第2話
家を出るときに引き出しにある通帳や現金、今日支払われた自分の労働分を鞄に入れてきた。通帳を開いて、余りの額の少なさに吃驚と落胆が同時に押し寄せたけれど。
さて、ひとまず今日をどうしようか。一晩泊めてくれと頼める友人もいなければ、バイト先に親しい人などもいない。どうにか屋根のあるところで休みたい…。
遠方の親戚の家は、最寄り駅から新幹線へ乗り継ぎ、またローカル電車に乗り込んでから1時間かかる。この時間帯だと終電はとっくに終わっていた。
町をひたすら走り続けていると、駅前にカプセルホテルを見つけたのでそこに泊まることにした。幸い部屋は開いていた。
受付で名前、生年月日を記入中、フロントのおじさんは訝しげに僕をじろじろと眺めた。もちろんおじさんは、家出を疑っていたのだろうが、僕は、自分の体の傷よりも、どこかに血がついていないだろうか。母親を殺したことがバレるのでは…。刺殺したわけでもないのに、バレるはずがないのに、そんなことばかり心配していた。
コンビニで買ってきたサンドイッチを腹に入れ、布団の上に今あるお金を全て出した。
全部合わせて約18万円……。少ない。あまりにも。通帳を見ると、父親の名前で定期的に入金がされていた。おそらく僕の養育費にと振り込まれたものだろうが、母はそれを薬や自分を着飾るための服・メイク道具、いろんな男へのブランド品に換えてしまった。ここがカプセルホテルでなければ大声で罵声を吐き、壁を力任せに殴っているところだった。
さて、これからどうしよう。やりたいことをやるために、宿とお金が必要だ。ずっとホテル暮らしをするわけにもいかない。そんな貯蓄はないし、いずれ母の死がバレて、僕の顔や名前はニュースで全国的に報道されるだろう。
母は働いておらず、しばらく通ってきている男性もいない。バレるまではしばらくかかるだろう。しばらくは、親戚の家でかくまってもらおうと考えた。
持ってきた母親のスマートフォンで親戚の家までの経路を調べる。今日はどっと疲れてしまったからゆっくり寝て、明日の朝発てば昼過ぎには着くだろう。事前に連絡を入れようかとも思ったが、母親に代わってくれと言われるのが怖くてできなかった。
お金については、親戚の家においてもらっている間に日中もバイトをすればある程度まとまったお金が入るはず。少なくとも、捕まるまでにやりたいことを終えられるくらいには。
おじさんとおばさんにはどう説明しようか。通常なら、甥っ子が急に押しかけてきてしばらく住まわせてくれと言われると不審に思うだろう。しかし、おじさんとおばさんは母の事情をよく知っている。おそらく、少し嘘をついただけで快く家に招き入れてくれるだろう。
学校はどうしよう。学校もある程度事情を知っている。知らないふりをしているが。怪我でもして入院したことにしようか。きっと足を突っ込んではこないだろう。
ここまでノートに書きながら一気に考え、ある程度今後の動きがまとまったところで、緊張の糸が途切れた。僕はお風呂にも入らずに、そのまま気絶するかのように布団に深く体を沈めた。
朝。普段から新聞配達で早起きをしているのに、やはりすっかり疲れていたのだろう。普段起きている時間はとっくに過ぎており、時計を見ると9時前だった。
重たい体を起こし、シャワーを浴びた。すっきりした頭でノートを再度見直し、再度今後の考えをまとめる。
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今後やること
1.おじさん、おばさんの家にしばらく泊めてもらう
2.学校に連絡する。
3.日中できるバイトを探す
・日給で即日手渡しが望ましい
・すぐ働けるもの
・日雇いのほうがやめやすい
・今のバイト先には連絡し、辞める
4.ある程度資金が集まったら出ていく。
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ノートに簡潔にまとめ、荷物をまとめて一度家に戻った。警察が来ていないか心配だったからだ。
