第88話 レース(後)


 レースが始まる直前ににわか雨が降った。

 南国のスコールみたいな大雨だ。

 このままレースが中止になってくれたらなあ、なんて考えたけどそうはいかず、雨は三十分ほどでやんでしまった。

 無情にもレースは再開だ。


「やあやあ、セディー君の馬が出走するんだって?」


 僕に声をかけてきたのはマッショリーニさんだった。

 今日は青い小粋なネクタイを締めている。


「成り行きなんですけどね」

「どれどれ……」


 マッショリーニさんはポケットからオッズ表を取り出した。


「一番人気はアレクサンドリアか。まあ、順当ですな。そしてセディー君のシルバー・シーズンは10番人気ですな」

「実績がぜんぜんないですからね。そんなものでしょう」

「ですが、これはギャンブラーの血が騒ぎますな。どれ、セディー君の馬に10万クラウンほど賭けてみますか」

「本気ですか?」

「ガンダルシア島ではいくつもの奇跡を見せてもらいましたからね」


 マッショリーニさんは軽くウィンクすると馬券を買いに行ってしまった。

 知り合いに損はさせたくないけど勝負の行方はどうなるかわからない。

 僕は祈るような気持で開始のときを待った。


 競馬場にファンファーレが鳴り響き本日のメインレースの開始を告げた。

 曇っていた空もいつの間にか晴れ渡り、太陽が濡れたレース場をまぶしく照らしている。

 お、シャルとシルバーがゲートに入ってきたぞ。

 どちらも余裕の表情をしているなあ。

 馬がすべてゲートに入りレースはスタートした。

 え……、第一コーナーを曲がった時点でシルバーはビリじゃないか!

 余裕な顔をしているけど、後半から追い上げる作戦かな?

 あれだけ頼んでもダメだったかあ……。

 それに比べて一番人気のアレクサンドリアはさすがだな。

 他の追随を許さない力強い走りをしているぞ。

 しかもまだまだ力を残しているようだ。

 それにしてもどの馬も走りにくそうにしているなあ。

 さっきまでの雨でコースがぬかるんでいるからだろう。

 内側は特にぬかるみがひどいようで、どの馬もコースの外側を走っている。

 って、シルバーとシャルがぬかるみに突っ込んでいくぞ!

 しかもスピードは落ちるどころかグングン上がってきているじゃないか。

 え、さっきまで最後尾にいたはずなのに、もう中盤に陣取っている⁉

 いつのまにワープしたんだよっ!

 これは最後までどうなるか分からなくなってきたぞ。

 横でレースを見ていたマッショリーニさんも大声で声援を送っている。


「いいぞ、シルバー・シーズン! その調子だ!」


 第二コーナー、第三コーナーとカーブを曲がるたびにシルバーは順位を上げて、いまや二位につけていた。

 先頭を走るアレクサンドリアとは三馬身ほどの差になっている。

 そして、レースは最後の直線に差し掛かった。


「差せ! シルバー! 差せぇえええええええっ!」


 マッショリーニさんの声が聞えたせいだろうか?

 それまでレースを舐めくさっていたシルバーの表情が不意に真剣みをおびた。


「シルバー、いくでありますっ!」


 観衆のざわめきにも負けないシャルのドラゴンボイスが響き渡り、シルバーの四肢に新たな力がこもる。


 ズッキューンッ!


 そんな効果音が聞こえてきそうなほどシルバーは加速し、最終的にアレクサンドリアを五馬身も離してゴールしてしまった。


「うおおおおお、シルバーァアアアア!」


 僕の隣ではコロコロ体型のマッショリーニさんがハンカチを振りながら歓声を上げている。


「おめでとう、ダンテス男爵。ほんとうにおめでとう!」

「ありがとうございます。まさか優勝するとは思いませんでしたよ」

「いやあ、近年稀にみるおもしろいレースになりましたな。素晴らしい馬ですよ。見てごらんなさい、あの堂々とした姿を」


 シルバーは疲れた様子もなく、応援してくれる観客たちに愛想を振りまいていた。


 シルバーを迎えにレース場へ下りていくとめずらしく僕の顔をべろんべろんと舐めた。

「見たか? 俺の走るところを見たか?」と聞いてきているようだ。


「すごかったね。さすがはシルバーだよ」

「フンスッ!」

「シャルもありがとう」

「楽しかったであります。シャルはまたレースに出たいであります!」

「ヒヒーン!(俺は飽きた!)」


 シャルとシルバーはずっとご機嫌だった。

 それと、アレクセイ兄さんから領地はきっちりいただいた。

 証明書も作ったから文句は言わせないもんね。

 兄さんは不機嫌な顔でサインしていた。


 ***


 都から領地へ帰ってきたアレクセイはかなり不機嫌だった。

 自分の馬が負け、猫の額ほどとはいえ領地まで失ってしまったのだ。

 悔しいのは当然だろう。

 使用人たちは伯爵の機嫌を損ねないようにビクビクしていたが、ひとりだけそんなことなど意に介さない者がいる。

 クレアである。


「お父様、セディーの島へ泊りがけで遊びに行きたいのですがよろしいでしょうか?」


 クレアの言葉にダンテス伯爵のこめかみがピクピクと動いた。


「セディーのところだと? 絶対にならんっ! 若い娘が男のところへ遊びに行くなどあってはならないことだ!!」

「セディーは私の叔父ですよ?」

「ダメなものはダメだっ!」


 伯爵は怒りながら自分の書斎にこもってしまった。

 あまりの剣幕にクレアはあっけに取られてしまったが、ダメと言われて素直に引き下がる彼女ではない。

 セディーに見せようと思って大量に作ったドレスや水着を無駄になんてするものか。

 街灯に照らされた夜の小道を、手をつないで温泉に行く計画は絶対に成功させるのよ。

 そう、恋は障害があるほど燃えるんだから。

 諦めるものですか!

「ふはははははははっ!」


 クレアは不敵に笑った。

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