。

今もこうやって花を咲かせて、私達を励ましているのは、無意識ではあるだろうが、実に彼女らしいことだ。


その花畑は、私達を導くように、道を作っていた。

私達は自然とその花道を辿っていった。


「七瀬、あれ…何だ?」

『あれは…恵の家?』


花道の途中で、小さな建物があった。

これは私が一番よく知っている。恵の生まれ育った家だった。白い壁には蔦が蔓延り、高校ほどではないが、寂れているように感じた。


『恵の部屋に何かないかな。』

「…えぇ…女子の部屋入るのってなんか…」

『そんなこと言ってる暇ないでしょ!』


和泉の背中をばしっと叩いた。

学校より恵のことを知るための情報が絶対にあるはずなのだ。

戸惑う彼らの声を振り切って、玄関の扉を開けると、暖かいオレンジの光が漏れ出てきた。実際の恵の家と変わらない、優しい雰囲気だった。人の気配こそないが、昔からの華月家の温度が感じられて、疲弊した体にはかなりありがたかった。


『2階に恵の部屋があるよ!』


自身の家ぐらいには知っている階段をかけのぼる。

階段の目の前にある扉を勢いよく開ける。

私達の前に広がったのは、四角いベッドや勉強机ではなく、空間がそのまま歪んだような禍々しい不気味な部屋だった。私の記憶の中にある恵の部屋とは似ても似つかない。1階の暖かい雰囲気が、この部屋の異常さを際立たせている。


「何だこの部屋…!」

『恵の部屋のはずなんだけど…!』


異常な部屋の中に2つ、はっきりと存在を認識できるものが落ちていた。ベッドと思わしき布の上には、犬のぬいぐるみがひとつ、勉強机と思わしき台には、手帳のようなノートがひとつ置いてあった。


「…俺、部屋見てくるわ。」

「まっ待って!それは…みんなで行こう。」


そうだ。止まっていても仕方ない。

私達は、恵を救わなければいけないんだ。


とりあえず、と言って勉強机の上にあった手帳を手に取る。これは記憶ではなく、物体として存在しているようだ。

もう少し調べてみたいが、これ以上ここにいると、眩暈が止まらなくなってしまいそうだ。


『みんな…!手帳は持ったよ!早く出よ!』

「ぬいぐるみは、記憶みたいだ。触れない。」


バタバタと部屋から出ようとしたその時だった。

海斗がぴたりと足を止めた。


「待って!みんな、この子………泣いてる。」

『…えっ?』


眩暈を我慢して、ぬいぐるみの前まで駆け寄った。

細めた目でぬいぐるみを注視すると、海斗の言う通り、愛嬌のあるこのぬいぐるみは、目から静かに涙を流していた。表情はないものの、悲痛な思いが痛いほど伝わってくる。


『…何で、泣いてるんだろう。』

「分からない…けど、ほんとに悲しそう。」


このぬいぐるみにも、心があったのだろうか。

ずっと一緒にいた恵に、何か思うところがあったのだろうか。真意は分からないまま、私達は恵の部屋を後にした。


「七瀬、大丈夫か?」

『…うん。だいぶおさまった…。』


玄関を出て、あの部屋のせいで始まった眩暈を落ち着かせるため、近くにあった岩に腰かけた。みんなには申し訳ないが、もう少し休ませて貰おう。


「そういや、あの手帳って何だった?」

「あーそうだな。今見てみるか。」

『私持ってるよ。』


休んでいる間、恵の部屋にあった手帳のようなノートを開いて見ることにした。少し汚れてはいるが、読めない訳ではない。ぱらぱらとページをめくれば、それが恵の日記であることが分かった。


日記は高校生からのものらしく、書かれている内容は、見ているだけで涙が溢れてくるような、痛切な思いの羅列だった。


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〇月✕日

今日から高校生。受験無事に終わって良かった~

演劇部もあるし、これから頑張ろう!


○月✕日

演劇部になって一週間。こんなに大変だったなんて、知らなかった。予習もしないといけないし、こんな眠れない日が続くのは辛すぎる。

悔しいけど、辞めるしかないかも。


○月✕日

問題が解けなくて、先生に怒られてしまった。

やっぱりこんな問題も解けないなんて、勉強不足だよね。部活辞めて早く帰れるようになったし、予習も復習もしっかりしないと。


○月✕日

友達が一人減ってしまった。よくないことだと思って、否定しちゃったのがいけなかったかな。真面目なフリなんて、してないんだけどなぁ。

何にせよ、あの子を傷つけたのはよくないこと。

申し訳ないことしたな。

○月✕日

今日から2年生。月日が経つのは速い。

クラス替えもあったけど、新しい人たちとうまく友達になれるといいなぁ。


○月✕日

なんとか女子グループに入れた。

私がふざけてみせるとみんな笑ってくれる。

なんとかやっていけそうで良かった。


○月✕日

私っていじられキャラみたいな感じなのかな。

最近、みんなの言葉がきつい気がする。

空気読めないとか、もっと考えろとか。

和泉にはあんなこと言っといて、彼女達の言葉には、結構傷ついてる。


○月✕日

いつまでこんなことしてるんだろう。

嫌なら嫌って言えばいいのに。でも分かってるけど言えない。朝陽には、居場所はあるなんて言っといて、私は、あそこで一人になる勇気なんて持ってない。海斗にもすかしたこと言ってたな。人の顔色ばかり見て、自分の努力ができない私はやっぱり口だけの人間。


○月✕日

分からない。もう分からない。自分の本音も、どうやって本音を知ればいいのかも分からない。でも、誰にも言えない。どうせ分かってもらえない。みんなにも、迷惑かけられない。

美琴には人は一人じゃない的なこと言ったかな。ほんと、矛盾ばっかりだ。


○月✕日

どうしよう、しにたい。

みんなにあいたい。

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恵が自殺未遂をした前日の日付で日記は終わっている。日記には、私達それぞれへの思いも綴られていた。だんだんと震えた文字になっていく様子に、息苦しくなった。


「何だよ…あいつ、覚えてんのかよ…。」

「こんなになるまで、放っておいたのか。俺達。」

「恵…ごめん。気づいてあげられなくて…。」

『…っ…恵…。』


日記を一通り読んだ後、私達はそれぞれ、恵との思い出へ思いを馳せていた。



    *      *      *


俺の親友は、賢い人だった。


あいつとは中学1年の時に出会った。第一印象は「大人しい優等生」だった。俺はよくふざけるタイプの人間だったから、ちょっと近寄りがたい感じだった。でも、席が隣になってよく話すようになってからは、その印象は大きく崩れ去ることになった。


「よろしくね!…えっと~和泉くん!」

『おー…!よろしくな、華月さん!』


一度話してみると、案外親しみやすい人だということが分かった。給食を食べる時も、授業を受ける時も、誰かと話す時も、あいつはどこか楽しそうに見えた。いつしか、お互いに付けていた敬称は完全になくなり、和泉、華月、と呼びあえるまでに仲良くなれた。

でも、優等生という印象は残り続けた。

俺達はよく、テストの点で競い合っていた。

あいつは学校のどんなテストでも必ず10番以内に入っているような秀才だった。俺も、勉強が苦手な訳ではなかったが、あいつに勝てる科目はほとんどなかった。唯一彼女は数学が苦手なようで、数学の時にいつも俺のテストを見ては、恨めしそうに俺を見つめていた。


