羊の執行猶予

@Commander4645

第1話


---ああ。


----ついに。


-------------やってしまった………。



大きく息を吐くと、白い煙が空気と同化し、取り込まれるかのように消えていった。

春になったとはいえ、早朝はめっきり冷える。すっかり赤くなった両の掌をこすり合わせる。

「ここと、あと2件………。」

朝焼けの街はひと一人歩いていないのに、雀の鳴き声と、数台バイクが通り過ぎる音が遠くから聞こえてきて、それが僕はなんとなく好きだった。ちらりと腕時計に目をやると、もう帰らなければならない時間まであと30分くらいだった。

「やばい、急がないと…!」

乱暴に残り3つになった新聞紙の一つを掴みポストへ押し込むと、僕は自転車のハンドルを握り、次の家へと急いだ。



玄関から一歩足を踏み入れるなり、いつもの、獣の遠吠えが聞こえた。

「隼人ッッッ!!遅かったじゃない!!!」

「……母さん、ただいま」

その獣は僕に飛び掛かると、身動きが取れなくなるくらいに抱きしめてきた。

「隼人、隼人、あんたは、あんただけはずっとここにいて……!」

泣きながら僕の背中に爪を立てる獣。お前が-こう-だからじゃないか…。と口から溢れそうになる言葉をぐっとこらえ、獣の背中をそっと撫でた。

「うん、大丈夫。いるからね。」

爪を立て返し、その肉を引きちぎってやりたい衝動をグッと堪え、獣をそっと自分から引き剥がし、いつものように学校に行く準備を始めた。


僕がまだ小さい頃に父は家を出て行った。本当の原因は知らないが、母のヒステリックにほとほと付き合いきれなくなったのだろうと思っているし、きっとそれが本当だろう。小さい頃の記憶の父親と母親は、いつも大声で喧嘩し、泣き喚く母親を父が片手で宥める姿だった。

父が家を出てから、母は壊れてしまった。毎晩泣き喚き、仕事も辞め、家で暴れた。こうやって一文で書いてしまうと、なんとも陳腐だが、当日まだ小さかった僕には、毎日が耐え難い苦痛だった。

それからいろんな男性が家に出入りもした。睨まれることもあれば、優しくしてくれた人もいた。でもどの男性も母とずっとここにはいてくれなかった。そうなると母は泣いたり、機嫌が悪くなったりして、僕の体には数個の痣や切り傷が出来た。

母の母親はすでに他界していた。母から父親の話を聞いたことはない。母は、孤独だった。

何度か遠方の親戚が心配して様子を見に来てくれたり、僕を引き取ろうとしてくれたりしたが、母は全て、物凄い勢いで拒絶をした。まるでこの家と僕に縋り付くように。ここしか居場所がないのだと感じていたのだろうか。


遠方の親戚はすごく良くしてくれた。こっそりと僕にお小遣いをくれたり、学費も援助してくれた。それだけでは申し訳なかったので、高校に入学直後すぐにバイトを始め、稼いだお金を少しずつ親戚に渡していた。母親にバレないように。


早朝の新聞配達で疲れ切った足をなんとか運び、教室の席についた。

周りが朝の挨拶を交わすのをぼんやりと聞き流しながら、今日の時間割を眺めていた。

『体育か、嫌だな。』

体育は嫌いだ。ただでさえ朝運動したというのに、さらに体を動かすとどうしようもなくお腹が空いてしまうから。

高校にもなると給食が出ないため、食堂に行こうという誘いを何度も断りながら、人気のないところでひっそりと家から持ってきた食パンを齧っていた。何度も断るうちに当然誘われなくなった。

体の傷も何度見られたことだろう。消えては増えていく傷を、彼らは見て見ぬふりしてくれた。いじめこそはないものの、親しい友人もできず、ただただ社会に出るために家と学校を機械のように往復する日々だった。そんな学生生活が、あと約1年で終わりを告げようとしていた。


「それぞれご両親と相談しながら書いてきて。期限は1週間後厳守でね。」


帰りのホームルームで先生のその言葉を聞きながら手元に回ってきた進路調査の紙を眺める。


進路なんて、当然就職に決まっている。どこでもいい、働ければそれで。可能ならば母親から離れた場所で働きたいけれど、そんなことあまりにも夢物語だった。

隣や後ろから、大学進学だの、美容師になりたいだの聞こえてくる。僕にはまるでそれが宇宙旅行したいとか空を飛びたいとかそんな次元のお話しに思えて、また窓の外を眺めた。