家の前は静かな、日常だった。あのアパートの、あの部屋で、人が死んでいるというのに。犬の散歩をしている人。玄関前の掃除をしている人。会社に向かう人…。どれも、日常だった。
部屋に戻って足りないものを取りに行こうかとも思ったが、やめた。もう一度あの姿を見る勇気がなかった。
電車に揺られながら、街の景色を眺める。またこの街に戻ってくることはあるのだろうか。母の眠るこの街に。あまりにも幸せな記憶のないこの街に。
いつもよりたくさん寝たはずなのに、体は重く、まだ眠気が体全体を包んでいた。気が付いた時には、すでに乗り換える駅の1つ前だった。
予定通り、昼過ぎにはおじさんとおばさんの家の前にいた。緊張で少し足が震えていた。ばれないように、ばれないように。上手に嘘をつかなければ。
ここで何を言うか、どう言うかは昨日の夜から何度も考えていた。大丈夫、今までの母を知っていれば怪しまれることはないはず。ましてや殺したなんて、絶対にばれることはない---はず。
冷たくなった指でチャイムを鳴らす。
『はい、どちら様?』
日中のこんな時間にチャイムが鳴るなんて、訪問販売か近所のおしゃべり好きなおばさんしかいないのだろう。少し業務的な声がインターホンから聞こえてきた。
「……おばさん、僕です。隼人です…。」
『まぁ、隼人君!?』
急いで玄関に近寄ってくる足音が、扉越しに微かに聞こえる。勢いよく扉が開くと、ひどく心配そうなおばさんの顔があった。
「どうしたの…?一人で来たの?」
「はい…。その、実は、申し訳ないんですが、またしばらく住まわせてほしくて…」
「え…?それは、構わないけど…。あの子に何かあったの…?」
「母が、また…その、倒れてしまって…。今、病院で様子を見てもらっているんです。しばらくおじさんとおばさんの家にいなさいとだけ言って、そのあとは…今はちょっと話せる状況じゃなくて…。」
「そうなの……。まぁ、立ち話でするお話じゃないわね、中に入って。」
快く受け入れてもらい、ほっとした。少しでも怪しまれたら、この心臓の音がおばさんにも聞こえていたらと気が気でない。心拍は体を内側から打ち付けるように強くなっていて、手にはびっしりと汗をかいていた。
おばさんについてリビングへ向かった。先ほどの説明は、以前にもあった出来事だから信憑性があった。前に母が同じように倒れた時も、この家にお世話になったことがある。住んでいた家よりも安心感のある、温かい空間だった。テーブルには花が飾られ、おばさんの趣味の手芸品が棚に並べられていた。最近はコースターづくりにはまっているようで、自作のコースターに温かいお茶を乗せてくれた。
「大変だったわね、疲れたでしょう。」
「いえ…ありがとうございます。」
そういえば昨日の夜からなにも口にしていなかった。暖かいお茶を飲むと、お腹が感覚を取り戻したようで、急にお腹が大きな音を鳴らした。
「ふふっ、ご飯を食べながらゆっくりお話ししましょうか。」
おばさんが、麦ご飯、温かいお味噌汁と美味しそうな生姜焼きをテーブルに並べてくれた。
「いただきます。」
口いっぱいに頬張る僕に優しい眼差しを向けながら、おばさんが口を開く。
「少し見ない間にまた背が伸びたんじゃない?」
「そうですね、去年より2cm伸びてました。」
「育ち盛りだものねぇ…。」
そう言いつつ、おばさんの目線は僕のやせ細った手首に向いていた。瞬間、少し悲しそうな表情になるが、またぱっと優しく笑いかけ、
「しばらくはここから学校に通うのかしら?必要なものは持ってきた?」
と言った。
学校には、もう行けないだろう。いつ通報が行き、いつ指名手配がかかるか分からない。そんな中教室にいれば、すぐに呼び出されてつかまってしまうだろう。
「はい。教科書も制服も全部持ってきてます。」
「そう。」
それ以上、おばさんは家のことや学校のことには触れなかった。気を使ってくれているのだろう。最近の趣味のことや、おじさんのお仕事のことなど色々と聞かせてくれた。その気遣いが、今の僕には何よりも嬉しかった。
「私ね、今手芸にはまっているの。」