俺たちは何不自由なく、比較的楽しい生活を送っていた。だが、2年前の秋のことだった。

俺はいつものようにあいつを含めた近くの席のクラスメイトと話していた。俺はある種の習性のように、誰かを笑わせるのが好きだった。だからその日も同じようにお調子者のキャラで過ごしていたのだ。


「瞬ってほんとに空気読めないよな~」

「変わってるよね。瞬って。」


あるクラスメイトに何気なく言われた言葉だった。

俺はその言葉を受け流すことができなかった。

空気が読めない。変わってる。これは今までの人生において、割りと言われてきた言葉だった。空気が読めない。変わってる。俺の脳内で何度も繰り返された。

俺なりに、誰かを笑顔にしようと、頑張ってきたはずなのに。結局離れて行ってしまう。


今までなら気にせず受け流すことができたのに。

否、気にしないふりができたのに。

言葉が、鋭い矢となって刺さってくる。


心に大きな穴が空いた。


中学校という新しい環境のせいか、その穴は塞がることがなかった。家でも、学校でも、ずっと考えてしまう。

どうして俺はいつもこうなのか。

誰かを笑わせるのは悪いことなのか。

空気って、どう読めばいいんだろう。

…俺がおかしいのかな。


苦しかった。どうしようもなく苦しかった。あんなに楽しかったはずの学校に行きたくない。また、変なやつって思われたらどうしよう。

そう考える日々が続いた。


それからしばらくたったある日、俺はいつものように義務感に苛まれながら、学校への道を歩いていた。だが、俺の学校へ向かう足は、ぴたりと止まってしまった。どうやっても動かない。俺は軽くパニックになって、その場にしゃがみこんでしまった。


しばらくして、下を向いた俺の視界に、誰かの靴が映った。それは俺の目の前で止まり、声をかけてきた。


「和泉!?大丈夫?……泣いてるの?」


そこにいたのは華月だった。あいつの押していた白い自転車が涙でぼやけて見える。親友が来てくれた安心と、こんな自分を知られたくないという気持ちが入り雑じって、最終的には何も考えられなくなった。


『…華月…』

「うん。どうしたの?」


俺が弱々しく名前を呼べば、あいつは自転車を止め、近くの縁石に腰かけた。隣に座るあいつの顔を見れば、今まで見たことがないほどの悲しい顔をしていた。俺は、ここ最近ずっと胸にわだかまっていたことを、口からそのままに、あいつに吐き出してしまった。


『俺…空気読めないらしいわ。』

「…誰かにそう言われたの?」

『この前、クラスの奴らに空気読めない、変わってるって言われて、それからずっとこうで。』

「なるほどね。」

『…これ、俺が変なのかな…?』


下を向いたまま、涙と共に言葉を紡いだ。あいつは、学校に遅れるかもしれないというのに、一つもめんどくさそうな素振りは見せずに俺の話を聞いてくれた。あいつはしばらく考え込んだあと、思い出したように呟いた。


「変わってるっていう言葉はさ、その人が自分の基準でしか物事を見れてないから生まれるんだよ。」

「私は、この世界に"普通"なんてないと思ってるんだ。…強いて言うなら、みんな変わってるよ。」


その言葉を聞いて、真っ先に思ったことは、

あぁ、こいつは本当に賢い人なんだということだった。この世界に普通はない。初めての感覚だった。

あいつの言葉がじんわりと胸に広がって、俺の持っていたわだかまりが消えていくのを感じた。

あいつの見ている世界はこんなにも優しくて強いものなのだと分かった。


「和泉がやりたいようにやればいいんだよ。

この世界にいる君はたった一人だけなんだから。」

『…うん。ありがとう、華月。』

「えへへ。なんか照れるなぁ。…まぁ、親友を笑顔にするのも、私の役目だからね!」


それからというもの、俺は普段通り学校へ向かえるようになった。クラスメイトとも普段通り話せるようになった。空気が読めないとか、変わってるとか、そんな類いの言葉を投げられたことはなくならなかった。でも俺は、前を向いて生きることができたのだ。


俺は確かに、あいつの言葉で勇気付けられた。


俺はあいつに出会えて本当に良かったと思っている。親しみやすい雰囲気の中にある賢さ。俺はそれを心から尊敬していた。


でも俺は、そんなあいつと向き合おうとしなかった。あいつの心が死にたくなるほどに傷ついていたことに俺は気づけなかった。悔しい。悔しいよ。

だから、神様がくれたお前と話す時間。これで絶対にお前を救ってみせる。


華月。今度は俺の番だ。

お前の傷ついた心を少しでも治せるように、心からお前と向き合って、下手でもいいからまっすぐな言葉で、また長話でもしよう。



     *      *      *



俺の親友は、面白い人だった。


彼女とは中学1年の時に出会った。それまではお互いに名前を知っている程度だったが、3年になってクラスが同じになって、彼女は海斗と仲がよかったこともあり、よく話す仲となった。


「入夏くん、1年間よろしくね。」

『うん。よろしく。』


初めはやはり大人しい印象を受けた。…というか、俺との距離感を測りかねているような感じだった。七瀬とは仲が特別いいらしく、七瀬の前での対応が、彼女の素なのだろうと分かった。他にも瞬や海斗にもあまり気を遣わない話し方をしていた。


本当に俺との接し方に迷っているようだった。

3人には素に近い態度で話せるのに。俺だけ。


…少しばかりの寂しさを感じたのを覚えている。


その寂しさも、日が経つにつれて解決していった。

いつしか彼女は俺のことを朝陽と呼ぶようになり、俺をからかったり、七瀬の前と同じように振る舞うようになってくれた。そのときはとても嬉しかった。だが、彼女の表情にはいつも、どこか影があった。仲良くなるほど、その影に違和感を覚えてくる。彼女は普段何を考えているのか。


それが2年前の秋のこと。それから俺は彼女に強い興味を抱くようになった。普段の会話からも感じる言葉のセンス。空気を読んで誰かの笑いをとる感覚。彼女と過ごす日々は飽きることがなく面白かった。お笑い的な面白さもあったが、何より彼女の人としての生態に興味を持った。


「最近、朝陽と仲良くなれてる気がして嬉しい!」

『そうか?俺もそんな感じするよ。』

「高校になっても遊んでね?カラオケとか。」

『そこだけはやめてくれ。』

「ふふ、朝陽は面白いねぇ。」

『華月ほどじゃないよ。』


高校。いつまでも日々の楽しさに現を抜かしている場合でもない。少し現実に引き戻された。全国の中学3年なら逃げることができない受験。二年前の冬、みんなは各々の進路について悩んでいる時期だった。


俺は当時、受験について人生で一番といってもいいほどの大きな悩み、不安を抱えていた。俺は勉強が苦手でも得意でもない、いわゆる平均的という人間だった。部活でも突出した技術もなく、推薦で行けるような功績もなかった。