『今日、雨降りそうだな…。でも、今日は給料日だ。』

チャイムと同時に席を立ち、誰とも目を合わせず、なぜかいつもより重たい鞄を持ち上げた。

誰にも声をかけず、かけられずに靴を履いて、学費と生活費を稼ぐためにバイト先へと足を運ぶ。夕方からは工事現場のバイトをしている。日常だ。


「ただいま。」

びしょ濡れの体で玄関を開けると、いつものように飛び出してくる獣の姿はなく、部屋は真っ暗だった。

鞄を床に下ろし、暗闇に目を凝らす。いやに静かに壁にもたれかかって、それは窓の外を眺めていた。

獣にゆっくりと近づき、母さん?と声をかけ、肩に手を触れる。

顔を覗き込むとそれは真っ青な顔で口からぶくぶくと泡を噴いていた。力なく垂れた手の中には白い錠剤がいくつもあった。

「またやったのか…!」

前にも同じことがあった。この獣は定期的に不安定になり、人間の錠剤を飲む。服用量が多過ぎるのか、それとも獣の体に人間の薬が合わないのかは知らないし、その錠剤が何なのかも知りたくなくて調べていない。

以前と同じように救急車を呼ぼうと、母親のスマートフォンを取り出した。そこには、1件の通知が表示されていた。

『君と息子にはもう会わない。何度も連絡してくるな。』


父親からだった。

僕は、そこで初めて気が付いた。

心のどこかで、いつかこの地獄が終わるんじゃないかと願っていたこと。

そして、終わらせてくれるのはきっと父親しかいないということ。

父親しか、あの獣を本当に宥めることはできないこと。

そして、その願いは、叶わないということに。


------気付けば。

窓を眺めていた獣は天井を見上げ、さらに勢いよく泡を噴いて、

僕の下で倒れていた。

自分の呼吸と心臓の音で、窓を叩く雨の音も、ゆるく絞められた蛇口から落ちて跳ねる水滴の音も、一切聞こえなかった。

つい先刻まで、自分とこの人を生かそうと単管パイプを運んでいた両手は、しっかりと喉元を締め付けていた。

この地獄が終わらないのなら、誰も終わらせてくれないのなら、将来も夢も何もかもこの部屋のように真っ暗なら。

何度悲しい思いをした?何度殴られた?何度蹴られ、傷つけられた?何年間我慢してきた?あと何年我慢すればいい!!??

手に力が入る。ただでさえ真っ青だった顔がどんどん白くなる。首元に血がたまっているのが分かる。口からこぼれる泡は床を濡らした。

お前のせいで僕がどれだけ---!

キッと獣の目を睨んだ。すると朧げな目がまっすぐにこちらを見ていた。

その目は、

母の目は、あまりにも僕に似ていた。


「あ…っ」

手の力が抜ける。先ほどまで硬直していた母の体はぴったりと床にくっついている。


---ああ。


----ついに。


-------------やってしまった………。



どうしよう。どうしたらいいだろう。バレたら捕まってしまうんだ。いっそのこと自首しようか。実はまだかろうじて生きてやしないか。まだ救急車を呼べば間に合うんじゃないか。もしくはこんなの全部悪い夢で。父親がこの家を出た時から、ずっとずっと長い夢を見ていたのではないか。

しばらく暗い部屋の中で、雨の音と水道の水が跳ねる音を聞きながらぐるぐる、ぐるぐると考えた。

どうして良いか分からなくなり、母が眺めている天井を、自分も仰ぎながら大きく息を吐いた。

幸い母がエアコンをつけていなかったおかげで、部屋はずいぶんと冷えている。

少し冷静になった頭で考えた。

自首をしたり、警察に捕まったところで何になるだろう。今までの地獄と何が違うんだろう。どちらがマシなんだろうか。

僕はおもむろに立ち上がり、母だったモノの足元を横切り、机に向かってペンとノートを引っ張り出した。

素早くペンを走らせる。一刻も早く、ここを出なければ。


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捕まるまでにやりたいことリスト

・美味しいものをお腹いっぱい食べる。

・ゲームをする。

・水族館に行く。

・映画館で映画を見る。

・遊園地に行く。

・他県に行く。

・おじさん、おばさんに恩返しする。←どうやって?

・父さんに会う。

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最後の一筆を書き終えると、これは……と呟き、苦笑いを浮かべる。

ペンとノート、着替えをできる限り鞄に詰めて、少し小降りになった雨の中、自転車を走らせた。

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