おばさんが温かいお茶を注ぎ足してくれながら、棚を横目で見た。
壁や棚に飾られたいくつもの手芸品が、それを物語っていた。
「いつかね、私の作った作品で小さな展示会を開きたいと思っているの。そこに友人を招待して、感想を聞かせてもらいたいの。でも、まだまだへたっぴで、それは当分先になりそうだけれど。」
素人目にはどれも丁寧に作られており、綺麗な作品ばかりに見えたが、おばさんは少し恥ずかしそうにそう言った。
おばさんに快く受け入れてくれた安心感と、それに伴いどっと疲れが押し寄せてきた。そんな僕の顔色を伺ってか、おばさんは寝室へと促してくれた。
しばらくはこれで大丈夫。あとは学校に通うふりをしながらバイトをして、お金を稼がないと…。諸々の準備を、早急に、すすめなければ…。
そう考えているうちに、気付けば僕の意識は深く深く落ちていった。
目が覚めた時には、既におじさんが帰ってきていた。扉越しにソファで煙草をふかしながら夕刊を読んでいて、台所ではおばさんが三人分のご飯を準備してくれている姿が見える。
リビングの扉を開けると、新聞を読んでいたおじさんが顔を上げて僕の顔をじっと見る。一瞬、既にニュースになっているのではとドキッとしたが、瞬間、おじさんがぱっと笑顔になる。
「おお、久しぶりだなぁ。こんな遠いところまでまた一人で来たんだって?」
ほっと胸をなでおろした。
「はい。母にスマホを借りたので、調べながら来ました。」
「そうか、そうか。多少疲れは取れたか?」
「はい。ぐっすりでした。」
「そうか。」
おじさんは嬉しそうに笑った。
三人で食卓を囲む。僕はこの空間が大好きだった。この二人には、いくら感謝してもしきれない。
以前しばらく滞在した際には、いつまた母親が迎えに来てしまうんだろう、いつまたあの地獄に戻らなければならないんだろうと毎晩考えていた。
今はその心配がない代わりに、いつ報道されるだろう、いつばれてしまうんだろうという不安と恐怖が胸の中に常にあった。
おばさんがおじさんに、事前に説明してくれていたのだろう。食卓でもほとんど母の話題を振られることはなかった。
おじさんの仕事がどうだとか、最近趣味でやっているゴルフのスコアがどうだとか、僕に質問されることも、勉強はどうかとか、バイトはどうかとか当たり障りのない話を振ってくれた。腫物に触れるのを避けるかのように。
談笑しながらの食事は、おじさんの「この間コースを回っていたら、ボールが鳥にかすってなぁ、鳥は無事だったんだが、俺のスコアは散々だった。」という笑い話で幕を閉じた。
その後、おじさんがお風呂に入っている間、おばさんの皿洗いの手伝いをしていた。
「……本当は、もっとあなたたちのそばにいれたらと思っているの。でも、あの人の仕事があるから難しくてね…。」
「そんな…。」
後ろめたいことがある今、心からの気遣いを向けられ、無性に胸が痛くなった。泣きそうになる気持ちを押し殺しながら、
「そう思ってくれているだけで、すごく嬉しいですし、ずっと感謝しかないです。」
と言った。おばさんは尚も悲しそうに笑い、
「高校生なんて、本当はこんなにしっかりしていなくて良いのにね。」
と言った。
僕は、何も返せず、ただ濡れたお皿にタオルを押し付けていた。
その夜は、日中にぐっすり寝たこともあってか、なかなか寝付けなかった。夢を見ることにリソースを割かなければ、僕の頭は余計なことばかり考えてしまう。いつバレるだろう、バレる前にここを出ていくことができるだろうか。ばれたら……。おじさん、おばさんは軽蔑して、僕を警察に突き出すだろうか…。こんなに良くしてもらっているのに、その恩を裏切るようなことをしてしまった…。
余計なこと、ひいては心配事や後悔ばかりを頭の中で羅列しては、いっそ頭でも殴って気絶してしまえば眠れるのかな、なんて馬鹿なことまで考え出していた。気付けば朝日が上っており、結局、一睡もできなかった。
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