俺が持てるものはなんだろうか。

どこの高校に行けばいいのだろうか。

そもそも、学力は今のままでもいいのだろうか。


そんな思いがしばらく俺の脳内を支配していた。

俺はこの思いを拭えないまま、ひたすら勉強に打ち込んだ。この時は彼女らと遊ぶこともできず、ただ勉強する毎日だった。

だが目標もない努力が続くはずもなく、私立受験を前にして、俺は心が折れてしまったのだ。


もう嫌だ。いつまでこんなことを。これだけやって落ちたらどうしよう。どこにも、居場所がなかったらどうしよう。誰か…助けて欲しい。


2年前の1月中旬、そんな思いを抱えながら、一人誰もいない教室で、机に突っ伏していた。

その時、小さく俺を呼ぶ声が聞こえた。恐る恐る顔をあげると、そこにいたのは華月だった。首に巻かれた赤いマフラーが鮮明に記憶に残っている。


「朝陽…?どうしたの、具合悪いの?」

『…なんでもない。』

「なんでもないやつはそんな顔しないんだよ。」


いつの間にか涙を流していたようだった。

情けない。彼女らの前では泣きたくなかったのに。


「誰~私達の朝陽を泣かせたやつ!言ってみな、もう…ボッコボコにしてやるから!」


そう言って冗談っぽく笑う彼女は、切ないくらい悲しそうな顔をしていた。何故、俺より辛そうな顔をするのか。何故、俺のことを気にかけてくれるのか。分からなかった。ただ一つ感じたのは、いつもの親しみやすい態度の中にある、彼女のまっすぐな優しさだった。

俺は堪えることができず、今まで苦しんでいた胸中を明かしてしまったのだ。


『華月…俺、もうダメだ。』

「…どうして?」

『…勉強、きつくて。俺、いつまでこんなことしてんのかなとか、高校どこにも入れなくて…どこにも居場所がなかったらどうしようって。』

「そっか。」


彼女は、俺の泣きながら紡ぐ言葉を急かすことなく、穏やかなトーンで聞き続けてくれた。

俺が全てを彼女に吐き出してから、彼女はゆっくりと口を開いた。


「…朝陽はさ、ちょっと頑張りすぎかな。」

『でも…』

「居場所がなかったらどうしようって、分かるよ。私もずっと思ってる。」


でもさ、と彼女は言葉を続けた。


「朝陽がこんなに勉強して、どこにも入れないってことは…まぁ、天地がひっくり返ってもないと思うけど。これだけは言わせて。」


「朝陽の居場所は、ここにあるよ。」

『…ここに?』

「私達がいるでしょ?」


その言葉は俺を正気に戻すには十分すぎるほどの力を持っていた。あのメンバーが、俺の絶対的な居場所だと、気づかされた。


「当たり前のことはさ、いつの間にか見えなくなるんだよ。君は努力家って言葉が似合うから、なおさら。」

『…うん。』

「朝陽は大丈夫。私達がついてるから。居場所がないなんて、今までもこれからも、あるはずない。」

『…ッうん。ありがとう。華月。』


大丈夫。誰に言われても信じられない言葉だった。だが、彼女の口から発せられると、こうもすんなりと受け入れられるものだったのだ。今まで迷いに迷っていた俺は、彼女のまっすぐな言葉でぐっと両足を地につけることができた。


今の俺があるのは、紛れもなく彼女のおかげだ。


それから俺は無事に第一志望に合格することができた。彼女を含めたあのメンバーは自分のことのように喜んでくれた。彼女らの優しさは、間違いなく俺の支えとなっていた。


いつか、この中の誰かが傷ついたのなら、俺は真っ先に助けに行こうと、心に決めていた。それは今も変わっていない。

でも、思っているだけでは、誰も救えない。そう思い知らされたのだ。俺は何よりも大切な親友に、誰にも迷惑をかけまいと全てを抱え込む華月の心に、気づいてやれなかった。


だから、神様がくれたチャンスは絶対に取り零さない。君のようにはなれないかもしれないけれど、あの時、彼女が俺にくれたように、面白おかしくもまっすぐな言葉で、君を救ってみせる。



     *      *      *



僕の親友は、優しい人だった。


彼女とは中学2年の時に出会った。

クラス替えの時、僕は前のクラスで仲が良かった友達全員と離れるという悲劇を経験した。とりあえず誰かと友達になろうと、隣の席の人に声をかけてみた。それが恵だったのだ。


『えっと…僕は、高坂海斗。よろしくね!』

「高坂くんね。私、華月恵。よろしく!」


ふわっと笑う顔が印象的だった。


それから彼女と話していくうちに、彼女がとても優しくて、優秀な人だということが分かった。係の人が忘れていた仕事をやったり、誰かに道を譲ったり、朝早く来て黒板を掃除したり。そんなことを、さも当たり前のようにこなしていた。僕がその事に気づいて褒めたり感謝を伝えたりしても、彼女は謙遜するばかりだった。

彼女のような人が社会のリーダーとかになるのだろうと密かに憧れていた。


その点僕は、彼女のような優しくて素敵な人にはなれないと思った。彼女に対する劣等感があったのを覚えている。


僕は昔から、運動が好きだった。だから、中学でも運動部に入った。本格的な練習や試合を見て、自分も活躍したいと思うようになるのに時間はかからなかった。もっと頑張りたい。もっと活躍して、自分に誇れるものが欲しい。その一心で、部活に打ち込んだ。

部活のメンバーとも、仲良くできていた。一緒に試合に出ることもあったし、同じような熱量で練習もしていた。でも、その時は知らなかった。頑張る人をよく思わない人がいるということを。


