第45話

   ×××


「各リーダー、進捗報告をお願いします」


 上戸の進行でリーダーミーティングが開始した。毎週火曜日、夕方五時を過ぎた頃に行う。ミーティングメンバーは、上戸のほかに三人のチームリーダー――瀬尾と陣之内、そして昊だ。それぞれチームの進捗を簡単に報告していき、聞き終えた上戸が口を開く。


「予定の一日遅れで製造終了かな。明後日から単体テストに入ります。テストの手順書は作ってあるから、目を通して行うよう指示をお願いします。一応、初めに全体へ向けても口頭で説明しようかなって思ってます。テンプレートファイルも、手順書と同じフォルダ内にあります。あとは、エビデンス作成時に使用するツールは――」


 若干の遅れについての調整や、単体試験の画面キャプチャツールの使用方法、その際のエビデンス作成における統一性など、明後日のテスト開始に向けてミーティングは長引いた。ミーティングルームを出る頃には、時計は八時を回っていた。定時を二時間は過ぎているため、席に人は少なくなっている。


 明日の午後、昊は客先に出向く予定だった。自分の作業ができないため、メンバーへの分担決めは今日のうちに済ませてしまうことにした。もうひと残業する前の小休憩に、二階に設えられた休憩スペースへ向かう。フロアを出る時、雪葉はまだ残業をしていた。


 二階の食堂は、すでに消灯した後だ。休憩スペースは食堂のすぐ横にある。さらに奥が喫煙所となっていて、ともに照明が落とされ誰もいなかった。自動販売機の明かりに照らされた数組の椅子とテーブルが、幽霊のように青白く浮かび上がっていてやや不気味だ。壁のスイッチを押せば照明は簡単に点くのだが、ひと手間を惜しみ、昊は自動販売機の明かりを頼りに缶コーヒーを買った。


 椅子に座り、空腹を紛らわせながらぼんやりと飲む。すると誰かが休憩スペースにやってきた。陣之内だった。昊は目線を合わせず無言で缶コーヒーを飲み続ける。陣之内はミルクティーを買い、プルタブを開けながら昊に声をかけてきた。


「お疲れ」

「……おー。お疲れー」


 陣之内は立ったままミルクティーを飲んだ。昊は居心地が悪く、話しかけた。


「テストの分担、すんなり決まりそう? お前のとこ、面倒な人いないの?」

「……作業が遅い人はいるけど、そういう場合は、僕が手伝ってる」


 昊は片眉を上げた。


「お前が手動かしてんの? あんま良くないんじゃない? 本来しなきゃいけない仕事がおろそかになるだろ」

「それはわかってる。だから、あとは……元村さんが、よく手伝ってくれてる」


 昊はわずかに苛立ちを感じた。


「パートナーだろ。あんまり残業させずに帰せよ。結構残らせてるなって、思ってたんだよなぁ。社員に振ったらいいんじゃないの?」

「パートナーとか社員とか、関係なくないか。やる気がある人に仕事を振るのは、当然だと思うけど。――元村さんは、がんばりたいみたいだったから」

「それで残業させるのは、また違うだろ。給料に関係すんだし」

「……本当は、まだ元村さんの彼氏気どりで、心配してるだけなんじゃないのか?」


 とっさに『は?』といきどおりそうになった。昊は気を落ち着かせるように缶コーヒーをテーブルに置いた。


「なんでそういう話になるんだよ」

「先週の金曜、元村さんと食事に行ったんだ。そこで告白した」


 一瞬、衝撃に呑まれる。


「……そう。いいんじゃない。わざわざ俺に報告する必要はないけど」

「伊桜が、まだ元村さんのことを好きなんじゃないかって思って」

「余計な心配しなくても大丈夫だよ」


 昊は缶コーヒーの残りをあおった。さっさと場を撤退するに限りそうだ。席を立った時、陣之内がまた言った。


「彼女ってさ。腰の左側に、ほくろが三つ、三角形になってるんだね」


 表情を繕うのを忘れた。放心し、陣之内を見る。陣之内はミルクティーを飲み干し、缶をごみ箱に捨てた。


「かわいいよね、すごく。――そういうわけだから、もう元村さんに近づくのは、やめて欲しい。それじゃあ」


 陣之内が去っていく。意味することを理解できないほど、昊はばかではない。服を脱がない限りわからないような、雪葉の秘密だった。恥ずかしそうに隠していた雪葉の姿を思い出す。


 どす黒い感情が渦巻いた。お角違いもいいところだが、陣之内を追いかけて、顔面を思い切り殴りたい衝動に駆られた。同時に雪葉のこともののしりたくなる。


 食事をして好きだと言われ、そのまま夜に関係を持ったというのか。随分と変わったものだと、無意味に責めたくなる。二十五年間ずっと恋人がいなくて、昊だけだったはずだ。それなのに簡単に体を許してしまうのか。心は身勝手な感情で満ちていた。どこかで昊は、雪葉はしばらくは自分のことを好きだろうとおごっていた。それくらい、あの夏の思い出はかけがえのない楽しいものだった。昊にとっても雪葉にとっても、そうだと思っていた。それが違ったというのか。


 すべてを裏切られた気分だった。感情を持て余したまま開発フロアに戻る。雪葉はもういなかった。陣之内は、少し作業をした後に帰っていった。それから昊は、一時間ほど仕事をし、電車に乗った。


 心を支配するこの感情は何だろう。憎しみ、妬み、欲望――様々なものが抑えられない。自分がおかしくなってしまったようだ。昊の足は、自宅マンションではなく雪葉のアパートへ向いていた。玄関チャイムを鳴らす。時刻は十一時を過ぎていた。これほど遅い時間に来訪者があれば、さぞ驚くことだろう。覗き窓から窺っただろう静寂の後、チェーンと施錠が解除される音がし、扉が開いた。


「昊くん……」


 その表情は驚愕と当惑、そして切望が含まれていた。昊は苛立ちを募らせた。こういう、まだ好意を寄せているという表情をするくせに、寂し紛れか知らないが、簡単にほかの男と関係を持つのか。


 無言で玄関内に踏み入ると、雪葉は体を引いた。拒否はされなかった。背中で、扉が重い音を立てて閉まった。


「……どう、したんですか? こんな、遅くに……」


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