第47話

 終業後の真冬の空は、とっぷりと闇に包まれていた。道中のビル看板やコンビニエンスストアの明かりが歩道を照らしている。雪葉は陣之内と歩きながら、先週の交際の申し出を改めて断った。


「ごめんなさい。私、やっぱり陣之内さんとはお付き合いできません。たぶん、あと十年くらいは確実に……昊くんのことが、好きなので」


 雪葉の表情から予想がついていたのか、陣之内は小さく息を吐いただけだった。


「――顔も良くて、仕事もできて、恋愛にも苦労してなくて」


 沈黙の後、陣之内は不意に話し出した。


「そういう奴って、いますよね。……正直、嫉妬十割ですが、僕は伊桜のことが好きになれません」


 陣之内の視線は灰色の歩道に力なく下がっている。雪葉は何かを言いたくなった。


「きっと……昊くんにもいろいろ、苦労とか悩みとか、あると思います。昊くんだけじゃなくて、陣之内さんにも、私も、みんな……誰にだって」


 陣之内は「そうですね」と、自嘲するように弱く笑う。


「理屈ではわかってるんですが、でも、割り切れなくて。……隣の芝生は青く見える、ってやつでしょうか。……矮小わいしょう、ですよね。僕って」


 雪葉は申し訳なさに胸が締めつけられた。ひどいことをしているのは自分だが、同情する。


「わ、私に、言われたくはないと思いますが……陣之内さんにも、素敵なところ、たくさんあります。仕事もプライベートも誠実で、気遣いもできて、せ――清浄綿持ち歩いてる男性なんて、そうそういないと思います! ……そんな陣之内さんが、一番良いっていう女性も、きっといつか……」


 上手い言葉が出てこない。雪葉が言うには、やはり何もかもが適さない。


 だが陣之内はほほえんでくれた。「ありがとうございます」と言ってくれた。


 改札を通ってから、陣之内は最後にまた口を開いた。


「そういえば、ずっと謝ろうと思っていたんですが……。実は、以前元村さんと帰りが一緒になった時、元村さんが転んだ拍子に、僕、元村さんの下着を見てしまったんです。その……腰の、辺りを」


 雪葉は赤面しながら慌てた。


「えっ!? そ、そうでしたか……大丈夫です! 転んだ私も悪いので」

「それで実は……そのことに関して伊桜に、意地の悪いことを言ってしまって。伊桜に謝るのは癪なので、元村さんに謝っておきます。すみませんでした」


 雪葉は意図がわからず小首を傾げる。陣之内は、どこかすっきりとした顔で笑い、反対方向の電車に乗って帰っていった。


 自宅アパートの最寄り駅に着いたのは、七時を過ぎた頃だった。駅の出口階段を下りたところで、雪葉の頬に、白くて冷たいものがそっと当たった。空を見上げる。雲に覆われた夜空から、音もなく舞い降りてくるそれは、命が尽き果てた星の残滓ざんしのようだった。


(……雪……)


   ×××


「あ、雪だ……」


 春野パークのオフィスが入った複合ビルを出たところで、昊は上空を仰ぎながら呟いた。上戸が「ありゃー」と声を上げる。


「予報より、早く降ってきちゃったんだねぇ」


 一緒に駅へ向かいながら、上戸はチームリーダーの瀬尾に電話をした。会社のプロジェクトメンバーがみな帰ったかの確認だ。電話を切ってから、上戸は昊へも問う。


「伊桜くんは、帰り大丈夫? 私は、ここからだと一時間しないで家着くけど、伊桜くんは二時間近くかかるんじゃない?」

「あー……まあ、大丈夫ですよ。遅延はしても、停まることはないでしょうし」


 途中の乗換駅で、「お疲れさまでした」と上戸と別れた。降雪程度で早退させてくれる企業はごく一部らしく、電車の混み具合はさほど変わらない。電車が進んでいくごとに、間引き運転の影響で、混み具合が逆にどんどんひどくなる。


 二度目の乗り換えをした時には、外は吹雪ふぶきに変わっていた。駅間の移動で、一旦外を歩く。バスもタクシーも長蛇の列で、改札外まで人が並んでいた。あとは自宅の駅に着くだけという電車の中も、朝の満員電車並みに混雑していた。さらに悪いのは、進行速度が亀のように遅いことだ。駅で止まるだけでなく、除雪作業でもしているのか、線路の途中でも一時停止を繰り返す。電車は、雪の中をのっそりのっそり進んでいった。


 自宅の最寄り駅まであと三駅というところで、電車はまた停止した。なかなか発車しようとしない。時刻はすでに十時を過ぎた。電車に乗り始めて四時間が経とうとしている。ここまで来たら、歩いても一時間ほどだと思い、昊は電車を降りることにした。駅を出たところで、バスとタクシーも一応確かめる。だがやはり長蛇の列だ。数センチ雪が積もっただけで、毎度大混乱になるのも勘弁願いたいものだが、たまにある都心の祭りのようなものだろうか。昊は、白銀に染まった道を歩き出した。


 ひと吹雪きした後の空は、気を落ち着かせてくれたのか、外は風も吹いていない。粉雪だけが穏やかに、音もなく降りてくる。最短距離である線路沿いの狭い道を歩いた。見慣れているはずなのに、見たことがないような景色が続く。闇の中の雪の白は、わずかに残る光をすべて吸い込み反射しているようだった。


 手袋をしていても、手がかじかんだ。頬は凍てつき痛いくらいに冷たい。歩いている間中ずっと、雪葉にどう謝ろうか考えていた。許してもらえそうなもっともらしい言い訳を頭の中に並べるが、どれもいまいちだ。考えがまとまらない間にアパートに到着した。アパート前に植えられたハナミズキの木は、冬は花も葉もなく丸裸だが、唯一今夜だけは、枝に雪を載せて着飾っていた。


 階段を上り切り、頭と肩の雪を払う。歩き乱れた髪も、整えた。もう日付が変わる時刻だ。雪葉は眠っているかもしれない。そう思いながらも、昊は玄関チャイムを鳴らした。


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