3年前の秋のことだった。

僕は、何とか選抜の大会に出場することができた。

今までの努力が実ったと、心から喜んだ。ゼッケンを貰ったときの感情は今でも覚えている。仲間達も頑張れよと背中を押してくれた。

僕は今まで以上に練習を重ねた。


だが、ある日の放課後のこと。僕はいつものように練習をして、そろそろ帰ろうと部室に戻った時、部室から声が聞こえてきた。

僕は扉を開けようとする手を咄嗟に引っ込めた。


「高坂ってさ~なんかめんどくさくね?」

「分かるわそれ。自分頑張ってますよアピールウザいっていうか…」

「あいつ必死すぎて笑えてくるわ。たかが部活なのになぁ?」


急激に身体が冷えきったように感じた。

まさか仲間にそんなことを思われていたなんて。嫌われていた事実より、僕が今までやってきた努力を全否定されたように感じたことの方が辛かった。

僕は勢いよく踵を返して部室を離れた。

初めはよろよろと歩くような速さだったが、だんだんとスピードを上げて廊下を走っていた。

止めどなく流れてくる涙を拭いながら。


僕は何かに導かれるように、自身の教室へと向かっていた。そこには、幸か不幸か、背面黒板に掲示物を貼る恵がいた。今日は係の仕事があるって言ってたっけ。


「おー、海斗!部活終わったの?お疲れ~最近頑張ってるね!」

『…うん。』

「………何かあったとみた。」


本当に彼女はよく気がつく聡い人だと思った。

僕の纏う重い空気を察して、冗談っぽく話してくれていたのだろう。その時の僕は動揺でいっぱいで、自分の表情をコントロールする力なんて残っていなかった。

恵は踏み台から降りて、僕の顔を覗き込んだ。

眉を寄せて、心の底から僕を心配するような表情をしていた。その顔を見て僕は、全てを彼女に話すことを決めた。


『…僕、部活の人に嫌われてるみたいでさ。』

「うん。」

『必死すぎて笑えるとか、頑張ってるアピールしてるって言ってるの、さっき聞いちゃって。』

「…」

『……頑張るのって、悪いことだったのかなぁ。』


僕は全てを彼女に打ち明けて、じっと下を向いていた。出てくる嗚咽と涙を止めるので精一杯だった。

彼女は僕の胸のうちを聞いて、しばらく考え込んだあと、呟くようにこう言った。


「…そんな奴がいるからこの世界はいつも濁ってるんだよね。」


彼女の表情には、うっすらとした怒りを感じた。

彼女が怒りを表に出すことは珍しかった。


「…頑張るのが悪いなんて、そんなこと絶対にないよ!必死の何が悪いの!」

『…恵…。』

「海斗、頑張っていいんだよ。自分の欲しいものはさ、自分にしか手に入れられないんだから。」


人生、目一杯頑張るのだー!と彼女は小さな拳を突き上げた。いつもの恵の様子にひどく安心した。

心にあった冷たい塊はいつしかなくなっていて、代わりに、彼女から貰った温かい優しさがあった。


「バカみたいな奴に嫌われたって、どうってことない。海斗は海斗だからね。」


誰かのために本気で怒って、本気で泣ける。

そんな優しい人だった。

…だからこそ、彼女は誰も傷つけないように、全てを自分のせいにして生きてきたのだろう。


悔しい。

あんなに優しい人が傷ついて、苦しい思いをする世界なんて許せない。あの時、僕のために本気で僕の見る世界を優しく受け止めてくれたから、僕は僕になれた。だから恵、僕も本気で受け止める。君のような柔らかな心は持ち合わせていないけれど。それでも、精一杯、僕の優しさってやつを君にあげる。それでいっぱい話そう。君が苦しくなくなるまで。


君が少しでも、この世界を好きになれるまで。



    *      *      *



私の親友は、強い人だった。


恵とは、小学1年の時に出会った。

恵はいつも明るくて元気で、少しのトラブルにもへこたれない、強い心を持っていた。私も、昔から人と話すことが好きだったので、私と飽きもせず話してくれる強くて優しい恵のことが、大好きだった。

それと同時に、少し、恵のことがいつも羨ましかった。勉強もできて優しくて友達も多いのも素敵だと思っていたが、一番羨ましかったのは、家族がとても優しいことだった。


一度だけ、恵の家に泊まらせてもらったことがあった。口数は少ないが、料理が上手なお父さんと、おしゃべりで快活なお母さん。何より、私のことを本当の家族のように迎え入れてくれたのだ。

あのときの胸の温かさは、今でも覚えている。


私の家とは大違い。

私が欲しくて欲しくて仕方なかったものが、あそこにはあった。


『ただいま…』

「あぁ帰ってきたの。じゃあさっさと皿洗って部屋行って。」

『…。』


私の母親は冷たい人だった。

というか、私にだけきつく当たってくる。でもその代わり、私の妹のことは溺愛しているのだ。妹が生まれる前は、私にも愛情を向けてくれていたと思う。だが、妹が生まれてからは、私のことなんてそっちのけ。私よりも妹の出来がいいから、可愛がっているのだろう。


妹の十和は今年で小学3年生になった。

私も十和のことは可愛い大事な妹だと思っている。

だから、母親からの雑な扱いにも耐えられる。全部、十和のためだと思えば。


でも、心の中にずっと、自分がここに存在する意味について疑問に思う気持ちが、巣くっていた。


そんな日々が10年ほど続いていた。

私が中学3年、受験期真っ只中の頃だった。


『母さん、高校のことなんだけど…私、』

「…」

『…えっと、私、ここに行こうと…』

「あーどうでもいいけど、私立はやめてよ?お金出すの私なんだから。」


なんなんだこいつは。


私はふと冷静になった。何のために、こいつの顔色を窺って生活しなければいけないんだ。心の中にあったどす黒い気持ちが、面積を増やしていく。

…やっぱり、私は、この家族にはいらない存在なのかもしれない。


私は、何で、ここにいるんだろう。


生まれて初めての感情に、私は完全に理性を失っていた。気づけば私は、あらゆる思いを降りてくる言葉と共に叫んでいた。


『いい加減にしてよ。』

「…何?反抗期とかやめてよ?」

『うるさい!!私は今までお前の言うこと散々聞いてきてやっただろ!!十和にばっかり構って!私のやってきたことって何のためだったの!』

「何よいきなり…あんたがいい加減にしなさい。はぁ…ほんとにめんどくさい…。」

「ねぇね…怒らないで…」


流れ出る言葉は私の力ではせき止めることができない。私を心配して、恐る恐る袖を引っ張る十和にもひどいことを言ってしまった。


『そもそも十和がいるからうまくいかないの!!』

「…ねぇね…?」

『…あんたなんて…いなければよかった…。』


私はいてもたってもいられなくなって、勢いよく玄関を飛び出していた。十和や母さんの止める声も振り切って、一心に走っていた。

私は、あの母親に、十和に、今まで溜め込んでいたものを全てぶつけてしまったのだ。

最低だ、最低だ。そう言い聞かせていると、自然と涙が溢れてきた。あんなこと言いたかった訳じゃないのに。


寒空の下を夢中で走りながら、私は恵のことを考えていた。そして、自然と足は、今まで何回も歩いてきた恵の家までの道のりをたどっていた。


辛い。苦しい。

…あの、優しさが欲しい。


恵の家に着くまでに、長い時間はかからなかった。

家の窓から、温かいオレンジ色の光が漏れだしている。私は鼻水をすすりながら、恵の家のインターホンを2回押した。それは小学校時代から決まっている、私が来たという合図だった。


「は~い…って、美琴?!どうしたのこんな時間に…ほっぺ真っ赤だよ?!」

『…恵ッ…ごめん、急に押し掛けて。』

「…いいよ。とりあえず入って!私、今家に一人でさ~寂しかったんだよね!」


玄関を開けた先にいた私の異常事態を察知して、一瞬戸惑いの表情を見せた恵だが、瞬きの間に、いつもの温かい笑顔に戻っていた。


暖房が効いて十分に暖まった部屋に通され、恵が隣に座った瞬間に、止まっていた涙が、また溢れだしてきた。


「わ~っ美琴!泣かないで…どうしたの?」

『…うぅ…っぐす…』


私の冷えた体を一生懸命温めようと、恵はずっと背中をさすってくれていた。このメンタルの時にその優しさは、かなりくる。

私はそのまま事の詳細を恵に吐き出してしまった。


『…ッ私、母さんに愛されてなんてないみたいで。いつもほったらかしで、母さんは十和のことばっかりなの。』

「うん。」

『そっ…それで、なんか、我慢出来なくなっちゃって、いい加減にしてよって、言ってきたの。』

「…そっか。」


『…私、いらない子だったのかなぁ…。』


そう呟くと、美琴は私を優しく抱き締めてくれた。

そして、ゆっくりと、私に言い聞かせるように言った。


「美琴は、一人じゃないよ。」


『…!』

「寂しかったよね。一人でずっと抱えてたんだよね。ごめんね。気づいてあげられなくて。」

『…恵…』

「この世にいらない子なんて、誰もいないよ。」

「ほら、家が嫌ならさ、華月家が第二の家でもいいんだから!いつでも来て?

