第46話

 暗い玄関に、居間の照明光だけが漏れ届いていた。部屋からはテレビ音すら聞こえない。雪葉はシャワーを浴びたばかりらしく、髪が少し濡れていた。ほのかに漂うシャンプーの香りに雪葉を強く意識され、息遣いすら耳にとらえてしまいそうだ。


「久しぶり」


 昊は上辺だけの笑顔を作った。


「まともに会話するの、別れた時以来?」


 別れた期間を感じさせない、いつもの調子で話し出す。


「ノヴァのビルで会った時さ、すっげー驚いた。久我さんに誘われて、案件入ったんだってな。すごいじゃん」

「は、はい……」


 当然ながら、雪葉はただ困惑していた。昊は構わず自分の用件だけ押しつける。


「陣之内に、告白されたんだって?」


 雪葉は呆気に取られ昊を見上げた。


「本人から聞いた。告白したって。それで、もうあいつと寝たの?」


 微かな笑みすら混じえて言った。途端、雪葉の頬に朱が差した。瞳に浮かぶのは、羞恥と、そして怒りだった。


「な……なんなんですか」


 肩に力を入れ、雪葉は全身から感情を発していた。


「いきなり来て、こんな――意味、わからないです。どうしてそんなこと、言われなきゃいけないんですか。……こ、こっちが忘れようとしてる時に、なんで……」


 付き合っている間も、別れた瞬間ですら、雪葉が昊に激怒をぶつけてきたことなどなかった。雪葉は眉を吊り上げ昊を睨んだ。玄関から追い出そうと、両手で昊の胸を押しやる。


「私と陣之内さんのことは、昊くんには関係ないはずです。もう――帰ってくださいっ!」


 玄関の扉を開けようとした雪葉の手首を掴み、体を引き寄せ口を塞いだ。雪葉は肩を強張らせ逃げようとした。それを許さず、体を壁に押しつける。そのまま唇を重ね続けた。


 久しぶりの雪葉の柔らかな感触だった。この感触も温もりも、笑顔も声も、すべて昊だけのものだったはずだ。こんな激情、どうかしてると思うのに止まらない。無理やりキスをしている間に抵抗が弱まったので、昊は手を止めずに夢中で欲望に溺れた。まともな言葉すら交わさず、空いた半年間を満たすように雪葉を求め続けた。


 明け方、ベッドの中の雪葉が眠っていないことはわかっていたが、昊は「ごめん」と一言だけ謝り部屋を出た。彼女の顔を見ることはできなかった。


   ×××


 家に帰りシャワーを浴びた後、昊はいつもより早く出社した。そして開発フロアの自席に着き、心の中で頭を抱えてうずくまった。


(あー! やらかしたぁー!)


 一方的に襲うなんて、あり得ない。犯罪行為だ。感情を押し付けるというのは、昊の最も嫌いな部類の言動だった。自分で自分が理解できない。


 現実から思考を逸らしたく、デスクのパソコンでニュースを見る。痴情のもつれによる犯罪事件が、ニュース一覧の中にあった。いままでは、この手の事件は度を越えた恋愛脳だと見なし、さげすんですらいた。でもいまなら気持ちがわかる気がする。


「今日の夜遅くから、雪になるらしいねぇ」

「えー。電車止まるじゃん」


 同じデスクの島のチームメンバーが、天気予報の話をしていた。窓の外は冬の曇天だ。降るなら、都心で今年初めての雪だった。


 始業時刻の直前に、雪葉は出勤してきた。普段よりもぎりぎりだ。それ以外、表向きは平素と変わらない。普通に出社した雪葉の姿に安堵しながらも、昊は猛省していた。


(今日、帰ったら、謝ろう)


 決意し、仕事を開始した。


   ×××


 午後の作業の最中、陣之内がメンバーへ向けて言った。


「今日は、夜の九時頃から雪が降る予定なので、残業しないで帰るようにしてください。七時頃から電車の運行本数も減るみたいですから」


 雪葉は窓の外を見やった。空には朝からずっと灰色の厚い雲が垂れ込めている。今年初の降雪予報は当たりそうだ。パソコン画面に視線を戻し、明日からのテストが順調に進むよう、ローカル環境下でプログラムの動作確認を始める。


 昊の席は空だった。中央のデスクにいつもいる、上戸の姿もない。二人は今日の午後、客先に出向いている。雪葉は画面のソースコードを眺めた。


 抵抗しようと思えば、できた。昊は強引だったが、頭突きするなり蹴るなりすれば、さすがにやめてくれただろう。だがずっと恋い焦がれていたものだったから、流されてしまった。凄まじくふしだらで、ただれたことをしてしまった気がする。恋人でもない人と勢いで関係を持ったのだ。恋の泥沼にはまっている。


 初雪に浮足立っているのか、みな、終業時刻前から仕事が手についていなかった。雑談を開始し、中には帰り支度を始めている者もいる。雪葉も集中が切れてしまった。作業用ウィンドウをすべて閉じ、ブラウザを立ち上げる。特に理由もなく天気予報のページを開いた。インターネット環境に繋げる現場は、ありがたい。現場によっては、情報漏洩防止のため社内ネットワークしか見られないことも多い。


 終業時刻と同時に、フロアから次々と人が消えていった。コートを着て帰ろうとする陣之内に、雪葉は声をかけた。


「陣之内さん。駅まで、一緒に帰りませんか。……お話ししたいことがあって」


 陣之内は頷いた。


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