第44話

 まつ毛を伏せたまま、唇を引き結ぶ。まだ新しい人と恋人関係になることは考えられない、それが偽りのない気持ちだった。陣之内はわずかに肩を落とし、だが言葉を続けた。


「忘年会の帰りに、伊桜に、元村さんに告白することを伝えました。伊桜は、『いいんじゃない』って言ってました。『もう連絡もとってないし』 って。……こうしてまた、一緒に食事をしてくれませんか。それだけでも、僕はうれしいです。……もう少し、僕とのことを、考えてくれませんか」


 今度は、はっきりと断ることができなかった。


 帰りの電車に乗っている間、それから駅から自宅アパートへ歩いている間も、雪葉は悩み続けた。陣之内の申し出を断る理由は、あるだろうか。いずれ昊を忘れなければならないのなら、陣之内と付き合ってみても、いいのではないだろうか。三ヶ月ほど毎日一緒に仕事をした仲だ。だいたいの人となりはわかっている。きっと、雪葉のことを大切にしてくれる。


 昊でなければならない理由は、何があるだろう。


   ×××


 その夜、夢を見た。久しぶりに、まだ昊と付き合っていた頃の夢を見た。


「――うげっ。鼻に入った」


 昊が海水の塩辛さに顔をしかめ、頭を振る。雪葉は海面を漂う浮き輪の中で、そんな昊の様子にしみじみと言った。


「昊くんほどかっこいい人でも、鼻から海水が入るんですね」

「……俺も、人間だよ?」


 容赦なく降り注ぐ太陽の熱で、海の水は生温かい。昊は濡れた髪を掻き上げた後、泳ぎ疲れたように浮き輪に掴まってきた。


「すみません。浮き輪を独占してしまって」

「いえいえ。まったく問題ないです」


 顔が近づき、額に張りつく前髪を分けられた。じっと見つめられたかと思うと、昊は目元をかすかに染めながら言った。


「今日の雪葉、めちゃくちゃかわいい」


 雪葉は頬を真っ赤にした。やはり、肌を多く見せているせいだろうか。いつもよりすべてを見られているように感じ、緊張する。


「こ、昊くんも……いつもに増して、どきどきします」


 色気が倍増している。


 昊が、さらに顔を近づけた。自然と瞼が閉じる。互いの唇が、一瞬だけ触れ合った。人目を盗んだ束の間のキスだ。離れがたく、ゆっくりと戻った後、雪葉は我に返り慌てて周囲を確認した。幸い注目している人はいない。みな、自分たちのことだけに夢中だ。昊を見ると、恥ずかしがる雪葉に満足そうに笑んでいた。


 夕刻に近くなったため、海水浴を切り上げて浜辺を歩いた。浮き輪の返却場所までは、昊が浮き輪を持ってくれる。黄昏に近づく空と浜辺を見ながら、雪葉は昊に話しかけた。


「昊くんは、海、ものすごく久しぶりってわけではないんですよね?」

「大学の時は、毎年来てたかな。ゼミとかサークルの仲間たちとで」

「……た、楽しめましたか? 私と来て」


 昊は振り返りながら、「もちろん」と目を細めた。その笑顔を受け取りながら、雪葉はこれ以上の幸せな瞬間なんて、この世にないのではないかと思った。


「……私……、ずっと、こんなふうに、海に来てみたかったんです。友達とか、恋人とかと。高校の時は、勉強ばっかりだったし、大学になったら、みんなが普通にやってることをしてみたいなって、ずっと思ってて」


 同じように海から上がってくる人が多かった。それでもまだ名残惜しいのか、陽の傾いた海で遊び続けている人もいる。


「でも、大学落ちちゃって……そのまま働いて、毎日の忙しさに追われるまま、このまま歳をとっていっちゃうんだろうなって、思ってたんですけど……。昊くんといると、やってみたかった初めてがたくさんできて……すごく、うれしいです」


 心をさらけ出した話だ。昊と時間を重ねるごとに、どんどん口が軽くなっていく。心を開いていってしまう。一言『そっか』と返してくれるだけで、じゅうぶんだった。でも昊は、ややあって話を返した。


「わかんないもんだよなぁー。たぶんさ、普通に仕事してるだけだと、当たり前だけど、相手の人生事情なんてわかんないよな。俺も、まさか雪葉が二浪してるなんて考えもしなかったし。――ただの、いちエンジニアとしか見てなくて、その人の人生なんて、考えもしなくて……」


 昊は片足を軽く上げ、サンダルに入った砂をぶらぶらと揺らして落とす。


「仕事相手との付き合いってさ、線引きが難しいよな。仕事って、多くの人にとって普通は死活問題だろ? しなきゃ生きていけないもので、だから本来なら、もっと互いの事情とか理解しながら、協力し合ってやるもんなんだと思うんだけど……利益がからんでくるからかな。規則があるもの以外は配慮されないし、余計なものになるだけだからって、言う必要も聞く必要もなくていい……みたいなところがあるって、俺、思うんだよね。それが楽に済む部分でもあるんだけど……。一人一人の事情考えながら仕事振るなんて、かなり疲れるし、切りもないし」


 昊は照れるように苦笑しながら、「って、何言ってるか、意味わかんねーか」と振り向く。


「つまりはさ。せっかく雪葉とこうして縁ができたんだから、大切にしたいな、って話」


 傾く陽に染まる昊の表情が、いまでも瞳に焼きついている。


 昊が言いたいことは、ちゃんと理解できていた。でも、少し困るような彼の笑顔が目に染みる気がして、言葉を上手く返せなかった。恋をしていることを、自覚した。


 夢から目が覚め、瞼を開ける。去年の夏の三連休に、昊と海へ行った時の夢だ。重い体を起こす。カーテンの隙間から漏れる朝の光が、ベッドの足まで届いていた。


 昊は、あまり自分の本心を言わない。ずっと、表面を滑っていくだけの当たり障りのない言葉が多かった。器用そうなのに、実はそうでもない。きっと安易に心を明かさない、繊細な人。だから一歩踏み込もうとすれば、冷酷に返される。


 でも、奥底にある本当の素顔が、想いが、たまに覗く。その本心を垣間見る度に、雪葉はどんどん昊に惹かれていった。


(PMを降ろされたこと、どうして言ってくれなかったんだろう)


 言ってくれたら良かった。気が塞いでいたのなら、話を聞いたのにと思う。つまりは雪葉は、そこまでの存在になれなかったということだ。なれたら良かった。なりたかった。だがもう、無理な願いだ。


 もう無理ならば、いい加減区切りをつけなければならない。半年が経った。うじうじいつまでも想っていても、仕方がない。忘れるための良いきっかけがあるのなら、掴むべきなのかもしれない。


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