だから、大丈夫。君はここにいてもいいの。」


嬉しかった。安心した。

恵の言葉は、私の心にゆっくりと染み渡っていった。まるで優しい雨のように、降り注いでいた。

ここにいてもいい。恵はいつだって私が一番欲しい言葉をくれる。それも、本心から。

私は、このときから全てが変わったように感じている。私の世界を変えたのは、間違いなく恵なのだ。


泣き止んだ私を家に送り届ける時、背中をばしっと押してくれた。そのときの恵の表情は、力強く、頼もしい、太陽のようだった。だから私も、十和にも母さんにも謝ることができたし、母さんと、生まれて初めて本音で話すことができたのだ。


恵には本当に感謝してもしきれないものだ。

ここにいてもいい。一人じゃない。君の言葉は今でも私の中で、光を灯し続けている。

だから恵、今度は私の番だよ。一人じゃないって、君が言ったんだ。ここにいてもいいって、君が言ったんだ。


君が光をくれた私の言葉で、君の真っ暗な心に光を灯すよ。私達がどれだけ恵のことが好きか、分かって貰わないとね!


     *      *      *


私達は静かに涙を流していた。

今ある感情は、恵にそのままぶつけないと意味がない。だから、ここで思いを溢すのはやめておいた。


下に視線をやると、高校から続いていた花道の続きがはっきりと見えるようになっていた。先には何があるのかと、近視気味の目を凝らして遠くを見た。

私の目が捉えたのは、花道が途切れた先には大きな川があったこと。そして、その対岸の岩に、一人の女性が座っていることだった。


『みんな!あれ、見える?』

「…え?……あぁ!誰かいるな。」

『あの人、恵かもしれない!!』

「…!!」


じわじわと滲む涙を服の袖で拭って走り出した。

和泉達も急いで立ち上がり、恵らしき人の元へと走っていった。


恵、恵に会える。もう一度、恵と話せるかもしれない。辛かったこと、悲しかったこと、全部話してもらえるかもしれない。

そう思うと、自然と地面を蹴る足は速くなった。


だんだんと近づいてくると、対岸にいる女性が恵であると言う考えが、確信に変わった。

間違えるはずがない。

あれは、紛れもなく、私達の親友。恵だ。


「『恵!!!』」

「「華月!!!」」



     *      *      *



私は、弱い人だった。


母親からは、幼少期の私は「手のかからない子だった」と聞いている。大人の言うことをよく聞き、小さいながらにも周りに気を遣っていた。私はそれが正解だと思っていたのだ。なぜなら、そうすることで、誰かから褒めて貰えるから。


そして、ありもしない『正解』を探し続けるという人格の根本が出来上がってしまったのだ。


そんな人間が、高校生になって"自分で考えて、これからの道を決めろ"と言われても、戸惑うばかりである。何が正解か、どうするべきなのか。幼少期から変わらない思考回路をひたすらに巡らせるしかなかった。


私ってなんだろう。

テンプレートをなぞったようなこの日常に、意味なんてあるのだろうか。この変わらない日常で、本音を見失った私に、価値なんてあるのだろうか。


『わんこ…私、どうすればいいのかな。』


毎晩、布団の中で考える。長年一緒にいる犬のぬいぐるみに問いかけたこともあった。だが、どんなに時間がたっても、自分が納得するような答えは出なかった。

今まで自分の意思を無視して、相手に合わせる生き方をしてきた結果がこれだ。今更、自分のやりたいようにやるなんて、到底無理な話だ。


この人生で持ち合わせてしまった暗い思考のせいか、私はクラスで"いじられ役"のような立場になったようだった。


「あんたってほんと空気読めないよね~」

『…そう…かな。ごめんね。』


「何で来たの?別に来なくて良かったのに。」

『も~やめてよ傷つく~』


「恵ちゃん、私らの仕事代わりにやっといて。どうせ暇でしょ?」

『…う…うん!分かったよ。』


学校生活で、日常的に投げ掛けられる言葉たち。

冗談だとは分かっていても、それは私の心を貫くのには十分な力を持っていた。


小学校時代のような、明るくて元気な性格が嘘みたいだ。そう思うたびに、ますます自分が分からなくなる。


「華月さん、これ明日までにやってきてね。」

『…はい。』

「今日の部活は18:30までやりま~す!」

「はい!恵ちゃん、舞台頑張ろうね!」

『…うん!頑張ろう!』


部活でも心が休まることはなかった。

私の憧れていた高校の演劇部は、超が付くほどの忙しい部活だった。下校完了時間ギリギリまで活動をするし、片付けなどを含めると、私が家に帰ることができる時間は20:00くらいだった。


もともと体力もあまりなかった私は、一週間ほどで体調を崩し、すぐに部活を辞めた。


大嫌い。大嫌い。大嫌いだ。

でも、彼らを拒絶する言葉を無意識に飲み込んで、思っていることとは全く違う言葉しか出てこない。

…何も言えない、逃げてばかりの弱い私のことが、一番嫌い。


誰かに話そうかとも考えた。だけど、誰も傷つけてはいけない。誰にも迷惑をかけてはいけない。幼少期から刷り込まれてきた言葉が、私の喉を絞め、何も話せなかった。


『こんなはずじゃなかったんだけどなぁ…。』


ずっと、私だけの世界があればいいのに。なんて、叶いもしない理想を妄想しながら生きることで、なんとか精神を保っていたのだ。


いつの間にか、食事をとる量も減り、眠れない日々が続いていた。それでも容赦なく明日がやってくるため、学校に備えて予習とかの準備をしなければならない。行きたくなくても学校に行かなければならない。教室に入れば、大嫌いな奴らにいいように使われる。毎日、毎日、毎日。


もう無理だと思った。

気がついたら、美しい彼らとの思い出も、これから先の希望に満ちた将来も、見えなくなっていた。

本音を圧し殺して圧し殺して、本当の自分さえ見えなくなっていた。

見渡す限りが闇。繰り返される日々に、必ずやってくる明日という日に怯える毎日だった。


夏休み直前のある日のことだった。その日は学校が休みで、家に一人だった。

静かな部屋で、いつものように机に向かっていた。そしてふと思ったのだ。

今日で、終わりにしよう。

茹だるような暑さの日だった。


それからは速かった。

長年一緒にいる犬のぬいぐるみを一瞥する余裕すらもなかった。

部屋にあったカッターをおもむろに掴んで、風呂場に向かった。シャワーで冷たい水を出して、床に座った。今日のような暑い日は、冷たいシャワーが心地よかった。持っていたカッターで思い切り左手首を切る。できるだけ早く、多く、血が出るように。

…できるだけ早く、死ねるように。

だんだんと意識が遠のいていくのを感じていた。あぁ、私は死ぬのだ。はっきりと分かると、走馬灯のように、彼らとの思い出が蘇ってきた。


「華月!今年のお前の誕生日はみんなで焼き肉食いに行こうな、約束!」


ごめん。


「華月。来月の大会、俺レギュラーで出るから、見に来てくれよ。応援頼む。」


ごめん。


「恵、来年の春にあのアニメ、映画化するんだって!一緒に行こうよ。」


ごめん。


「恵!駅前に新しいカフェできたらしい!イチゴのフラペチーノ、飲みに行こう!」


…ごめん。


ごめんねみんな。約束、守れそうにないや。

でもみんななら、私が一人いなくなったところで、何も変わらないよ。みんな、私がいなくなっても、生きていけるんだから。

私なんて、もう、どうでもいいんだよ。


涙が流れたことは、気づかないふりをした。


どうかみんなが私のこと、忘れてくれますように。



瞼がゆっくりと閉じていく。

手足の感覚も、なくなっていく。


風呂場のタイルを流れていく赤い水が、私の最後の記憶となった。



『…ぇ、ここ…どこ…?』


私が次に目覚めたのは、家でも病院でもなく、暖かい日が差す世界だった。青空から少し視線をずらせば、緑色の芝生に、赤や黄色の小さな花が咲き誇っていた。まるで、私を励ましているように。


私は、ちゃんと死ねたのだろうか。


そんなことを考えていると、どこからともなく声が聞こえてきた。それは、質の悪いマイクを通したような、少年の声だった。


「あー…聞こえる?恵。」

『…誰?!』

「えっと…僕はその、神様、みたいなもんだよ。」

『神様?』

「そうそう。僕は君だけの神様なんだ。」


ここは、天国なのか。やっぱり、私は死んだんだ。


「ここは、恵だけの世界だよ。」

『…へぇ…綺麗…。』

「そうでしょ?だから、ここで、僕と一緒に過ごそう?きっと楽しいよ!」


不思議と嫌な気はしなかった。むしろ、喜びすら感じた。神様?みたいな人の姿は見えないけれど、どこか、初めて聞く声ではないみたいな安心を覚えた。


『ねぇ、あなたの名前は?』


そう虚空に問いかけたが、返事はなかった。

教えてくれてもいいのに。神様だから、名前なんてないのか?ぐるぐると考えているうちに、声は完全に聞こえなくなってしまった。


私はゆっくりと立ち上がり、その辺をふらふらと歩いてみることにした。しばらく歩いていくと、どういう訳か、私の家、出身小学校、中学校、高校が見えてきた。でもその建物はボロボロで、どうにも中に入ろうとは思わなかった。なぜだろうという考えは全く浮かばなかった。ただただ、この世界が美しかった。


『…すごい…』


この世界は、静かだった。

人間はおろか、鳥や虫なども見当たらない。

ただ、青々とした芝生と色とりどりの花畑が広がるばかりであった。


誰もいない。

誰にも、会わなくていい。

…笑顔を、作らなくていい。


そう思ったら、自然とこの世界が素晴らしく思えた。私だけの世界。今までどんなに思い描いても手に入らなかったものが、今、ここにある。


充実感に顔を緩ませて、切り株ほどの岩に腰掛け、側にある小さな川を眺めていた。

心地よい音だけが、私の耳に入って、幸せだった。


どれだけ時間がたっただろうか。かなり長い時間眺めていたら、いつの間にか、対岸に渡れないほどに川が大きく広くなっていたことに気づいた。その時突然聞こえた、聞き覚えのある声で、はっと我に帰った。

それは、私の大好きで大好きで仕方ない、でも今一番聞きたくなかった、彼らの声だった。


「「恵!!!」」

「「華月!!!」」


     *      *      *


『…恵!!!』

「………美琴……?」


恵だ。恵がいる。


言葉を発する恵を見て、心から安心した。また、恵と話すことができる。みんなで話すことができる。

でも、目の前にあるのは大きな大きな川。とてもじゃないがこのまま突っ切って渡ることはできないだろう。私達が尻込みしていると、向こう岸で恵が口を開いた。


「何でここにいるの…?」

『えーっと…何で…何でかぁ…』

「ほんとに何で来れたんだろうな!」

「神様的な人に、ここに恵がいるって聞いて…」

「華月を元の世界に引き戻せるんじゃないかって思ったんだ。」


恵は、一瞬私達の方に顔を向けたが、すぐにうつむいてしまった。そして、小さな声で言った。


「…帰って。」

『…え?』

「帰ってよ!!何でこんなところまで来たの?!もうほっといてよ!…やっと死ねたと思ったのに…」


そう叫ぶ恵は表情こそ見えないが、今まで聞いたことのないほどの、泣き叫ぶような声をしていた。


『…恵…』


衝撃的な言葉に、何も言えなかった。

対照的に恵は、感情のセーブが効かないようで、初めて私達に、自身の思いの丈を話し始めた。


「全部嘘だったんだよ!笑ってれば幸せになれるっていうのも、頑張ってればきっと報われるっていうのも!……バカみたいだよね?」


「大人に言われたことをバカ正直に信じ続けて、守ってきたんだよ。その代償がこれ…。」


「もういい…。自分が分からない私は、私でいることができないの…。こんなんじゃ、周りに迷惑かけるだけだし。生きる意味もないの。」


「だから…もう、私のことなんてさ、気にしないでよ。私がいなくても、何も変わらない…。」


恵はその場に座り込んで動かなくなった。

恵は、私達の知らない間に抱え込んできた感情を吐き出したようだった。私達がこの世界で見てきた恵の数々の心の傷。今なら分かる。彼女がどれだけ傷ついて来たのか。

初めて聞く恵の悲痛な叫びに、言葉が詰まる。


かなり長めの静寂。

何か言わないと。そう、焦り始めた時だった。


「…お前、意外とバカだったんだな。」

「…っ!」

「中学の時、学校行けなくなりそうだった俺に声かけてくれたよな。」

「あの時の俺が、お前にどんだけ助けられたと思ってんだよ!!」


静寂を破るように口を開いた和泉は、今までみたことのないような悔しさと悲しみが入り雑じった表情を浮かべていた。

和泉の叫びが着火剤となって、私も含め、皆口々に恵への思いを叫んでいく。普段、あまり大きな声を出さないような海斗や入夏も、それぞれの心のままに話していた。


「高校受験の時、俺に声かけてくれたよな。あの時、俺は救われたんだよ。紛れもない華月に。」


「僕も!部活で心折れそうだった時も助けてくれたよね!ずっと辛かったけど、恵のお陰でまた頑張れたんだよ!」


『私だって!家族のことで、家飛び出して来ちゃった時も、迎え入れてくれたじゃん!』

『私、すっごく嬉しかったんだよ!』


「…でも……私はみんなみたいに強くなくて…」


対岸の恵はひどく戸惑っている様子だった。

小さい頃から培われた自身への過小評価は、そう簡単に拭いとれるものではない。だからこそ、今ここで、私達の思いを知って貰わなければならない。

ここで言わなければいつ言うのだ。


今の恵にはストレートに言わなければ伝わらない。

今までのことをつらつら並べたって仕方ない。


私達の言いたいことはひとつだけ。


『どんな恵でも、大好きだよ。』

「…!」


君が弱くてもいい、どうしようもなく不器用でもいい。私達は、この世界の誰よりも、君が大事なんだ。


君の痛みも、辛さも、分かってあげられなかったけど、君がどうしても一人で立てなくなったときは、私達が一緒に歩くから。また、あの日のようにバカ騒ぎしよう。あの日のように、くだらない話をしよう。だから、恵。


『絶対に、死なせてあげない。』


君は、私達と一緒に生きるの。


     *      *      *


そうだ。私は、

死にたくなんてなかったんだ。


嫌われたくないとか、忘れて欲しいとか、そんなことはどうでもいい。


私の心を分かって欲しかった。誰かに向けた優しさに気づいて欲しかった。絶対に彼らがいなくならないという確証が欲しかった。

和泉、朝陽、海斗、美琴。あなたたちに、そばにいて欲しかったんだ。


そう思った瞬間、バチッと身体に静電気のような軽い衝撃を感じた。そして目の前の大きな川に、大きな橋がかかった。


「恵!!」

「よっしゃ!」


対岸にいた美琴達が駆け寄ってくる。

私はその場に座り込んで動くことができなかった。

転びそうになりながら走ってきた美琴に、強く、強く抱き締められた。それから、和泉、朝陽、海斗も安堵の表情を浮かべて集まってきた。


「も~良かったぁ…」

「恵…ほんとに良かった…」

「もう会えないかと思った…。」

「…困ったらまず俺達に言えって…」


春のような暖かさを全身に感じて、私はまた涙が溢れた。心配をかけて申し訳ないとか、こんなところまで来てくれてありがとうとか、言いたいことはたくさんあった。でも今はただ、彼らのまっすぐな優しさが、幸せで幸せで仕方なかった。

私はこんなにも恵まれているのだと、改めて思った。彼らのいう通り、もう少し、生きてみようと思った。


『…うん。…うん。…ありがとう…みんな。あと、ごめん。心配かけて…』

「ううん。いいの。っていうか心配くらいさせてよ。私達、"いつめん"なんだから。」


ふいに、聞き覚えのある声が聞こえた。

それは、質の悪いマイクを通したような少年の声で、すぐに先ほどの自身を神様と名乗った人物の声だと分かった。


―よかったね。恵。―


『…?』

「なんだ?今の…。」

「さっきの神様?!」


刹那、私達全員の身体に何回目かの静電気のような軽い衝撃が走った。


『…!』


そこで私達は、完全に意識を手放してしまったのだ。


    *       *       *


「…ぐみ…めぐみ…恵!!」

『…ッ!』

「よかった…目が覚めた…。」

「俺らもさっきまで寝てたんだ。」


美琴の私を呼ぶ声と、頬を伝う涙の感覚で目が覚めた。長い夢を見ていた気分だ。

みんなが私の心の中に来てくれて、それで…


「恵さ…俺たちの夢って…見た?」

『…!!見た!…見たよ!』

「やっぱり夢じゃなかったんだ!!」

「夢っちゃ夢だけどな。」


私含め、ここにいる全員が同じ夢を見ていたようだった。みんなが私の心とおぼしき世界に足を踏み入れてくれたお陰で、私はこうやって今、息をしているのだろう。そう思うと、感謝で胸がいっぱいになった。


『みんな、…ありがとう。』

「うん。また会えて良かったよ。」


それからというもの、私が徐々に体調を回復していく中で、いつものメンバー達は毎週のように誰かしらが見舞いに来てくれた。その甲斐もあって、私は確実に快方に向かっていた。 


そして数週間後、医師から退院の許可をもらえたのだった。


私は数週間ぶりの家に帰ってきた。

しばらく帰らないだけで、こんなにも違って見えるものなのかと不思議に思っていた。記憶の最後に来た自室は、最悪の感情しかなかったが、今となっては少しの安心感さえ覚える。だが、家に帰ったときに感じた違和感は私の部屋で一段と大きくなっていた。


『…わんこ…?』


普段ならベッドの上で異色の存在感を放っているブルドッグのぬいぐるみが、ない。


『おかーさん、わんこってどっかやったの?』

「…わんこって…何?」

『何って…私のぬいぐるみだよ。』

「あんたぬいぐるみなんて持ってないでしょ?」


どうなっているんだ。

わんこのことは、父親にもあのメンバーにも聞いてみたが、誰もが口をそろえて「そんなものは知らない」と言う。


何かの因果関係で、わんこの存在ごと消えてしまったのか?そう考えるほどに探したが見つからない。

もう一度調べようと自室に戻って、おもむろにわんこの居たところにそっと触れた時だった。


『…ッ』


その瞬間、私の脳内に私のものではない「誰か」の記憶が流れ込んできた。


     *      *      *


神様になりたい。なんて思い始めたのは、あの子が高校生になってからだった。

だけど僕は、神様なんかじゃない。



   ――僕は、ぬいぐるみだった。――



恵と出会ったのは彼女が小学3年生の時だった。

僕は大通り沿いの雑貨店にいた売れ残りだった。

暗い店内に一人、どこへ行くこともできずに、横たわっている毎日だった。


僕は、寂しくて寂しくて仕方なかった。


いくらデフォルメ化されていたとしても、ブルドッグのぬいぐるみは、他の柴犬とか、トイプードルとかより人気が出ないのは当たり前だろう。

でも僕は、希望を持ち続けた。だって、この世には、神様が居るんだから。きっと誰かが、僕を見つけてくれる。僕を、救ってくれる。そう思っていた。


『あっ!おかーさん!私、この子がいい!』


あの時のことは今でも鮮明に覚えている。彼女は僕を見つけると、きらきらの目をして、一直線に走ってきた。売れ残りのカゴから僕を抱き上げた。


ほら、やっぱり神様がいた。


恵は僕に"わんこ"という名前をつけた。

恵の家族には、ネーミングセンスについていろいろと言われていたが、恵は『わんこがいいの!』

と言って、また僕を抱き締めた。

嬉しかった。僕を必要としてくれた恵には、感謝してもしきれない。でも、それを伝える術を、僕は持ち合わせていなかった。だからせめて、恵に何があっても、僕だけは味方でいようと決めた。

それだけが、僕にできる、最大の恩返しだった。


それから、僕は恵と日々を過ごしてきた。


活発な小学校時代には、恵の家に来た友達に、たくさん僕を自慢していた。美琴と会ったのもその頃だった。小学生の恵は、男の子と混ざってサッカーをするような、元気で明るくて、それでいて、周囲に気を遣い続ける優しい子だった。

友達もたくさんいて、誰からも好かれる恵が、僕も大好きだった。


中学生になった恵は、小学生の時よりずっと落ち着いたようだった。いや、落ち着いたというか、いつも何かの不安を抱えているような感じだった。


『…わんこ、私、みんなとうまく話せないや。』


恵は僕を撫でながら呟く。

僕はぬいぐるみだから分からないけど、新しい環境で、新しい人と友達にならないといけないという強迫観念に駆られているようだった。恵はもっとみんなを照らすように笑うのに、今の笑顔にはいつもどこか陰りがある。僕は恵を助けたかった。


でも、僕は話せなかった。


中学3年生になると、恵の笑顔には少しずつ光が戻ってきたように感じた。


『わんこ聞いて!私、美琴と同じクラスなの!』


恵がかの"いつめん"と出会ったのもこの時だった。

3年生のクラスには、恵が苦しむような出来事はないし、恵をいじめる人もいない。あのいつめん達のお陰で、恵は笑うことが増えていった。

安心する反面、恵を笑顔にする役目をとられた気がして、少しいつめん達が羨ましかった気もする。


人と話すことが苦手になっても、わずかな陰りがあっても、僕は恵が大好きだった。


恵は、高校受験も難なく突破し、高校生になった。

今度行く高校には、ずっと気になっていた演劇部があるんだと言っていた。楽しそうに話す恵を見て、僕も楽しくなった。


でも、それはすぐに消えていった。


部活が始まってから、恵は夜の8時過ぎくらいじゃないと、帰らなくなった。どうやら、恵の入った演劇部は、毎日遅くまで活動する部活だったらしい。

一週間ほどたって、恵は体調を崩すようになった。

元々、人より長い時間の睡眠を必要とする恵だ。睡眠不足が祟ったのだろう。

恵はすぐに部活を辞めた。


部活を辞めてからは、毎日2時間ほど早く帰ってくるようになったが、代わりに恵は毎晩遅くまで勉強するようになった。ある時は夜の2時くらいまで、予習ってやつとか、復習ってやつとかとにらめっこしていた時もあった。

明日も早く起きないといけないよ、身体に悪いよ、もう寝よう。そう言いたかったけど、無理だった。

僕はベッドから恵を見つめることしかできなかった。


部屋の電気が暗くなり、やっとベッドに入ってきたと思って、ふと恵の方を見ると、恵は静かに涙を流していた。


『…うぅ…』


あれ。恵、どうして泣いてるの。

その時は、勉強が辛かったのかなとか、何か嫌なことでもあったのかなと思うだけだった。


それから恵は毎晩、毎晩、涙を流すようになった。


それは1年間続いた。


恵は、お父さんお母さんや、いつめん達にその事を相談することはなく、ずっと僕だけに涙を見せていた。


「恵、最近ご飯あんまり食べてないけど、どうしたの?大丈夫?」

『あー…ダイエット中なんだよね~』


食事の量も、睡眠の量も減り、恵はボロボロだった。でもそれを誰にも悟られまいと、毎日笑顔を張り付けていた。それはあの頃の太陽のような笑顔ではなく、機械で口角を無理やり吊り上げたような笑顔で、僕はひどく悲しくなった。


恵が高校2年生になった年の夏、恵は突然、カッターをおもむろに掴んで立ち上がった。そしてそのまま階段をゆっくりゆっくり下りていったようだった。僕は言いようもない不安と焦りを感じた。

恵を止めないと。恵が、いなくなってしまう。


でも、僕は動くことができなかった。


20分ほどたっただろうか。下の階から、お母さんの悲鳴が聞こえた。


「恵!!!しっかりして!!!恵!!!」


それからすぐだった。

恵が自殺未遂をしたと知ったのは。


どうして?神様。どうして恵をあんなに苦しめたの?…どうして、恵を助けてくれなかったの。


僕は思い知った。

神様なんていないってこと。


ごめん恵。僕は、僕だけが、君が苦しんでることを知ってたのに。毎日涙を流していたことを知ってたのに。

でも僕は、ぬいぐるみだった。

動くことも、話すことも、笑うことも、涙を流すこともできない。

僕がぬいぐるみじゃなければ、僕が人間だったら、恵を救うことができたのかな。あの時、恵が僕を救ってくれた時と同じように。


悔しい。悔しいよ。

どうして、あんなに優しい人が苦しまなくちゃいけないんだ。

そうだ。僕の大好きな恵を苦しめる世界なんて嫌だ。恵を守る神様がいないなら、僕が神様になればいい。そう思ったんだ。


それから僕は、恵の心の中の世界で、恵を守ることにしたんだ。恵が少しでも元気になるように。

でも、恵が元に戻ることはなかった。静かに口角を上げるくらいで、あの太陽のような笑顔には程遠かった。

だけどこの世界に、彼らが来たことによって、恵は抱え込んでいたものを吐き出して、以前の笑顔を取り戻したようだった。

僕は、何もできなかった。



僕は、神様になんて、なれなかったんだ。



でも、恵には、彼らがいてくれる。僕と同じくらい恵のことが大好きな彼らが。だから僕はもう、必要ない。

ちょっと悔しいけど、仕方ない。

和泉、朝陽、海斗、美琴。


恵をお願い。


そう想った途端、僕は全身の力が抜ける感覚に襲われた。もう消えてしまうと、直感で分かった。


薄れ行く意識の中、僕は幸せだった。

だって、大好きな恵の心の中で眠れるなんて、とっても嬉しいことじゃないか。


だけど、ひとつだけ。最後にひとつだけ、僕の願いが叶うなら。


もう一度、名前を呼んでくれたりしないかな。


     *      *      *


『うぅぅ…』


あまりの衝撃でベッドに倒れこむと同時に、涙が止めどなく流れてくる。

一瞬にして私の脳内に溢れた記憶は、間違いなく、わんこのものだと分かった。


遅すぎる。今更気づいたって。

わんこは、私の一番近くで、一番私を想ってくれていたのだ。私が自殺未遂なんてしたから、あの世界を作って、自分の姿を隠して、私を外から守ってくれていたのだ。


ごめん。ごめん。わんこ。

全部君のお陰だ。君のお陰で私は軽率な決意で死ぬことがなかったんだ。全てを伝えようにも、わんこはもういない。


まだ、ありがとうも言ってないのに。


『…あったかい。』


わんこがいたはずの枕の側が、妙に温かく感じた。

わんこが、「大丈夫」って言ってくれているように感じるのは親バカというか、飼い主バカだろうか。


それでもいい。

その温かさは、私を奮い立たせるのには十分すぎるものだった。


これからは君のために、君たちのために、前を向いて生きるよ。これが私にできる、最高の恩返しだと思った。

誰も居なくなった枕の側に向かって呟いた。

私の心の中にいる、神様に。


『わんこ、ありがとう。』


     *      *      *


「恵~今日2限終わったら駅前のカフェ行こ!」

「好きだね~美琴。いいよ!」

「え~俺今日午後まであるわ~。」

「僕ら休みだから、朝陽と今日のタコパの買い出し行ってくるよ!」

「ロシアンたこ焼き作るか。」

「朝陽邪悪~」


あの出来事から2年が経った。

僕はどうやら恵の守護神的な立ち位置にしてもらうことができたみたい。だから、あれからずっと、恵のこと、見守ってるんだ。今なら昔の「神様になりたい」っていう夢も、叶えられてるのかな。まぁ、今となってはどうでもいいか。


恵は、いつめんと一緒に大学生をやってる。

大変なことはあるみたいだけど、なんとか楽しく乗り越えられてるみたい。よかった。今は近くに、心強い親友達がいるから、僕も安心だよ。

彼らも、恵のことは相変わらず大好きみたい。当たり前だよね。


だって恵は今も昔もずーっとすてきな人だからね!

そして、僕の、ずーっと大好きな人だから!


    *      *      *


あの日の僕を、彼らを、

救いだしたのは他の誰でもない。



誰よりも優しい、君という想。



                  END


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君という想 こんぶ138 @138_k

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